真白の記憶、茜の想い
『ごめんね、ましろ君』——忘れていた声が、深夜の配信終わりに蘇る。
ミナモ大学心理学部二年のましろは、都市伝説の検証配信を生業にしていた。ホラーは怖くない、むしろわくわくする。そんな彼の機材が、ある夜、勝手に起動した。映し出されたのは、知らないはずの記憶。白い天井、消毒液の匂い、誰かに手を引かれて走る自分。そして、泣き出す寸前みたいな、女性の声。
「オレは、何を忘れてるんだ——」
その頃、ましろが秘密組織クロノス機関に監視されていることを、彼だけが知らなかった。失われた記憶、揺れる能力、冷たい水しか喉を通らない奇妙な癖。すべては、2年前に消された何かへと繋がっている。
明日、あの声の主がましろの前に現れる。学園×青春×記憶ミステリー、開幕。
真白の記憶、茜の想い - ボスの執務室と、オレの記憶はオレが取り戻す
白い光が、冷たかった。
茜灯は、両腕を後ろ手に拘束されたまま、無機質な通路を歩かされていた。明るい栗色のセミロングが乱れ、頬には赤い痕が残っている。琥珀色の大きな瞳は、涙で潤んでいた。
(ましろ君……)
心の中で、何度も、その名前を呼ぶ。
(無事に逃げられたかな。猫ちゃんたちも、一緒に)
(お願い。どうか、無事でいて)
地下3階。クロノス機関の第7研究所、その最深部。茜は、スーツ姿の男たちに前後を挟まれ、ある部屋の前に立たされた。
重い金属の扉が、静かに開く。
部屋の中は、異様なほど静かだった。壁一面を覆うモニター。その中央に置かれた、大きな椅子。ヘッドギアと無数の電極が付いた、その椅子を、茜は知っていた。
レゾナンス・チェア。記憶の抽出・改変・移植を行うための、クロノス機関の技術の結晶。
(あの椅子に……また)
茜の体が、震えた。
「やあ、茜君。久しぶりだね」
低く、穏やかな声が、部屋の奥から聞こえた。
茜は、顔を上げた。
銀色の短髪。額に一本だけ白い筋が入っている。冷たい灰色の瞳。左手の甲には、古い火傷の跡。話すときは常に微笑んでいるが、目は全く笑っていない男。
クロノス機関の幹部、玄葉什。
茜の元上司であり、ましろの記憶を消した実験の責任者。
「……玄葉、さん」
茜の声は、かすれていた。
「少し痩せたじゃないか。学生生活は、体に合わなかったかな」
玄葉は、ゆっくりと茜に近づいてきた。その足音は、静かな部屋に、やけに大きく響いた。
「それとも、罪悪感で食事が喉を通らないのかな。ましろ爻に嘘をつき続けるのは、さぞ辛かっただろう」
茜は、唇を噛んだ。
「私は……もう、組織の人間じゃない」
「そうだね。君は組織を裏切り、対象Mを逃がした。立派な反逆者だ」
玄葉は、茜の顎に手を伸ばし、顔を上げさせた。冷たい指。茜の肌に、氷のような感覚が走った。
「だが、私は君を評価しているよ。君の才能は、今も高く評価している。記憶管理者としての適性、感受性、そして何より、対象Mへの深い理解。あれは、我々にとって貴重なデータだ」
「ましろ君は、データじゃない」
茜は、震える声で、はっきりと言った。
「彼は、私が……私が、好きになった人です」
玄葉の灰色の瞳が、ほんの少しだけ、細くなった。
「そうか。ならば、いいことを教えてあげよう」
玄葉は、茜から手を離し、レゾナンス・チェアの横に立った。
「我々は、ましろ爻の記憶を、完全に消去する計画を進めている。前回の処置は不完全だった。彼の記憶のリコールは、君の存在によって促進され続けている。これは、我々にとって、予想外の誤算だった」
茜の顔から、血の気が引いていく。
