おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜
東京郊外の小さな喫茶店「グリーンノート」を切り盛りする看護師・大隈翠。週末だけの店は、常連客の笑い声とコーヒーの香りに包まれ、静かに愛すべき時間が流れていた。けれど彼女の日常には、三日も連絡のない夫・雄一の不在という、小さな、そして大きな穴が空いている。誰かと食卓を囲みたい——その願いを抱えながら、今日も一人分の食卓に、二つの茶碗を並べてしまう翠。そんなある夜、雄一から一本の電話が。「姉の息子が家出してる。お前んとこで預かってくんない?」——名前も知らない少年との、突然の共同生活が始まる。夫の甥っ子と、その妻。血のつながりだけの、ぎこちない二人暮らし。食卓に並ぶ二つの茶碗が、いつか「当たり前」になる日は来るのか。寂しさを抱えた大人と、行く場所をなくした少年が、雨の夜に交差する。おやすみプンプン外伝、静かな雨の物語。
おやすみプンプン 外伝 〜翠の隠しごと〜 - 南条という女―泥だらけの帰宅者
違う、と思った。
頭では分かっている。プンプンくんに、ちゃんと面倒を見てくれる人がいる。それは、とても良いことのはずだ。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
翠は店のカウンターに立ち、閉店後の静かな店内を見渡した。
木造二階建ての小さな喫茶店「グリーンノート」。緑を基調とした内装には、所狭しと観葉植物が置かれている。一階の十二席は、昼間の賑わいが嘘のようにしんと静まり返っていた。窓の外では、夕方の光が住宅街の路地を橙色に染めている。
最寄り駅から徒歩八分。ひだまり通り商店街の喧騒から少し外れた、この静かな場所で、翠は一人、カウンターの木目を指先でなぞっていた。
(今日は、もう誰も来ない)
そう思った瞬間、カランカラン、とドアベルが鳴った。
翠は顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
声をかけてから、息が止まった。
入ってきたのは、プンプンだった。
ヒヨコの落書きのような、黄色くてふわふわした頭。黒い点のような目。くちばしのように尖った口。あの雨の夜、ずぶ濡れで玄関に立っていた時と、何も変わらない姿。
でも、違った。
プンプンの隣に、女が立っていた。
(この人が……)
翠は、その女から目が離せなくなった。
年の頃は、自分と同じか、少し上だろうか。肩で切りそろえた黒い髪。細い銀縁の眼鏡の奥で、切れ長の目が静かに光っている。口元には、小さなほくろが一つ。痩せぎすの体を、濃紺のワンピースが上品に包んでいた。
何より印象的だったのは、その佇まいだった。
背筋が、すっと伸びている。顎が、わずかに上がっている。店内の空気が、彼女が入ってきた瞬間、きゅっと引き締まったように感じた。
(きれいな人)
翠は、素直にそう思った。
でも、それと同時に、胸の奥が、ざわり、と波立った。
「こんにちは。大隈翠さん、でお間違いないですよね」
女は、落ち着いた声で言った。
「はい。私が大隈ですが……」
翠は、カウンターの奥から一歩前に出た。
「南条と申します。プンプンから、いつもお世話になっていると聞いていて、一度ご挨拶に伺わなければと思っていたんです」
南条。
その名前を聞いた瞬間、翠の頭の中で、何かがはっきりとした形を取った。
(ああ、この人が)
(プンプンくんを迎えに来た人)
(あの日、店に現れて、プンプンくんを連れて行った人)
翠は、笑顔を作った。
「こちらこそ、ご丁寧にありがとうございます。プンプンくんには、私の方こそ助けてもらってばかりで」
口元を持ち上げる。右の頬に、えくぼが浮かぶ。
(大丈夫)
(私は大丈夫)
心の中で、呪文のように繰り返す。
でも、視線は、どうしてもプンプンに吸い寄せられた。
プンプンは、南条の半歩後ろに立っていた。
黒い点のような目が、翠を見ている。
いや、見ているのかどうかも分からない。ただ、こちらを向いている。それだけ。
でも、翠には、その目が、何かを言いたげに見えた。
(プンプンくん)
(この一週間、どうしてたの)
(ちゃんと、ごはん食べてるの)
(あの夜のこと、まだ覚えてる?)
