おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜
東京郊外の小さな喫茶店「グリーンノート」を切り盛りする看護師・大隈翠。週末だけの店は、常連客の笑い声とコーヒーの香りに包まれ、静かに愛すべき時間が流れていた。けれど彼女の日常には、三日も連絡のない夫・雄一の不在という、小さな、そして大きな穴が空いている。誰かと食卓を囲みたい——その願いを抱えながら、今日も一人分の食卓に、二つの茶碗を並べてしまう翠。そんなある夜、雄一から一本の電話が。「姉の息子が家出してる。お前んとこで預かってくんない?」——名前も知らない少年との、突然の共同生活が始まる。夫の甥っ子と、その妻。血のつながりだけの、ぎこちない二人暮らし。食卓に並ぶ二つの茶碗が、いつか「当たり前」になる日は来るのか。寂しさを抱えた大人と、行く場所をなくした少年が、雨の夜に交差する。おやすみプンプン外伝、静かな雨の物語。
おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜 - 雨夜の訪問者―ヒヨコの落書きのような少年
違う、と思った。
頭では分かっている。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
翠は食卓の前に座ったまま、じっと自分の手元を見つめていた。白い湯気が、目の前の茶碗から細く立ち上っている。二人分の煮物。二人分の箸。二人分の茶碗。
(また、やってしまった)
雄一が帰ってくるかもしれないから、と自分に言い訳をして、つい二人分の食事を用意してしまう。三日前から連絡のない夫を待つことは、もはや習慣を通り越して、彼女の体に染みついた癖になっていた。
窓の外では、朝方から降り出した雨が、夜になってもまだやむ気配を見せない。ざあざあと、一定のリズムで雨音が部屋に流れ込んでくる。東京郊外の住宅街にあるこの喫茶店「グリーンノート」は、木造二階建ての小さな店だ。一階の店舗は十二席。最寄り駅から歩いて八分の路地裏にひっそりと建っている。二階が住居になっていて、翠はここで一人、夫の帰りを待つ夜を何度も過ごしてきた。
(一人で食べるごはんは、どうしてこんなに味がしないんだろう)
翠は箸を置いた。
昼間、あおば総合病院の外来で、何人もの患者に「ありがとう」と言われた。そのたびに、心の奥の穴がほんの少しだけ埋まる気がした。でも、家に帰って一人になると、その穴は元通りどころか、もっと深くなっているように感じる。
(誰かの役に立てるって、幸せなことのはずなのに)
(でも、本当は)
(私が、誰かに必要とされたいだけなのかもしれない)
幼い頃の記憶が、ふと浮かんだ。
共働きの両親はいつも遅くて、夕飯は一人で食べることが多かった。電子レンジで温めたおかずと、炊飯器のごはん。テレビの音だけが響く食卓。
(あの頃から、ずっと)
(私は一人でごはんを食べるのが、怖いんだ)
翠は立ち上がり、冷蔵庫から煮物の入った鍋を取り出した。雄一が最後に作ってくれた煮物。彼は料理だけは上手い。大根に味が染みていて、里芋も柔らかい。こんなものを作っておいて、どうして黙っていなくなるのか。
(優しいのよ、本当は)
(でも、その優しさは、いつも途中で消える)
鍋をコンロにかけ、火をつける。青い炎が鍋底を包む。翠はその火を見つめながら、雄一からの電話を思い出していた。
——姉の息子を少し預かってくれないか。家出してるんだ。
それだけ言って、一方的に切れた電話。
(家出してるって、どういうこと?)
(その子は今、どこにいるの?)
(どうして、詳しいことを何も言わないの?)
問い返そうとした瞬間には、もう通話は終わっていた。かけ直しても、出なかった。
(雄一さんは、いつもそう)
(大事なことほど、曖昧にして逃げる)
翠は、無意識のうちに左の手首をさすっていた。看護師時代にできた小さな火傷の跡。古い傷なのに、雨の日は少しだけ疼く。
(雨のせいかな)
(それとも、心のせい?)
煮物が温まるまで、あと少し。
翠は食卓に戻り、二つの茶碗を並べ直した。
——ピンポーン。
突然のチャイムの音に、翠の肩が跳ねた。
(え?)
