おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜
東京郊外の小さな喫茶店「グリーンノート」を切り盛りする看護師・大隈翠。週末だけの店は、常連客の笑い声とコーヒーの香りに包まれ、静かに愛すべき時間が流れていた。けれど彼女の日常には、三日も連絡のない夫・雄一の不在という、小さな、そして大きな穴が空いている。誰かと食卓を囲みたい——その願いを抱えながら、今日も一人分の食卓に、二つの茶碗を並べてしまう翠。そんなある夜、雄一から一本の電話が。「姉の息子が家出してる。お前んとこで預かってくんない?」——名前も知らない少年との、突然の共同生活が始まる。夫の甥っ子と、その妻。血のつながりだけの、ぎこちない二人暮らし。食卓に並ぶ二つの茶碗が、いつか「当たり前」になる日は来るのか。寂しさを抱えた大人と、行く場所をなくした少年が、雨の夜に交差する。おやすみプンプン外伝、静かな雨の物語。
おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜 - 梅雨の晴れ間、二つの茶碗
シフォンケーキを褒められた瞬間、翠は自分でも驚くほど自然に笑えていた。
「まあ、嬉しいわ。ありがとうございます」
声まで弾んでいる。我ながら、うまくできたものだ。
金曜の夕方。東京郊外の住宅街、私鉄沿線のベッドタウンにある喫茶店「グリーンノート」は、いつもの常連客で静かに満ちていた。木造二階建ての小さな店で、一階には十二席だけ。最寄り駅から歩いて八分、路地裏にひっそりと建つこの店を、翠は二年前から切り盛りしている。昼間は都内のあおば総合病院で看護師として働き、週末だけこうして店に立つ生活だ。
「翠さん、このシフォンケーキ、ほんとにふわふわで。うちの嫁にも教えてやってよ」
カウンター席に座る初老の女性が、フォークを口に運びながら言った。近所に住む佐伯さん。常連歴は一番長く、翠が店を継いで間もない頃から通ってくれている。
「ふふ、大したことはしてないんですよ。卵をしっかり泡立てるだけですから」
翠は白いブラウスの袖をまくり直し、生成りのエプロンの紐を結び直した。肩までの黒髪はゆるいパーマをかけていて、今日は後ろで一つにまとめている。深い茶色の瞳は少し垂れ目がちで、笑うと右の口元にえくぼが浮かぶ。そのえくぼを、常連客たちは「翠さんの笑顔の目印」と呼んでいた。
「あら、でも卵の泡立てって、意外と難しいのよねえ」
窓際のテーブルに座る小柄な女性が、コーヒーカップを両手で包みながら相づちを打つ。彼女は先月から来るようになったばかりの、まだ名前も知らない人だ。
「そうですね。でも、何度も作ってれば手が覚えますから」
翠はカウンター越しにそう答えながら、三人目の常連客——いつも一番奥の席で本を読んでいる老婦人——のカップに、静かにコーヒーを継ぎ足した。
「ありがとう」
老婦人は顔を上げずに言った。それで十分だった。
窓の外では、梅雨の晴れ間の西日が、しっとりと濡れたアスファルトを金色に染めている。朝方まで降っていた雨の名残が、道路のくぼみに小さな水たまりを作っていた。遠くで、小学生の下校する声が聞こえる。
この店の時間は、ゆっくりと流れている。
翠はその時間を、心から愛していた。
たぶん、愛している。
でも。
「——それでさ、うちの孫が今年、高校に受かってね」
佐伯さんの話を聞きながら、翠は頭の片隅で、まったく別のことを考えていた。
(まだ、連絡はない)
笑顔のまま、視線だけをレジ横に置いたスマホへと滑らせる。画面は暗い。着信も、メッセージも、何も来ていない。
(三日。もう三日も)
翠は唇の端を、ほんの少しだけ引き締めた。ほんの少しだけ。常連客には、絶対に気づかれないように。
「翠さん、おかわりもらえる?」
「はい、ただいま」
返事をして、カウンターの奥へ。コーヒーを淹れる間、翠の心はすっと冷えていく。手は正確に動く。豆を量り、湯を注ぎ、蒸らす。この一連の動作は、看護師としての手技と同じくらい、彼女の体に染みついていた。
(手が覚えてる、か)
