おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜
東京郊外の小さな喫茶店「グリーンノート」を切り盛りする看護師・大隈翠。週末だけの店は、常連客の笑い声とコーヒーの香りに包まれ、静かに愛すべき時間が流れていた。けれど彼女の日常には、三日も連絡のない夫・雄一の不在という、小さな、そして大きな穴が空いている。誰かと食卓を囲みたい——その願いを抱えながら、今日も一人分の食卓に、二つの茶碗を並べてしまう翠。そんなある夜、雄一から一本の電話が。「姉の息子が家出してる。お前んとこで預かってくんない?」——名前も知らない少年との、突然の共同生活が始まる。夫の甥っ子と、その妻。血のつながりだけの、ぎこちない二人暮らし。食卓に並ぶ二つの茶碗が、いつか「当たり前」になる日は来るのか。寂しさを抱えた大人と、行く場所をなくした少年が、雨の夜に交差する。おやすみプンプン外伝、静かな雨の物語。
おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜 - なかったことにはできない―桜島の空港、愛子の待つ夏
違う、と思った。
頭では分かっている。もう逃げられない。あの夜のことを、なかったことにはできない。
翠は、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。白い画面に、青い文字が並んでいる。鹿児島行きの航空券。大人一枚、子供一枚。指先が、購入ボタンの上で、ほんの少し震えた。爪の先が、画面のガラスに、かすかに触れて、離れる。
(これで、本当に行くんだ)
病院には、休暇届を出した。外来の主任には、少しだけ驚かれた。翠が長く休みを取るのは、珍しいことだったからだ。でも、何も言わなかった。ただ、行ってらっしゃい、とだけ言われた。その言葉が、やけに胸に残った。主任の声の、乾いた響きが、まだ耳の奥にある。
指先に、力を込める。
タップ、という小さな音が、静かな居間に響いた。
「購入しました」
機械的な文字が、画面に浮かぶ。
翠は、ゆっくりと息を吐いた。肺の中の空気が、少しずつ、外へ出ていく。肩が、わずかに下がる。
(これで、戻れない)
(あの夜を、なかったことにしないための旅)
(私が、ちゃんと向き合うための)
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。夏の光。力強い、まぶしい光。光の筋が、畳の上に、まっすぐに落ちている。畳の目に沿って、光の縁が、くっきりと、浮かんでいた。
「行くなら、準備は、俺がするよ」
背後から、声がした。
翠は、振り返らなかった。スマートフォンを、ぎゅっと握りしめる。指先が、端末の角に、食い込んだ。親指の腹が、白くなる。
雄一が、居間の入り口に立っていた。銀縁の眼鏡をかけた、やつれた顔。黒髪に白髪が混じり始めた、無造作な短髪。唇は、いつものように、荒れていた。下唇の皮が、ところどころ、白くめくれている。
「荷物とか、店の手配とか。そういうの、得意じゃないだろ、君は」
雄一の声は、静かだった。でも、その静けさの中に、何か、必死なものを感じた。声の底に、細い糸のような、張り詰めたものが、通っている。
(この人も、何かを、抱えてる)
(私と同じように、あの夜のことを)
翠は、少しだけ、笑った。口元が、自然に、緩む。右の頬に、えくぼが浮かんだ。
「……ありがとう。助かるわ」
雄一は、うなずいた。視線が、翠の手元のスマートフォンに、一瞬、止まる。眼鏡のレンズが、朝の光を、白く反射した。
「それと、プンプンには、俺から、連絡する。君が、鹿児島に行くって、伝える」
翠は、首を振った。肩までの黒髪が、ゆるいパーマの波を描いて、揺れる。
「ううん。プンプンくんには、私から、伝える。まだ、勇気は、ないけど。でも、私が、ちゃんと、向き合わなきゃいけない相手だから」
雄一は、黙って、翠を見つめた。眼鏡の奥の目が、少しだけ、細くなる。その目は、何かを言いたげだった。でも、結局、何も言わなかった。喉のあたりが、一度、動いて、止まった。
「……そうか。分かった」
雄一は、それだけ言って、台所へ向かった。足音が、廊下に、遠ざかっていく。軋む板の音が、一つ、二つ、消えた。
