おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜
東京郊外の小さな喫茶店「グリーンノート」を切り盛りする看護師・大隈翠。週末だけの店は、常連客の笑い声とコーヒーの香りに包まれ、静かに愛すべき時間が流れていた。けれど彼女の日常には、三日も連絡のない夫・雄一の不在という、小さな、そして大きな穴が空いている。誰かと食卓を囲みたい——その願いを抱えながら、今日も一人分の食卓に、二つの茶碗を並べてしまう翠。そんなある夜、雄一から一本の電話が。「姉の息子が家出してる。お前んとこで預かってくんない?」——名前も知らない少年との、突然の共同生活が始まる。夫の甥っ子と、その妻。血のつながりだけの、ぎこちない二人暮らし。食卓に並ぶ二つの茶碗が、いつか「当たり前」になる日は来るのか。寂しさを抱えた大人と、行く場所をなくした少年が、雨の夜に交差する。おやすみプンプン外伝、静かな雨の物語。
おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜 - 愛子からの手紙―暴かれた夜の秘密
違う、と思った。
頭では分かっている。雄一が帰ってきて、もう二週間になる。それなのに、二人の間には、何かが、ずっと横たわったままだった。
翠は、閉店後のグリーンノートのカウンターに立ち、手にした布巾で、何度も同じ場所を拭いていた。木目の模様が、拭いても拭いても、同じところに戻ってくる。
木造二階建ての小さな喫茶店。緑を基調とした内装には、所狭しと観葉植物が置かれている。窓の外では、夏の夕暮れが、住宅街の路地を、うす暗い色に染めていた。最寄り駅から徒歩八分。ひだまり通り商店街の、少し外れた静かな場所。
(雄一さん、今日は、何時に帰ってくるのかしら)
そう考えて、すぐに、その考えを打ち消した。
(帰ってきても、きっと、何も話さない)
(おかえりなさい、おかえり、それだけ)
(あとは、沈黙)
翠は、布巾をカウンターに置いた。布巾の端が、ぴたりと、木に吸い付くように止まった。
ため息が、自然に漏れた。
二週間前、泥だらけのスーツで帰ってきた雄一。鹿児島中央行きの切符の半券。そして、あの日、郵便受けに入っていた、差出人不明の封筒。
「愛子」
その二文字が、頭の隅に、ずっと、こびりついていた。
(まだ、開けられてない)
(開けるのが、怖い)
翠は、エプロンのポケットに手を入れた。指先が、布の縫い目を、なぞる。
封筒の硬い感触は、もうなかった。
あの日、店の準備をしながら、結局、封筒を開けられなかった翠は、それを二階の住居にある、自分の部屋の引き出しにしまった。鍵をかけて。
(今日こそ、開けなきゃ)
(でも、まだ、開けられない)
(どうして、こんなに、怖いんだろう)
答えは、分かっていた。
(あの夜のことが、書いてある気がする)
(そんな気がして、仕方ない)
翠は、首を振った。
(考えすぎよ)
(ただの、いたずらか、間違いかもしれない)
(そうよ、きっと、そう)
心の中で、そう言い聞かせた。
でも、胸の奥の、ざわざわした感覚は、消えなかった。
