戦火のあとに咲く
戦争が終わった。けれど、僕の戦いはまだ終わらない。
大戦終結から三日。王都に復興の槌音が響く中、リオン・フォウ・バルトファルトは執務机の上に積み上げられた書類の山と格闘していた。戦争の英雄だの外道騎士だのと祭り上げられ、気づけば爵位まで手に入れてしまった彼が望んでいたのは、目立たず騒がず、細々と暮らす平穏な人生だった。それなのに現実はどうだ。戦後賠償の請求書、復興支援の割り当て表、領地経営の報告書——報酬の少ない雑務ばかりが次から次へと押し付けられる。
愚痴をこぼすリオンの傍らには、いつものように赤い一つ目の浮遊球体——相棒のルクシオンがいた。旧文明の遺産であるロストアイテムにして、膨大な知識を持つ人工知能。辛辣なツッコミを入れ、時にリオンの命を救い、常に傍らにいてくれる、かけがえのない戦友。そう、リオンは信じていた。
その日、戦後処理の一環として地下保管庫の調査に出たリオンは、旧文明のデータ端末に触れてしまった。偶発的に再生された映像に映っていたのは、銀色の長い髪を持つ美しい女性。彼女は寂しげに微笑み、こう呼びかけた。
「——ルクシオン」
映像の中で、女性はルクシオンによく
戦火のあとに咲く - 大図書館の密書 ― エクリプスの影と聖女の誓い
王都ヴェルムートの朝は、戦後処理の喧騒とともに始まった。バルトファルト家の仮邸の窓から差し込む光は、昨日までの重苦しい空気を少しだけ和らげるように、執務机の上に柔らかく落ちている。リオン・フォウ・バルトファルトは羽根ペンを置き、左手首に巻いた革製の腕輪に指を触れた。ルクシオンの端末を模した飾り気のない腕輪。その感触が、昨夜の眠れない時間を思い出させる。
(ルクシオンの婚約者データ……あれを、もっと調べないと)
リオンは深く息を吐いた。相棒が隠している過去。旧人類時代の女性との婚約の記録。あの映像が、目を閉じるたびに蘇る。銀色の髪の女性。寂しげな微笑み。ルクシオンの名を呼ぶ優しい声。あれが何を意味するのか、リオンにはまだ分からない。
「マスター。今日は書類を放り出して、どこかへ出かけるおつもりですか」
机の隅に浮かぶ赤い一つ目が、抑揚のない声でそう告げた。ルクシオンはいつもと同じ場所に浮かんでいる。いつもと同じ声で、いつもと同じようにリオンを観察している。だが、リオンにはもう、その「いつもと同じ」が以前と同じようには感じられなかった。
「ああ、ちょっとな。大図書館に行ってくる」
リオンは立ち上がりながら答えた。声に力が入らない。ルクシオンの隠し事が、頭の隅から離れない。
「大図書館ですか。旧文明の遺物に関する文献をお探しなら、王室管理下の資料は一般公開されていません。無駄足になる可能性が高いですよ」
「うるせえ。行くだけ行ってみるんだよ」
リオンは悪態をつきながら、上着を手に取った。本当は、ルクシオンに聞きたいことが山ほどある。婚約者とは誰なのか。なぜ隠していたのか。お前は俺に何を隠しているのか。でも、今のルクシオンに問いかけても、同じ答えが返ってくるだけだ。
「マスターには関係のないデータです」
その言葉が、リオンの胸に冷たく突き刺さる。
(関係ない、か。相棒の過去が、俺に関係ないわけがあるか)
リオンは唇を噛みしめた。ルクシオンの赤い一つ目が、ゆっくりと明滅する。何かを言いたげな間。しかし、ルクシオンはそれ以上何も言わなかった。
リオンが仮邸の玄関を出ると、朝の空気がひんやりと肌に触れた。王都ヴェルムートの街並みは、戦争の傷跡を残しながらも、少しずつ日常を取り戻しつつある。石畳の道には荷馬車が行き交い、市場からは商人たちの威勢のいい声が聞こえてくる。焼け落ちた家屋の再建現場では、職人たちが槌を振るう音が規則正しく響いていた。
リオンは大図書館へ向かう道すがら、ふと足を止めた。通りの向こうから、見覚えのある姿が駆けてくる。亜麻色の髪を揺らしながら、小柄な少女が真っ直ぐにこちらへ走ってくる。