翠は、再び、スマートフォンに、目を落とした。
画面の中で、二枚の航空券が、静かに、待っていた。
(行くのよ、私)
(あの子に、会いに)
(そして、あの夜の、本当の終わりを、迎えに)
閉店後のグリーンノートは、しんと静まり返っていた。
木造二階建ての小さな喫茶店。緑を基調とした内装には、所狭しと観葉植物が置かれている。一階の十二席は、昼間の賑わいが嘘のように、ひっそりとしていた。カウンターの上では、翠が丹精込めて育てているポトスが、つやつやとした葉を、蛍光灯の光に反射させている。葉の一枚が、エアコンの風に、かすかに震えた。
窓の外では、夏の夜が、住宅街の路地を、深い藍色に染めていた。
翠は、カウンターに立ち、最後の片付けをしていた。布巾で、何度も、カウンターの木目を拭く。木の感触が、指先に、ひんやりと、なじむ。拭いても、拭いても、指は同じ場所を、往復していた。
(もうすぐ、来る)
(プンプンくんと、南条さんが)
胸の奥が、ざわざわと騒いでいた。
(南条さんに、なんて言えばいいんだろう)
(プンプンくんを、鹿児島に連れて行くなんて)
(彼女は、きっと、いい顔をしない)
カランカラン、と、ドアベルが鳴った。
翠は、顔を上げた。布巾を握った手が、止まる。
入ってきたのは、南条だった。
肩で切りそろえた黒い髪。細い銀縁の眼鏡の奥で、切れ長の目が、静かに光っている。口元には、小さなほくろが一つ。痩せぎすの体を、濃紺のワンピースが、上品に包んでいた。背筋が、すっと伸びている。顎が、わずかに上がっている。
そして、南条の半歩後ろに、プンプンが立っていた。
ヒヨコの落書きのような、黄色くてふわふわした頭。黒い点のような目。くちばしのように尖った口。あの雨の夜、ずぶ濡れで玄関に立っていた時と、何も変わらない姿。
「こんばんは。大隈さん」
南条が、落ち着いた声で言った。声は、静かに、店内の空気に、広がった。
「こんばんは。わざわざ、来てもらって、ごめんなさいね」
翠は、笑顔を作った。でも、心の中は、緊張で、ぎゅっと縮こまっていた。頬の筋肉が、少し、引きつる。
「いえ。プンプンが、大隈さんと話したいことがあるって言うから」
南条は、プンプンを、ちらりと見た。その視線は、どこか、探るような、確認するような、複雑な色をしていた。
翠は、カウンターの奥から、二人の前に出た。床板が、足の裏に、固く返ってくる。
「あのね、プンプンくん。私、鹿児島に行くことにしたの。愛子さんに、会いに行くの」
翠は、まっすぐに、プンプンを見た。黒い点のような目が、翠を、じっと見つめ返している。
「それでね……一緒に、来てほしいの。あなたにも、愛子さんに、会ってほしいの」
翠の声は、少しだけ、震えていた。語尾が、空気に、溶けきらずに、落ちた。
(お願い)
(一緒に、来て)
(私一人じゃ、きっと、逃げ出してしまうから)
プンプンは、しばらく、沈黙した。
店内の空気が、張り詰める。
観葉植物の葉が、エアコンの風に、かすかに揺れた。ポトスの葉先が、小さく、震える。
(ダメ、かな)
(やっぱり、迷惑、かな)
翠の心臓が、早鐘を打つ。鼓動が、耳の奥で、鳴っている。
(南条さんと、一緒にいるのに)
(私が、彼を、連れ出すなんて)
(身勝手だって、分かってる)
でも、引くわけにはいかなかった。
これは、私の、けじめなのだ。
あの夜のことを、なかったことにしないための。
プンプンが、こくり、と、小さくうなずいた。
「……うん」
小さな、独白のような声。
でも、その声は、翠の胸に、はっきりと、届いた。
(よかった)
(来てくれるんだ)
翠は、ほっと息をついた。肩の力が、抜ける。指先から、力が、すっと、抜けていく。
その時、南条が、一歩、前に出た。靴の底が、床に、小さく鳴った。
「……そう。分かったわ」
南条の声は、静かだった。でも、その顔には、何か、言葉にできない感情が、かすかに浮かんでいた。口元のほくろが、わずかに、動く。
(寂しそう、なのかな)
(それとも、怒ってる?)
翠には、判断がつかなかった。
南条は、プンプンの方を見た。
「行ってらっしゃい。プンプン」
南条は、それだけ言うと、くるりと背を向けた。髪が、肩の上で、小さく、跳ねた。
「あ、南条さん……」
翠は、思わず、声をかけた。
(何か、言わなきゃ)
(でも、何を?)