聞きたいことが、喉の奥まで込み上げてくる。
でも、聞けなかった。
聞いていい立場じゃない。自分は、この子の何でもない。ただの、叔父の妻で、少しの間、同じ家にいただけの大人だ。
「プンプン、こちらが大隈翠さん。君がお世話になった方だよ」
南条が、プンプンに優しく声をかけた。
その声の柔らかさに、翠の胸が、きゅう、と音を立てた。
(お世話になった方)
(……そう。私、この子にとっては、もう「お世話になった方」なのね)
プンプンは、南条の言葉に、こくり、と小さくうなずいた。
「……うん」
小さな、独白のような声。
翠は、その声を聞いただけで、泣きそうになった。
(どうして)
(どうして、こんなに苦しいの)
(この子が、ちゃんと誰かと一緒にいられて、良かったじゃない)
(良かったじゃないの)
翠は、エプロンのポケットの中で、指をぎゅっと握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
少し痛い。
でも、その痛みが、心のざわつきを、ほんの少しだけ、ごまかしてくれた。
「どうぞ、おかけになってください。コーヒーでもいかがですか。プンプンくんは、いつものココアでいいかしら」
翠は、なんとか、そう言った。
「ありがとうございます。では、ブレンドをいただきます」
南条は、窓際の二人がけの席に、優雅に腰を下ろした。
プンプンも、その向かいに座る。
翠は、カウンターの奥に戻り、サイフォンに火を入れた。
ガラスの球の中で、お湯がゆっくりと持ち上がっていく。豆を挽く音、湯の沸く音、店内に満ちていくコーヒーの香り。
(落ち着け)
(私は、ただの喫茶店の店主)
(お客様に、美味しいコーヒーを出す)
(それだけ)
翠は、手を動かしながら、自分に言い聞かせた。
でも、耳は、二人の会話を追っていた。
「学校は、どう? 少しは慣れた?」
「……うん。まあ」
「無理はしなくていいからね。行きたくない日は、休んでもいいんだよ」
「……ありがとう」
「それで、今日の夕飯は何が食べたい? この前、君が美味しそうに食べてたハンバーグ、また作ろうか」
「……うん。食べたい」
南条が、ふっと笑った。
口元のほくろが、わずかに動く。
「よかった。腕によりをかけて作るからね」
その笑顔は、翠に向けられたものではなかった。
でも、見てしまった。
南条が、プンプンにだけ見せる、柔らかい笑顔を。
プンプンが、南条の前では、少しだけ、普通の少年のように見えることを。
(ああ)
(この子は、この人の前では、ちゃんと笑えるんだ)
(私の前では、一度も、あんな顔、しなかったのに)
翠の指先が、かすかに震えた。
カップを棚から取り出す。
陶器の表面が、いつもより冷たく感じる。
(違う)
(違うでしょ、私)
(この子は、私の前でも、茶碗を洗ってくれた。手を握ってくれた。それで、十分だったじゃない)
(何を、嫉妬してるの)
翠は、心の中で、自分を叱った。
でも、胸のざわつきは、ちっとも治まらなかった。
コーヒーを淹れ終わり、カウンターから出て、二人の席に運ぶ。
「お待たせしました。ブレンドです。こちらは、プンプンくんのココア。今日は、マシュマロを浮かべてみたの」
翠は、笑顔でカップを置いた。
「まあ、可愛い。プンプン、良かったね」
南条が、プンプンに微笑みかける。
プンプンは、カップの中のマシュマロを、じっと見つめていた。
「……うん」
また、小さな声。
でも、その声は、翠に向けられたものではなくて。
翠は、そっと、カウンターに戻った。
背中に、二人の気配を感じる。
(大丈夫)
(大丈夫よ)
(私は、大人なんだから)
翠は、カウンターの下で、右手で左手の手首を、ぎゅっと握った。
左の手首には、看護師時代に負った、小さな火傷の跡がある。
その跡を、親指で、何度も、何度も、なぞった。
古い傷。
もう、痛くないはずの傷。
なのに、今は、そこが、ずきずきと疼くように感じた。
しばらくして、南条が、席を立った。
「ごちそうさまでした。とても美味しいコーヒーでした」
南条は、会計のために、カウンターへ歩いてきた。
プンプンも、その後ろに続く。
「ありがとうございます。お口に合って良かったわ」
翠は、レジを打ちながら、精一杯の笑顔を見せた。
「それから、大隈さん。本当に、ありがとうございました。プンプンのことを、親身になって見てくださって」
南条は、深々と頭を下げた。
「いえ……私、何もできなかったから。ただ、一緒にご飯を食べてただけだから」
翠は、慌てて言った。
「それが、どれだけ心強いことか。プンプン、君も、ちゃんとお礼を言いなさい」
南条に促されて、プンプンが、翠の方を向いた。
黒い点のような目が、翠の顔を、まっすぐに見る。
「……ありがとう」
たった一言。
でも、その声は、あの夜、リビングで手を握ってくれた時と同じ、静かで、温かい声だった。
(ああ)
(だめだ)
(泣きそう)
翠は、奥歯をぎゅっと噛みしめた。