「完全に消せば、どうなるか分かるね? 君のことも、すべて忘れる。図書館で出会ったことも、夜の街を一緒に歩いたことも、君が彼を逃がしたことも。全部、なかったことになる」
「……それでも」
茜の声は、震えていた。でも、目は、まっすぐに玄葉を見ていた。
「それでも、私は……もう、ましろ君に嘘をつかない。たとえ忘れられても、私は彼のそばにいる」
涙が、一筋、頬を伝った。
「私は、彼を守るって決めたの。二年前も、今も。それだけは、変わらない」
玄葉は、しばらく茜を見つめていた。そして、ゆっくりと、首を横に振った。
「……若さゆえの過ちだな」
その声は、冷たく、そして、どこか残念そうだった。
「感情は、記憶のノイズに過ぎない。君は、そのノイズに、自分の人生を賭けようとしている。愚かだよ、茜君」
玄葉は、茜に背を向け、部屋の出口に向かって歩き出した。
「しばらく、ここで冷静になるといい。君の才能は、まだ必要だ。心変わりするなら、いつでも呼びなさい」
扉が、閉まった。
茜は、その場に、崩れ落ちた。
(ましろ君……)
涙が、止まらなかった。
(私は、忘れられてもいい。でも、あなたが……あなたの記憶が、消されるのは、嫌)
茜は、拘束されたまま、冷たい床に額を押し付けた。
(お願い……逃げて。私のことなんか、忘れて)
(でも……それも、嫌だ)
茜の心は、ぐちゃぐちゃだった。
(会いたい。ましろ君に、会いたい)
その想いだけが、暗い部屋の中で、強く、強く、燃えていた。
——
夜明け前。
ミナモ市東部、焼け落ちた家の前。
ましろ爻は、黒焦げになった柱と、崩れ落ちた屋根を、ただ、じっと見つめていた。黒髪のショートヘアが、朝の冷たい風に揺れる。黄色い瞳は、煙の残り香に、かすかに潤んでいた。安全ピンの髪飾りが、夜明けの薄明かりを反射して、小さく光った。
(ここに、いたんだ)
(ぱわこと、ニアと、三人で)
(茜さんが、来てくれたこともあった)
腕の中には、三毛猫のぱわこと、黒猫のニアが、ぐったりと身を寄せていた。二匹は、昨夜の火事の恐怖で、まだ震えている。ましろは、二匹を、壊れ物のように、そっと抱きしめた。
「……ごめんな。怖かったよな」
声は、掠れていた。
その時、後ろから、足音が聞こえた。
「ましろ」
振り返ると、黒髪のロングヘアを三つ編みにした、一人の女性が立っていた。紫がかった黒い瞳。手には、小さな手帳と、ノートパソコン。
ましろの元同期、奈羅花。
「奈羅花……」
ましろは、その名前を、かすれた声で呼んだ。
「連絡、見たわ。それで、すぐに飛んできた。……ひどい有様ね」
奈羅花は、燃え落ちた家を見て、小さく息を呑んだ。そして、すぐに表情を引き締め、ノートパソコンを開いた。
「ましろ。あんたの配信のノイズ、あれは組織の通信と周波数が一致してた。もう解析は済んでる。あんたのスマートフォンにも、組織の通信ログが残ってた」
奈羅花は、手早くキーボードを叩き、画面をましろに向けた。そこには、複雑な波形と、地図が表示されている。
「見て。この地点。ミナモ市北西、旧工業地帯アッシュ・レーン。通称、第7研究所。茜さんは、ここに連れて行かれた」
ましろは、画面を食い入るように見つめた。
「……茜さんが、そこにいるんだな」
「ええ。間違いない。通信ログの追跡と、あんたの配信ノイズの発生源が、完全に一致してる」
奈羅花は、ノートパソコンを閉じ、ましろを真っ直ぐに見た。
「ましろ。あんたを、一人で行かせられない。私も、一緒に行く」
ましろは、黙っていた。
(また、誰かを巻き込むのか)