店の片付けを終え、翠は二階へ上がった。
木造の階段が、ぎし、ぎし、と軋む。三段落ちるたびに、手すりを握る指に、力がこもった。
居間のドアを開けると、雄一が、ソファに座っていた。
銀縁の眼鏡をかけた、やつれた顔。黒髪に白髪が混じり始めた、無造作な短髪。唇は、いつものように、荒れていた。ストレスで、噛み続けているからだ。
雄一は、新聞を読んでいた。ページをめくる音が、規則正しく、部屋に落ちる。
翠が入ってきても、顔を上げなかった。
(また、これ)
(同じ部屋にいるのに、別の世界にいるみたい)
翠は、台所に立ち、夕食の準備を始めた。
冷蔵庫を開ける。中には、雄一が作った煮物が、まだ残っていた。鍋の縁に、醤油の膜が、輪を描いている。
(料理だけは、上手いのよね)
(この人)
翠は、煮物の入った鍋を、コンロにかけた。
火をつける。
青い炎が、鍋の底を舐める。
しばらくして、醤油と砂糖の、甘い匂いが、台所に広がった。換気扇の下で、湯気が、渦を巻いて、吸い込まれていく。
翠は、茶碗を二つ、食卓に並べた。陶器が、木の天板に触れて、こつ、と鳴る。
(二人分)
(でも、心は、一人分)
(いつから、こんな風になっちゃったんだろう)
翠は、菜箸で、煮物をかき混ぜた。
大根が、くずれそうなくらい、柔らかくなっていた。
「ごはん、できたわよ」
翠は、居間に声をかけた。
雄一は、新聞から顔を上げた。
「……ああ、ありがとう」
短い返事。新聞が、膝の上で、半分に折られた。
二人は、食卓に向かい合って座った。
いただきます、の言葉もなく、箸を取る。
沈黙。
時計の秒針の音だけが、部屋に響く。
カチ、カチ、カチ。
翠は、煮物を口に運んだ。大根が、舌の上で、ほろりと崩れる。
(おいしい)
(この人の作る煮物は、いつも、おいしい)
(なのに、どうして、こんなに、味がしないんだろう)
翠は、ごはんを、ゆっくりと噛んだ。米粒の一粒一粒が、口の中で、別々の感触を残す。
雄一は、うつむきながら、黙々と食べていた。箸が、茶碗の縁に、当たる。
(何か、話したい)
(でも、何を話せばいいの)
(この二週間、ずっと、こんな感じ)
(聞きたいことは、山ほどあるのに)
(どこに行ってたの? 何をしてたの? あの切符は何?)
(でも、聞けない)
(聞いたら、この人は、また、どこかへ行ってしまう)
(そんな気がして、怖い)
翠は、箸を置いた。箸先が、茶碗の上で、くるりと、回る。
「……お茶、いる?」
「……ああ、もらおうかな」
翠は、立ち上がり、急須に茶葉を入れた。
お湯を注ぐ。
湯気が、ふわりと立ち上る。茶葉が、急須の中で、ゆっくりと、開いていく。
(お茶を入れる、それだけのことが、なんだか、とても大事なことに思える)
(この人と、私をつなぐ、たった一つの、細い糸みたい)
翠は、湯呑みを二つ、食卓に置いた。湯呑みの底から、じんわりと、熱が、指先に伝わる。
「熱いから、気をつけてね」
「ありがとう」
雄一は、湯呑みを、両手で包み込んだ。
その指先が、かすかに震えているように見えた。湯気の向こうで、眼鏡のレンズが、曇る。
(この人も、何かに、怯えてる)
(何に?)
(私に? それとも、自分自身に?)
