膝を屈するな
高校生レン・アリサトは、制服姿のまま戦場のような世界に落ちる。だが彼は慌てない。管理メニューを開けるのだ。震える村人たちの前で、彼は伝説級の神具を何気なく出現させ、「静かに暮らしたいだけだ」と呟いて立ち去る。
村の薬草師リラは、嫌々ながら彼の案内役になる。猫耳の少女キキは自称・彼の公認証人となり、彼のでたらめな話を高値で売りさばく。
悪魔の大群が村を襲った時、現地の騎士たちは凍りつく。レンは神の武器を取り出し、一振りの光で大群を消し去る。生き残った騎士たちは跪き、王国への参加を懇願する。
三つの王国が贈り物、脅迫、求婚を送りつけてくる。レンはそのほとんどを無視する。傲慢な使者が彼に命令しようとした時、レンは城壁ごと彼をぶっ飛ばす。その映像は伝説となる。
紅の尖塔の魔王ドルヴァクが自ら彼を試しに来る。レンは世間話をしながら回避し、コンソールコマンドで魔王最強の呪文をコピーし、倍返しで投げ返す。ドルヴァクは公衆の面前で辱められ、逃走する。
人間の王たちは同盟を組み、軍勢でレンの小屋を包囲し、聖なる武器として服従するよう要求する。レンはあくびをし、/kill @e と入力し、一つの
膝を屈するな - 不可侵協定と北の手紙
朝の光は、世界を洗い流すように村へ降り注いだ。
丘の上の小屋から見下ろすと、カーヴェの村の畑が朝露を吸って、きらきらと光っている。小川はいつも通りに流れ、遠くでは鶏の声が聞こえた。
だが、その「いつも通り」は、誰の目にも、どこか薄っぺらく見えた。
村の外れ、ゴーレムダンス会場跡地の方角からは、まだ朝靄が立ち上っている。あの日、悪魔の王たちが踊らされた平原。今朝は、その熱気も、歌声も、泣き声も、すべて消えていた。
残っていたのは、ただ静けさだけ。
――そして、その静けさを、今まさに破りに来た者たちがいた。
ズズ、と重い音が地面を揺らした。
村の北の広場。家々の影から、豪華な装飾が施された馬車が、何台も、何台も、続々と姿を現した。馬の息は荒く、御者たちの顔は疲れ切っている。夜通し走り続けてきたかのような、そんな有様だった。
「……すごい数ね」
薬草師リラ・ファーネルは、村の中心広場でその光景を見つめ、小さくため息をついた。灰褐色の三つ編みが、朝の風に静かに揺れる。落ち着いた緑の瞳は、どこか疲れていた。昨日、悪魔の大軍を避難させた疲れが、まだ体に残っている。
腰に下げた薬草バッグには、今朝摘んだばかりのセルヴァ草が詰まっていた。市場に出そうと思っていた矢先の、この騒ぎだった。
村長宅の前には、いつの間にか人だかりができている。石造りの家の扉から、村長ドーマ・ヘプナーが、青い顔で出てきたところだった。68歳の彼は、村で唯一、「レン問題」を国際機密として処理しようと頑張っている人物だった。だが、その努力も、今朝で完全に崩れ去ろうとしていた。
「馬車の数、全部でいくつだ!?」
「村の入口から、ここまで、ずっと続いております! 先頭はベルクハインの御旗! その後ろにフィルセーナ、さらにトラバスの商旗も!」
「三王国の王が、よりにもよって、同時に……!」
ドーマは、よろよろと広場の柱に手をついた。
「それだけじゃないわ。南の空を見て」
リラが指差した南の空を、村人たちが一斉に見上げる。そこには、あのどす黒い赤とは違う、深紫色の雲が、ゆっくりと北へ向かって動いていた。
「……あれは、悪魔の霧。七柱が、自分の影を連れて移動してるんだわ」
「お、おいおい……人間の王様たちと、悪魔の王様たちが、この村で鉢合わせするってのか!?」
「もう嫌だ! この村は、どうしてこんなことに……」
広場は一瞬で騒然となった。
