真白の記憶、茜の想い
『ごめんね、ましろ君』——忘れていた声が、深夜の配信終わりに蘇る。
ミナモ大学心理学部二年のましろは、都市伝説の検証配信を生業にしていた。ホラーは怖くない、むしろわくわくする。そんな彼の機材が、ある夜、勝手に起動した。映し出されたのは、知らないはずの記憶。白い天井、消毒液の匂い、誰かに手を引かれて走る自分。そして、泣き出す寸前みたいな、女性の声。
「オレは、何を忘れてるんだ——」
その頃、ましろが秘密組織クロノス機関に監視されていることを、彼だけが知らなかった。失われた記憶、揺れる能力、冷たい水しか喉を通らない奇妙な癖。すべては、2年前に消された何かへと繋がっている。
明日、あの声の主がましろの前に現れる。学園×青春×記憶ミステリー、開幕。
真白の記憶、茜の想い - 路地裏の逃亡者たち——嘘の輪郭と、守りたいという本音
夜のネオン・ストリートは、いつもと少しだけ違って見えた。
ましろ爻は、裏通りの入り口にある古い自動販売機の前で立ち止まった。白いシャツの上に黒いジャケットを羽織り、首には赤いスカーフ。黒髪のショートヘアの上で、安全ピンの髪飾りが街灯の光を鈍く反射している。手には小さな機材バッグ。中には夜間撮影用の小型カメラとマイクが入っていた。
(人と待ち合わせるの、いつぶりだろう)
ましろは、そんなことをぼんやり考えていた。
大学の図書館で茜灯に声をかけられてから、まだ数日しか経っていない。なのに、あの明るい笑顔が頭から離れなかった。『先輩の配信、いつも見てるんです』。そう言われた時の、くすぐったいような、こそばゆいような感覚。誰かに自分の配信を認めてもらえるのは、思っていた以上に嬉しいことだった。
「ましろ君!」
弾むような声が、夜の空気を切り裂いた。
振り返ると、茜灯が小走りで近づいてくる。明るい栗色のセミロングが、走るたびにふわりと揺れていた。琥珀色の大きな瞳が、街灯の光を受けてきらきら輝いている。薄手のカーディガンを羽織り、左の手首にはいつもの細いリストバンド。
「ごめんね、待った?」
茜は少し息を弾ませながら、ましろの前に立った。
「ううん、僕も今来たところだよ」
「よかった。私、待ち合わせの時間、いつも早く着きすぎちゃうから、ましろ君を待たせてたらどうしようって思ってたの」
茜はほっとしたように笑った。その笑顔を見ていると、ましろの緊張も自然とほどけていく。
「今日は、どこに行くの?」
「えっとね、ここから徒歩十分くらいのところ。ネオン・ストリートの裏通りに、『消える路地』って呼ばれてる場所があるんだって」
茜はスマートフォンを取り出し、地図アプリを開いた。画面には、複雑に入り組んだ路地の地図が表示されている。
「このあたりなんだけど、地図にも載ってない細い道がたくさんあって、夜になると迷い込んだ人が出てくるらしいの。都市伝説では、一度入ったら出られないって言われてるんだけど」
「へえ、面白いね」
ましろは茜のスマートフォンを覗き込んだ。地図には、いくつかの路地に赤いマーカーが引かれている。茜が下調べをしてきたのだろう。
「茜さん、よく調べてるね」
ましろが率直にそう言うと、茜の指が一瞬、ぴくりと止まった。
「え? あ、うん。先輩の配信の影響です! 私も都市伝説、すごく好きになっちゃって。それで、いろいろ調べてるうちに、この場所を見つけたんだ」
茜は笑顔でそう答えた。でも、その笑顔が、ほんのわずかだけぎこちなく見えたのは、気のせいだろうか。
「そっか。じゃあ、行こうか」
ましろは機材バッグを肩にかけ直した。
「うん!」
二人は並んで歩き出した。
ネオン・ストリートの表通りは、相変わらずの喧騒に包まれていた。居酒屋の呼び込みの声、カラオケから漏れる歌声、ゲームセンターの派手な電子音。色とりどりの看板の光が、アスファルトの路面ににじんでいる。
でも、裏通りに入ると、空気ががらりと変わった。
表通りの喧騒が嘘のように遠ざかり、代わりに、ひんやりとした夜の空気が肌にまとわりつく。街灯の数が減り、路地は急に暗くなった。壁に貼られた古い張り紙が、風に揺れてかさかさと音を立てている。
「ここ、本当に同じ街なんだね」
ましろは周囲を見回しながら言った。