翠は、自分の湯呑みを、口元に運んだ。
熱いお茶が、喉を、ゆっくりと流れていく。食道が、じわりと、温まった。
翌日。
翠は、開店準備をしていた。
土曜日。グリーンノートの、週末だけの営業日。
シャッターを開ける。金属の擦れる音が、朝の路地に、響き渡る。
朝の光が、店内に差し込む。観葉植物の葉が、一斉に、光を弾いた。
翠は、コーヒーミルを回し始めた。
豆を挽く音が、静かな店内に響く。
ガリガリ、ガリガリ。手のひらに、豆の硬さが、伝わってくる。
いつもの、朝の音。
いつもの、朝の匂い。
(今日も、一日、頑張ろう)
(お客さん、来てくれるかしら)
(佐伯さん、元気かしら)
(シフォンケーキ、ちゃんと焼けてるかしら)
翠は、オーブンを予熱し始めた。赤いランプが、点灯する。
その時、カランカラン、とドアベルが鳴った。
翠は、顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
声をかけて、息が止まった。
入ってきたのは、プンプンだった。
ヒヨコの落書きのような、黄色くてふわふわした頭。黒い点のような目。くちばしのように尖った口。
そして、その隣に、南条が立っていた。
肩で切りそろえた黒い髪。細い銀縁の眼鏡。切れ長の目。口元の小さなほくろ。痩せぎすの体を包む、濃紺のワンピース。
背筋が、すっと伸びている。
(また、この二人)
(プンプンくんと、南条さん)
翠の胸が、きゅう、と音を立てた。肋骨の内側で、何かが、小さく、縮こまる。
「おはようございます。大隈さん」
南条が、落ち着いた声で言った。
「おはようございます。南条さん。プンプンくんも、おはよう」
翠は、笑顔を作った。口元を持ち上げる。右の頬に、えくぼが浮かぶ。
(大丈夫)
(私は大丈夫)
心の中で、呪文のように繰り返す。
プンプンは、小さく、こくり、と頭を下げた。
「……おはよう」
小さな、独白のような声。その声が、翠の耳の奥で、ふわりと、ほどける。
翠は、その声を聞いただけで、胸が、じわりと温かくなるのを感じた。
(ああ、この子は、相変わらずだ)
(変わってない)
(よかった)
「今日は、お二人で、お食事でも?」
翠は、カウンターの奥から、二人を席に案内した。
窓際の、二人がけのテーブル。プンプンの頭が、窓の光を、黄色く透かす。
南条が、先に座り、プンプンが、その向かいに座った。椅子の脚が、床を、こすった。
「コーヒーを二つ、お願いします。それから、シフォンケーキも」
「かしこまりました」
翠は、カウンターに戻り、コーヒーを淹れ始めた。
サイフォンに火を入れる。ガラスの球の中で、お湯が、ゆっくりと持ち上がっていく。水面が、膨らんで、細い管を、駆け上がる。
(南条さん、今日も、きれいだな)
(知的で、落ち着いてて、プンプンくんと、お似合い)
(……お似合い)
(そう、お似合いなの)
(なのに、どうして、こんなに、胸が苦しいの)
翠は、コーヒーを、カップに注いだ。濃い、苦い香りが、店内に満ちる。鼻腔の奥が、つんと、刺激された。
翠は、二人のテーブルに、コーヒーと、切り分けたシフォンケーキを運んだ。皿の縁で、フォークが、かちりと鳴る。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
南条は、コーヒーを一口飲んだ。カップが、ソーサーに戻る。かちゃ、という音が、やけに、澄んで聞こえた。
「……おいしい。大隈さんのコーヒーは、本当に、ほっとします」
「ありがとうございます。南条さんにそう言っていただけると、嬉しいわ」
翠は、微笑んだ。
(この人の笑顔も、素敵)
(敵わないな)
(私なんか、全然)
プンプンは、シフォンケーキを、黙って食べていた。フォークで、小さく切って、口に運ぶ。その仕草が、なんだか、とても愛おしかった。
(プンプンくん、このケーキ、好きだったのよね)
(前に、おかわりしてくれた)
(あの時、嬉しかったな)
翠は、カウンターの奥で、二人の様子を、そっと見守っていた。布巾を握る手に、自然と、力が入る。
しばらくして、南条が、翠を手招きした。白い指が、ゆっくりと、宙を泳ぐ。
「大隈さん、少し、お話があるんです」
翠は、心臓が、どくん、と跳ねた。胸の内側で、鼓動が、一段、大きくなる。
(お話?)
(何かしら)
(嫌な予感がする)
翠は、ゆっくりと、二人のテーブルに近づいた。一歩ごとに、床板が、きしむ。
「はい、何でしょう」
南条は、少しだけ、言いにくそうに、口を開いた。
「実は、プンプンが、今日から、私の家に、完全に移ることになったんです」
翠の、時間が止まった。
(え?)