だが、騒めきは、すぐに「ある方向」から、ぴたりと止んだ。
あの丘の上の小屋。
レン・アリサトの家から、気の抜けたあくびの音が、まるでこの世界のすべてを馬鹿にしているかのように、響いてきたからだ。
―――
小屋内。
レンはいつも通り、毛布にくるまって、ごろりと横になっていた。少し寝ぐせのついた黒い髪。半目の下にある眠たげな焦げ茶色の瞳。172cmの体は、古い板の床の上で、ただの物体と化していた。
コンコンコン。
扉が叩かれる。
「レン。起きてる?」
返事はない。
コンコンコンコン。
「レン。絶対起きてるでしょ。今、すごいことになってるの。あんた、自分のせいで、この村が世界の中心になってるの、分かってる?」
リラが、ため息交じりに扉を開けた。
「……うるせー。夜勤明けだっつってんだろ」
レンは毛布を頭までかぶった。
「夜勤って、あんた、この世界に来てから一度も働いてないでしょ!? 昨日も、あの悪魔の大軍を踊らせて、それで終わり! あとはずっと寝てたじゃないの!」
「……ダンスの後は、疲れるんだよ」
「あんたは踊ってないでしょ!!」
リラはぷんぷん怒りながら、小屋の窓を開け放った。光が差し込み、レンの顔を照らす。
「見なさいよ。あそこ。村の北の広場に、王様たちが集まってる。それでね、南からは、悪魔の王様たちも来てるの」
「……うん、知ってる」
「知ってるなら起きなさいよ! 会議よ、会議! 世界のトップたちが、あんたに会いたいって、順番待ちしてるの!」
レンは、のそりと起き上がった。そして、あくびを一つ。
ふぁ~あ。
「会議? めんどくせーから、俺は出ない。あんたが適当にやっといて」
「は?」
「俺の望みは、静かに暮らすこと。それだけ。他のことは、知らねーし。あ、でも、家の前で騒ぐのだけはやめさせて。あと、昼飯、なにかうまいもん売ってたら買ってきて。金は……まあ、あのへんに落ちてるだろ」
レンは、小屋の隅に無造作に積まれた金貨の山を指差した。それは、三王国から送られてきた貢物や、キキがレンの情報を売って稼いだ「上納金」の一部だった。
「あんた……それ、まさか、私に会議を仕切れって言ってるの?」
「そう。あんた、その手の話、得意だろ? リーダーシップあるし。俺、そういうの、マジでむり。人使ってなんぼでしょ」
「人使って、なんて、開き直らないでよ! 私、村の薬草師よ! 王様たちと交渉するスキルなんてないわよ!」
「でも、あいつら、別に喧嘩しに来たわけじゃないだろ。どうせ、ゴーレムダンスの後で、怯えてるんだよ。適当に相槌打ってれば、勝手に仲良くするだろ。よろしく~」
レンは、そう言うと、もう一度毛布をかぶって、丸くなった。
「おい、行かないのかよ。会議場、案内してやろうか?」
「……もういい。あんたに期待した私がバカだったわ」
リラは、胃を押さえながら小屋を出た。胃が、きりきりと痛む。それは、空腹のせいか、それともストレスのせいか。
「……あんたの周りだけ、どうしてこう、めんどくさいことになるのよ」
リラは、一人ごちた。
―――
村の北の広場。
もともと村の祭りの舞台として使われていたその場所には、今、豪華な天幕が張られ、長机が三つ、三角形に並べられていた。
北側には、ベルクハイン王国の騎士団に守られた、国王の席。
東側には、フィルセーナ聖邦の司教たちが、白い礼服でずらりと座っている。
西側には、トラバス商盟の代表団。紫と金色の天幕の下、豪商たちが扇子を手に、落ち着かない様子で座っていた。
しかし、この会議場に「中央」はなかった。
ただ、南の空から降り注ぐ紫色の光が、ひときわ強くなっていた。