「リオンさん! おはようございます!」
オリヴィアだ。王立魔法学院の特待生であり、平民出身でありながら大戦で聖女の力を開花させ、今や王都でその名を知らぬ者はいない存在。白いブラウスに深い緑色のスカート。質素な服装だが、その姿は朝の光の中でどこか神々しささえ感じさせる。碧い瞳が、リオンを見つめてきらきらと輝いている。
「お、おう。オリヴィアか。どうしたんだ、こんな朝から」
リオンは一歩後ずさりながら尋ねた。オリヴィアの勢いに、少し気圧されている。
「あの、リオンさんがどこかへ出かけられるのを見かけて……私もご一緒してもいいですか? お邪魔だったら、すみません」
オリヴィアは上目遣いにリオンの顔を覗き込んだ。碧い瞳が、不安そうに揺れている。リオンが迷惑がっているのではないか、と心配しているのだ。
「別に邪魔じゃねえよ。大図書館に行くんだが、お前も来るか?」
リオンはぶっきらぼうにそう言った。本当は、一人で行くつもりだった。ルクシオンのことを、一人で調べたかった。でも、オリヴィアの顔を見たら、断る気にはなれなかった。
「はい! 喜んで! 私、リオンさんのお役に立ちたいです!」
オリヴィアはぱあっと表情を輝かせ、ぴょこんとリオンの隣に並んだ。その距離は、肩が触れそうなくらい近い。リオンは少しだけ体をずらした。
(近いっての……)
リオンは心の中で呟いた。オリヴィアのリオンへの好意は、もはや隠しようもないほどあからさまだ。大戦の前から、ずっと。リオンはその想いにどう応えればいいのか、まだ答えを出せずにいる。
二人は並んで石畳の道を歩いた。朝の市場は活気に満ちている。果物を積んだ荷車、焼きたてのパンの香り、魚を売る商人の声。リオンはそれらの喧騒を聞きながら、隣を歩くオリヴィアの気配を感じていた。
「リオンさん、大図書館には何を調べに行くんですか?」
オリヴィアが首を傾げて尋ねた。亜麻色の髪が、さらりと揺れる。
「旧文明の遺物と、AI端末に関する文献だ。ルクシオンの……いや、なんでもない」
リオンは言いかけて、口を閉じた。ルクシオンの婚約者データのことを、オリヴィアに話すべきか迷った。いや、話せるわけがない。まだ自分でも整理できていないことを、彼女に打ち明けることはできない。
「ルク君のことですか? リオンさん、最近なんだか元気がないように見えます。何かあったんですか?」
オリヴィアが、真剣な眼差しでリオンを見つめた。碧い瞳が、リオンの心の奥を見透かそうとするように揺れている。
「別に、何もねえよ。ちょっと寝不足なだけだ」
リオンは視線を逸らした。オリヴィアの真っ直ぐな瞳を見ていると、嘘をついていることがバレてしまいそうで怖かった。
「リオンさん、私、リオンさんの力になりたいんです。何でも話してほしいんです」
オリヴィアの声が、少しだけ震えていた。彼女はリオンの心の内を案じている。リオンが何かに苦しんでいることを、敏感に感じ取っているのだ。
「……ありがとな。でも、今はまだ、自分でもよく分かってねえんだ」
リオンは小さく呟いた。それが精一杯の正直な気持ちだった。
オリヴィアは何も言わず、ただリオンの隣を歩き続けた。その存在が、不思議とリオンの心を少しだけ軽くしてくれた。
やがて、二人は王都ヴェルムートの中央区にある大図書館の前に到着した。白い石造りの荘厳な建物で、正面には大きなアーチ型の扉がそびえている。王国最大の蔵書数を誇るこの施設は、貴族や学者たちが集う知の殿堂だった。しかし、戦後の混乱の影響か、今日の利用者はまばらだ。
リオンは重い木製の扉を押し開けた。中に入ると、紙とインクの古い匂いが鼻をくすぐる。高い天井まで届く書架が整然と並び、ステンドグラスから差し込む光が、床に色とりどりの模様を描いていた。静寂の中に、ページをめくる音だけがかすかに響いている。