(今、なんて?)
(プンプンくんが、南条さんの家に、移る?)
(完全に?)
翠は、笑顔を保とうとした。口角が、ぴくりと、引きつる。
でも、口元が、うまく動かなかった。
「……そう、なんですね」
やっとのことで、それだけ言った。声が、喉の奥で、かすれた。
南条は、うなずいた。
「ええ。プンプン自身が、そうしたいと言ってくれて。私も、彼の意思を尊重したいと思っています」
翠は、プンプンを見た。
プンプンは、うつむいていた。黒い点のような目が、何を見ているのか、分からない。
(プンプンくんが、自分から)
(そう、決めたの)
(私の家じゃなくて、南条さんの家を、選んだの)
翠の胸の奥で、何かが、静かに、崩れ落ちた。音もなく、砂のように、さらさらと。
(引き止めたい)
(行かないで、って、言いたい)
(ここにいて、って、叫びたい)
(でも、言えるわけない)
(私に、そんな資格、ない)
(私は、この子の、何でもないんだから)
翠は、ぎゅっと、エプロンの端を握りしめた。爪が、手のひらに食い込む。布越しに、皮膚が、つるりと滑る。
痛い。
でも、その痛みが、涙を、こらえさせてくれた。
「……そっか」
翠は、笑った。
今までで、一番、上手に、笑った。頬の筋肉が、少しだけ、震えた。
「プンプンくんが、自分で決めたことなら、それが、一番いいのよ。南条さん、プンプンくんのこと、よろしくお願いしますね」
南条は、深々と、頭を下げた。髪の毛が、肩から、さらりと、滑り落ちる。
「ありがとうございます。大隈さんには、本当に、感謝しています。プンプンを、あたたかく迎え入れてくださって」
「そんな、私の方こそ、プンプンくんには、助けてもらってばかりで」
翠は、声が震えないように、必死に、言葉を紡いだ。一音、一音を、確かめるように、口から、押し出す。
(お世話になったのは、私の方)
(あの夜、寂しさで、どうにかなりそうだった私を、救ってくれたのは、プンプンくんだった)
(でも、そんなこと、言えるわけない)
(墓場まで、持っていく秘密)
(なかったことに、した秘密)
南条は、立ち上がった。椅子が、床を、引きずられる。
「それでは、私たち、そろそろおいとまします。お会計をお願いします」
「はい、ありがとうございました」
翠は、レジに向かった。指先が、レジのボタンの上で、一瞬、止まる。
会計を済ませ、二人は、店の入り口に向かった。
プンプンが、翠の前で、立ち止まった。
そして、何も言わずに、翠の手を、一度だけ、ぎゅっと握った。
小さな、温かい手。指の腹が、翠の手のひらに、そっと、重なる。
翠の、右手。あの夜、握り返したのと、同じ手。
(あの夜、握ってくれたのと、同じ手)
(同じ温かさ)
翠の、涙腺が、決壊しそうになった。目の奥が、熱くなる。
でも、泣かなかった。
泣けなかった。
プンプンは、翠の手を離すと、小さく、頭を下げた。
「……ありがとう」
小さな、独白のような声。
それだけ言って、プンプンは、南条の後を追って、店を出て行った。
カランカラン。
ドアベルが、静かに鳴った。鈴の音が、店内の空気を、揺らして、消えた。
翠は、その場に、立ち尽くしていた。
(行っちゃった)
(プンプンくん、行っちゃった)
(今度こそ、本当に、行っちゃった)
翠の手が、震えていた。さっきまで、プンプンの温もりがあった場所が、急に、冷たくなった。指の先から、体温が、逃げていく。
(私、この子の、何だったんだろう)
(ただの、叔父の妻)
(少しの間、一緒に住んでいただけの、大人)
(それだけ)
(それだけなのに、どうして、こんなに、苦しいの)
翠は、カウンターに手をついて、必死に、体を支えた。木の縁が、手のひらに、食い込む。
深呼吸を、何度も、繰り返した。吸って、吐いて、吸って、吐いて。
(大丈夫)
(大丈夫よ)
(これで、よかったの)