時計を見る。午後八時を回ったところだ。こんな時間に、誰かが訪ねてくる予定はない。
(雄一さん……?)
(でも、彼は鍵を持ってるはず)
ピンポーン。
もう一度、チャイムが鳴る。今度は、さっきより少しだけ間が短かった。
(誰かが、雨の中、玄関の前に立ってる)
翠はゆっくりと玄関へ向かった。古い木造の家は、足音がよく響く。ぎし、ぎし、と廊下が軋んだ。
(覗き穴から、確認しないと)
ドアの前で、翠は一度だけ深呼吸をした。それから、そっと覗き穴に目を近づける。
……暗くて、よく見えない。
雨のせいで、外灯の光もぼやけている。
(でも、確かに、誰かいる)
(小さい、人影)
翠はドアチェーンを外し、鍵を回した。
ゆっくりと、ドアを開ける。
雨の匂いが、一気に流れ込んできた。湿った空気と、土の匂いと、夜の冷たさ。
そして、そこに立っていたのは——
ヒヨコの落書きのような姿の、少年だった。
翠は、しばらくの間、言葉を失った。
(え……?)
目が二つの点で、口はくちばしのように尖っている。頭は黄色くて、ふわふわした毛で覆われているように見える。体つきは細くて、華奢だった。
(この子……)
(雄一さんが言ってた、甥っ子……?)
少年は、傘も持たずに立っていた。
雨に濡れて、黄色い頭の毛が、ぺったりと張り付いている。服もずぶ濡れで、体の輪郭がはっきりと浮き出ていた。肩が、小刻みに震えている。
(寒いよね)
(こんなに濡れて)
(いつから、あの電話の後から?)
翠は、自分が何を考えるよりも先に、口を開いていた。
「プンプン……くん?」
少年は、小さくうなずいた。
それだけだった。
雨の音が、二人の間に流れる。
(やっぱり、そうなんだ)
(雄一さんが言ってた、甥っ子のプンプンくん)
翠は、少年の姿をまじまじと見つめた。
(ヒヨコの落書きみたい、って、こういうことなのね)
(でも、不思議。全然、怖くない)
(むしろ、放っておけない)
「……とりあえず、中に入って。風邪をひいちゃうわ」
翠はドアを大きく開け、体を横にずらした。
プンプンは、少しの間、その場に立ち尽くしていた。
黒い点のような目が、じっと翠を見つめている。
(何か、言いたいのかな)
(でも、言葉が出てこないのかもしれない)
翠は、無理に話しかけようとは思わなかった。
ただ、待った。
雨の匂いと、夜の静けさと、少年の存在。
やがて、プンプンは、ゆっくりと一歩を踏み出した。
玄関のタイルに、濡れたスニーカーの足跡がつく。
「よく来たわね」
翠は、自分でも驚くほど自然に、そう言っていた。
(ああ、そうか)
(私は、この子を待ってたんだ)
プンプンは、また小さくうなずいた。
——翠は、少年を家に上げた。
タオルを何枚も持ってきて、プンプンの体を拭いた。
「はい、これ。髪、拭いてあげるから、ちょっと屈んでくれる?」
プンプンは、黙って頭を下げた。
翠は、黄色い頭の毛を、柔らかいタオルで丁寧に包み込む。
(ふわふわしてる)
(見た目より、ずっと柔らかい)
タオル越しに伝わる体温は、思ったよりも冷たかった。
「すごく冷えてる。お風呂、沸かそうか?」
プンプンは、首を横に振った。
「……大丈夫」
声を聞いたのは、それが初めてだった。
小さくて、かすれた声。雨の音に消えてしまいそうなくらい、頼りない声。
(この子、声が出せるんだ)
(よかった)
「そう? でも、せめて着替えは必要ね。今、何か持ってくるから、ちょっと待ってて」
翠は、夫の部屋から、まだ着られる服を探してきた。
雄一の服は、どれも少し大きい。でも、濡れた服のままよりはましだ。
「これ、雄一さんの服だけど……ごめんね、女物はないの。これで我慢してくれる?」
プンプンは、服を受け取ると、こくりと頷いた。
「着替えは、そこの部屋で。洗面所も使っていいからね」
翠は、プンプンを脱衣所へ案内し、自分は台所へ戻った。
(スープを作ろう)
(温かいもの、食べさせてあげたい)
冷蔵庫を開ける。玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、ベーコン。
(この材料なら、簡単な野菜スープが作れる)
翠は、手早く野菜を切り始めた。
看護師の仕事で培った手際の良さが、こんな時にも役に立つ。
(この子、お腹空いてるかな)
(何日も、まともなもの食べてないかもしれない)
包丁が、まな板の上で軽快な音を立てる。
(家出してるって、雄一さんは言ってた)
(どうして家出なんて)
(何があったの?)