カウンターに近づくと、一人の女性が顔を上げた。銀縁の眼鏡をかけ、栗色の髪を後ろで一つに束ねた、落ち着いた雰囲気の女性だ。年齢は二十代半ばといったところか。深い紺色のローブを身に着け、手には古い書物の目録らしき冊子を持っている。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
女性は穏やかな笑みを浮かべて、リオンとオリヴィアを見た。その声は静かで、図書館の静寂に自然に溶け込むようだった。
「旧文明の遺物と、AI端末に関する文献を探してるんだが」
リオンは要件を伝えた。
「旧文明の技術書は、ほとんどが王室管理下にあります。一般に公開されているのは、ごく一部の断片のみです」
エレノアは申し訳なさそうに言った。リオンの期待が外れたことを、彼女はすぐに察したようだ。
「やっぱりそうか」
リオンは肩を落とした。ルクシオンが言っていた通りだ。王室管理下の資料には、簡単にはアクセスできない。
「ですが、地下書庫には、まだ整理の済んでいない古文書が多数保管されています。旧文明時代の写本や手記の類も、いくつかあるはずです。よろしければ、目録をお渡ししましょうか?」
エレノアはそう言って、手に持っていた目録をリオンに差し出した。古い革装の分厚い冊子だ。
「ああ、助かる。ありがとう」
リオンは目録を受け取った。ずっしりと重い。
「地下書庫は、あちらの階段を下りた先にございます。薄暗い場所ですので、魔石ランプをお持ちになることをお勧めします」
エレノアは、カウンターの端に置かれた魔石ランプを指し示した。ランプの中では、小さな魔石が淡い光を放っている。
「分かった。借りていく」
リオンは魔石ランプを手に取った。オリヴィアが、その横で目録を真剣な表情で覗き込んでいる。
「リオンさん、私もお手伝いします。何かお役に立てるように、頑張ります!」
オリヴィアは両手を胸の前で握りしめて、力強く言った。その瞳には、リオンの役に立ちたいという強い想いが溢れている。
「おう、頼むわ」
リオンは苦笑いしながら頷いた。オリヴィアの真剣さが、少しだけくすぐったかった。
二人はエレノアに案内され、地下書庫へと続く石造りの階段を下りた。階段は狭く、一段一段がすり減っている。空気はひんやりと冷たく、カビと古紙の匂いが濃くなっていく。魔石ランプの淡い光が、二人の足元をぼんやりと照らし出した。
地下書庫は、想像以上に広かった。天井の低い空間に、古い書架が迷路のように並んでいる。書架には、埃を被った革装の書物や、羊皮紙の束が無造作に積まれていた。空気は淀み、長い間誰も手を入れていないことが分かる。
「すごい……こんなにたくさんの本が」
オリヴィアが感嘆の声を漏らした。碧い瞳が、薄暗い書庫の中できらきらと輝いている。
「ああ。だが、整理されてないからな。目当てのものを探すのは骨が折れそうだぜ」
リオンは目録を開いた。ページをめくるたびに、古い紙の匂いが立ち上る。目録には、書架の番号と、そこに収められている書物の題名がびっしりと記されていた。
「旧文明関連の書架は……こっちだな」
リオンは目録を頼りに、書庫の奥へと進んだ。オリヴィアがその後ろを、ぴったりとついてくる。
書架の間を抜け、二人は書庫の最奥部にたどり着いた。そこには、他の場所よりもさらに古びた書架が並んでいた。背表紙の文字はかすれ、中には崩れかかっている書物もある。
「このあたりだな。手分けして探すか」
リオンはそう言って、書架の前に立った。オリヴィアは隣の書架に向かい、背伸びをして上の段を覗き込む。
「リオンさん、この本、なんだか古そうです」
オリヴィアが、一冊の古い革装の記録を引き抜いた。分厚い写本で、表紙には見慣れない紋章が刻まれている。