さっき自分で言った言葉を、心の中で繰り返す。
(そうね。体が覚えてることは、心がついていかなくても、できるもの)
カップを差し出す。
「お待ちどうさま」
「ありがとねえ」
佐伯さんが笑う。翠も笑う。
笑うたびに、右の口元にえくぼが浮かぶ。
そのえくぼが、今日は少しだけ、重たかった。
閉店の七時を過ぎて、最後の客が帰っていった。
「お疲れさまでした。また来週」
佐伯さんの背中を見送って、翠は店のドアに鍵をかけた。表の看板を裏返す。暖色の照明を消すと、店内は一気に青い夕闇に包まれた。
静かだった。
さっきまで笑い声とコーヒーの香りで満ちていた空間が、今はもう、ただの箱だ。
翠はカウンターにもたれて、大きく息を吐いた。
「……ふう」
誰に聞かせるでもないため息が、暗い店内に吸い込まれていく。
レジ横のスマホを手に取る。画面をタップして、着信履歴を開いた。
——大隈雄一。
夫の名前が、発信履歴の一番上に残っている。日付は三日前。翠からかけて、十秒ほどで切られた。向こうからは、何もない。
「またか」
声に出して、翠は思った。
(また、なのね)
雄一がふらっといなくなるのは、これが初めてじゃない。結婚して五年。その間に、何度もあった。女のところに行ったこともある。行き先も告げずに、何日も帰らないこともある。そして、帰ってくる。いつも、ひどくやつれた顔で。
(帰ってくるだけ、まだいいのかもしれない)
翠はスマホをエプロンのポケットに押し込んだ。
雄一は、自分で自分を追い詰める男だ。頭が良くて、優しくて、話していると心がほどけていくような声をしている。なのに、どうしようもなく弱い。
(最初は、そこが好きだった)
知り合いの紹介で会ったのは、翠がまだ看護師として働き始めたばかりの頃だ。雄一は三十五歳。美大の大学院を出て、陶芸教室の講師をしていた。でも、すぐに辞めてしまった。
「俺には、向いてないんだ」
そう言って、雄一は笑った。
その笑い方が、翠にはたまらなく寂しそうに見えた。
(放っておけなかった)
面倒見のいい性格が、災いしたのかもしれない。いや、性格だけじゃない。翠自身が、寂しかったのだ。
雄一と一緒にいると、自分が誰かの役に立てる気がした。彼の不安定さを、自分の献身で埋められる気がした。
(馬鹿みたい)
翠はレジの引き出しを開け、売上金を確認した。今日の売上は、シフォンケーキが七個、コーヒーが九杯。全部で六千円ちょっと。週末だけの営業だから、生活の足しにはなるけれど、店だけで食べていける額ではない。
(看護師を続けてて、よかった)
月収二十八万円。それで、この家のローンと、雄一のいない生活を支えている。
雄一が失踪するたび、翠は思う。
(私は、何のためにこの人と結婚したんだろう)
答えは、いつも同じ場所に落ちる。
(ひとりになりたくなかったから)
それだけ。
たった、それだけのことだ。
二階の住居に上がると、部屋の中はしんと静まり返っていた。
翠は電気をつけて、エプロンを外した。白いブラウスの襟元をゆるめ、麻のパンツのポケットから髪留めを出して、髪を下ろす。肩までの黒髪が、ほんのりと疲れた頬にかかった。
キッチンに立つ。
冷蔵庫を開けると、タッパーに入った煮物が二つ、きちんと並んでいた。
筑前煮。雄一が作ったものだ。
(料理だけは、ほんとに上手いのよね)
翠はタッパーを一つ取り出し、蓋を開けた。甘辛い醤油の香りがふわりと立ちのぼる。中には鶏肉、ごぼう、にんじん、こんにゃく、れんこん。彩りもきれいで、味付けも絶妙だ。
雄一が家にいたのは、いつだったか。
四日前。いや、五日か。
その日、雄一は珍しくキッチンに立って、この煮物を作っていた。
「翠、ごぼうって、斜め切りと乱切り、どっちが好き?」
「え? どっちでもいいわよ」
「そうじゃなくて、どっちが好き?」
雄一は、料理の時だけ、妙に真剣になる。
「……じゃあ、斜め切り」
「了解」
そんな、たわいもない会話。
(あの時は、普通だったのに)
翠はタッパーを電子レンジに入れ、温めを開始した。ブーンという機械音だけが、静かな台所に響く。
食器棚から、茶碗を取り出す。
一つ。
そして、もう一つ。