(プンプンくんは、南条さんと、幸せになるの)
(だから、これで、よかったの)
翠は、自分に、そう言い聞かせた。
でも、心の奥底では、違う声が、叫んでいた。
(行かないで)
(私を、置いていかないで)
(一人に、しないで)
翠は、なんとか、閉店まで、店を開け続けた。
幸い、客足は、まばらだった。
翠は、笑顔で接客した。レジを打つ指は、いつも通りに、動いていた。
でも、心は、空っぽだった。胸の真ん中に、風穴が、開いたままだった。
夕方になり、店を閉めた。
シャッターを下ろす。
ガラガラガラ。
重い音が、路地に響く。金属の波板が、夕暮れの光を、一枚ずつ、遮っていく。
翠は、店の前の、郵便受けを、何気なく開けた。
新聞と、数枚のチラシ。紙の擦れる音が、指先で、ささやく。
それから、一通の、封筒。
翠の、心臓が、止まった。
クリーム色の、上品な封筒。表には、宛先だけが、達筆で書かれている。
「大隈翠 様」
裏返す。封筒の角が、指先に、少しだけ、引っかかる。
差出人の欄には、たった二文字。
「愛子」
(また)
(また、この手紙)
(前回と同じ、差出人)
翠の指先が、かすかに震えた。封筒が、指の間で、かさり、と鳴る。
(前回の手紙は、まだ、開けられていない)
(部屋の引き出しに、しまったまま)
(なのに、また、届いた)
(どうして?)
(私に、何の用?)
翠は、封筒を、エプロンのポケットに、押し込んだ。布が、封筒の形に、膨らむ。
(今度こそ、開けなきゃ)
(開けて、確かめなきゃ)
(この人が、誰で、何を伝えたいのか)
翠は、二階へ上がり、自分の部屋に入った。
鍵をかける。錠前が、ぱちん、と、乾いた音を立てた。
引き出しから、前回の封筒を取り出す。木の引き出しが、すうっと、滑る。
二通の封筒が、並んだ。クリーム色が、二つ、横たわる。
どちらも、差出人は、愛子。
翠は、深呼吸をした。肺の底まで、空気を、ゆっくりと、送り込む。
そして、前回の封筒を、ゆっくりと、開けた。封の糊が、ぱりぱりと、剥がれていく。
中から出てきたのは、一枚の写真と、一枚の便箋。
写真は、鹿児島の、桜島を望む海岸線。古い民宿風の建物が、ぽつんと、写っていた。海の色が、写真の中で、深く、沈んでいる。
便箋には、たった一行。
『翠さん、あの夜のことを覚えていますか。』
翠の、手が、震えた。便箋の端が、指先で、細かく、揺れる。
(あの夜)
(あの夜の、こと)
(この人は、知ってる)
(私と、プンプンくんの、秘密を)
(どうして)
(どうして、知ってるの)
翠は、便箋を、ぎゅっと握りしめた。紙が、くしゃり、と音を立てる。しわが、指の形に、残った。
次に、今日届いた、二通目の封筒を開けた。
中には、同じように、写真と、便箋。写真は、前回とは、違う場所。でも、同じ鹿児島の、海辺の風景。波の白い線が、写真の端で、途切れている。
便箋には、今度は、少し長い文章が、書かれていた。
『翠さん、お手紙、読んでいただけましたか。』
『私は、あなたと、お話がしたいです。』
『あの夜のことを、知っています。』
『プンプンくんのことも、知っています。』
『私は、田中愛子と申します。』
『プンプンくんの、元同級生です。』
『どうか、私に、連絡をください。』
『鹿児島で、お待ちしています。』
翠は、便箋を、床に落とした。ひらり、と、白い紙が、舞い落ちる。床板の上で、ゆっくりと、止まった。
(田中愛子)
(プンプンくんの、元同級生)
(この子が、あの夜のことを、知ってる)
(なんで)
(なんで、この子が)
翠の、呼吸が、荒くなった。胸が、苦しい。空気が、うまく、吸えない。喉の奥で、息が、詰まる。
(どうして)
(どうして、知ってるの)
(あの夜のことは、私と、プンプンくんだけの、秘密のはずなのに)
(プンプンくんが、誰かに、話したの?)