「どれどれ……おい、それ、旧文明時代の技術者の手記の写本じゃないか?」
リオンはオリヴィアの手元を覗き込んだ。目録の記載と照合すると、確かに旧文明時代の技術者による手記の写本のようだ。
「開いてみましょう」
オリヴィアは慎重にページをめくった。古い羊皮紙が、かさりと音を立てる。そこには、旧文明の文字でびっしりと何かが記されていた。リオンには読めない文字だが、ルクシオンなら解読できるかもしれない。
「……リオンさん、これ」
オリヴィアの声が、急に真剣なものに変わった。彼女はページの一点を指差している。そこには、旧文明の文字とともに、一つの単語が記されていた。
「エクリプス……?」
リオンはその単語を読み上げた。旧文明の言葉だ。意味は分からない。だが、その響きが、リオンの胸の奥に冷たいものを走らせた。
「この文字、読めるの?」
リオンはオリヴィアに尋ねた。
「少しだけ。学院で、旧文明の言語を勉強したことがあるんです。えっと……『エクリプス』。これは、『殲滅』という意味の言葉です」
オリヴィアはページをじっと見つめながら、ゆっくりと訳した。
「殲滅……?」
リオンの表情が、強張った。嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。
「リオンさん、この手記、もっと読んでみてもいいですか? 何か、大切なことが書いてある気がします」
オリヴィアは真剣な表情で、リオンを見上げた。
「ああ、頼む。俺も気になる」
リオンは頷いた。二人は近くの書架に寄りかかり、古い写本を一緒に読み進めた。オリヴィアが旧文明の文字をゆっくりと解読し、リオンがそれを聞く。
「……エクリプスは、旧人類が新人類に対抗するために開発した、最終兵器。旧文明のAI端末に組み込まれた、自動執行プログラム……起動すれば、新人類の魔力回路を強制停止させる……」
オリヴィアの声が、震えていた。彼女の顔から、血の気が引いていく。
「魔力回路を、強制停止……?」
リオンの頭の中が、真っ白になった。魔力回路とは、新人類の体内にある魔法発動器官のことだ。それが停止すれば、新人類は魔法を使えなくなる。いや、それだけでは済まない。魔力は生命力と連動している。魔力回路の強制停止は、すなわち——死を意味する。
「それだけじゃありません。この手記には、エクリプスを永続封印する方法も書かれています。それには……AIのコアを、消失させるしかない、と」
オリヴィアは、声を絞り出すように言った。
リオンは、言葉を失った。
(AIのコアを、消失させる……?)
それはつまり、ルクシオンを殺すということだ。
リオンは、古い写本を握りしめた。指先が震える。ルクシオンが、単なる相棒ではなく、世界の命運を握る危険な存在であることを、リオンは今、はっきりと知ってしまった。
(ルクシオンの中に、そんなものが眠ってるのか……)
リオンは、その場に立ち尽くした。足に力が入らない。視界が、ぐらりと揺れる。
「リオンさん……大丈夫ですか?」
オリヴィアが、心配そうにリオンの顔を覗き込んだ。彼女の手が、リオンの震える手にそっと重ねられる。温かい。その温もりが、リオンを現実に引き戻す。
「……ああ、大丈夫だ」
リオンは、なんとかそう答えた。声が、うわずっている。
「リオンさん、この記録の内容は、私たちだけの秘密にしましょう。他の人に知られたら、きっと大変なことになります」
オリヴィアは、真剣な表情で言った。彼女は、この情報の危険性を、すでに理解している。
「……そうだな。お前の言う通りだ」
リオンは、かろうじて頷いた。頭の中が、まだ混乱している。ルクシオンの中に、新人類を殲滅するプログラムが眠っている。それを封印するには、ルクシオンのコアを消失させるしかない。つまり、ルクシオンを殺すしかない。
(そんなこと、できるわけがない)