「うん。裏通りって、昼間でもあんまり人が通らないから。夜は特に静かだよね」
茜の声が、少しだけ小さくなった。
二人は無言でしばらく歩いた。靴音だけが、狭い路地に反響する。
(この感じ、嫌いじゃないな)
ましろは、夜の静けさが好きだった。昼間の騒がしさから解放されて、自分だけの時間を取り戻せる気がする。隣に茜がいるのも、不思議と心地よかった。
「ましろ君」
茜が、ぽつりと声をかけた。
「ん?」
「最近、配信の調子はどう?」
「うーん、まあまあかな。視聴者は相変わらず少ないけど」
「そうなんだ。でも、私は毎回見てるよ。先輩の配信、本当に面白いから」
茜はましろの顔を覗き込むようにして言った。その距離が近くて、ましろは少しだけ戸惑った。
「……ありがとう」
ましろは、照れ隠しのように前を向いた。
「そういえば、この前の配信でさ、ノイズがひどかった回があったでしょ? あれ、機材の調子が悪かったの?」
茜の言葉に、ましろの足が一瞬止まりかけた。
(この前の配信……ひとりかくれんぼの配信の時のことか)
あの夜、ましろは配信終了後に、モニターに映った奇妙な映像と、あの女性の声を聞いた。『ごめんね、ましろ君』。思い出そうとすると、今でも頭の奥がじんわりと痛む。
「……うん、まあ、機材の接触不良かな。安物のマイクだから」
ましろは、あの夜のことを茜に話す気にはなれなかった。
「そっか。でも、あのノイズ、ちょっと普通じゃなかったよね。私、あの回の配信、何度も見返しちゃった」
茜の声が、ほんの少しだけ真剣なトーンになった。
「……何度も?」
「うん。だって、あのノイズの中に、何か声が混ざってたような気がして」
ましろの胸の奥が、どくりと脈打った。
「声?」
「ううん、気のせいかも。私、耳が良すぎるから、聞こえないはずの音まで拾っちゃうんだよね」
茜は笑ってごまかした。でも、その目は笑っていなかった。
ましろは、それ以上追及しなかった。
(茜さん、何か知ってるのか?)
いや、そんなはずはない。茜はただの後輩で、配信の視聴者だ。あの夜のことを知っているはずがない。
ましろは、胸の奥に生まれた小さなざわつきを、意識の外に追いやった。
「あ、ましろ君、見て。あそこ」
茜が指さした先には、細い路地の入り口があった。
幅は一メートルもない。両側の建物の壁が迫り、奥は暗闇に沈んでいる。路地の入り口には、色あせた赤い提灯が一つ、風に揺れていた。
「ここが『消える路地』?」
「うん。地図によると、この路地を抜けると、別の通りに出られるはずなんだけど……入った人によっては、同じ場所をぐるぐる回っちゃうんだって」
ましろは、路地の奥をじっと見つめた。
(なるほど。確かに、これは検証する価値がある)
ましろは機材バッグから小型カメラを取り出し、電源を入れた。レンズの赤いランプが点灯する。
「じゃあ、入ってみようか」
「うん。私もついていくね」
二人は、細い路地に足を踏み入れた。
途端に、周囲の音が消えた。
表通りの喧騒も、風の音も、遠くの車の走行音も、すべてが遠ざかっていく。まるで、この路地だけが世界から切り離されてしまったみたいに。
「……静かだね」
茜が、小さな声で言った。
「うん。不思議な感じだ」
ましろはカメラを構えながら、ゆっくりと前進した。
路地は、思っていたよりも長い。十メートル進むごとに、直角に曲がっている。まるで迷路だ。
「地図では、確かこのあたりを左に……」
茜がスマートフォンを確認する。でも、画面の地図は、路地の複雑な形を正確に表示できていないようだった。
「GPSがうまく反応しないみたい。この路地、本当に地図に載ってないのかも」
「へえ、面白いね」
ましろは、むしろ興味が湧いてきた。
(これが都市伝説の『消える路地』か。確かに、方向感覚がおかしくなる)
何度か角を曲がるうちに、二人は完全に現在地を見失った。
「ましろ君、ちょっと待って。私、どっちから来たかわからなくなっちゃった」
茜が立ち止まり、周囲を見回した。
「大丈夫、来た道を戻れば出られるよ」
「うん……そうだね。ごめん、私、方向音痴で」
茜は照れたように笑った。
その時だった。
ましろは、ふと、違和感を覚えた。
(誰かに、見られてる?)