翠の手は、迷いなく二つの茶碗を食卓に並べた。
(あ)
並べ終わってから、自分で気づく。
(また、やってる)
翠は食卓の前に立ち、二つの茶碗を見下ろした。
向かい合わせに置かれた、二つの白い茶碗。片方には、箸が添えてある。もう片方には、何も。
(誰も来ないのに)
雄一は、いない。
それでも、二つ並べてしまう。
この癖は、いつの頃からか、翠の中に染みついていた。
——子供の頃。
翠の両親は、共働きだった。父は会社員、母はパートでスーパーのレジを打っていた。二人とも、帰りは遅い。
夕食は、いつも一人だった。
食卓には、母が作り置きしてくれたおかずと、炊飯器のごはん。茶碗は、翠の分だけ。
(でも、私はいつも、二つ並べてた)
誰かが座るかもしれないと思って、向かい側にも茶碗を置いた。
でも、誰も来なかった。
翠は、一人でごはんを食べた。
テレビをつけて、音を大きくして、寂しさをごまかした。
(寂しくなんかない、って)
強がって、何度も自分に言い聞かせた。
——その記憶が、今も、この癖として残っている。
(誰かと、食卓を囲みたい)
それだけが、翠の根っこにある願いだった。
看護師になったのも、それが理由かもしれない。
患者さんに「ありがとう」と言われるたび、翠の心の穴は、ほんの少しだけ埋まった。
(必要とされてる)
その感覚が、何より嬉しかった。
でも、その穴は、本当には埋まらない。
仕事が終わって、誰もいない家に帰ると、また空っぽになる。
(私、何してるんだろう)
電子レンジが、チン、と鳴った。
温めた煮物を食卓に置き、翠は椅子に座った。
向かいの席には、誰もいない。
箸を取る。
「いただきます」
小さな声で言って、筑前煮を一口。
……おいしい。
雄一の味だ。
(ほんと、料理だけは)
そう思って、翠は苦笑した。
笑うと、右の口元にえくぼが浮かぶ。
(えくぼ、出てる)
鏡を見なくても、なんとなくわかる。
一人で笑って、一人で食べる。
寂しいはずなのに、妙に落ち着いている自分もいた。
(慣れてるから)
一人の夕食にも、夫の不在にも、連絡が来ない夜にも。
全部、慣れてしまった。
それが、悲しいのか、楽なのか、もうよくわからない。
夜の九時を回った頃。
翠は洗い物を終えて、リビングのソファでぼんやりしていた。テレビはついているが、内容は頭に入ってこない。
手元のスマホを、何度も確認する。
(着信、なし)
(メッセージ、なし)
(もう、今日もないか)
そう思った瞬間、スマホが震えた。
画面に浮かんだ名前——大隈雄一。
翠の心臓が、ドクン、と跳ねた。
(やっと)
電話だ。
翠は一瞬、指を止めた。
(出たら、なんて言おう)
怒る? 泣く? それとも、普通に「もしもし」?
迷っているうちに、着信音が二回、三回と鳴る。
(ダメだ、出ないと)
翠は通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
声が、少し震えていた。
「あ、翠? 俺」
雄一の声。久しぶりに聞く、低くて、少し掠れた声。
「……どこにいるの」
翠は、できるだけ感情を抑えて聞いた。
「あー、それがさ、ちょっと頼みがあるんだけど」
雄一は、翠の質問を無視した。
「頼みって、何よ。今、どこにいるの?」
「姉貴の息子、いるだろ。あいつがさ、家出してるんだよ。ちょっと、お前んとこで預かってくんない?」
雄一の言葉は、いつもこうだ。
こちらの話を聞かない。自分の話したいことだけを、一方的に並べる。
「え……姉さんの、息子って……」
翠は、雄一の姉のことを思い出そうとした。結婚式で一度会ったきりだ。ヒステリックで、でもどこか寂しそうな人だった。その息子は、たしか、まだ十代のはず。
「悪い、詳しいことはまた今度話す。とにかく、明日にはそっち行くように言ってあるから」
「ちょっと、雄一さん。今どこにいるのって、聞いてるでしょ!」
翠が声を荒げた、その瞬間。
ツー、ツー、ツー。
電話は、切れていた。
「……嘘でしょ」
翠はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
(今、切った?)