「……うん。元気でね、プンプンくん」
笑顔。
右の頬に、えくぼ。
(これで、いい)
(これで、ちゃんと、お別れできる)
南条が、プンプンの手を取った。
プンプンは、抵抗しなかった。
二人は、店のドアへ向かって歩いていく。
カランカラン、とドアベルが鳴った。
南条が、振り返って、もう一度、軽く会釈をした。
プンプンは、振り返らなかった。
二人の後ろ姿が、夕暮れの路地に消えていく。
細い影が、二つ、並んで、ゆっくりと遠ざかる。
翠は、カウンターの奥で、立ち尽くしていた。
(行っちゃった)
(今度こそ、本当に、行っちゃった)
足の力が、抜けていく。
カウンターに手をついて、必死に体を支えた。
手が、震えている。
指先が、冷たい。
(なんで)
(なんで、私、こんなに震えてるの)
(この子は、私のものじゃない)
(最初から、分かってた)
(分かってたのに)
翠は、カウンターの下で、両手をぎゅっと握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
さっきよりも、ずっと強く。
皮膚が破れて、血が出るんじゃないかと思うくらい、強く。
(手放したくない)
心の奥底から、その声が、はっきりと聞こえた。
(プンプンくんを、手放したくない)
(あの子を、あの女の人に、渡したくない)
(私の、そばにいてほしい)
(私の、私の……)
そこまで考えて、翠は、はっと我に返った。
(何を考えてるの、私)
(あの子は、十五歳の子供よ)
(それに、あの夜のことは、なかったことにしたはずでしょ)
(私が、そう言ったのよ)
(私が、あの子を、突き放したのよ)
罪悪感が、どろりと、胸の底から湧き上がってきた。
黒くて、重くて、息ができないような、罪悪感。
翠は、カウンターに額を押し付けた。
ひんやりとした木の感触。
目を閉じる。
涙は、出なかった。
出る代わりに、胸の奥が、ぎしぎしと音を立てて、軋んでいた。
「あら、翠さん。まだ開いてたのね」
声がして、翠は、慌てて顔を上げた。
常連客の佐伯トキが、入口に立っていた。白髪まじりの髪をきっちりとまとめた、七十を過ぎた婦人だ。グリーンノートがまだ前の店主の頃から通ってくれている。
「佐伯さん。こんばんは。今、ちょうど閉めようとしてたところで……」
翠は、笑顔を作った。
(お願い)
(今は、誰とも話したくない)
(早く帰って)
心の中では、そう叫んでいた。
でも、佐伯は、カウンターの近くまで歩いてきて、首をかしげた。
「さっき、店の前で、若い女の人と、あのヒヨコちゃんが歩いてたけど。あの人、誰なのかしらね。ヒヨコちゃんの、お母さんかしら?」
ヒヨコちゃん。
佐伯は、プンプンのことを、そう呼んでいた。
「あの子、あんまり喋らないけど、可愛いわよねえ。今度、うちの孫と遊ばせたいわ」
佐伯は、にこにこと笑いながら、続けた。
「それで、あの女の人、ヒヨコちゃんの何なのかしらね。お姉さんって感じでもなかったし、まさか、恋人って歳でもないでしょう? でも、手、繋いでたわよ」
手を、繋いでいた。
その言葉が、翠の胸に、小さな棘となって刺さった。
(見ていたの)
(この人は、あの二人が手を繋いでいるところを、見ていたの)
(そう。あの二人は、手を繋ぐような関係なの)
(私とプンプンくんは、あの夜、一度だけ手を握っただけ)
(それだけ)
(それだけなのに)
翠は、笑顔のまま、佐伯に言った。
「さあ、私も詳しくは。プンプンくんの、お知り合いの方だと思いますけど」
「あら、そう。でも、良かったわねえ。あの子、一人で家出してきたって聞いてたから、心配してたのよ。ちゃんと面倒見てくれる人がいて」
佐伯は、安心したように言った。
「……ええ。本当に、良かったです」
翠は、そう答えるのが精一杯だった。
(良かった)
(良かったのよ)
(私も、そう思わなきゃ)
佐伯が帰った後、翠は、店のシャッターを下ろした。
ガラガラガラ、と音を立てて、外の光が遮断される。
店内が、一気に暗くなった。
翠は、暗い店内に、一人で立っていた。
観葉植物の葉が、薄暗がりの中で、静かに揺れている。
(手放したくない)
さっきの自分の声が、耳の奥で、こだましていた。
(私は、あの子を、手放したくないと思ってる)
(あの夜のことを、なかったことにしたくせに)
(大人のくせに)
(最低だわ)
翠は、ゆっくりと、二階への階段を上った。
木造の階段が、ぎし、ぎし、と軋む。
その音が、やけに大きく、静かな家に響いた。
居間のソファに座ると、体中の力が抜けていった。
(今日は、もう、何もしたくない)
(このまま、眠ってしまいたい)
翠は、目を閉じた。
暗闇の中で、南条の横顔と、プンプンの後ろ姿が、交互に浮かんでは消えた。
どれくらい、そうしていただろうか。
突然、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
翠の肩が、びくり、と跳ねた。
(こんな時間に、誰?)