聞きたいことは山ほどあった。
でも、今は、温かいものを食べさせることが先だ。
(話は、それからでいい)
(焦らない)
翠は、鍋に野菜と水を入れ、コンロに火をつけた。
しばらくして、プンプンが台所に現れた。
雄一の服は、やはり大きすぎて、肩のあたりがだらりと垂れている。袖も余っていて、手が隠れてしまっていた。
(なんだか、着られているみたい)
(でも、それがまた、放っておけない感じになる)
「あら、似合ってるわよ。ちょっと大きいけど」
翠が笑うと、プンプンは、少しだけ首をすくめた。
「今、スープ作ってるから。もう少し待っててね」
プンプンは、食卓の椅子にちょこんと座った。
背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いている。
(緊張してるんだわ)
(無理もない)
(知らない人の家に、突然来たんだもの)
翠は、スープをかき混ぜながら、チラリとプンプンを見た。
(でも、不思議)
(知らない人のはずなのに、なぜか、懐かしい感じがする)
(……私、この子のこと、どこかで見たことがあるのかしら)
そんなはずはない。
雄一の甥っ子に会うのは、今日が初めてだ。
(気のせいね)
翠は、スープの味を確かめた。
塩とコショウを少し足す。
「はい、お待たせ。熱いから、気をつけてね」
翠は、湯気の立つスープを、プンプンの前に置いた。
白い湯気が、少年の顔の前でゆらゆらと揺れる。
プンプンは、スプーンを手に取った。
(食べるかな)
翠は、自分の分のスープを持って、向かい側に座った。
プンプンは、スプーンでスープをすくうと、ゆっくりと口に運んだ。
——その瞬間だった。
プンプンの小さな体が、ふるりと震えた。
(あ)
翠は、その震えを見逃さなかった。
(今、震えた)
(寒さのせい? それとも)
(……嬉しい、の?)
プンプンは、何も言わなかった。
ただ、もう一口、スープをすくって、口に運ぶ。
また、ふるり、と震えた。
(この子、今、泣きそうになってるのかもしれない)
(でも、泣き方がわからないんだ)
翠の胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
(私、今、この子のために何かできてる)
(温かいスープを作って、差し出して)
(それだけで、この子の体が震えるほど、嬉しいんだ)
自分が誰かの役に立てた。
そのことが、翠の心の穴を、ほんの少しだけ、温かいもので満たしてくれた。
(ああ、そうか)
(私、こういう時間が欲しかったんだ)
翠は、自分もスープを一口飲んだ。
(美味しい)
(誰かと一緒に食べると、こんなに美味しい)
雨の音が、遠くで聞こえる。
二人の間に、会話はほとんどなかった。
でも、翠は、不思議と寂しくなかった。
(この子がここにいるだけで)
(この部屋の空気が、変わった気がする)
翌朝、翠は早くに目が覚めた。
(今日は、病院の日)
(でも、その前に、やることがある)
翠は、まず雄一のスマホに電話をかけた。
プルルル……プルルル……
何度コールしても、出ない。
留守番電話に切り替わる。
「……雄一さん、私です。プンプンくん、来てくれたわ。だから、安心して。……できれば、一度でいいから、電話に出て」
翠は、通話を切った。
(やっぱり、出ない)
(でも、伝えることは伝えた)
ため息を一つついて、キッチンへ向かう。
(お弁当、作らないと)
(プンプンくんの分も)
翠は、冷蔵庫から卵とウインナーを取り出した。
卵焼きを作り、ウインナーを炒め、昨日の煮物の残りを小さなタッパーに詰める。
(男の子だし、もっと量がいるかしら)
ごはんを多めに詰めて、のりを敷く。
(私、お母さんみたいなことしてる)
そう思うと、なんだかくすぐったい気持ちになった。