(まさか)
(あの子が、そんなこと、するはずがない)
(じゃあ、なんで)
翠は、床に座り込んだ。膝が、床に、どさりと、落ちる。
体が、がくがくと、震える。歯の根が、合わない。
恐怖が、足元から、這い上がってくる。冷たい手が、ふくらはぎを、掴んで、上ってくる。
(この子は、何者なの)
(私に、何を、望んでるの)
(鹿児島で、待ってる?)
(私に、来いって、言うの?)
翠は、両手で、自分の体を、抱きしめた。腕が、背中に、回る。
それでも、震えは、止まらなかった。
その夜。
翠は、居間のソファに、座っていた。
雄一は、まだ、帰っていなかった。時計の針が、十一時を、指していた。
(今日は、遅いのね)
(大学で、何か、あるのかしら)
(それとも、また、どこかで、誰かと)
翠は、首を振った。髪が、頬を、かすめる。
(今は、そんなこと、考えてる場合じゃない)
(愛子さんからの手紙)
(どうする?)
(雄一さんに、話す?)
(でも、話したら、あの夜のことも、話さなきゃいけなくなる)
(それは、できない)
(絶対に、できない)
翠は、唇を噛んだ。
下唇に、じわりと、血の味が広がる。鉄の味が、口の中に、滲む。
(でも、もう、限界かもしれない)
(一人で、抱えきれない)
(この秘密は、重すぎる)
(ずっと、ずっと、押しつぶされそうだった)
(雄一さんに、話したら、どうなる?)
(怒る? 悲しむ? それとも、また、いなくなる?)
(怖い)
(でも、このまま、隠し続けるのも、もう、無理)
翠は、決意した。
(話そう)
(今夜、雄一さんが帰ってきたら、全部、話そう)
(あの夜のことを、プンプンくんとのことを、愛子さんからの手紙のことを)
(もう、逃げない)
(私も、向き合わなきゃ)
翠は、震える手で、テーブルの上の、湯呑みを、握りしめた。
冷たい。指先に、陶器の冷たさが、じんわりと、伝わる。
お茶は、もう、すっかり、冷めていた。
深夜。
玄関のドアが、開く音がした。鍵が、回る音が、廊下に、響く。
翠は、ソファから、立ち上がった。足の裏が、床板に、ぴたりと、張り付く。
雄一が、疲れた顔で、入ってきた。ネクタイが、緩んで、首元で、垂れている。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
翠は、震える声で、そう言った。
雄一は、翠の様子が、いつもと違うことに、気づいたようだった。眼鏡の奥の目が、少しだけ、見開かれる。
「……どうしたんだい。顔色が、悪いよ」
翠は、うつむいた。視線が、床の木目を、追う。
「雄一さん。話したいことが、あるの」
雄一は、黙って、翠の前に、座った。ソファのスプリングが、きしむ。
翠は、深呼吸をした。心臓が、痛いくらいに、脈打っている。肋骨の内側で、鼓動が、反響する。