時計を見る。
夜の九時を回っていた。
翠は、恐る恐る、玄関へ向かった。
ドアの覗き穴から、外を確認する。
外灯の下に、男が一人、立っていた。
泥だらけのスーツ。
やつれた顔。
銀縁の眼鏡。
(雄一さん……)
翠は、息を呑んだ。
一週間前、プンプンが出て行った夜に、突然帰ってきた夫。
その翌朝には、また、ふらりと家を出て行ってしまった。
「しばらく帰れない」という葉書を残して。
(また、帰ってきた)
(今度は、いつまでいるつもり?)
翠は、ゆっくりと、ドアを開けた。
「……ただいま」
雄一は、消え入りそうな声で言った。
頬がこけ、目の下には、濃い隈ができている。
髪は乱れ、無精ひげが伸び放題だった。
スーツは、泥と汗と、何か別の匂いで、ひどく汚れている。
(また、どこかで、倒れてたの?)
(それとも、女のところにでもいたの?)
翠は、何も言えなかった。
「おかえり」の一言が、喉に張り付いて、出てこない。
安堵と、怒りと、悲しみと、諦め。
色んな感情が、ぐちゃぐちゃに混ざって、言葉にならない。
「……入れてもらっても、いいかな」
雄一が、遠慮がちに言った。
翠は、黙って、体を横にずらした。
雄一は、泥のついた靴を脱ぎ、家に上がる。
泥のついた靴下が、廊下に汚い足跡を残していく。
(ああ、もう)
(せっかく掃除したのに)
そんな、どうでもいいことを、翠は思った。
雄一は、リビングまで来ると、きょろきょろと辺りを見回した。
「……プンプンは?」
翠は、答えなかった。
「……そうか。もう、いないのか」
雄一は、小さく呟いた。
「世話になったな」
それは、翠に対してではなく、もういないプンプンに向けて言っているようだった。
(世話になったな、じゃない)
(あの子を、私に押し付けたのは、あなたでしょ)
(何も説明しないで、一方的に電話してきて、一方的に切って)
(それで、今更、世話になったな、なの?)
翠の胸の中で、怒りが、ふつふつと煮え立ってきた。
でも、口から出たのは、怒りの言葉ではなかった。
「……お風呂、沸かしてくるわね」
翠は、そう言って、雄一に背を向けた。
(問い詰めたい)
(どこに行ってたの?)
(何をしてたの?)
(その泥だらけのスーツは何?)
(私のことは、何だと思ってるの?)
(どうして、何も言ってくれないの?)
問い詰めたい気持ちは、山ほどあった。
でも、問い詰めたところで、雄一は、いつものように、ごめんね、と繰り返すだけだ。
どうせ僕なんか、と、自分を責めるだけだ。
それで、結局、私が折れる。
(もう、疲れた)
(今日は、もう、何も聞きたくない)
翠は、浴室に向かいながら、そう思った。
風呂を沸かす音が、静かな家に響く。
ごぉぉ、という低い音。
翠は、台所に立ち、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
コップに注いで、一気に飲み干す。
冷たい液体が、喉を通り過ぎていく。
(落ち着け)
(私は、大丈夫)
(いつものこと)
(いつものことだから)
翠は、リビングに戻らず、寝室に直行した。
ベッドに倒れ込む。
天井を見つめる。
隣の部屋から、雄一の気配がする。
物音一つしない。
(きっと、ソファに座って、じっとしてるんだわ)
(あの人、いつもそう)
(帰ってくると、最初は、借りてきた猫みたいに静かになる)
(でも、そのうち、また、どこかへ行く)
(分かってる)
(分かってるのに)
翠は、目を閉じた。
涙は、出なかった。
もう、とっくに、枯れ果てていた。
深夜。
翠は、物音で目を覚ました。
隣の部屋から、かすかな寝息が聞こえる。
雄一は、ソファで眠っているようだった。
翠は、そっと、ベッドから起き上がった。
喉が渇いていた。
台所へ行こうとして、足を止めた。
リビングの床に、雄一のスーツが、脱ぎ捨てられていた。
泥だらけの、あのスーツ。
(洗濯しなきゃ)
(明日、洗おう)
翠は、スーツを拾い上げた。
ひどい匂いがした。
泥と、汗と、煙草と、それから、微かに、女物の香水の匂い。
(また)
(また、女のところにいたんだ)
翠の指が、スーツの生地を、ぎゅっと握った。
(分かってた)
(分かってたこと)
(なのに、なんで、こんなに)
翠は、ポケットの中身を確認するために、スーツのポケットに手を入れた。
ティッシュのゴミ。
レシート。
それから、一枚の、硬い紙切れ。
(何かしら)
翠は、それを取り出した。
切符の半券だった。
「鹿児島中央」
そう印字されている。
翠は、息を止めた。
(鹿児島)
(やっぱり、鹿児島に行ってたんだ)
(あの葉書の消印は、鹿児島だった)
(雄一さんは、鹿児島で、何をしてたの?)