翠は、弁当を包みながら、リビングで眠るプンプンをちらりと見た。
(昨夜は、結局、ソファで寝ちゃったのね)
毛布をかけてあげたのは、夜中に一度起きた時だった。
(よく眠ってる)
(よかった)
翠は、プンプンを起こさないように、静かに身支度を整えた。
(病院に行く前に、ちゃんと話しておかないと)
翠は、リビングのテーブルに、メモを置いた。
『おはよう。お弁当、冷蔵庫に入ってるから、温めて食べてね。
鍵はテーブルの上に置いておくわ。出かける時は、必ず鍵をかけて。
何かあったら、この番号に電話して』
メモの下に、自分の携帯番号を書く。
(これで、大丈夫かしら)
翠は、もう一度、眠っているプンプンを見た。
(起こさないで行こう)
(昨日は、疲れてたはずだもの)
翠は、そっと玄関に向かった。
「……行ってきます」
誰に言うでもなく、小さく呟いて、ドアを閉めた。
外は、まだ小雨が降っていた。
あおば総合病院の外来は、今日も混んでいた。
「大隈さん、三番の患者さん、お願いします」
「はい、わかりました」
翠は、カルテを手に、診察室へ向かう。
白い廊下には、消毒液の匂いが漂っていた。
(仕事をしてる時は、余計なことを考えなくていい)
(でも、今日は)
診察の合間、ふとした瞬間に、翠の頭にプンプンの姿が浮かぶ。
(お弁当、食べてくれたかな)
(鍵、ちゃんとかけて出かけたかな)
(知らない家で、一人で、寂しくないかな)
「大隈さん、どうしたの? ぼーっとして」
「あ、すみません。大丈夫です」
翠は、慌てて笑顔を作った。
(いけない、仕事中に)
(集中しなきゃ)
でも、患者に「ありがとう」と言われるたびに、胸の奥がちくりと痛む。
(この感覚、なんだろう)
(患者さんに感謝されるのは、嬉しいはずなのに)
(今日は、それが、なんだか物足りない)
(……帰りたい)
(早く、あの子の顔が見たい)
翠は、自分の心の中に、そんな気持ちがあることに気づいて、戸惑った。
(私、あの子に会ったばかりなのに)
(どうして、こんなに気になるの?)
理由は、自分でもよくわからなかった。
(ただ、あの震える姿が、忘れられない)
(あの子、一人で、何を抱えてるんだろう)
翠は、次の患者を呼ぶために、深く息を吸った。
(今は、仕事)
(帰ったら、色々話を聞こう)
夕方、翠が家に帰ると、玄関の鍵はしっかりとかかっていた。
(ちゃんと、鍵かけて出たのね)
(えらい)
翠は、ほっとしながらドアを開けた。
「ただいま」
返事はない。
(出かけてるのかしら)
(それとも、寝てる?)
翠は、リビングを覗いた。
そこに、プンプンはいなかった。
(あれ?)
台所の方から、水の音が聞こえる。
翠は、そっと台所を覗いた。
——プンプンが、立っていた。
シンクの前に立って、黙って、茶碗を洗っている。
(え……)
翠は、一瞬、言葉を失った。
プンプンの小さな手が、スポンジを握って、茶碗をこすっている。
朝、翠が使った茶碗と、プンプンが使った茶碗。
二つの茶碗が、きれいに洗われて、水切りかごに並べられていく。
(この子、洗い物をしてくれてる)
(誰に言われたわけでもないのに)
翠の胸の奥が、じわりと温かくなった。
(ああ、そうか)
(この子は、こういう子なんだ)
(言葉で「ありがとう」が言えない分、こうやって体で返すんだ)
翠は、声をかけずに、その背中を見つめていた。
小さくて、細い背中。
(この子、きっと、今までずっと、こうやって生きてきたんだ)
(何かしてもらったら、言葉じゃなくて、行動で返す)
(そうしないと、自分がここにいていい理由が、見つからないから)
翠は、無意識のうちに、自分の胸に手を当てていた。
(私と、似てる)
(私も、誰かの役に立たないと、自分に価値がないって思ってる)
(……この子も、同じなの?)