やがて、南の入口から、真っ黒な外套をまとった一団が入ってきた。先頭には、体格のいい悪魔。身長2メートルを超える大男で、赤い瞳を静かに光らせていた。頭には、屈辱のダンスパレードの後遺症か、片方の角が欠けている。
かつてレンに敗北を喫した悪魔の王、七柱第三位、ドルヴァク。
「……皆の者、待たせたな」
深く、芝居がかった、それでいて今朝は少しだけ硬い声。ドルヴァクは、人間の王たちを、ぎろりと見渡した。
「次に、人間どもが、貴様らごときが、神の使者などと名乗る者を、悪魔の王と勘違いするからだ。我らは、その『勘違い』によって、あのような赤恥をかいた。この顔の角など、この屈辱に比べれば、安いものよ」
ドルヴァクは、欠けた角を指でなぞった。
「……で、その『神の使者』はどこにおられる?」
人間側の代表たちが、一斉に、広場の隅、村の薬草師リラ・ファーネルに視線を向けた。
リラは、居心地悪そうに、首をすくめた。
「……ええと、レンは、その、体調が、優れないらしくて……」
「ほう? 体調が優れない? あの男は、朝から元気に昼寝をする以外の病気があったか?」
ドルヴァクの口元が、にやりと歪む。人間の王たちの顔色が、さらに悪くなった。
ベルクハイン王国の王、アルトレウス・ヴァン・ベルクハイン。
「薬草師よ。我々は、世界の秩序を話し合うために、この辺境まで来たのだ。主のいない会議に、どれほどの意味がある?」
「主は来ない。それが、あの男の答えだ。よって、会議は『主なし』で進める」
「しかし、それでは収拾がつかん。あの男の保護権は、すでに我が王国が優先して確保している。この前の『剣の選別』の管理も、当然我々のものだ」
ベルクハイン王アルトレウスは、銀色の髭を撫でながら、堂々と言い放った。彼の脳裏には、レンが突き刺した聖剣が、自国の王家の紋章と共に、世界中に喧伝される未来が見えていた。
「待っていただきたい。あの方こそ、我が聖典に記された『顕現せし神意』。オーラム司教庁は、あの方の生涯を聖典に書き記し、永代に渡って崇める義務がある。保護などという俗な話ではなく、信仰の対象として、フロスティアの聖都にて、丁重にお迎えするのが筋」
白い衣をまとったフィルセーナ大司教、その名はグレゴリオ。フィルセーナ聖邦の最高権力者の一人が、長いあごひげを揺らして、うっとりとした口調で言った。
「信仰? 笑わせるな。貴様らは、あの男に縁談を持ちかけて、無視されたではないか。聖典に書き記す? ただの負け惜しみを、神の意志にすり替えるのが、貴様らのやり口だろう」
ドルヴァクが吐き捨てるように言った。フィルセーナ大司教の顔が、みるみる赤くなる。
「な、なんと、無礼な! 我らは、ただ、神の意志を正しく伝えたいだけだ!」
「では、聞くが、あの男の住む小屋の、あの毛布の色は、何色かご存知か? あの男の好物は? 昼寝から起きる時間は? 知らんだろう。『神の意志』などと並べても、貴様らは、あの男のことなど、何一つ知らない」
ドルヴァクの言葉に、フィルセーナ大司教は、ぐっ、と言葉に詰まった。
そこへ、トラバス商盟代表の一人が、にこやかに手を上げた。
「それならば、我らは犬耳の情報屋から、大変有益な情報を買い入れております。レン様の生活必需品の調達、すべて我らトラバスが、破格の条件で永代供給いたします。交易権こそ、もっとも現実的な『保護』でございましょう」
「情報屋だと!? あの猫耳のガキか! 貴様らは、あいつの飛ばすでたらめな『キキ通信』を、真に受けておるのか!?」
「でたらめとは、ひどいなあ。あたしの通信は、全部、目撃情報に基づく、高品質なニュースだよ!」
突然、天幕の上から、明るい声が降ってきた。