(私の話、聞かずに?)
怒りが、じわじわと腹の底から湧いてくる。
(何なの、この人)
(人に物を頼む態度?)
でも、その怒りの下から、別の感情も顔を出す。
(……よかった)
(生きてた)
(声が聞けた)
翠は、自分の中のその感情を、認めたくなかった。
認めたら、自分がどれだけ雄一に依存しているかを、突きつけられる気がしたから。
「……もう」
翠はスマホをソファに置き、両手で顔を覆った。
(怒ってるのに)
(安堵してる)
(情けない)
指の隙間から、ため息が漏れた。
窓の外で、ぽつり、と音がした。
翠は顔を上げた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
雨だった。
いつの間にか、空は厚い雲に覆われている。昼間の晴れ間は、もうどこにもない。
雨音が、静かな部屋に満ちていく。
翠は立ち上がり、窓に近づいた。
ガラスに手を触れると、ひんやりと冷たい。
(雨、か)
昼間、あんなに晴れてたのに。
梅雨の天気は、気まぐれだ。
翠は窓の外を見つめながら、さっきの電話の内容を反芻した。
(姉の息子)
(家出してる)
(明日、ここに来る)
何も知らない。
名前も、年齢も、どんな子かも。
ただ、雄一の姉の子供で、今、家に帰る場所がない。
それだけ。
(それだけで、十分か)
翠は、キッチンに戻った。
食卓には、まだ二つの茶碗が並んでいる。
向かいの席には、誰もいない。
でも、明日からは。
(もしかしたら)
翠は冷蔵庫を開け、残りの煮物のタッパーを取り出した。
(一人分じゃ、足りないかもしれない)
電子レンジに、もう一つ、セットする。
ブーンという音を聞きながら、翠は思った。
(私、何をしてるんだろう)
来るかどうかもわからない。
雄一の話が本当かどうかも、わからない。
なのに、夕食をもう一人分、用意しようとしている。
(でも)
(もし本当に来たら)
(お腹、空いてるかもしれない)
そう思ったら、体が動いていた。
面倒見がいい。
誰かが困っていると、放っておけない。
それが、大隈翠という人間だった。
(そして、それで、私は何度も痛い目を見てきた)
電子レンジが、チン、と鳴った。
翠は、温めた煮物を食卓に置いた。
湯気が立ちのぼる。
二つの茶碗。
二膳の箸。
二人分の夕食。
(明日、誰かが来る)
(たぶん)
(来る気がする)
雨音が、さっきより強くなっていた。
ザアザアと、窓を叩く。
翠は椅子に座り、向かいの空席を見た。
(どんな子なんだろう)
(男の子? 女の子?)
雄一は「息子」と言っていた。男の子だ。
(家出、か)
翠にも、家出をしたいと思った夜は、何度もあった。
でも、できなかった。
行く場所が、なかったから。
(この子も、行く場所がなかったのかもしれない)
だから、雄一が「預かってくれ」と言った。
(……雄一さんなりに、考えたの?)
