勇者刑に処す 懲罰勇者9004隊刑務記録 ――転移詩人の鎮魂歌
教室の片隅で息を潜めるように詩集を読む少年・久遠奏は、ある日図書館で見つけた古い本の力で異世界へと飛ばされてしまう。目覚めた先で彼の首に浮かんだのは、穢れた色をした「聖印」だった。聖印を持つ者は勇者として徴用される――それがこの大陸の掟。何もしていないのに罪を着せられ、彼は「懲罰勇者」として最前線の要塞へ送られることになる。殺されても蘇生され、死ぬことすら許されない使い捨ての兵士として。
同じ護送車に乗せられたのは、窃盗千件超えのドッタ、詐欺と横領の常習犯ベネティム、そして兜を被ったまま一言も発しない謎の男。そして、やたらと人懐っこい笑顔の裏に何かを隠した男ツァーヴ。犯罪者たちと共に送り込まれた先は、減員率四割という懲罰勇者9004隊だった。
詩を愛し、歌うことを奪われた少年が、言葉の力を武器に絶望の最前線を生き抜く。声なき詩が、いつか鎮魂歌となる日まで――。
勇者刑に処す 懲罰勇者9004隊刑務記録 ――転移詩人の鎮魂歌 - 鉄仮面の婚約者と、歌い手の帰る場所
朝の光が、治療院の白い壁に落ちていた。
ミューリッド要塞の治療院セント・メアリは、戦いの傷跡を抱えた者たちで静かに満ちている。包帯の匂い、薬草の苦い香り、そしてかすかな血の匂い。それらが混ざり合って、長い夜の余韻を閉じ込めていた。
久遠奏は、窓際のベッドで目を覚ました。
まぶたが重い。体のあちこちが、鈍く痛んだ。
(……あれ、僕)
喉が、焼けるように痛い。息を吸うだけで、空気が傷口を擦る。指先を動かす。かすかに震えている。
「……水」
声にならない声が、唇の隙間から漏れた。
その時、ベッドの脇から、低い声が降ってきた。
「起きたか」
奏は、ゆっくりと首を動かした。
壁に背を預けて立つ、長身の男。黒に近い焦げ茶の短髪は、まだ煤で汚れたままだ。左頬の古い傷跡が、朝日に浮かんでいる。両手足に刻まれた雷撃の聖印が、疲れのせいか、かすかに明滅していた。
懲罰勇者9004隊の隊長、ザイロ・フォルバーツ。
「ザイロ、さん……」
「喋るな。喉をやられてる」
ザイロは、乱雑に置かれた水差しから、欠けた木のコップに水を注いだ。それから、奏の枕元に近づき、無造作に差し出す。
「飲めるか」
奏は、震える手でコップを受け取った。こぼさないように、両手で包み込む。水を一口含むと、喉の奥が、じわりと潤った。
「ありがとう、ございます」
「……ちっ。礼なんか言うな。面倒くせぇ」
ザイロは、そう言いながらも、奏が水を飲み切るまで、じっと見ていた。
その隣で、炎のような金髪が、ふわりと揺れた。
「よく目を覚ました、我が騎士の歌い手よ」
剣の女神テオリッタが、雪のように白い肌を朝日に透かして、奏を見下ろしていた。燃えるような赤い瞳が、嬉しそうに細められている。
「お前が眠っている間、この私がどれほど退屈したか分かるか? 早く起きて、この私を褒め讃えるがいい」
テオリッタの髪の先から、パチリと小さな火花が散った。感情が高ぶると火花が出るのは、彼女の癖だ。
「すみません、ご心配を……」
「心配などしておらん。我が騎士の歌い手が、弱った姿を晒すとは何事かと思っただけだ」
テオリッタは、ふん、と鼻を鳴らした。
でも、その赤い瞳は、奏の顔をじっと見つめている。声の調子も、いつもの尊大さより、ずっと柔らかい。
奏は、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
(僕、生きてるんだ)
イブリスを封じた。歌で、あの巨人を、結晶に変えた。
その後の記憶は、曖昧だ。歌い続けるうちに、意識が遠くなっていって、気づいたら、ここにいた。