翠は、ゆっくりと台所に入った。
「ただいま。洗い物、してくれたの? ありがとう」
プンプンは、振り返って、小さくうなずいた。
「お弁当、食べた?」
プンプンは、また、うなずいた。
「そう。よかった。お腹、空いてるでしょ。今、ごはん作るから、座ってて」
プンプンは、手を洗って、食卓の椅子に座った。
翠は、エプロンをつけて、冷蔵庫を開けた。
(何を作ろう)
(昨日はスープだったから、今日は、もう少ししっかりしたもの)
翠は、豚肉と野菜を炒めることにした。
(野菜炒めと、味噌汁と、あと卵焼き)
手を動かしながら、翠は、雄一のことを聞こうかどうか迷っていた。
(聞きたい)
(でも、無理に聞き出すのは、よくない気がする)
(この子は、話したくないことを、無理に聞かれるのが一番つらいはず)
翠は、野菜を炒めながら、何気ない風を装って聞いた。
「ねえ、プンプンくん。雄一さんから、何か聞いてる?」
プンプンは、首を振った。
「そう……。雄一さん、今、どこにいるか知ってる?」
プンプンは、また、首を振った。
(知らないのね)
(この子も、雄一さんに、ろくな説明もされずにここに来たんだ)
翠は、唇を噛んだ。
(雄一さん、この子にまで、こんな無責任なことを)
でも、その怒りを、プンプンにぶつけるわけにはいかない。
「……そう。わかった。じゃあ、今日は、ごはん食べて、ゆっくり休みましょう」
翠は、笑顔を作った。
(私が、この子の前で、雄一さんの悪口を言っても仕方ない)
(それより、この子を安心させることが先)
食卓に、料理が並ぶ。
二人分の茶碗。二人分の箸。二人分の味噌汁。
(昨日までは、一人で食べてた)
(今日は、二人)
「いただきます」
プンプンも、小さく頭を下げた。
翠は、プンプンが食べる様子を、さりげなく観察した。
(ちゃんと食べてる)
(よかった)
プンプンは、無言で、でも、しっかりと食事を進めていた。
(この子と一緒に食べるごはんは、美味しい)
(不思議)
(会話なんて、ほとんどないのに)
翠は、自分でも気づかないうちに、微笑んでいた。
その夜。
翠が片付けを終えて、リビングで休んでいると、スマホが震えた。
(メール?)
翠は、スマホを手に取った。
差出人は、雄一。
心臓が、ドクン、と跳ねた。
(雄一さんからだ)
翠は、震える指で、メールを開いた。
『しばらく帰れない。すまない』
それだけだった。
(……それだけ?)
翠は、画面を見つめたまま、動けなくなった。
(しばらく帰れない)
(すまない)
(プンプンくんのことは?)
(私のことは?)
(何も、ないの?)
翠の手が、スマホを握りしめる。
(また、これ)
(また、同じ)
(いつも、いつも、いつも)
怒りと、悲しみと、諦めが、翠の胸の中で渦を巻いた。
(私、また、置いていかれた)
翠は、唇を噛みしめた。
「……またか」
声が、震えていた。
(また、なのね)
(私、何度、この気持ちを味わえばいいの?)