オレンジ色の短い髪と、ぴょこぴょこ揺れる猫耳。金色の大きな瞳が、いたずらっ子のように輝いている。猫耳族の運び屋、キキ。彼女は、いつの間にか、天幕を支える柱の上に、ちょこんと座っていた。手には、いつもの小冊子と、先端の白い尻尾を揺らして、上機嫌だ。
「あっ、キキ! あんた、いつの間に……てか、降りてきなさいよ!」
「やーよ。ここが一番、よく見えるもん。それに、こんな豪華な会議、見逃せるわけない。あたし、これの全記録を、キキ通信の号外にして、酒場で売るんだから! タイトルは、『世界のトップ、村の広場で大げんか!』……どう? 売れるでしょ?」
「あんたって子は、ほんと……」
リラは、額に手を当てた。
「――さて、この獣娘の戯言は、後で追い出せばよい。それよりも、本来の問題は、あの男を、『魔王』と、一番最初に呼んだのは、どこのどいつか、ということだ」
ドルヴァクが、再び人間側をぎろりと睨んだ。
「その通り! 我々は、あの男を『魔王』などと呼んだ覚えはない! あれは、人間たちが、自分たちの失態を隠すために広めた、いわれなき侮辱だ!」
「ちょっと待て。そっちだって、勝手にあの男を恐れて、大軍で攻めてきたではないか。結果、踊らされた。それは、お前たちの『自業自得』だろうが」
「なにを他人事のように! 貴様ら、人間どもが、あの男のご機嫌取りをしようと、贈り物やら求婚やらを送り付けたから、我々悪魔領にまで、おかしな噂が流れたのだ!」
「だったら、どうして、あの時、あんなに簡単に、あの男に敗北したのだ? 悪魔の王が、ダンスなどで敗北するから、我々の『剣の選別』の効果も、薄れてしまったではないか!」
「き、貴様、よくも、あの日のことを……! あれは、我の驕りだった。いや、あれは、我の心を、音楽が、まさか、あんな……!」
ドルヴァクの顔が、赤銅色を通り越して、真っ赤に染まった。頭からは、怒りのあまり、蒸気が立ち上っている。会議場の空気が、一気に熱くなる。
「お、おい、やめろ! ここで火を吹いたら、村が焼ける!」
「……あら、やっぱり、あんた、あのダンスの衣装、気に入ってたの?」
リラが、ぽつりと言った。
場の空気が、一瞬、止まった。
「……なに?」
「いや、だって、あんた、今、『心を、音楽が、まさか、あんな……』って、まるで、ステップを踏まされたことを、屈辱って言いながら、ちょっと楽しそうな顔してたから」
ドルヴァクの顔から、血の気が引いた。
「た、楽しそうだと……!? 我が!? あのような、悪魔の歴史上、最大の屈辱を! 楽しんで、おったと、言うのか!?」
「あ、いや、違かった? だって、この前、酒場で、あんたのダンスステップを真似した子供たちを見て、あんた、口元が、ちょっと、ほころんで——」
「そ、それは、口元が、引きつって、おっただけじゃああああっ!!」
ドルヴァクは、真っ赤になって叫んだ。会議場が爆笑の渦に包まれる――いや、それは人間側も同じで、フィルセーナの司教たちの一部も、肩を震わせて笑っていた。
「……リラさん、ナイス! 今の、号外の見出しにしよっと。『赤い塔の主、ダンスを密かに練習していた!? 関係者証言を入手!』」
「お前もだ、猫耳! その鉛筆を、今すぐ尻尾の穴に突っ込んでやろうか!」
キキは、ひょい、と柱から飛び降りると、ぴゅーっと会議場の外へ逃げた。心なしか、逃げ足もダンスのステップのように軽やかだった。
―――
会議は、決定打を欠いたまま、時間だけがすぎていった。
リラは、自分が、世界の運命を決める会議の、司会進行のような役割を、流れで負っていることに気づき、さらに胃を痛めた。
「……ええと、とりあえず、お互い、レンから手を出さない、というのは、どうでしょうか。あの……『レンを怒らせない』ってことだけ、守れば、それで、みんな、安全というか……」