首の後ろが、ちりちりと痒いような感覚。視線を感じる。でも、振り返っても、暗い路地が続いているだけだ。
「……茜さん」
「ん? どうしたの?」
「最近、誰かに見られてる気がするんだ」
ましろがそう言った瞬間、茜の手が止まった。
笑顔が、一瞬だけこわばる。
「……見られてる?」
茜の声が、わずかに震えていた。
「うん。配信の後とか、家に帰る時とか。気のせいかもしれないけど」
ましろは、茜の変化に気づかないふりをした。
「気のせいだよ、きっと。都市伝説を追ってると、そういう感覚になること、あるよね」
茜は、笑顔を作って答えた。でも、その笑顔は、さっきまでの明るい笑顔とは違っていた。
(気のせいじゃない。私がそばにいるから……)
茜は、心の中で唇を噛んだ。
組織の追手が、ましろを監視している。茜は、それを知っていた。自分がましろに近づいたことで、組織が再び彼を狙い始めたことも。
「……そうだよね。気のせいだよね」
ましろは、茜の言葉に頷いた。
でも、茜の反応が、普通じゃないことくらい、ましろにもわかっていた。
(茜さん、何を隠してるんだろう)
その疑問は、胸の奥に小さく残った。
「ましろ君、あっちに行ってみよう。この路地の先、ちょっと開けた場所があるはずだから」
茜は、気持ちを切り替えるように明るい声で言った。
「うん」
二人は再び歩き出した。
路地は、さらに狭くなっていく。壁が迫り、空が細い線のようにしか見えない。
(この路地、本当にどこに繋がってるんだろう)
ましろは、カメラを回しながら、そんなことを考えていた。
その時。
茜が、突然、ましろの手を掴んだ。
「え?」
「走って!」
茜は、ましろの手を強く握りしめ、走り出した。
「ちょ、ちょっと、茜さん!?」
ましろは、されるがままに走った。茜の手のひらは、汗ばんでいて、それでいて、ひどく温かかった。
(なんで急に……)
理由を尋ねる間もなく、茜は迷いなく路地を右に曲がり、左に折れ、細い抜け道を駆け抜けていく。
その時、ましろの耳に、後方から複数の足音が聞こえた。
革靴の音。複数。急いでいる。
(追われてる?)