(誰に、会ってたの?)
翠は、切符を裏返した。
そこには、雄一の名前と、日付が印字されていた。
(一昨日の日付)
(一昨日、鹿児島から帰ってきた)
(それで、今日、家に帰ってきた)
(一日、どこで何をしてたの?)
翠の頭の中で、様々な疑問が、渦を巻いた。
(この切符、どういうこと?)
(雄一さん、鹿児島に、何の用があったの?)
(まさか、女の人と、旅行にでも行ってたの?)
(それとも、何か、別の……)
翠は、切符を握りしめた。
硬い紙の角が、手のひらに食い込む。
痛い。
でも、その痛みが、頭を冷やしてくれた。
(明日、聞こう)
(この切符のことを、聞こう)
(今は、聞かない)
(今、聞いたら、きっと、私、何を言い出すか分からない)
翠は、切符を、自分の部屋の引き出しにしまった。
そして、スーツを洗濯機に放り込み、再び、ベッドに横になった。
でも、眠れなかった。
鹿児島、という言葉が、頭の中を、ぐるぐると回っていた。
翌朝。
翠は、ほとんど眠れないまま、朝を迎えた。
雄一は、まだ、ソファで眠っている。
翠は、静かに、一階へ降りた。
店の準備をしなければならない。
今日は、土曜日。
週末だけ営業している、グリーンノートの、開店日だった。
シャッターを開ける。
朝の光が、店内に差し込む。
翠は、郵便受けを確認した。
新聞と、数枚のチラシ。
それから、一通の封筒。
(あら、手紙)
翠は、封筒を手に取った。
クリーム色の、上品な封筒。
表には、宛先だけが、達筆で書かれている。
「大隈翠 様」
裏返す。
差出人の欄には、たった二文字。
「愛子」
翠は、首をかしげた。
(愛子……?)
(誰かしら)
(知り合いに、愛子さんなんて、いたかしら)
翠は、封筒を開けようとした。
指先が、封筒の口にかかる。
その瞬間、手が止まった。
(なんでかしら)
(なんだか、嫌な予感がする)
(この手紙、開けちゃいけない気がする)
根拠は、なかった。
でも、胸の奥が、ざわざわと騒いでいた。
(鹿児島)
(雄一さんが、鹿児島にいた)
(この手紙の差出人は、愛子)
(何か、関係があるの?)
(まさか、ね)
翠は、封筒を、エプロンのポケットにしまった。
(後で、読もう)
(今は、店の準備をしなきゃ)
翠は、カウンターに立ち、コーヒーミルを回し始めた。
豆を挽く音が、静かな店内に響く。
いつもの、朝の音。
いつもの、朝の匂い。
でも、今日は、何もかもが、少しだけ、違って感じられた。
南条に、プンプンを奪われたような、喪失感。
雄一の帰宅。
鹿児島行きの切符。
そして、謎の手紙。
三つの不安が、翠の中で、渦を巻いていた。
(このままでは、済まない)
翠は、コーヒーミルを回す手を止めた。
その言葉が、喉の奥で、静かに、息を呑んだ。
(何かが、始まろうとしてる)
(私の知らないところで、何かが、動いてる)
(この手紙が、その、きっかけになる)
翠は、エプロンのポケットに手を当てた。
封筒の硬い感触が、指先に触れる。
「愛子」
その二文字が、翠の胸の奥に、冷たく、突き刺さっていた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。