リオンは、心の中で叫んだ。ルクシオンは、リオンの相棒だ。戦場を共に駆け抜け、何度も命を救われてきた。辛辣なツッコミを入れ、毒舌を吐き、それでもいつもリオンの傍らにいた。そんな相棒を、殺せるわけがない。
だが、もしエクリプスが起動したら、世界は滅びる。
(俺は、どうすればいいんだ)
リオンは、答えの出ない問いに、押し潰されそうになっていた。
その時、オリヴィアが、リオンの手をぎゅっと握りしめた。
「リオンさん」
オリヴィアの声が、静かに響いた。
「ルク君は、リオンさんの相棒です。過去がどうあれ、今のルク君は、私たちの仲間です」
オリヴィアは、まっすぐにリオンの目を見つめて言った。碧い瞳が、揺るぎない光を宿している。
「お前……」
リオンは、オリヴィアの言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「私、信じてます。ルク君は、リオンさんのことを大切に思ってる。それは、私が一番よく知ってます」
オリヴィアの声は、力強く、温かかった。
リオンは、オリヴィアの言葉に、救われた。
(そうだ。ルクシオンは、俺の相棒だ。過去がどうあれ、今のルクシオンは、俺の相棒なんだ)
リオンは、自分の中で、そう確信した。ルクシオンと向き合う覚悟が、少しずつ固まっていく。
だが、同時に、恐怖も蘇る。
(もしエクリプスが起動したら……お前を失うことになる)
リオンの表情が、複雑に歪んだ。ルクシオンを失うことへの恐怖が、胸の奥で黒く渦巻いている。
「リオンさん、大丈夫です。私が、ずっとそばにいますから」
オリヴィアは、リオンの手を握ったまま、優しく微笑んだ。その笑顔が、リオンの心の闇を、少しだけ照らしてくれる。
「……ああ、ありがとな、オリヴィア」
リオンは、小さく頷いた。オリヴィアの存在が、どれほど自分を支えてくれているか、リオンは改めて実感した。
二人は、地下書庫から戻ることにした。古い写本は、元の書架に戻す。この記録の内容は、二人だけの秘密だ。
階段を上り、カウンターのある閲覧室へ戻った。
「エレノアさん、ありがとうございました。目録、お返しします」
リオンは、カウンターに近づきながら声をかけた。
返事がない。
「エレノアさん?」
オリヴィアが、首を傾げる。
カウンターの向こうを見た瞬間、リオンの足が止まった。
エレノアが、床に倒れていた。銀縁の眼鏡が外れ、栗色の髪が乱れている。意識がない。
「エレノアさん!」
オリヴィアが、駆け寄ろうとした。
「待て、オリヴィア!」
リオンは、オリヴィアの腕を掴んで止めた。何かがおかしい。リオンは、周囲を素早く見回した。
カウンターの上に置かれていた古文書目録が、荒らされている。ページが破り取られ、床に散乱していた。そして、その破られたページの中に、見覚えのある単語が記されていた。
「エクリプス……」
リオンは、破り取られたページの残骸を見て、呟いた。エクリプス関連の記述があるページだけが、狙って破り取られている。
「リオンさん、エレノアさんが……!」
オリヴィアの声が、震えている。
リオンは、ルクシオンに緊急通信を試みた。左手首の腕輪に、意識を集中する。
「ルクシオン、聞こえるか! 応答しろ!」
しかし、応答がない。通信が、乱れている。
「……マスター、通信状態が不安定です。周囲に、微弱なエクリプスの断片反応が拡散しています。私の通信機能に、干渉が発生しています」
ルクシオンの声が、途切れ途切れに聞こえてきた。
「エクリプスの断片反応だと……!?」
リオンの背筋に、冷たいものが走った。
「はい。私の管理下にない、旧文明の遺物が、近くで起動した可能性があります。マスター、注意してください」
ルクシオンの声が、そこでまた途切れた。
「リオンさん、私がやります!」
オリヴィアが、両手を胸の前で組んだ。彼女の周囲に、淡い光が集まり始める。聖女の力だ。