「……イブリスは」
「封じられた。お前の歌で、完全に結晶化した。もう動かねぇ」
ザイロの声は、短く、力強かった。
「そう、ですか……」
奏は、ほっと息を吐いた。
肩の力が、抜けていく。
(よかった)
(みんな、無事なのかな)
「ドッタさんや、タツヤさんは……」
「ドッタは治療中だ。命に別状はねぇ。タツヤも、あの後、兜を直してもらって、今は飯を食ってる」
「そうですか。よかった……」
奏は、心から、そう思った。
「お前が気にすることじゃねぇ。お前は、自分の体を治せ」
ザイロは、そう言って、窓の外に目をやった。
その横顔を、奏は、ぼんやりと眺めた。
(ザイロさんも、ずっと、ここにいてくれたのかな)
そう思うと、胸の奥が、また、じわりと温かくなった。
――その時だった。
バタバタバタ、と、廊下を走ってくる足音がした。
治療院の静けさを、無遠慮に破る、慌ただしい音。
「悪い報せだ! 悪い報せだぞ、奏!」
扉が、勢いよく開かれた。
飛び込んできたのは、懲罰勇者9004隊の形式上の指揮官、ベネティム・レオプールだった。ヘラヘラした印象の男が、今日は、いつも以上に顔を引きつらせている。
「ベネティムさん、どうしたんですか」
「来客だ! お前を訪ねて、要塞の門に、とんでもないのが来てる!」
ベネティムは、肩で息をしながら、奏のベッドに駆け寄った。
「とんでもないの、って……」
「鉄仮面だ! 鉄仮面をつけた女だ! しかも、やたらと気配が鋭くて、門番の兵士が二人、腰を抜かした!」
鉄仮面。
奏は、その言葉に、心当たりがなかった。
「……誰だ、そいつは」
ザイロが、低い声で、ベネティムを睨んだ。
「だから、奏を訪ねて来たんだよ! お前の知り合いか、奏?」
「僕は……心当たりが、ないです」
奏は、首を横に振った。
異世界に飛ばされてから、まだ日が浅い。この世界で、奏を訪ねてくるような知り合いなど、いるはずがなかった。
「……通せ。ここに連れて来い」
ザイロは、短く命じた。
「え、正気かよ!? あの鉄仮面を、ここに?」
「お前が慌ててるからだ。さっさと行け」
「わ、分かったよ……」
ベネティムは、再びバタバタと廊下を走っていった。
奏は、ベッドの上で、小さく身を縮めた。
(鉄仮面の、女の人……)
心当たりは、ない。
でも、胸の奥が、ざわざわと騒いでいた。
――それから、どれくらい経っただろう。
廊下に、今度は、静かな足音が響いた。
コツ。コツ。コツ。
規則正しい、迷いのない、硬い靴音。
ベネティムの慌ただしい足音とは、まるで違う。
奏は、ベッドの上で、体を起こした。
喉が痛む。でも、それどころではなかった。
扉が、ゆっくりと開かれた。
――そこに立っていたのは。
腰まである艶やかな黒髪を、肩で切り揃えた少女。
感情を映さない、漆黒の瞳。
白い肌に、形の良い唇。
そして、左手首には、銀の腕輪。
彼女は、鉄仮面を、腰のあたりに下げていた。
外していた。
仮面を、外していた。
「……久遠奏」
少女は、無表情のまま、奏の名前を呼んだ。
声は、淡々としていて、温度を感じさせない。
「……はい。あの、あなたは」
「フレンシィ・マスティボルト。南方夜鬼の首領家の娘」
フレンシィは、奏のベッドに、まっすぐ歩み寄った。
ザイロが、一歩、奏を庇うように、体を前に出す。
「……お前、あの夜鬼の」
ザイロの声が、一瞬、険しくなった。
南方夜鬼。
奏は、その言葉を、初めて聞いた。
でも、ザイロの反応を見れば、ただの訪問者ではないことが分かる。
フレンシィは、ザイロを一瞥しただけで、すぐに奏に視線を戻した。
「婚約は、破棄していないわ」
――え。
奏は、思考が、真っ白になった。
(婚約? 破棄? 何の話?)