(奈羅花にまで、危険な目に遭わせるのか)
(でも……)
ましろは、唇を噛んだ。そして、ゆっくりと、口を開いた。
「……これは、僕の問題だ。茜さんを助けるのも、僕の記憶を取り戻すのも。全部、僕がやらなきゃいけないことだ」
「ましろ」
「でも」
ましろの声が、震えた。
「でも……頼っていいか」
それは、ましろが、初めて見せる、弱さだった。
「一人で抱え込むのは、もう、無理なんだ。茜さんを助けたい。でも、僕一人じゃ、どうすればいいか分からない。……頼っていいか、奈羅花」
奈羅花は、少しだけ、目を見開いた。そして、すぐに、柔らかく微笑んだ。
「……最初から、そのつもりよ。バカ」
奈羅花は、ましろの肩を、ポンと叩いた。
「あんたが素直に頼るなんて、珍しいこともあるもんね。……いいわ。行きましょう。茜さんを、助けに」
「……ありがとう」
ましろは、小さく、そう言った。
(ありがとう、奈羅花)
(一人じゃないって、こんなに心強いんだな)
ましろは、腕の中の猫たちを、奈羅花に預けた。
「ぱわことニアを、安全な場所に預けてくれるか。……奈羅花の知り合いの家とか」
「ええ。任せて。この子たちは、私が責任を持って預かる。……ましろ、あんたは、自分のことだけ考えて。茜さんを助けることだけを」
奈羅花は、ぱわことニアを、優しく抱き上げた。
「にゃあ」
ぱわこが、小さく鳴いた。ニアは、じっと、ましろを見つめている。
「……すぐに、迎えに行くからな」
ましろは、二匹の頭を、そっと撫でた。
「行ってくる」
「ええ。気をつけて」
ましろは、焼け落ちた家に、もう一度だけ、背を向けた。
(もう、戻れない)
(戻るつもりもない)
(茜さんを、助けるんだ)
ましろは、歩き出した。夜明けの光が、彼の背中を、静かに押していた。
——
ミナモ市北西、旧工業地帯アッシュ・レーン。
かつて工場群が立ち並んでいたその場所は、今では廃墟の連なりだった。錆びついた鉄骨。割れた窓ガラス。雑草が、アスファルトを突き破って生えている。
ましろと奈羅花は、その廃墟の中を、慎重に進んでいた。
「この先よ。旧ミナモ精機工場の廃墟。第7研究所の地上入口は、あそこに偽装されてる」
奈羅花は、手帳に書かれたメモを確認しながら、小声で言った。
「警備システムの盲点は、解析済みよ。正面からは無理。でも、西側の搬入口に、監視カメラの死角がある。そこから地下に潜れるはず」
「……よく調べたね」
「当たり前でしょ。あんたの同期を、何年やってると思ってるの」
奈羅花は、少しだけ、得意げな顔をした。
二人は、廃工場の西側に回り込んだ。錆びたシャッターの前に、小さな通用口がある。奈羅花は、手帳に挟んでいた工具を取り出し、通用口の鍵を、手際よく外した。
「……開いたわ。行くわよ」
「うん」
二人は、暗い通用口の中へ、身を滑り込ませた。
地下へ続く階段。湿った空気。錆びた鉄の匂い。
(ここが……)
ましろは、階段を降りながら、胸の奥が、ざわつくのを感じていた。
(知ってる。この匂い。この空気)
(来たことが、ある)
階段を降りきると、そこは、無菌室のような、白い廊下だった。
白い壁。白い天井。白い照明。消毒液の匂い。
その瞬間——
ましろの視界が、ぐらり、と揺れた。
(あれ……?)
目の前が、白く、ぼやける。
そして、頭の中に、映像が、フラッシュバックした。
白い廊下。手を引かれる感覚。前を走る、栗色の髪。
『ごめんね、ましろ君』
声が、聞こえた。
茜の声。
『私、君を逃がすから。絶対に、振り返らないで』
(茜さん……?)