(ありがとう? ごめんなさい?)
南条は、足を止めた。でも、振り返らなかった。背中が、ドアの方を、まっすぐに、向いている。
「気をつけて。……二人とも」
南条は、そう言い残すと、ドアを開けて、夜の路地へと消えていった。
カランカラン、と、ドアベルが、再び鳴る。
その音が、やけに、大きく、店内に響いた。余韻が、天井の梁に、吸い込まれていく。
翠は、南条の背中が見えなくなった後も、しばらく、ドアの方を、じっと見つめていた。ガラスの向こうに、藍色の夜が、広がっている。
(私、何か、間違ってる?)
(南条さんに、何も言えなかった)
(彼女は、プンプンくんの、何なんだろう)
(私には、分からない)
翠は、ゆっくりと、プンプンの方に向き直った。
プンプンは、変わらず、そこに立っていた。
黒い点のような目が、翠を、見上げている。
「……行こうか、プンプンくん。明日、早いから、今日は、もう、帰って、休もうね」
翠は、できるだけ、優しい声で言った。
プンプンは、また、こくりと、うなずいた。
飛行機の中は、ひんやりとしていた。
翠は、窓際の席に座り、外の景色を眺めていた。
一面の、雲の海。
白い、ふわふわとした雲が、どこまでも、どこまでも、続いている。太陽の光が、雲の表面に反射して、まぶしい。
(きれい)
(何もかも、忘れてしまいそうなくらい)
翠は、目を細めた。まぶたの裏に、光の残像が、しばらく、焼きついていた。
隣の席では、プンプンが、無言のまま、同じように、窓の外を眺めていた。黄色くてふわふわした頭が、窓ガラスに、小さく映っている。
(プンプンくんは、何を考えてるんだろう)
(愛子さんのこと?)
(南条さんのこと?)
(それとも、私のこと?)
翠は、プンプンの横顔を、そっと見た。
黒い点のような目は、相変わらず、何の感情も読み取れない。
でも、その目が、ほんの少しだけ、遠くを見ているように感じた。
(愛子さんに、訊いてみよう)
(彼女のこと、知ってるかどうか)
翠は、意を決して、口を開いた。
「ねえ、プンプンくん。愛子さんって、どんな子なの? あなた、彼女のこと、知ってるんでしょ?」
プンプンは、ゆっくりと、翠の方を向いた。
でも、何も言わなかった。
ただ、首を、横に振った。ふわふわの頭が、小さく、揺れる。
(知らない、ってこと?)
(それとも、話したくない、ってこと?)
翠は、それ以上、聞くことができなかった。
(無理に、聞き出すのは、やめよう)
(彼にも、彼の、事情がある)
翠は、再び、窓の外に目をやった。
雲の海が、少しずつ、薄くなっていく。
機内アナウンスが、間もなく、鹿児島空港に到着する、と告げた。
翠は、胸の奥で、何かが、ぎゅっと、音を立てるのを感じた。
(もうすぐ、着く)
(愛子さんに、会える)
(あの夜のことを、知っている、少女に)
愛子からの手紙の、あの一行が、頭の中に、浮かび上がる。
『翠さん、あの夜のことを覚えていますか?』
(覚えている)
(忘れたことなんて、一度もない)
(あの夜のことは、私の、罪だから)
翠は、ぎゅっと、両手を、膝の上で、握りしめた。
爪が、手のひらに、食い込む。
少し、痛い。
でも、その痛みが、心のざわつきを、ほんの少しだけ、落ち着かせてくれた。
鹿児島空港のロビーは、夏の日差しで、明るく照らされていた。
大きなガラス窓の向こうに、雄大な山が見える。
桜島。
愛子から送られてきた写真に写っていた、あの、桜島。
山頂から、白い噴煙が、ゆっくりと、立ち上っている。青い空に、その白い煙が、くっきりと、映えていた。
(あの写真と同じ)
(ここに、愛子さんが、いるんだ)
翠は、窓の近くまで歩いていき、桜島を、じっと見つめた。
夏の日差しが、ガラス越しに、肌を刺す。
(来てしまった)
(本当に、来てしまった)
(もう、後戻りは、できない)
翠は、深呼吸をした。
肺の中に、空港の、乾いた空気が、流れ込む。
(向き合うの)
(あの夜を、なかったことにしない)
(全部、ちゃんと、見つめるの)
翠は、ゆっくりと、目を開けた。