ましろは、ちらりと後ろを振り返った。
暗い路地の向こうに、スーツ姿の男たちの影が見えた。二人、いや、三人。全員、無表情で、まっすぐにこちらを見ている。
「茜さん、あれ……」
「振り返らないで! 走って!」
茜の声は、切迫していた。
茜は、ましろの手を引いたまま、路地の奥へ奥へと走る。シャッターの下をくぐり、ゴミ袋の山を飛び越え、錆びた非常階段を駆け上がる。
(この動き……)
ましろは、茜の手際の良さに、息を呑んだ。
迷いがない。一瞬の躊躇もない。どこの路地がどこに繋がっているのか、完全に把握している。まるで、この街の裏通りを何度も走り抜けてきたみたいに。
「ここから、あっちのビルの裏に抜ける!」
茜は、廃ビルの狭い隙間に体を滑り込ませた。ましろも、それに続く。
背中を壁に擦り、服に埃がつく。でも、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「はあっ……はあっ……」
息が切れる。普段、こんなに走ることなんてない。心臓が、胸の中で激しく脈打っている。
でも、それ以上に。
(茜さんの手、温かいな)
ましろは、茜に握られた手の感覚に、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
どこか懐かしい感覚。知らないはずなのに、知っている感覚。
(この温もり、どこかで……)
記憶の奥底で、何かがちかちかと瞬いている。でも、それを掴もうとすると、霧のように消えてしまう。
「……もう大丈夫。追ってこない」
茜が足を止めた。
二人は、薄暗い路地裏の一角にたどり着いていた。周囲は、ひび割れたコンクリートの壁と、積み上げられた古い木箱。街灯の光が、かろうじて差し込んでいる。
茜は、ましろの手を離した。
「ごめんね、急に引っ張っちゃって」
茜は、息を整えながら、申し訳なさそうに言った。
「ううん……助かった。ありがとう」
ましろも、壁に手をついて呼吸を整えた。
「……でも、なんで、茜さん、このあたりの道に詳しいの?」
ましろは、茜の顔をまっすぐに見て、そう尋ねた。
茜の目が、一瞬、泳いだ。
「え? あ、あのね、私、都市伝説好きだから……このあたりの路地、昼間に散歩したりしてたんだ。だから、道はだいたい覚えてて」
茜は、早口でそう説明した。
でも、その目は、笑っていなかった。
「……そっか」
ましろは、それ以上追及しなかった。
(都市伝説好きだから、か)
昼間に散歩する程度で、あんなに迷いなく路地を走り抜けられるだろうか。あの動きは、明らかに、追われることに慣れた者の動きだった。
(茜さんは、何者なんだ)
その疑問は、胸の奥で、ゆっくりと大きくなっていった。
「ましろ君、擦り傷できてる。大丈夫?」
茜が、ましろの腕に目を留めた。
見ると、ましろの右腕に、壁に擦ったらしい赤い傷ができていた。血は、にじむ程度だ。
「これくらい平気だよ」
「だめだよ、ちゃんと手当てしないと。……あ、でも、今は何も持ってないし。ましろ君の家、この近くだよね? 帰って手当てしよう?」
茜は、心配そうにましろの顔を覗き込んだ。
「うん……そうだね」
ましろは、茜の勢いに押されて、頷いた。
「よし、じゃあ行こう! 私、ましろ君の家、行ってみたかったんだ」
茜は、ぱっと笑顔になった。
(家に、茜さんを連れて行くのか)
ましろは、自分の家が廃墟同然であることを思い出し、少し気が重くなった。
でも、茜の明るい笑顔を見ていると、断る気にはなれなかった。
「……うち、すごくボロいよ」
「大丈夫! 私、そういうの気にしないから」
茜は、にこにこしながら言った。
ましろの家は、ネオン・ストリートから歩いて十五分ほどの、市東部の住宅街にあった。
古い一軒家。壁はひび割れ、庭は荒れ放題。玄関の鍵はかろうじて機能しているが、それ以外は、正直、いつ崩れてもおかしくない。
「……本当にボロいでしょ」
ましろは、少し恥ずかしそうに言った。
「ううん、味があっていいね。ましろ君らしい家だと思う」
茜は、目を輝かせて、家をじっくりと眺めた。
(ましろ君らしい、か)
ましろは、茜の言葉に、くすぐったいような気持ちになった。
玄関のドアを開けると、三毛猫のぱわこが、にゃあ、と鳴きながら駆け寄ってきた。
「あ、猫ちゃん! かわいい!」
茜は、ぱわこを見るなり、顔をほころばせた。
「この子はぱわこ。もう一匹、黒猫のニアがいるんだけど……あ、いた」
部屋の隅で、黒猫のニアが、警戒しながらこちらを見ていた。
「ニア、こっちおいで。茜さんは怖くないよ」
ましろが声をかけると、ニアは、ゆっくりと近づいてきた。
そして、驚いたことに、ニアは茜の足元にすり寄り、ごろごろと喉を鳴らし始めた。
「え、ニアが人に懐くなんて、珍しい」
ましろは、目を丸くした。
「ふふ、私、猫には好かれるんだよね」
茜は、しゃがみ込んで、ぱわことニアの頭を交互に撫でた。二匹とも、気持ちよさそうに目を細めている。
