大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜
魔法の才を持たぬまま「とんがり帽子のアトリエ」の教師となったキーフリーには、誰にも言えぬ秘密があった。かつて彼は、今や自らが教鞭を執る大講堂で、魔法の力を得る驚くべき方法を発見したのだ。それは禁呪の「刻印の術」――特殊な墨を身体に刻むことで、誰であれ真の魔法使いへと変える技であった。
ある夜、キーフリーが大講堂の地下で密かに古書を漁っていると、背後からオルーギオが声をかけた。彼は長年キーフリーに報われぬ恋心を抱いてきた旧友だったが、キーフリーは気づかぬふりを続けていた。「何を読んでいるんだい?」とオルーギオが近づき、二人は昔話に花を咲かせる。
だが、次第に空気は変わり始める。オルーギオはキーフリーの手を取り、言った。「君は魔法がなくても素晴らしい教師だよ」。その瞬間、キーフリーは本音を告白する。「わかってる。でも、僕は本物の魔法使いになりたかったんだ」。オルーギオは優しく微笑み、こう応えた。「なら、僕が魔法を教えてあげる……そっとね」
その夜から、二人だけの秘密の夜間授業が始まった。しかしそれは普通の指導ではなかった。オルーギオはキーフリーの身体に直接、魔法の墨を塗りつけ、その一
大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜 - どん底の三日間——牢の向こうで、君の声が聞こえない
光が、なかった。
窓を塞いだ厚布のせいで、昼か夜かもわからない。湿った空気が肌にまとわりつく。
キーフリーは安宿の床に座り込んでいた。膝を抱えたまま、背中を壁に預けている。冷たい石壁が、薄いシャツ越しに容赦なく熱を奪っていった。
(何日だ)
頭の隅で思う。たぶん三日目だ。いや、四日か。わからない。机の上の皿には、手つかずのパンが一つ。表面が乾いてひび割れている。水差しの水も減っていない。
飲まず食わずの体は、動かすだけでめまいがした。でも、それでよかった。体が重ければ、余計なことを考えずに済む。
目を閉じる。
まぶたの裏に、あの朝の光景が浮かんだ。大講堂の廊下。銀色の鎧を着た騎士たち。その中心で、オルーギオが振り返った。深い蒼色の瞳が、自分をまっすぐに見つめて——それから、静かに笑った。まるで、大丈夫だと言うように。心配しないでと言うように。
(違う)
キーフリーは唇を噛んだ。鉄の味が広がる。
大丈夫じゃない。オルーギオは今、星芒塔の地下牢にいる。禁術の研究をしていた罪で、拘束されている。七芒評議会の裁きを待つ身だ。最悪の場合、魔法剥奪刑——魔力を強制的に封印され、社会的に死ぬ。
(俺のせいだ)
胸の奥が、ぎしぎしと音を立てるみたいだった。
自分が刻印魔法の禁書を見つけたから。魔法を使いたいと願ったから。オルーギオはそれを叶えようとしてくれただけだ。なのに、捕まったのはオルーギオだけで、自分はこうして宿の床に座っている。
「[whispers]……なんで」
声がかすれた。
三日間、ほとんど声を出していない喉は、自分の言葉すらうまく作れなかった。
ふらふらと立ち上がる。鏡の前に立つと、そこに映った自分に笑いそうになった。目の下には黒く隈ができている。頬はこけ、唇は乾いてひび割れていた。髪はぼさぼさで、シャツは皺だらけだ。
(幽霊みたいだな)
本当に、そう思った。
―――
星芒塔の正門は、いつも通り厳重だった。
白い石造りの塔が、春の青空にそびえている。高さ約120メートル。七芒評議会の本部であり、魔法行政の心臓部だ。門の前には二人の騎士が立ち、通行人を冷たい目で見張っていた。
キーフリーは門に近づいた。
「[cold]止まれ」
右側の騎士が手を上げる。銀色の鎧が陽光を反射してぎらついた。
「[serious]……オルーギオという研究員に、面会を」
「[cold]七芒評議会の施設への立ち入りは、評議員または尖帽証の保持者のみ許可されている」
尖帽証——大講堂を卒業した公認魔法使いの証明書。キーフリーは持っていない。魔法が使えないからだ。教師として特例で採用されていただけで、資格を剥奪された今は何の肩書きもない。
「[serious]……頼む。少しだけでいい」
「[cold]規則だ。帰れ」
キーフリーは立ち尽くした。
塔の壁は厚い。この向こうに、オルーギオがいる。でも、声も届かない。姿も見えない。魔法も地位もない自分は、ただ壁を見上げることしかできない。
(何もできないのか)
握りこぶしを作る。爪が手のひらに食い込んだ。
二日目、同じ門番に追い返された。三日目の今日、別の騎士が声をかけてきた。
「[sarcastic]あんた、前に大講堂にいた先生じゃないか」
キーフリーは顔を上げた。
「[cold]資格を剥奪された方が、何をしに来た。もう関係ないだろう」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
(関係ない)
その言葉が、刃物みたいに胸に刺さった。何も言い返せない。事実だからだ。自分はもう、大講堂の教師じゃない。魔法使いですらない。あの塔の中にいる恋人に会う資格も、助ける力もない。
キーフリーは黙って、門の前を離れた。
―――
星芒塔の地下牢は、石造りの冷たい空間だった。
壁から染み出す湿気が、空気を重くしている。たいまつの灯りが、狭い独房をかろうじて照らしていた。
オルーギオは両手を鉄輪に繋がれ、冷たい石床に膝をついていた。銀色の髪は乱れ、頬には乾いた血がこびりついている。左頬の星形の痣が、汚れの下でかすかに見えた。
「[cold]もう一度聞く」
太った体を椅子に沈めたまま、ドラスヴェン議員が口を開く。冷たく光る目が、オルーギオを見下ろしていた。
「[cold]刻印魔法の全術式と、永久インクの調合法を話せ。そうすれば、刑を軽くしてやらんでもない」
オルーギオは顔を上げた。蒼色の瞳が、たいまつの灯りを反射して揺れる。
「[gentle]……知らない」
声はかすれていたが、穏やかだった。
ドラスヴェン議員が顎で合図する。部下が鞭を振り上げた。
バシッ!