『また会えるよ。絶対に、また会える。約束する』
(約束……)
深夜の路地。冷たい風。繋がれた手の温もり。
『また会えたら、その時は——』
「ましろ!」
奈羅花の声で、ましろは、はっと我に返った。
気がつくと、ましろは、白い壁に手をついて、荒い呼吸を繰り返していた。額には、冷や汗が浮かんでいる。
「大丈夫? 顔色が真っ青よ」
奈羅花が、心配そうに、ましろの顔を覗き込んだ。
「……ああ、大丈夫」
ましろは、呼吸を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……ここだ。僕は、ここに来たことがある」
その声には、確信が込められていた。
「二年前、茜さんに手を引かれて、この廊下を走った。……思い出した。全部じゃないけど、断片が、はっきりと」
「ましろ……」
「行こう。茜さんは、きっと、もっと下にいる」
ましろは、壁から手を離し、歩き出した。
(記憶が、戻ってきてる)
(茜さんの声も、手の温もりも、約束も)
(全部、本当だったんだ)
(茜さんは、嘘をついてなんかいなかった)
(僕を、守ろうとしてくれていたんだ)
ましろの胸の奥で、何かが、熱くなった。
(待ってて、茜さん。今、行くから)
二人は、白い廊下を、地下2階へと進んだ。
——
地下2階。
実験室が並ぶ、無機質なフロア。
ましろと奈羅花が、角を曲がった瞬間——
「侵入者発見! 対象M、対象Nを確保せよ!」
警備員の怒号が、フロアに響き渡った。
黒いスーツ姿の男たちが、通路の両側から、二人に迫ってくる。
「くっ……見つかったか」
奈羅花は、素早く周囲を見回した。
「ましろ、行って! あたしが引きつける!」
「えっ、でも——」
「いいから! あんたは茜さんを助けなさい! あたしは卒業しても、あんたの同期だから!」
奈羅花は、そう叫ぶと、警備員たちに向かって、走り出した。
「奈羅花!」
「行け、ましろ! 後は任せて!」
奈羅花は、振り返らずに、笑顔でそう言った。
(奈羅花……)
ましろの目が、熱くなった。
(ごめん。ありがとう)
ましろは、涙をこらえて、走り出した。
(奈羅花の想いを、無駄にしない)
(絶対に、茜さんを助ける)
ましろは、記憶の断片を頼りに、地下3階への階段を駆け下りた。
廊下の角を曲がるたびに、茜の声や、手の温もりが、鮮明になっていく。
『ましろ君、こっち!』
『大丈夫、私が守るから』
『また会えるよ。絶対に』
(茜さん……)
(僕は、君に、守られてばかりだった)
(今度は、僕が守る番だ)
ましろは、地下3階の、重い金属の扉の前に立った。
(ここだ)
(この扉の向こうに、茜さんがいる)
ましろは、深呼吸をした。
そして、扉を、力いっぱい、押し開けた。
——
部屋の中は、静かだった。
壁一面のモニター。中央に置かれた、大きな椅子。ヘッドギアと無数の電極。
そして、その椅子の前に立つ、銀色の短髪の男。
玄葉什。
「……よく来たね、ましろ爻」
玄葉は、ゆっくりと振り返った。冷たい灰色の瞳が、ましろを捉える。
「君の記憶のリコールは、予想以上に進んでいるようだ。ここまで自力で辿り着くとは。……興味深い」
「茜さんは、どこだ」
ましろは、低い声で、そう言った。
「ああ、彼女なら、そこにいるよ」
玄葉が、部屋の隅を指さした。
そこには、両腕を後ろ手に拘束され、壁に寄りかかるように座り込んでいる茜の姿があった。
「ましろ……君……」
茜の琥珀色の瞳が、大きく見開かれた。
「茜さん!」
ましろは、茜のもとへ駆け寄ろうとした。
「動かないで」
玄葉の声は、静かだった。でも、その一言で、ましろの足は、ぴたりと止まった。
「君は、自分が何者か、分かっているのかね」
玄葉は、レゾナンス・チェアの横に立ち、その表面を、ゆっくりと撫でた。
「君の記憶は、我々の所有物だ。君の記憶の中には、我々にとって、非常に危険な力が眠っている。……いいや、眠っているだけじゃない。今、まさに、目覚めようとしている」
「……何の、話だ」
「君は、二年前、我々の実験により、記憶の一部を失った。それは、君の力を、封じるための処置だった。だが、不完全だった。君の記憶のリコールは、茜君の存在によって、促進され続けている。……彼女は、君の力の、起爆剤だ」
玄葉は、茜の方を見た。