(ニアが、あんなに無防備に……)
ましろは、その光景を、不思議な気持ちで眺めた。
「あ、そうだ。ましろ君、救急箱どこ? 手当てするよ」
茜は、立ち上がって言った。
「え、自分でやるよ」
「だめ。私にやらせて。後輩が先輩の手当てをするのは当然でしょ?」
茜は、有無を言わせない笑顔で、ましろを椅子に座らせた。
「救急箱、どこにあるの?」
「……洗面所の棚の上」
茜は、洗面所から救急箱を持ってきて、ましろの隣に座った。
「ちょっとしみるかも。我慢してね」
茜は、消毒液をコットンに染み込ませ、ましろの腕の擦り傷に、そっと当てた。
「……っ」
「ごめん、痛い?」
茜が、心配そうにましろの顔を覗き込む。
「平気。ありがとう」
茜の手つきは、驚くほど優しかった。
(茜さんの手、細くて、あったかいな)
ましろは、茜の指先が自分の腕に触れるたびに、胸の奥がくすぐったくなるのを感じていた。
「……ましろ君」
茜が、ぽつりと呟いた。
「ん?」
「私、君を守りたいんだ」
茜は、ましろの傷口を見つめたまま、そう言った。
その声は、今までの明るい声とは違って、静かで、真剣で、少しだけ震えていた。
「……え?」
ましろは、茜の言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
茜は、はっとしたように顔を上げると、みるみるうちに顔を赤らめた。
「あ、えっと! 先輩として! 後輩として先輩を守るのは当然でしょ!? そういう意味だから! 深い意味はないから!」
茜は、両手をぶんぶん振りながら、早口でまくし立てた。
「……うん、そうだよね」
ましろは、茜の慌てた様子に、思わず笑みがこぼれた。
でも、心の奥では、茜の言葉が、小さな棘のように引っかかっていた。
(守りたい、か)
普通の後輩は、先輩にそんなこと言わない。
(茜さんは、本当に、何を隠してるんだろう)
その疑問は、茜の優しい手当てを受けながらも、ましろの胸の中で、ゆっくりと形を成していった。
手当てが終わり、茜は救急箱を片付けた。
「よし、これで完璧。ましろ君、お風呂入るときは、傷口に水がかからないようにね」
「うん、ありがとう」
「じゃあ、私、そろそろ帰るね。今日は本当に楽しかった」
茜は、玄関で靴を履きながら、名残惜しそうに言った。
「うん。僕も楽しかった。……また、一緒に検証しよう」
「うん! 約束だよ!」
茜は、ぱあっと笑顔になった。
「気をつけて帰ってね」
「うん。ましろ君も、おやすみなさい」
茜は、小さく手を振って、夜の街へと消えていった。
ましろは、玄関のドアを閉め、リビングに戻った。
ぱわことニアが、足元にすり寄ってくる。
「……なあ、茜さんって、なんであんなにオレのこと知ってるんだと思う?」
ましろは、猫たちに話しかけた。
もちろん、返事はない。
「路地の道も完璧に覚えてたし、追手から逃げるのも慣れてた。……普通の女子大生じゃ、ああはならないよ」
ぱわこが、にゃあ、と鳴いた。
「……まあ、考えすぎか」
ましろは、頭を振って、その考えを追い出した。
でも、茜の言葉が、頭の中で繰り返し再生される。
『私、君を守りたいんだ』
あの時の茜の目。あれは、嘘をついている目じゃなかった。
(守りたい、か……)
ましろは、茜の手の温もりを思い出し、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
――その頃。
茜は、自宅アパートのドアを閉め、その場にしゃがみ込んだ。
「……はあ」
深いため息が、暗い部屋に漏れる。
茜は、スマートフォンを取り出し、画面を確認した。
そこには、見覚えのないアドレスからのメールが届いていた。
件名はない。本文だけが、無機質な文字で表示されている。
『対象Mとの接触継続を確認。記憶リコール促進の兆候あり。至急、上司へ連絡されたし』
茜の指が、震えた。
「……わかってる。わかってるよ」
茜は、震える指でメールを閉じた。
窓の外には、ミナモ市の夜景が広がっている。ネオン・ストリートの光が、遠くでちかちかと瞬いていた。
「もう、逃げない」
茜は、小さく呟いた。
「私が、ましろ君を守るんだ」
その声は、暗い部屋の中で、ひどく頼りなく響いた。
スマートフォンが、再び震えた。
今度は、ましろからのメッセージだった。
『今日はありがとう。助かった』
茜は、その短いメッセージを、何度も読み返した。
「……こちらこそ」
茜は、返信を打ち込んだ。
『こちらこそ。また一緒に調査しましょう』
送信ボタンを押す。
茜は、両手で顔を覆い、しばらく動けなかった。
――翌朝。
ましろは、スマートフォンの通知音で目を覚ました。
寝ぼけた頭で画面を確認すると、茜からのメッセージが届いていた。
『今日も一緒にいていい?』
ましろは、そのメッセージを見た瞬間、自分でも驚くほど早く返信を打っていた。
『いいよ』
送信してから、我に返る。
(……今、何時だ?)