「つまり、あの男を、放置しろと? それでは、我が王国の『剣の選別』に、箔がつかぬではないか」
「聖典に、神の恩寵を書き記せぬのも、我らにとっては、由々しき事態ぞ?」
「だから、それは貴様らの問題であって、レン本人の問題ではない、ということだ!」
ドルヴァクが、また吠える。
「レンくんは、静かに暮らしたいだけだよ。それを、みんなが、それぞれ好き勝手に、『守る』『祀る』『商売する』って言い張ってるだけ。ねえ、みなさーん、自分たちの都合を、レンくんに押し付けるのは、もうやめない?」
キキが、いつの間にか、リラの隣に戻ってきていた。その声は、驚くほど真っ直ぐだった。
リラも、うん、と頷いた。
「そうよ。あんたたち、あの子の何を、知ってるの? あの子はね、あの小屋で、毎日、遅くまで起きて、早く昼寝をして、それで……うん、本当に、それだけなの。ただの、めんどくさがりなの。ねえ、いっそ、放っておいてあげた方が、世界のためなんじゃない?」
リラの言葉に、会議場が静かになった。
――その静けさに、冷たい声が、響いた。
「ならば、なぜ、その男は、この世界に存在する?」
その声は、会議場の天幕の、さらに上から聞こえた。
全員が、反射的に空を見上げる。
――紫色の雲が、渦を巻いていた。
雲の中心が、裂けるように開く。
あの、悪夢のダンスパレードの翌朝、誰もが望んでいなかった方向から、その男は現れた。
「なっ……!?」
ドルヴァクが、言葉を失った。
七柱第三位。ドルヴァクが、これまで『本物の怪物』と呼んで、決して逆らってこなかった相手。悪魔領の最南端、瘴気の海に浮かぶ、悲願の塔の主。
七柱第一位にして最古の魔王、ギルドラス。
「……我が、いつ、貴様のような不調法者に、『来い』と命じた? 会議は、我のみで、十分ではないか」
ギルドラスの姿は、異様だった。
深い藍色の、まるで蔦のようなぜんまい状の角。顔の右半分は、古いやけどのように、鱗がめくれ、ひび割れている。体は骨と皮ばかりで、細い手脚が、長いマントから覗いていた。だが、その細い体の奥に、計り知れない何かが、渦巻いている。
レベル200を超える、この世の理の一つ。
人間の王たちは、ただ、青ざめた。これまで対峙したどの悪魔よりも、次元の違う、『呪いのような存在感』。
「……ギルドラス様。これは、その、経過の報告を、赤い塔の主として、ドルヴァクが、責任を持って——」
ドルヴァクは、明らかに、その最古の魔王の登場を、事前に知らされてはいなかった。
「……だまれ。愚か者。我を、この、不愉快な場所に、呼びつけたのは、貴様の弱さに他ならぬ。この世界に、あってはならぬ『誤り』が、ここにいる。それを、滅ぼすためだけに、我は、来た」
ギルドラスの、眼光が、丘の上の小屋を射抜いた。
「……まさか、レンを?」
「うむ。その、歪みを、我は、消しに来た。人間どもよ、悪魔どもよ、よく聞くがよい。我の下に、ひれ伏すか、それとも、その『神の使者』などという、世界の癌と、共に、滅びるか」
ギルドラスの全身から、どす黒い、あらゆる熱と冷気と、そのまた根底にある、色のない『存在の圧力』が、溢れ出した。
会議場の、すべての蝋燭の火が、いっせいに消えた。
「……世界の、癌だと?」
ドルヴァクは、ゆっくりと、ギルドラスの前に進み出た。
「待て、ギルドラス様。あの男は、それほどの存在なのか? あのまま、静かに暮らさせておけば、危険はない。我は、この数日、奴を観察してきた。奴は、ただ、眠くて、だるい、それだけの、人間だ。それが、なぜ、そこまで、あの男を、恐れ、また、憎む!?」
ドルヴァクの声には、『ライバル』としての讃美と、本物の疑問が込められていた。