(言うのよ)
(今、言うの)
(もう、逃げない)
翠は、口を開いた。
「私、雄一さんに、ずっと、隠してきたことがあるの」
雄一は、何も言わずに、翠を見つめた。視線が、翠の顔に、まっすぐに、注がれる。
「あなたが、女の人と、一緒に、いなくなった夜。私、一人で、泣いてた。どうしようもなく、寂しくて、苦しくて。それで、プンプンくんの部屋のドアを、開けたの」
翠の声が、震える。言葉が、喉から、こぼれ落ちる。
「あの夜、私、プンプンくんと、一度だけ、関係を持ったの」
雄一の、表情が、変わった。眉が、ぴくりと、動く。
でも、翠は、続けた。
「次の朝、私、プンプンくんに、言ったの。このことは、なかったことにしましょう、って。笑顔で。大人の女の顔で。最低よね。私、あの子を、傷つけた。自分の罪から、逃げるために」
翠の目から、涙が、こぼれ落ちた。熱い涙が、頬を伝って、膝の上に落ちる。布団の上に、小さな染みが、広がった。
「ごめんなさい。雄一さん、ごめんなさい。私、あなたに、こんなことを、ずっと、隠してた。あなたが、どんなに苦しんでるか、知ってたのに。私も、同じように、あなたを、裏切ってた」
翠は、声を殺して、泣いた。肩が、震える。涙が、止まらない。
しばらく、沈黙が、続いた。時計の秒針だけが、部屋の中で、動いていた。
雄一は、何も言わなかった。ただ、じっと、翠を見つめていた。
やがて、雄一が、静かに、口を開いた。声は、低く、静かだった。
「……そうか」
その声は、驚くほど、穏やかだった。
「そうだったのか」
翠は、涙でぐちゃぐちゃの顔を、上げた。視界が、滲んで、雄一の輪郭が、ぼやける。
雄一は、銀縁の眼鏡の奥で、静かに、翠を見ていた。眼鏡のレンズに、照明が、小さく、映り込む。
「僕も、君に、隠してきたことがある」
翠は、息を呑んだ。喉の奥で、空気が、止まる。
(雄一さんも?)
(私に、隠してきたこと?)
雄一は、ゆっくりと、話し始めた。言葉を、一つずつ、選ぶように。
「僕は、失踪していた間、鹿児島にいたんだ」
翠の、心臓が、どくん、と跳ねた。胸の内側で、大きな音が、響く。
(鹿児島)
(あの切符の半券)
(やっぱり、そうだったんだ)
「そこで、一人の少女と、出会った。名前を、田中愛子といった」
翠の、呼吸が、止まった。肺が、膨らんだまま、止まる。
(田中愛子)
(あの手紙の、差出人)
(雄一さんが、あの子と、出会った?)
「彼女は、プンプンの、元同級生でね。プンプンの過去を、よく知っている子だった。それで、僕は、彼女に、君の住所を、教えたんだ」
翠は、声を、失った。口が、半分、開いたまま、動かない。
(雄一さんが)
(私の住所を、愛子さんに、教えた?)
(だから、あの手紙が、届いたの?)