「あの、すみません。何のことを……」
「あんたと、私の、婚約の話」
フレンシィは、無表情のまま、言い放った。
「私と、あんたは、婚約していた。あんたがこの世界に飛ばされる前から、ずっと」
奏は、自分の耳を疑った。
(僕が、この人と、婚約?)
(この世界に飛ばされる前から?)
意味が、分からなかった。
「僕は……あなたと、会ったことが、ないはずです」
「ええ。あんたは、私を知らない。でも、私は、あんたを知っている」
フレンシィは、左手首の銀の腕輪に、そっと触れた。
「これは、夜鬼の盟約の証。あんたと私の婚約は、盟約として、今も生きている」
奏は、混乱した。
頭が、ぐるぐると回る。
(どういうこと?)
(この世界に来る前? 僕は、日本で、普通の高校生で)
「……おい、待て。その話は、本当か」
ザイロが、フレンシィを睨みつけた。
「本当よ。夜鬼の盟約は、破棄できない。あんたたちの世界の約束とは、重さが違う」
フレンシィは、ザイロの視線を受けても、微動だにしなかった。
「……ちっ。面倒くせぇことになりやがった」
ザイロは、舌打ちした。
テオリッタが、興味津々といった様子で、奏とフレンシィを交互に見た。
「ほう。我が騎士の歌い手に、婚約者がいたとはな。面白い女ではないか」
テオリッタの髪から、パチパチと火花が散る。
奏は、真っ赤になった。
「あの、その、僕は、本当に、何も知らなくて……」
「知らなくていいの。あんたが知らないのは、当然だから」
フレンシィは、そう言って、懐に手を入れた。
そして、一冊の手帳を、差し出した。
革表紙の、使い込まれた手帳。
奏は、それを見た瞬間、呼吸が止まった。
(あれは)
見覚えがあった。
いや、見覚えどころじゃない。
毎日、肌身離さず持ち歩いていた。
日本で、詩を書き留めていた、自分の手帳。
「それ……僕の、ノート」
「ええ。あんたが、この世界に飛ばされた時、落としていったもの」
フレンシィは、奏の手に、手帳を置いた。
ずっしりと、重い。
あの日、図書館で、古い詩集を開いた時。
光に包まれて、意識が遠くなっていく中で、確かに、手から離れた。
「どうして、あなたが、これを……」
「あんたが飛ばされた直後から、私は、あんたを追っていた」
フレンシィは、淡々と言った。
「あんたが帝都アストレアの図書館に現れた時、私は、すぐに気づいた。それから、ずっと、あんたの行方を追っていた」
奏は、言葉を失った。
(飛ばされた直後から、ずっと?)
(この人が、僕を?)