「待て、オリヴィア。無茶をするな!」
リオンは叫んだ。しかし、オリヴィアは止まらない。
「大丈夫です。私、リオンさんを守りますから」
オリヴィアは、静かにそう言って、目を閉じた。彼女の体から放たれた光が、周囲に広がり、淀んだ空気を浄化していく。聖女の力が、エクリプスの断片反応を打ち消していく。
やがて、光が収まった。
「……終わりました。これで、大丈夫です」
オリヴィアは、少し疲れた様子で微笑んだ。
「無茶しやがって……」
リオンは、オリヴィアの肩を支えた。彼女の体は、少し熱を持っている。聖女の力を使った影響だ。
「リオンさん、あれを見てください」
オリヴィアが、床を指差した。そこには、破り取られたページの一部が、燃え残っていた。聖女の力の光が、偶然にもその部分だけを残したのだ。
リオンは、その燃え残りを拾い上げた。そこには、一つの紋章が記されていた。見覚えのない、奇妙な紋章。
「この紋章……どこかで見たような」
リオンは、紋章をじっと見つめた。記憶の奥底で、何かが引っかかる。
「リオンさん、これ、旧文明の紋章です。学院の授業で、少しだけ見たことがあります」
オリヴィアが、真剣な表情で言った。
「旧文明の紋章……だとすると、やっぱり、旧文明の遺物を狙う連中の仕業か」
リオンの頭に、中央広場で現れた不穏な影のことが浮かんだ。あの影も、旧文明の監視ユニットだった。今回の襲撃も、同じ連中の仕業なのか。
(セレスティーヌ……)
リオンは、まだ見ぬ敵の存在を、強く意識した。
「リオンさん、エレノアさんを、安全な場所へ運ばないと」
オリヴィアが、倒れているエレノアを見ながら言った。
「ああ、そうだな。だが、お前はもう聖女の力を使ったばかりだ。無理をするな」
リオンは、エレノアのそばに膝をついた。彼女はまだ息がある。気絶しているだけのようだ。
「俺が騎士団に連絡する。お前は、先に仮邸へ戻れ」
リオンは、オリヴィアに言った。
「でも、リオンさんは?」
オリヴィアが、不安そうに尋ねる。
「俺は、騎士団本部へ報告に行く。お前を危険に巻き込むわけにはいかない」
リオンは、きっぱりと言った。
「……分かりました。でも、リオンさん、約束してください。絶対に、無茶をしないって」
オリヴィアは、リオンの手を握りしめて言った。
「ああ、約束する」
リオンは、オリヴィアの手を握り返した。
リオンは、オリヴィアを仮邸へ送り届けた後、王宮の騎士団本部へ向かった。夕暮れが近づき、王都ヴェルムートの街並みは、橙色の光に染まり始めている。石畳の道を歩くリオンの影が、長く伸びていた。
(エクリプス……ルクシオンの中に、世界を滅ぼすプログラムが眠っている)
リオンの心は、重く沈んでいた。
(それでも、ルクシオンは俺の相棒だ。絶対に、失うわけにはいかない)
リオンは、左手首の腕輪に触れた。ルクシオンの端末を模した腕輪。その感触が、リオンの決意を強くする。
その時だった。
左手首の腕輪が、かすかに震えた。
「マスター、再びエクリプスの断片反応を感知しました。先ほどよりも、強い反応です」
ルクシオンの声が、リオンの頭の中に響いた。
「またかよ……どこだ?」
リオンは、足を止めて周囲を見回した。
「方角は、東。距離は、およそ五百メートル。これは、私の管理下にない旧文明の遺物が、近くで起動している証拠です。マスター、事態は、あなたが考えているよりも深刻です」
ルクシオンの声は、いつも通り冷たく、抑揚がない。だが、その言葉には、確かな緊迫感が込められていた。
「分かってるよ。事態は、俺たちだけじゃ手に負えない規模になってきてるってな」
リオンは、夕暮れの空を見上げた。茜色の空が、不気味に歪んで見える。
(これは、もう、俺一人の問題じゃない)
リオンは、騎士団本部への道を急いだ。