「――お前は、あの男の、『異変』を、知らぬからだ。お前は、見たのか? あの男が、剣を抜いた瞬間を。ダンスなどでは、ない。兵士たちを、消し去った、あの『光』を。……あれは、この世界の、亡霊に、触れる、やり方だ。あってはならぬ。あってはならぬのだ。この世界の、隠された、本質に、奴は、触れている。……そして、奴は、それを、自覚しておらぬ。ただ、眠い、だるい、と、抜かしておる。その、無邪気さが、もっとも、恐ろしい」
ギルドラスは、ゆっくりと、片手を、丘の小屋へ向けた。
「我が、奴を、消す。この、『誤った神』を」
瞬間、リラとキキの顔から、血の気が引いた。
二人は、同時に、飛び出す。
「やめてえええ!」
「だめだよ、レンくーん!」
――ブンッ。
何かが、音もなく、動いた。
ギルドラスの指先から放たれた、無数の、白い糸のような光。それが、リラとキキの体に絡みついた。
「――ふん。虫けらが、我に触れると、どうなるかも、知らぬか。そうか。ならば、そのまま、あの男に、『命乞い』でもするといい。あの男が、お前たちを、救えるかどうか、見せてもらおう」
リラとキキは、悲鳴を上げる暇もなく、会議場の床に、縫い付けられた。
「きゃああっ! 動けない! からだが、床に……!」
「くっ、なにこれ、体の力が、入らない……! レンに、レンに触れちゃ、だめ……!」
リラは、必死で首だけをめぐらせ、丘の上の小屋を見た。
(レン! お願い、起きて! あんた、これ、やばいやつよ! あんたが、今まで見た、どの敵よりも、やばい!)
心の中で、叫んだ。
会議場では、もう、秩序は消し飛んでいた。
人間の王たちは、悲鳴を上げて逃げ惑い、護衛の騎士たちは、槍を構えることすらできずに、へたり込んでいた。
「た、助けてくれ! 誰か、この悪魔を止めてくれ!」
「神よ、おお、神よ! これが、あなたの与えたもうた試練なのですか!?」
「わ、我々は、ただ、商売を――」
「静粛に! 命が、惜しくば、な」
ギルドラスの、一声。
場が、凍り付いた。
―――
丘の上の小屋。
ゴゴゴゴゴ……
小屋の床が、微かに振動していた。
レンは、毛布をかぶったまま、考える。
(……あー、うるせー。外、うるせーな。なんか、また、やばいのが来た? リラもキキも、なんか、もう、叫んでるし。めんどくせーな)
レンは、ゆっくりと、体を起こした。
眠たげな焦げ茶色の瞳を、細めて、窓の外を見る。
会議場の上、紫の雲の下に、浮かんでいる、藍色の人影。
その、異様な存在から発せられる、底冷えのする『気配』。
――あら、なんか、ロクでもないの来てる。
「はー、ダメだ、こりゃ。ちょっと、マジで、めんどくさいかも」
レンは、小さく欠伸をした。
そして、窓を、ほんの少しだけ、開けた。
「……おーい。そこの、ふわふわ浮いてる、古い何か」
レンの声は、風に乗って、会議場へと届いた。
ギルドラスが、ゆっくりと、丘の小屋へ顔を向ける。
――ズンッ。
その一瞥だけで、空気が重くなった。
しかし、レンは、全く動じない。
「あんた、なんか、知らんけど、うるさい。家の前で、騒ぐなって、リラに言っといたんだけど。それと、あんた、今、リラとキキに、なんか、した? 俺の、わりと、ほっとけない知り合いに、手を出すと、あとで、怖いよ」
レンは、淡々と言った。
「――ほう。その、虚ろな、抜け殻のような、脳で、よくそこまで、言葉を、並べられるものだ。ええい、後悔は、我にだけ、許される。『無名の神』よ。貴様の、つまらぬ、存在が、この世界の、『欠陥』なのだ。滅びよ。我が、この世の、真の管理者に、捧げる、祈りと共に」
ギルドラスの、両腕が、空に浮かんだ。
――ゴゴゴゴゴッ!!!