視界に、桜島が、大きく、広がっていた。
「プンプンくん、迎えに来てくれる人が、いるはずなんだけど……」
翠は、プンプンに声をかけた。
プンプンは、翠の隣に立っていた。黄色くてふわふわした頭が、ロビーの人混みの中で、ひときわ、目立っている。
(どこかしら)
(愛子さん、来てくれるって、連絡があったけど)
翠は、ロビーを見回した。
旅行客、家族連れ、ビジネスマン。
様々な人々が、行き交っている。キャリーケースの車輪が、床のタイルの上で、小さな音を立てていた。
でも、愛子らしき少女の姿は、見当たらなかった。
(もしかして、まだ、来てないのかな)
翠は、スマートフォンを取り出し、時間を確認した。
約束の時間は、とっくに過ぎている。
(どうしよう)
(連絡してみようか)
その時、背後から、声がした。
「あの、大隈翠さん、でいらっしゃいますか?」
翠は、振り返った。
そこに立っていたのは、初老の女性だった。
年の頃は、六十代だろうか。白髪交じりの髪を、後ろで、きっちりと束ねている。深い皺の刻まれた、穏やかな顔立ち。でも、その目は、どこか、疲れているように見えた。まぶたの下に、薄い影が、落ちている。
着ているものは、地味な色の、夏の着物だった。
「はい。大隈ですが……」
翠は、少し、戸惑いながらも、答えた。
「私は、愛子の叔母で、宮田と申します。愛子に頼まれて、お迎えに上がりました」
宮田と名乗る女性は、丁寧に、お辞儀をした。背中の線が、きれいに、折れる。
(愛子さんの、叔母さん?)
(愛子さん本人は、来てないの?)
翠の胸に、小さな不安が、芽生えた。
「あの……愛子さんは、どちらに?」
翠は、恐る恐る、訊ねた。
宮田は、一瞬、言葉を詰まらせた。着物の袖のあたりに、指が、行く。
「それが……愛子は、今日は、家を、空けられない事情がありまして。代わりに、私が、民宿まで、ご案内させていただきます」
宮田の声は、申し訳なさそうだった。声が、少し、乾いていた。
(家を、空けられない事情)
(どういう、事情?)
翠の頭の中に、雄一から聞いた、愛子の境遇が、蘇ってきた。
(愛子さんの、お母さんは、足が不自由で)
(愛子さんを、肉体的にも、精神的にも、虐待していた)
(愛子さんは、そのお母さんの、身の回りの世話を、ずっと、させられていた)
翠は、背筋に、冷たいものが、走るのを感じた。
(そうか)
(愛子さんは、まだ、あの家に、縛られているんだ)
(お母さんの、そばに、いなきゃいけないんだ)
翠は、愛子が置かれた状況の、過酷さを、改めて、思い知った。
十六歳の少女が、虐待する母親の、世話を、し続けている。
逃げ出すことも、助けを求めることも、できない。
(なんて、ひどい)
(なんて、残酷な)
翠の胸に、怒りと、悲しみが、同時に、込み上げてきた。
でも、今は、それを、表に出してはいけない。
「そう、ですか……。お気遣い、ありがとうございます。では、お願いしても、よろしいでしょうか」
翠は、なんとか、笑顔を作った。
宮田は、ほっとしたように、うなずいた。
「はい。車を、用意してあります。こちらへ」
宮田が、先に立って、歩き出した。
翠は、プンプンの方を向いた。
「行こう、プンプンくん」
翠が、そう言って、一歩、踏み出そうとした時。
プンプンが、足を止めた。
「……?」
翠が、振り返る。
プンプンは、空港の出口で、立ち止まっていた。
そして、小さな手を、翠の方に、差し出した。
「……手」
小さな、独白のような声。
翠は、一瞬、何のことか、分からなかった。
でも、すぐに、理解した。
(手を、繋ぎたいの?)
(プンプンくんが、私と?)
翠の胸が、どきり、と、高鳴った。
(この子は、いつも、そうだった)
(言葉の代わりに、手を、差し出す)
(あの夜も、そうだった)
翠は、そっと、プンプンの手を、握った。
小さくて、温かい手。
あの夜と、同じ、感触。
プンプンは、ぎゅっと、翠の手を、握り返した。
その力は、驚くほど、強かった。
(この子、こんなに、力が強かったのね)
(それとも、これが、彼の、精一杯の、勇気なの?)