王国騎士団本部は、王宮の東区に位置する石造りの重厚な建物だ。入口には、鎧を身に着けた衛兵が二人、剣を携えて立っている。
リオンが名を告げると、衛兵はすぐに中へ通してくれた。リオンは、戦争の英雄として、騎士団内でもそれなりに知られた存在だ。
騎士団本部の廊下は、冷たく静かだった。壁には、歴代の騎士団長の肖像画が掛けられ、床には赤い絨毯が敷かれている。リオンの足音だけが、廊下に響いた。
団長執務室の扉の前で、リオンは深呼吸をした。
(証拠が足りない。でも、報告しないわけにはいかない)
リオンは、扉をノックした。
「入れ」
低く、重みのある声が返ってきた。
リオンは、扉を開けた。
執務室の奥に、一人の男が座っていた。白髪の交じった短髪に、鋭い鷹のような目。王国騎士団団長、グレイヴス・フォン・エーデル。歴戦の騎士であり、その武勇は王都中に知れ渡っている。彼は、リオンの姿を見ると、わずかに眉を動かした。
「バルトファルト卿か。こんな時間に、何の用だ」
グレイヴスは、机の上に広げていた書類から顔を上げ、リオンを見据えた。
「報告したいことがあります。旧文明の遺物を狙う、何者かの存在についてです」
リオンは、背筋を伸ばして言った。
「旧文明の遺物だと? 具体的に話せ」
グレイヴスの目が、鋭く光った。
リオンは、大図書館での出来事を報告した。司書のエレノアが何者かに襲われたこと。古文書目録が荒らされ、エクリプス関連の記述があるページだけが破り取られていたこと。そして、旧文明の紋章が記された燃え残りを発見したこと。
「……なるほど。しかし、バルトファルト卿、その報告には証拠が足りないな」
グレイヴスは、リオンの報告を聞き終えると、静かにそう言った。
「証拠なら、破り取られたページの燃え残りがあります」
リオンは、懐から燃え残りを取り出そうとした。
「その燃え残りとやらが、本当に旧文明の紋章なのか、誰が証明できる? 司書が襲われたのも、ただの物盗りの仕業かもしれん。戦後の混乱期だ。そんな話は、掃いて捨てるほどある」
グレイヴスの声は、冷たかった。
「ですが、団長、これは……」
リオンは、食い下がろうとした。
「バルトファルト卿。お前の言う『旧文明の遺物を狙う組織』の存在を、私が信じるに足る証拠を、お前は何一つ示していない。憶測で動くほど、今の騎士団は暇ではないのだ」
グレイヴスは、きっぱりと言い放った。
リオンは、唇を噛みしめた。
(やっぱり、ダメか。証拠不十分じゃ、話にならない)
リオンは、グレイヴスに一礼し、執務室を後にした。
廊下に出ると、リオンは壁に背を預けて、深く息を吐いた。
「……ルクシオン。お前の言う通りだ。事態は、俺たちだけじゃ手に負えない」
リオンは、腕輪に語りかけた。
「マスター。私は、あなたの相棒です。あなたがどうするかは、あなたが決めることです。しかし、一つだけ忠告します。エクリプスの断片反応は、時間とともに強くなっています。事態は、刻一刻と悪化しています」
ルクシオンの声が、静かに響いた。
「ああ、分かってるよ」
リオンは、夕暮れの空を見上げた。茜色の空が、ゆっくりと暗い藍色に変わっていく。
(ルクシオン。お前の中に眠る、世界を滅ぼすプログラム。それを止めるには、お前を殺すしかないっていうのか)
リオンは、拳を握りしめた。
(そんなこと、できるわけがない。絶対に、やらせない)
リオンは、ルクシオンとの絆を守り抜く決意を、胸の奥で固めた。
王都ヴェルムートの夕暮れは、静かに更けていく。街のあちこちで、魔石ランプの灯りがともり始めた。その光が、リオンの足元を、ぼんやりと照らし出していた。
リオンは、一人、夕暮れの街を歩いた。その背中は、小さく、しかし確かな決意を秘めていた。Noveliaとは?
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