紫の雲が、一気に、渦を巻いて、一点へ。
巨大な、光の、帯。
それは、世界の、あらゆる、理を、飲み込む、『消滅の口』。
――最終禁術、『因果湮滅(いんがかいめつ)』。
ギルドラスの、全魔力、その存在の、根源を、削って放つ、一撃。放てば、世界に、新たな、業を、刻む、一撃。
「……あちゃー。また、よく分からん、やばいの、溜めてる。ってか、なんか、あの人、俺のせいで、すごい、怒ってる? 俺、あの人に、なんかした?」
レンは、あくびをしながら、片手を、宙にあげた。
――パンッ。
音もなく、レンの掌の上に、青く光る、透明なパネルが浮かび上がる。
管理者メニュー。
この世界の、ルールそのものを、書き換える、禁断の、窓。
「……えーと、あいつは、『最古の魔王』とか、いうから、まあ、この世界の、いわゆる、レイドボスって、やつだろ。で、今、リラとキキを、床に縫い付けて、楽しそうに、ライブしてる、と」
レンは、ぶつぶつ言いながら、パネルを操作する。
「んー、この、一番上の、とんがった角のやつが、ギルドラスさん、ね。ステータス、ありますね。えーと、レベル215。つよ。なんか、管理権限、って欄が、ありますね。ふーん。……あ、これ、触れる感じする。よし、これ、消しとく。というか、これ、あいつ、管理者の、偽物みたいなもん、ですね。ま、どこから、入手したのか、知らんけど」
レンは、画面の、『管理者権限』の項目を、タップした。
――ピッ。
軽い、電子音。
――その瞬間、世界が、止まった。
ギルドラスの、全身に、集まっていた、消滅の、光。それが、まるで、電池を抜かれた、玩具のように、ぱたり、と、消えた。
「……え?」
ギルドラスの、声。
初めて、『戸惑い』という、感情が、混ざった。
「次にー、と。レベル、215を……、っと、ここ、書き換え。これで、1、と」
レンは、ステータス画面の、レベル表示の横にある、小さなアイコンを、ぽちぽちと操作した。
――カチッ。
世界が、また、動き出した。
「……な、なにを、した!? 我が、我が力が……!?」
ギルドラスの、体が、浮かんでいた、高さから、ゆっくりと、落ちていく。
いや、落ちているのではない。
『浮かんで、いることが、できなくなって、いる』。
骨と皮ばかりだった、体が、さらに、萎びていく。
深藍色の角が、ポキポキと、音を立てて、砕け、剥がれ落ちていく。
「あれ……あれ……? なに、これ……? 力が、からだが、温度が……! わしは、わしは、最古の、王……! 世界の、管理者の、代行者……! これ、は、この、世界の、理そのもの……! なんで、なんで、わしから、理が、逃げて、いく……!?」
ギルドラスの、斑点のある、しわだらけの、手が、虚空を、掻きむしる。
体が、地面に、足が、触れた。
――ダンッ。
両膝が、地面に、突き刺さった。
もはや、力の、残骸すら、ない。
その、あまりにも、呆気ない、結末。
会議場は、沈黙に、包まれた。
誰も、声を、出せなかった。
七柱第一位。最古にして、最強の魔王。レベル215。
それが、今、レベル1。
『力』の、すべてを、失い、ただの、老人になって、ガタガタと、震えていた。
「……あれ、もしかして、もう終わった? なに? もっと、長引くと思ったのに。せっかく、リラが『すごいやばいやつ!』って、叫んでたから、ちょっと、勇気出して、起きたのに。もう、終わり? なんだ、つまんね」
レンは、そう言うと、窓を、ゆっくりと、閉めた。
―――
数分後。
レンの、小屋の前。
人間の王たち、フィルセーナの大司教、トラバスの代表、そして、ドルヴァクを含む、悪魔の、王たち。