「あんたが勇者刑に処されたことも、この要塞に送られたことも、全部、知っている」
フレンシィの漆黒の瞳が、奏をまっすぐに見つめている。
感情は、読めない。
でも、その視線の強さが、彼女の言葉の重さを、雄弁に物語っていた。
「……どうして、そこまで」
「婚約者は、私のものだから」
フレンシィは、こともなげに言った。
「あんたが勝手に死んだら、困るの。婚約者は、私のものだから」
奏の胸が、ぎゅっと、締め付けられた。
(この人、今、なんて)
「あんたの詩、嫌いじゃない。勘違いしないで。これは、夜鬼の習慣による、ただの事実確認よ」
フレンシィは、そう言うと、少しだけ、視線を逸らした。
その仕草が、妙に、人間らしかった。
奏は、手帳を、両手で抱きしめた。
革の感触が、懐かしい。
(僕を、追いかけてきてくれた人が、いた)
(この世界に、飛ばされてから、ずっと)
胸の奥が、熱くなった。
涙が、こみ上げてくる。
でも、フレンシィの前で、泣くわけにはいかない。
奏は、唇を噛んで、涙をこらえた。
「……ありがとう、ございます。僕の、大切なものなので」
奏は、精一杯の声で、そう言った。
フレンシィは、無表情のまま、小さく頷いた。
「……そう。なら、いいの」
それから、フレンシィは、ザイロの方を向いた。
「あんたが、この子の上司? この子を、死なせないで。私の婚約者だから」
「……分かってる。俺の隊の人間だ。死なせるつもりはねぇ」
ザイロは、不機嫌そうに、でも、はっきりと答えた。
「そう。なら、信用する」
フレンシィは、それだけ言うと、奏の方を、もう一度だけ見た。
「また来るわ。あんたが、ちゃんと生きてるか、確認するために」
それから、彼女は、来た時と同じように、静かに、部屋を出ていった。
コツ。コツ。コツ。
足音が、遠ざかっていく。
部屋に、静けさが戻った。
「……ちっ。とんでもねぇ女だ」
ザイロが、大きく息を吐いた。
「面白い女だな。我が騎士の歌い手よ、お前は、なかなか隅に置けん」
テオリッタが、楽しそうに笑った。
奏は、手帳を抱えたまま、うつむいていた。
顔が、熱い。
(婚約者、か……)
(僕に、そんな人が、いたなんて)
くすぐったいような、こそばゆいような、不思議な気持ちだった。
――その日の夕方。
奏は、治療院のベッドを出て、要塞の作戦会議室に呼び出された。
「……大丈夫か。無理しなくていいんだぞ」
ザイロが、歩く奏の横に付き添う。
「大丈夫です。もう、だいぶ楽になりました」
奏の声は、まだかすれていた。
でも、体は、思ったより動く。
作戦会議室の扉の前に立つと、ザイロが、先に開けた。
中には、一人の女が、立っていた。
真っ直ぐな黒髪を、後ろで一つに束ねている。鋭い切れ長の黒い瞳。深い青の軍服は、ほこりひとつ付いていない。
元第十三聖騎士団団長、勇者制度の監督官、パトーシェ・キヴィア。
「来たか」
キヴィアの声は、いつものように、冷たく、厳しかった。
でも、奏には、あの戦いの後の、彼女の柔らかい声が、まだ耳に残っていた。
「お呼びと聞いて、参りました」
「……座れ。お前たち、二人とも」
キヴィアは、机の向こう側に立ったまま、二人を促した。
奏とザイロは、並んで、椅子に座った。
キヴィアは、二人を、真っ直ぐに見据えた。
沈黙が、部屋を満たす。
それから、キヴィアは、ゆっくりと、頭を下げた。
深く。
「この前は、勇者を駒扱いすると言った。あの言葉を、撤回する」
奏は、目を見開いた。
(キヴィアさんが、頭を……)
「……すまなかった」
キヴィアの声は、震えていた。
いや、震えているように、聞こえた。
「お前たちを、切り捨て可能な駒だと言った。あれは、間違いだった。お前たちは、駒なんかじゃない。一人一人が、生きて、戦って、傷ついて、それでも前に進もうとしている、人間だ」
キヴィアは、顔を上げた。