そう思うと、少しだけ、雄一への怒りが和らいだ。
ほんの少しだけ。
翠は、箸を取った。
「いただきます」
一人分の声で、二人分の食卓に。
煮物を一口。
……おいしい。
やっぱり、雄一の味だ。
(明日、この煮物を、あの子も食べるのか)
(おいしいって、言ってくれるかな)
(言ってくれなくても、いいけど)
翠は、向かいの茶碗に、煮物を少しだけ取り分けた。
(いや、これは私が食べる分……)
そう思って、やめた。
(何やってるんだか)
苦笑する。
右の口元に、えくぼ。
雨は、まだ降り続いていた。
その夜、翠はなかなか寝つけなかった。
ベッドに入って目を閉じても、雨音が耳に張りついて離れない。
(明日、本当に来るのかな)
(来なかったら、どうしよう)
(来たら来たで、どうしよう)
ぐるぐると、同じことばかり考える。
(部屋、片付けなきゃ)
二階には、空き部屋が一つある。物置にしていたが、掃除すれば使える。
(シーツも、新しいのに替えて)
(枕は、あったかな)
(あ、歯ブラシも買わなきゃ)
翠は、明日の朝、まず何をすべきかを、頭の中でリストアップし始めた。
(何を張り切ってるんだ、私)
でも、体は正直だ。
心のどこかが、ざわざわと、でも嫌な感じじゃなく、落ち着かなくなっていた。
(来る、って)
(雄一さんが、そう言った)
(……信じていいのかな)
雄一の言葉は、これまで何度も裏切られてきた。
でも。
(今回だけは、本当かもしれない)
根拠はない。
ただ、そう思いたかった。
雨音が、ふと、遠くなった。
翠は目を開けた。
窓の外は、まだ暗い。
(今、何時?)
枕元のスマホに手を伸ばす。
画面をタップすると、時刻は午前二時を回っていた。
(眠れない)
翠は起き上がり、キッチンへ行った。
水を一杯飲む。
食卓には、二つの茶碗が、そのまま残っていた。
(片付けないと)
そう思いながら、翠は茶碗に触れた。
ひんやりと、冷たい。
(明日、この茶碗を、あの子が使うのか)
そう思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
(私、あの子の名前も知らないのに)
翠は、茶碗を二つ、重ねてシンクに運んだ。
蛇口をひねる。
水の音が、雨音と混ざる。
(名前、なんていうのかな)
(聞いてみよう)
(明日、もし来たら)
翠は、食器を洗いながら、小さく笑った。
(私、変なの)
夫に捨てられて、連絡もまともによこさないのに。
その夫の甥っ子を、何の疑問もなく受け入れようとしている。
(だって、行く場所がないんでしょ)
(それなら、ここにいればいい)
(ここは、私の家だもの)
翠は、洗った茶碗を水切りかごに置いた。
二つの茶碗が、並んで伏せられている。
その時。
ピンポーン、と。
玄関のチャイムが、鳴った。
翠の心臓が、ドクン、と跳ねた。
(え?)
午前二時。
こんな時間に、誰?
(まさか)
翠は、水を止めた。
雨音だけが、部屋に満ちている。
(今の、空耳?)
耳を澄ませる。
でも、チャイムは、もう鳴らなかった。
(……気のせい、か)
翠は、胸に手を当てた。
心臓が、まだ、バクバクしている。
(びっくりした)
(でも、今の音)
(確かに、聞こえた)
翠は、ゆっくりと玄関へ向かった。
廊下の電気をつける。
ドアの前に立つ。
覗き穴から、外を見た。
……誰もいない。
雨に濡れたアスファルトが、街灯の光を反射しているだけだ。
(やっぱり、空耳)
(眠くて、おかしくなってるのかも)
翠は、ドアチェーンを確認して、廊下の電気を消した。
(今日は、もう寝よう)
そう決めて、ベッドに戻る。
雨は、まだ降り続いていた。
翠は布団を被り、目を閉じた。
(明日)
(明日、来る)
(たぶん)
(来る気がする)
根拠はない。
でも、なぜか、そう確信していた。
(お腹、空かせて来るかな)
(煮物、温めよう)
(ごはんも、多めに炊いておこう)
(シフォンケーキ、焼いておこうか)
翠は、明日の朝の段取りを考えながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
雨音が、遠くなる。
遠くで、誰かの足音が聞こえた気がした。
でも、それは、夢の続きだったのかもしれない。
——翌日、少年が来る。
そのことを、翠はまだ知らない。
でも、彼女の心は、確かに、その来訪者を待っていた。
二つの茶碗は、静かに、その時を待っている。Noveliaとは?
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