翠の視界が、にじんだ。
(泣いちゃだめ)
(プンプンくんが、いる)
翠は、必死に涙をこらえた。
その時、気配を感じて振り返ると、プンプンがリビングの入り口に立っていた。
(あ……)
プンプンは、何も言わずに、じっと翠を見つめていた。
黒い点のような目が、不安そうに揺れている。
(この子、心配してくれてる)
翠は、慌てて笑顔を作った。
「大丈夫よ。何でもないの。雄一さんから、メールが来ただけ。しばらく帰れないって」
自分でも、無理をしているのがわかった。
(こんな笑顔、この子に通じるわけない)
プンプンは、黙って、翠のそばに近づいてきた。
そして、そっと、翠の手を握った。
(え……)
小さくて、少し冷たい手だった。
「……大丈夫」
プンプンが、小さく呟いた。
(この子、今、「大丈夫」って言った)
(私が言おうとしてた言葉を)
翠の胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
(私、この子に、慰められてる)
翠は、涙をこらえきれなくなって、下を向いた。
「……ごめんね。私、大丈夫だから」
声が、震えた。
(だめだ、泣いちゃだめ)
(私が泣いたら、この子が困る)
翠は、プンプンの手を、ぎゅっと握り返した。
「……ありがとう。プンプンくんは、優しいのね」
プンプンは、何も言わなかった。
でも、その手は、離れなかった。
雨の音が、静かに、二人を包んでいた。
翌日、翠は、店の常連客・宍戸平六が訪ねてきたことに気づいた。
「おお、翠さん。今日は店、開いてないのか?」
宍戸は、店の前で、首をかしげていた。
「あら、宍戸さん。すみません、今日は定休日で……」
「そうか。いや、散歩がてらに来ただけだから、気にするな」
宍戸は、そう言って、にこにこ笑った。
(宍戸さん、いつも気にかけてくれてる)
宍戸平六は、この辺りで不動産屋を営む、極度のお人好しの老人だった。
プンプンが店の掃除を手伝っているのを見て、宍戸は目を細めた。
「おや、その子は?」
「ああ、えっと……親戚の子で、しばらく預かってるんです」
翠は、少し言いにくそうに説明した。
「そうか。可愛い坊やだなあ」
宍戸は、プンプンに手を振った。
プンプンは、ちらりと宍戸を見ただけで、また掃除に戻った。
(プンプンくん、人見知りなのね)
翠は、宍戸と少し世間話をした。
「そういえば、翠さん。最近、この辺りで、不審な男を見かけたって話があってな」
翠の心臓が、ドクン、と跳ねた。
「不審な男、ですか?」
「ああ。若い男で、夜中に、この路地をうろうろしてるらしい。住人の誰かが、警察に通報しようかって話してたんだ」
(不審な男……)
翠の頭に、プンプンの顔が浮かんだ。
(この子と、何か関係があるの?)
(それとも、雄一さんと?)
「……そうなんですね。気をつけます」
翠は、平静を装って答えた。
「ああ、特に若い女性は気をつけたほうがいい。翠さんも、夜は戸締まりをしっかりな」
「はい、ありがとうございます」
宍戸は、手を振って帰っていった。
翠は、店の前で、しばらく立ち尽くしていた。
(不審な男)
(プンプンくんが家出してる理由)
(雄一さんの失踪)
(何か、繋がってる?)
(……考えすぎかしら)
でも、心のどこかで、嫌な予感が消えなかった。
翠は、店内に戻り、プンプンを見た。
プンプンは、黙々と、床を掃除していた。
(この子は、何も知らないのかもしれない)
(でも、知ってるのかもしれない)
(私が守ってあげないと)
翠は、自分の中で、そんな決意が芽生えていることに気づいた。
(守る、なんて、大げさかもしれないけど)
(でも、この子が、一人で抱え込まなくていいように)
翠は、プンプンのそばにしゃがみ込んだ。
「プンプンくん。ここにいる間は、何も心配しなくていいからね。私が、ちゃんと面倒を見るから」
プンプンは、掃除の手を止めて、翠を見た。
黒い点のような目が、何かを言いたげに、揺れている。
「……だから、安心して。大丈夫よ」
翠は、微笑んだ。
右の口元に、えくぼが浮かぶ。
プンプンは、少しの間、翠の顔を見つめていた。
それから、小さく、うなずいた。
(うん、それでいい)
(今は、それで)
翠は、立ち上がって、カウンターへ向かった。
(コーヒーでも淹れよう)
(この子、コーヒー飲めるかしら)
(ミルクを多めに入れたら、飲めるかも)
翠は、豆を挽き始めた。
コーヒーの香りが、店内に広がる。
雨は、まだ、降り続いていた。
でも、その雨音は、昨日よりも、少しだけ優しく聞こえた。
(この子が来てから、この家の空気が変わった)
(一人じゃないって、こんなに心強いんだ)
翠は、カップにコーヒーを注ぎながら、そっと微笑んだ。
(ありがとう、プンプンくん)
(来てくれて、本当にありがとう)
その気持ちは、まだ、言葉にはできなかった。
でも、いつか、伝えられる日が来るかもしれない。
(それまで、私は、この子のそばにいよう)
翠は、そう、心の中で誓った。
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