その黒い瞳は、真剣そのものだった。
「奏の歌が、兵士たちを救った。あの場にいた全員が、お前の歌で、立ち上がった。……私も、その一人だ」
奏は、胸が、いっぱいになった。
(僕の歌が、キヴィアさんの心を、動かした)
「キヴィアさん……」
「私は、勇者制度そのものに、疑念を抱いている。この制度は、人を人として扱っていない。お前たちを、消耗品のように扱う。……だが、それでも、今の私に、制度を変える力はない」
キヴィアは、拳を握りしめた。
「だから、せめて、私の目の届く範囲で、お前たちを、人として扱う。それが、私にできる、せめてもの償いだ」
キヴィアは、再び、頭を下げた。
「……すまなかった。本当に」
部屋に、静寂が落ちた。
ザイロが、小さく息を吐いた。
「……あんたが、頭を下げるとは、思わなかった」
ザイロの声は、驚きと、わずかな感嘆が混ざっていた。
「俺は、あんたのことを、融通の利かない堅物だと思ってた。だが……そうじゃなかった。あんたは、自分の正義のために、必死だったんだな」
ザイロは、キヴィアを見た。
「……謝罪は、受け取る。だが、俺は、あんたを簡単に許しはしねぇ。それは、死んでいった者たちに、失礼だからな」
キヴィアは、顔を上げた。
「ああ。それでいい。許されるとは、思っていない」
二人の視線が、交差した。
そこには、もう、以前のような、鋭い敵意はなかった。
代わりに、静かな、覚悟のようなものが、流れていた。
奏は、キヴィアの真剣な謝罪を聞きながら、自分の中に、一つの決意が生まれるのを感じた。
「キヴィアさん」
奏は、かすれた声で、言った。
「僕も、誰かを守れるようになりたいです。歌で、僕にできることを、もっと」
キヴィアは、奏を見た。
その瞳が、ほんの少し、柔らかくなった。
「……そうか。なら、精進しろ。お前の歌は、確かに、人を救う力がある。……私が、保証する」
奏は、深く、頷いた。
――夜。
要塞の城壁の上。
奏は、一人で、星空を見上げていた。
風が、冷たい。
でも、気持ちよかった。
(僕、この世界に来て、初めて、自分の居場所を見つけた気がする)
仲間がいる。
自分の歌を、認めてくれる人がいる。
自分を、追いかけてきてくれた人がいる。
(僕は、一人じゃない)
そう思うと、胸の奥が、じわりと温かくなった。
「何をしておる、我が騎士の歌い手よ」
背後から、声がした。
振り返ると、テオリッタが、月明かりを浴びて立っていた。
炎のような金髪が、夜風に揺れている。
「テオリッタ様。星を見ていました」
「星か。この私を差し置いて、星を眺めるとは、いい度胸だな」
テオリッタは、奏の隣に立った。
彼女の髪から、小さな火花が、パチリと散る。
「……よくやった、我が騎士の歌い手よ」
テオリッタが、静かに言った。
「お前の歌は、確かに、世界を変えた。イブリスを封じ、兵士たちを立ち上がらせ、あの堅物の監督官の心まで動かした。……この私が、褒め讃えてやろう」
テオリッタは、奏の方を向いた。
赤い瞳が、月明かりを反射して、揺らめいている。
「褒美に、この私の髪を撫でることを許す」
奏は、驚いて、テオリッタを見た。
「え……でも、それは、ザイロさんの……」
「我が騎士は、また今度でいい。今夜は、お前に、その栄誉を与える」
テオリッタは、奏の手を取った。
雪のように白い、冷たい手。
「さあ、遠慮するでない。この私が、自ら望んでおるのだ」
テオリッタは、奏の手を、自分の頭に導いた。
奏の指先が、炎のような金髪に、触れた。
さらさらとしていて、少し、温かい。
「……こう、ですか」
奏は、恐る恐る、テオリッタの髪を撫でた。
「……うむ。悪くない。もっと、丁寧に撫でるがいい」
テオリッタが、満足げに、目を細めた。
彼女の髪から、パチパチと、小さな火花が散る。
でも、それは、怒りの火花じゃない。
喜びの火花だ。