全員が、土下座していた。
頭を、地面に、擦りつけていた。
「レン・アリサト様! こ、この度は、我々の、不手際により、ま、誠に、申し訳ございませんでした! なんなら、この首を、お使いくださいませ!」
「神よ! おお、真の神よ! 我らは、ただ、あなたの、御心に、従う、つもりで、ございます! お許しを! お許しを!」
「い、いやー、あの、レン様、ここは、こう、取引で、成立させません? この村、まるごと、トラバスの、特別保護区に、指定しますので! なあ、そうしましょうよ! ねえ!」
「……レンよ。我は、認めよう。貴様は、我の、宿敵だ。しかし、今の、『あれ』は、いかん。いくら、我ら、七柱の、第一位が、相手だとはいえ、あまりにも、理の、『桁』が、外れておる。……我の、復讐の機会が、潰れるではないか。せめて、我の、宿敵として、もっと、こう、正々堂々と、芸術的に、我を、叩きのめすくらいの、気概を、見せろ」
ドルヴァクも、他の者にならって、頭を下げていたが、その口元は、屈辱と、ライバル心と、言いようのない『悔しさ』で、引きつっていた。
キラッ。
小屋の、窓が、三センチだけ、開いた。
レンが、顔だけ、出した。
「……えーと、もう、いい? みんな、おつかれ。静かにしてくれるなら、それで、いい。あと、リラとキキを、すぐ、解放しろ。あと、飯。……、それだけ。んじゃ」
――パタン。
窓が、閉まった。
会話、三秒。
全勢力の、代表たちは、顔を見合わせる。
そして、すぐに、立ち上がり、互いの手を、がっしりと、握り合った。
「「「――不可侵協定、締結!!!!」」」
こうして、世界で、いちばん、短い、開戦理由と、いちばん、短い、平和条約が、生まれた。
協定書は、馬車が、何台も必要になるほど、分厚かったが、中身は、たった一行だった。
『レン・アリサトを、怒らせないこと』
―――
夜。
星が、低く、輝く、静かな夜だった。
会議の跡片付けも、ようやく終わり、村人たちも、それぞれの家へ帰っていった。
リラは、協定書の、分厚い写しを、四苦八苦しながら、自分の薬草店の、一番奥の、鍵付きの棚に、しまい込んだ。
「……はー。なに、これ。紙の山。また、私の、仕事が、増えた。っていうか、あの子、私に、全部、押し付けといて、謝りにも来ないし」
リラは、ため息をついた。しかし、その口元は、どこか、緩んでいた。
ギルドラスの、あの、異様な、威圧感。あれを、目の当たりにした時、リラは、本気で、世界の終わりを、覚悟した。
でも、レンは、いつも通り、あくびをしながら、三秒で、終わらせた。
(……ほんと、分かんない。あんたは、一体、何なの?)
リラは、そう、心の中で、呟いた。
―――
その頃、レンは。
小屋の、扉の前に、落ちている、白い、封筒を、見つけた。
「……ん? なに、これ」
封筒には、何も書かれていなかった。
表も、裏も、真っ白。
(あー、また、どこかの、王様から、縁談の、申し込み、とか? めんどくせー)
レンは、無造作に、封筒を、拾い上げ、中身を、取り出した。
中から、一枚の、便箋が、出てきた。
同じように、真っ白の、紙。
だが、そこには、整った、しかし、感情の、全く、見えない、文字が、書かれていた。
『あなたの存在は、記録にありません。ならば、あなたを、こちらへ、招いた者は、誰です?』
差出人は、書かれていなかった。
だが、レンの、目にNoveliaとは?
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