肩を打たれ、オルーギオの体が前に倒れる。シャツの上からでも、皮膚が裂ける感覚がはっきりわかった。熱い。血がじんわりと滲み出る。
「[cold]知らないはずがない。お前の家系は代々、刻印魔法の研究者だった」
「[gentle]……昔の話だよ」
唇の端から血が垂れる。それでも声は優しかった。
(キーフリー)
頭の中に浮かぶのは、彼の顔だけだ。
あの安宿で一人、自分を責めているだろうか。食事もとらずに、床に座り込んでいるかもしれない。想像するだけで、鞭の痛みより胸が痛んだ。
「[cold]水だ」
部下が桶を持ち上げる。冷たい水が、オルーギオの頭からかけられた。肺が縮む。息ができない。咳き込みながら、石床に突っ伏す。
(それでも)
オルーギオは指を動かした。石床の上で、細く、震える指で。
(あの記号の形を)
キーフリーの背中に刻んだ、永続の刻印の一部。あの形を指でなぞる。それが意識を保つ唯一の方法だった。
「[cold]意地を張っても無駄だ。刻印の技術は軍が欲しがっていてな。いずれ話してもらう」
オルーギオは答えなかった。
ただ、指を動かし続けた。キーフリーの背中の形を、石の上に繰り返し描く。
(君は必ず来てくれる)
そう信じることが、最後の力だった。
―――
三日目の夜。
キーフリーは大講堂の裏手を歩いていた。
王都グラスフィリアの街灯が、石畳に長い影を落としている。春の夜風が冷たく、キーフリーは身震いした。
(何か、手がかりが)
根拠はなかった。でも、じっとしていると気が狂いそうだった。大講堂の地下には秘密の部屋がある。もしかしたら、あそこに何か残っているかもしれない。そう思って足が向いた。
裏門の近くで、人影が動いた。
「[cold]……キーフリーか」
元同僚のファルクだった。中年の男性教師で、元素魔法の基礎を教えている。大講堂に勤めていた頃、廊下ですれ違えば軽く会釈をする程度の関係だった。
キーフリーは一歩近づいた。
「[serious]ファルク、頼む。少しでいい、話を——」
「[cold]もうここの関係者じゃないんだから、近づかないでくれ」
ファルクは顔をしかめ、一歩後ずさった。
「[cold]巻き込まれたくないんだ。君に関わったら、俺まで怪しまれる」
それだけ言うと、足早に立ち去っていく。背中が、街灯の光の輪から闇に消えていく。
キーフリーはその場に立ち尽くした。
怒りは、湧かなかった。代わりに、深い疲れが体の芯からのしかかってくる。
(そうか)
大講堂で何年も働いてきた。魔法が使えなくても、知識で貢献してきた。でも、肩書きを失った瞬間にこれだ。誰も助けてくれない。誰も関わりたくない。
かつて感じていた孤独が、もっと重い形で戻ってきた。
宿に戻る。
扉を閉めると、体から力が抜けた。床に崩れ落ちる。膝をつき、手をつき、そのまま体を丸める。
その瞬間——
背中が、じんわりと熱を持った。
(あ……)
キーフリーは目を見開いた。
オルーギオが刻んだ記号のあたりだ。肌の下で、何かが脈打っている。インクが熱を放ち、背骨に沿って広がっていく。
(お前、まだ……)
オルーギオが耐えている。あの冷たい地下牢で、自分を信じて。
キーフリーは唇を噛んだ。歯の間から、かすかな嗚咽が漏れる。声を殺して、泣いた。涙が石床に落ちて、小さな染みを作る。
どれくらいそうしていたか。
カサッ。
扉の隙間から、白い紙切れが差し込まれた。
キーフリーは顔を上げた。這うようにして扉に近づき、紙を拾う。折りたたまれたメモ用紙だった。震える指で開く。
そこには、丸くて少し幼い文字が並んでいた。ミラエルの筆跡だ。
『ドラスヴェン議員は刻印の技術を軍に売る取引を進めています。オルーギオさんはそのために拷問されています。私がしたことで、こんなことになってしまった。ごめんなさい』
キーフリーはメモを握りしめた。
紙が手の中でくしゃりと音を立てる。
怒り。悲しみ。それから——これで終わりじゃないという、かすかな安堵。ミラエルがこのメモを届けに来たという事実が、微かな情報の糸口になる。
でも。
(証拠にはならない)
キーフリーは壁に背中を預けて座り込んだ。
ドラスヴェン議員が軍と取引しているという情報。それは確かに重要だ。でも、このメモだけでは何も動かせない。誰が信じる? 魔法も地位もない、教師資格を剥奪された男の言葉を。
背中の刻印が、まだ熱を持っている。
オルーギオの想いが、肌の下で生きている。
でも、次の一手が見えない。どうすればオルーギオを助けられるのか、何も思いつかない。
キーフリーはメモを握りしめたまま、暗い部屋の中で一人、壁にもたれていた。夜の闇が、窓の外から部屋の中まで浸透してくるみたいだった。
背中の熱だけが、自分はまだ生きていると、オルーギオもまだ生きていると、そう告げていた。