奏は、テオリッタの金髪を、ゆっくりと撫で続けた。
(女神様の髪を、僕が……)
夢みたいな光景だった。
――その様子を、遠くから見ている男がいた。
ザイロ・フォルバーツ。
彼は、城壁の影から、奏とテオリッタの姿を、静かに見つめていた。
「……お似合いだな」
ザイロは、小さく、呟いた。
その口元に、ほんのわずか、笑みが浮かんでいた。
奏は、テオリッタの髪を撫でながら、涙をこらえていた。
(僕、この世界で、ようやく、居場所を見つけた)
(歌い手として、生きていける場所を)
涙が、こぼれそうになる。
でも、泣かなかった。
代わりに、笑った。
涙をこらえながら、笑った。
「……ありがとうございます、テオリッタ様」
「ふん。当然だ。この私に、感謝するがいい」
テオリッタは、そう言いながらも、嬉しそうだった。
――翌朝。
奏は、治療院の窓辺で、古い詩集を開いていた。
表紙に「レゾナンス」とだけ記された、奏を異世界へ飛ばした詩集。
奏は、手帳を取り出した。
日本で使っていた、自分の詩のノート。
そして、新しい一節を、書き加えた。
――この世界で、僕は。
――歌を、見つけた。
――仲間を、見つけた。
――帰る場所を、見つけた。
ペンを走らせる。
言葉が、溢れてくる。
ザイロ。テオリッタ。ドッタ。ベネティム。タツヤ。ツァーヴ。キヴィア。
そして、フレンシィ。
出会った人たちの顔を、思い浮かべながら。
奏は、詩を、書き続けた。
「……その詩、私にも読ませなさい」
背後から、声がした。
奏は、驚いて振り返った。
いつの間にか、フレンシィが、無言で立っていた。
鉄仮面は、外している。
漆黒の瞳が、奏の手元を見つめていた。
「フレンシィさん……いつから」
「さっきから。あんたが、集中しすぎて、気づかなかっただけ」
フレンシィは、奏の隣に、静かに腰を下ろした。
「読ませなさい。あんたの、新しい詩」
奏は、照れながらも、手帳を、フレンシィに差し出した。
「まだ、書きかけですけど」
「いいの。あんたの詩は、書きかけでも、読む価値がある」
フレンシィは、手帳を受け取ると、静かに、ページをめくった。
朝の光が、彼女の黒髪を、柔らかく照らしている。
奏は、彼女の横顔を、ぼんやりと眺めた。
(この人が、僕を、追いかけてきてくれた)
(この世界で、僕を、想っていてくれた)
胸の奥が、じわりと温かい。
フレンシィは、しばらく詩を読んでいたが、やがて、顔を上げた。
「……悪くないわ。あんたの詩、やっぱり、嫌いじゃない」
フレンシィの声は、相変わらず、淡々としていた。
でも、その漆黒の瞳に、ほんの少しだけ、柔らかな光が宿ったような気がした。
「ありがとう、ございます」
奏は、素直に、そう言った。
「勘違いしないで。これは、夜鬼の習慣による、ただの感想よ」
フレンシィは、手帳を、奏に返した。
「でも、一つだけ、言っておく」
フレンシィは、奏の目を、まっすぐに見た。
「あんたが、この世界で、どこにいても。私が、あんたを見つける。だから、勝手に、消えないで」
奏の胸が、ぎゅっと、締め付けられた。
(この人は、本当に、不器用だ)
(でも、その言葉が、嬉しい)
「……はい。僕は、もう、どこにも行きません」
奏は、しっかりと、頷いた。
「ここが、僕の、帰る場所ですから」
フレンシィは、無表情のまま、小さく、頷いた。
朝の光が、二人を、静かに包んでいた。
――異世界の詩人は、歌で世界を救い、自分の帰る場所を見つけた。
それは、終わりではなく、始まりだった。
新しい詩を、紡ぐための。
新しい歌を、歌うための。
久遠奏の物語は、ここから、静かに、歩き始める。
窓の外では、結晶化したイブリスの残骸が、朝日に照らされて、白く、静かに、輝いていた。Noveliaとは?
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