「彼女は、プンプンに、ずっと、会いたがっていた。でも、プンプンの居場所が、分からなかった。それで、僕に、頼んできたんだ。プンプンを知っている人を、教えてほしいって。僕は、君のことを、話した。君なら、プンプンのことを、知っていると思ったから」
雄一は、うつむいた。視線が、床に、落ちる。
「ごめん。勝手なことをした。君に、何の相談もなく」
翠は、しばらく、言葉を、見つけられなかった。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。怒り。悲しみ。混乱。感情が、渦を巻いて、胸の中で、ぶつかり合う。
そして、その奥に、奇妙な、安堵感。胸の奥が、ふっと、軽くなる感覚。
(ああ、そうだったんだ)
(私の秘密は、もう、私だけのものじゃなかったんだ)
(雄一さんも、知ってたんだ)
(愛子さんも、知ってたんだ)
(プンプンくんも、知ってた)
(私だけが、知らないふりをして、隠してた)
(ずっと、一人で、抱えてるつもりでいた)
(でも、本当は、みんな、知ってたんだ)
翠の、涙が、また、溢れてきた。頬を、伝って、顎から、落ちる。
でも、今度は、さっきと、違う涙だった。温かくて、少しだけ、軽い。
「……ずるいよ」
翠は、震える声で、言った。
「雄一さん、ずるいよ。私だけが、悪者みたいじゃない」
「……ああ、そうだね。僕も、ずるい」
雄一は、静かに、うなずいた。首が、ゆっくりと、動く。
「でも、私も、ずるい」
翠は、涙を、手の甲で、乱暴に拭った。肌が、少しだけ、赤くなる。
「お互い、ずるいの。だから、おあいこね」
翠は、泣きながら、笑った。口元が、震えながら、上がる。
雄一は、その顔を、じっと、見つめていた。眼鏡の奥の目が、少しだけ、柔らかくなる。
「……君を、許せるかどうか、分からない」
雄一は、ぽつりと、言った。声が、少しだけ、掠れる。
「でも、一緒に、謝りたい。あの子に。愛子さんに。そして、プンプンに」
翠は、うなずいた。涙が、また、一つ、落ちる。
「……うん。私も、そう思う」
二人は、初めて、同じ方向を、向いた。
ぎこちない、ぎくしゃくした、でも、確かな、一歩。
「なかったことには、できないね」
翠は、呟いた。声が、静かに、部屋に、溶けていく。
「ああ、できない」
雄一も、うなずいた。
「だから、向き合わなきゃ。全部」
翠の声は、まだ、震えていた。
でも、その目は、もう、迷っていなかった。視線が、まっすぐに、前を、向いていた。
翌朝。
翠は、店のカウンターで、スマートフォンを、じっと見つめていた。
画面には、鹿児島行きの、航空券の検索結果。青い文字が、白い画面に、並んでいる。
(行こう)
(鹿児島へ)
(愛子さんに、会いに行こう)
(そして、プンプンくんにも、ちゃんと、話をしよう)
(なかったことには、できないから)
(全部、向き合うの)
翠は、カウンターの上に置いた、一枚の写真を、手に取った。
桜島を望む、鹿児島の海岸線。古い民宿風の建物。写真の端が、指先で、少しだけ、反る。
(ここに、愛子さんが、いる)
(この写真の、どこかに)
翠は、写真を、ぎゅっと、握りしめた。写真の角が、手のひらに、食い込む。
「向き合わなきゃ」
小さく、自分に、言い聞かせた。
その時、背後で、声がした。
「行くなら、準備は、俺がするよ」
翠は、振り返った。椅子が、きしむ。
雄一が、居間の入り口に、立っていた。シャツの袖が、肘のところで、くしゃりと、折られている。
「荷物とか、店の手配とか。そういうの、得意じゃないだろ、君は」
翠は、少しだけ、笑った。口元が、自然に、緩む。
「……ありがとう。助かるわ」
雄一は、うなずいた。視線が、翠の手元の写真に、一瞬、止まる。
「それと、プンプンには、俺から、連絡する。君が、鹿児島に行くって、伝える」
翠は、首を振った。髪が、肩の上で、揺れる。
「ううん。プンプンくんには、私から、伝える。まだ、勇気は、ないけど。でも、私が、ちゃんと、向き合わなきゃいけない相手だから」
雄一は、黙って、翠を見つめた。眼鏡の奥の目が、少しだけ、細くなる。
「……そうか。分かった」
雄一は、それだけ言って、台所へ向かった。足音が、廊下に、遠ざかっていく。
翠は、再び、スマートフォンに、目を落とした。
画面の中で、鹿児島行きの飛行機が、静かに、待っていた。
(行くのよ、私)
(あの子に、会いに)
(そして、あの夜の、本当の終わりを、迎えに)
翠は、ゆっくりと、息を、吐き出した。肺の中の空気が、少しずつ、外に、出ていく。
窓の外では、夏の朝が、きらきらと、輝いていた。光が、葉の隙間から、こぼれ落ちてNoveliaとは?
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