朝の七時。ましろは、普段ならまだ寝ている時間だ。
(茜さんからのメッセージだから、起きちゃったのか)
ましろは、自分の反応の速さに、少し戸惑った。
ベッドから起き上がり、配信の準備を始める。
でも、頭の中には、昨夜の茜の言葉が、繰り返し浮かんでは消えていく。
『私、君を守りたいんだ』
あの時の茜の真剣な目。
(あれは、本当に、先輩としての言葉だったのかな)
ましろは、カメラをセッティングしながら、そんなことを考えていた。
――同じ頃。
ミナモ市北西、旧工業地帯アッシュ・レーン。
廃工場が立ち並ぶその地下深く、クロノス機関の第7研究所。
壁一面のモニターが、茜とましろの行動ログを表示していた。
銀色の短髪に、額には一本だけ白い筋が入っている。冷たい灰色の瞳が、モニターのデータをじっと見つめていた。
クロノス機関の幹部、玄葉什。
「……興味深い」
玄葉は、静かに微笑んだ。
モニターには、茜の行動記録と、ましろの記憶リコールの波形データが並んでいる。
「共犯者の情動が、対象Mの記憶共鳴を加速させている。……予想以上だ」
玄葉は、手元の端末を操作し、部下に指示を出した。
「茜には、まだ自由に動かせておけ」
「しかし、玄葉様。彼女は我々に敵対しています。放置すれば、いずれ……」
「わかっている。だが、彼女がましろの記憶を呼び覚ますほど、我々の回収は容易になる。茜の存在は、ましろの力を引き出すための、最も効率的な触媒だ」
玄葉は、モニターに映るましろの顔写真を見つめた。
「彼女の情動が、対象Mの記憶を揺さぶる。記憶が揺さぶられれば、リコールが促進される。リコールが促進されれば、あの力が再び目覚める」
玄葉の目が、冷たく細められた。
「あの力が目覚めた時、我々は、ついに記憶の完全なデータ化を達成できる。……ましろ爻、君の記憶は、人類の記憶管理の未来を切り開く鍵だ」
玄葉は、満足げに微笑んだ。
その笑みは、モニターの冷たい光に照らされて、まるで氷のように見えた。
「監視を継続しなさい。ただし、接触は避けろ。茜に悟られれば、彼女はましろを連れて逃げるだろう」
「了解しました」
通信が切れる。
玄葉は、一人、静かな部屋で、モニターに映るましろの顔を見つめ続けた。
「君の記憶は、まだ眠っている。……だが、もうすぐ目覚める」
その声は、誰に聞かせるでもなく、地下深くの静寂に溶けていった。
ましろは、まだ、自分が巨大な陰謀の中心にいることを知らない。
ただ、茜からのメッセージに、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
『今日も一緒にいていい?』
『いいよ』
その短いやり取りが、ましろの心に、小さな光を灯していた。
(今日は、どんな一日になるんだろう)
ましろは、カメラのレンズを拭きながら、窓の外を見た。
朝の光が、古い家の窓から差し込んでいる。
ぱわことニアが、足元で、にゃあ、と鳴いた。Noveliaとは?
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