翠は、プンプンの手の温もりに、勇気をもらった。
(大丈夫)
(一人じゃない)
(この子が、一緒に、いてくれる)
翠は、プンプンの手を、握り返した。
そして、二人は、空港の出口へと、歩き出した。
車は、海沿いの道を、走っていた。
窓の外には、夏の海が、きらきらと、輝いている。
遠くに、桜島が、大きく、そびえていた。
白い噴煙が、ゆっくりと、空に、溶けていく。
翠は、後部座席で、窓の外を眺めていた。
プンプンは、隣の席で、無言のまま、同じように、桜島を見つめている。
「愛子は、翠さんに、手紙を、お送りしたそうですね」
運転席の宮田が、ぽつりと、言った。
「ええ。鹿児島の、風景写真と一緒に」
翠は、答えた。
「あの写真は、私が、撮ったんです。愛子が、どうしても、翠さんに、送りたいって、言うものですから」
宮田の声は、静かだった。
(この人が、あの写真を)
(愛子さんが、どうしても、私に?)
翠は、宮田の言葉を、反芻した。
「愛子は、あの子の母親に、ずっと、苦しめられてきました。心も、体も、ぼろぼろになるまで」
宮田は、前を向いたまま、訥々と、語り始めた。
「愛子の母親は、ある宗教に、のめり込んでいて……そのせいで、足も、悪くしてしまって。それから、愛子に、辛く当たるようになったんです」
翠は、黙って、宮田の話を聞いていた。
(宗教)
(雄一さんから、聞いたわ)
(愛子さんのお母さんは、何かの、新興宗教の信者で)
(愛子さんを、身の回りの世話をさせるために、監禁同然に、していたって)
「愛子は、それでも、母親を、見捨てられないんです。あの子は、優しすぎるから」
宮田の声が、少し、震えた。ハンドルを握る指に、力が、こもる。
「でも、最近、愛子は、よく、翠さんのことを、話すようになりました。翠さんに、会って、謝りたいって」
翠は、息を呑んだ。
(謝りたい?)
(愛子さんが、私に?)
(どうして?)
(謝るのは、私の方なのに)
(あの夜のことを、知っているのは、私と、プンプンくんだけ)
(愛子さんが、私に、謝ることなんて、何もないはず)
翠は、混乱した。
「愛子さんは、どうして、私に、謝りたいなんて、言ってるんですか?」
翠は、思わず、訊ねていた。
宮田は、バックミラー越しに、翠を、ちらりと見た。鏡の中で、目が、一瞬、合う。
「それは……私にも、よく分からないんです。でも、愛子は、『翠さんに、会って、ちゃんと、話をしなきゃいけない』って、そればかり、言っていました」
翠は、言葉を失った。
(愛子さんは、何を、知っているの?)
(あの夜のことを、どこまで?)
(そして、私に、何を、謝ろうとしているの?)
車内に、重苦しい沈黙が、流れた。
エアコンの音だけが、低く、響いている。
その時、翠のスマートフォンが、震えた。
ブー、ブー、ブー。
翠は、バッグから、スマートフォンを取り出した。
画面に、着信が表示されている。
南条。
(南条さんから、電話)
(どうして?)
翠の指が、一瞬、止まった。
(出なきゃ)
(でも、今、この状況で、南条さんと、何を話せばいいの?)
翠は、画面を見つめたまま、動けなかった。
着信音が、車内に、響き続ける。
プンプンが、翠のスマートフォンを、じっと見ていた。
黒い点のような目が、画面に、映っている。
「……出ないの?」
プンプンが、小さく、呟いた。
翠は、はっとして、プンプンの顔を見た。
「……今は、出られないわ。ごめんね」
翠は、スマートフォンを、バッグに戻した。
着信音が、ようやく、止んだ。沈黙が、車内に、戻ってくる。エアコンの風が、首筋に、かすかに、触れた。
(南条さん、ごめんなさい)
(今は、愛子さんのことで、頭がいっぱいなの)
(あなたと、話せる状態じゃ、ないの)
翠は、窓の外に、目をやった。
桜島が、さっきよりも、近くに見える。
その雄大な姿が、翠の心を、静かに、揺さぶっていた。
(この旅は、きっと、もっと大きな秘密への、入り口だ)
(愛子さんが、なぜ、あの夜のことを、知っているのか)
(その謎を解く鍵が、鹿児島の、古い民宿にある)
翠は、直感した。
プンプンが、小さく、息を吐いた。
その吐息は、車内の空気に、静かに、溶けていった。
車は、海沿いの道を、さらに、南へと、進んでいく。
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