「茜君。君は、自分が何をしたか、分かっているのか。君は、彼のそばにいることで、彼の記憶を、そして彼の力を、呼び覚ましているんだよ。それは、我々にとって、脅威でしかない」
「……私は」
茜の声が、震えた。
「私は、ましろ君を、守りたかった。それだけです」
「その想いが、彼を危険にさらしている。……皮肉だな」
玄葉は、レゾナンス・チェアの起動スイッチに、手を伸ばした。
「ましろ爻。君の記憶は、我々が管理する。君の力は、我々が制御する。それが、最も合理的な選択だ」
「……ふざけるな」
ましろの声が、低く、響いた。
「僕の記憶は、僕のものだ。あんたに管理される筋合いはない」
ましろは、一歩、前に踏み出した。
「茜さんは、僕を守ってくれた。二年前も、今も。……僕は、その想いに、応えたい。僕の記憶は、僕が取り戻す。あんたの、その椅子なんかじゃなく、僕自身の力で」
玄葉は、ましろを、じっと見つめた。
「……では、その記憶が本当に君のものか、確かめてみるがいい」
玄葉の指が、起動スイッチに触れた。
その瞬間——
レゾナンス・チェアが、低い唸り声を上げ始めた。ヘッドギアの電極が、青白く光る。
「ましろ君、行かないで!」
茜が、小さく、叫んだ。
「お願い、逃げて! あの椅子に座ったら、また、全部、消されちゃう! 私との記憶も、全部!」
茜の声は、涙で、震えていた。
「茜さん」
ましろは、茜と、目を合わせた。
琥珀色の、大きな瞳。涙で潤んでいる。でも、その奥には、ましろへの、強い想いが、確かにあった。
(大丈夫)
(僕は、もう、逃げない)
(君の想いを、無駄にしない)
ましろは、茜に、小さく、うなずいた。
そして、玄葉を、真っ直ぐに見据えた。
「……やろう、玄葉什。僕の記憶が、本当に僕のものか、確かめてやる」
玄葉の口元が、ゆっくりと、弧を描いた。
「いいだろう。……始めようか」
玄葉の指が、スイッチを、押し込んだ。
レゾナンス・チェアが、青白い光を、部屋中に放った。
「ましろ君——!」
茜の叫びが、光の中に、溶けていった。
光が、収まった。
ましろは、椅子に座っていなかった。
玄葉の指が押したスイッチの位置から、ましろは三歩、横にずれていた。青白い光は、ましろの立っていた空間を、空しく照らしている。
「……何?」
玄葉の声から、微笑みが消えた。
ましろは、右手を上げた。その手には、レゾナンス・チェアのヘッドギアから引き抜いた、電極ケーブルの束が握られていた。赤、青、黄色のコードが、まるで蔦のように、ましろの指の間から垂れている。
「君がスイッチに触る前に、僕はヘッドギアの接続を切った」
ましろは、ケーブルの束を、床に落とした。金属とプラスチックが、硬い音を立てて転がる。
「あんたが椅子の表面を撫でてた時、配線の取り回しが見えた。この椅子は、外部ケーブルで制御されてる。無線じゃない。……だったら、切ればいい」
玄葉は、ましろの手元から、落ちたケーブルへ、視線を移した。
「……いつ」
「あんたが『始めようか』と言った時だ」
ましろの声は、静かだった。でも、その静かさが、部屋の空気を、びりびりと震わせた。
「あんたは、僕が椅子に座ると思ってた。僕が逃げないと、思ってた。……茜さんが、僕を守ってくれたように、僕も、茜さんを守るために来たんだ。椅子に座るためじゃない」
玄葉の灰色の瞳が、初めて、揺れた。
「……君は、記憶を取り戻しに来たのでは、ないのか」
「取り戻すさ。でも、あんたの椅子を使う必要はない」
ましろは、自分のこめかみを、指で軽く叩いた。
「ここにある。断片だけど、確かにある。茜さんの声も、手の温もりも、約束も。……あんたが消したんじゃない。僕が、思い出したんだ。茜さんのおかげで」
玄葉は、一歩、後ずさった。その足が、レゾナンス・チェアの脚に、ぶつかった。
「馬鹿な……記憶のリコールは、チェアなしでは、制御できないはずだ。感情は、ノイズだ。ノイズが、記憶を呼び覚ますなど——」
「ノイズじゃない」
ましろは、玄葉の言葉を、遮った。
「あんたがノイズと呼ぶものは、僕にとっては、全部、茜さんだ。図書館の匂いも、夜の街の灯りも、繋いだ手の温度も。……あんたには、ただのデータかもしれない。でも、僕には、全部、意味がある」
玄葉の口が、開いたまま、閉じない。
「……ありえない。私は、二十年前から、この技術を——」
「あんたの二十年は、あんたのものだ。僕の二年は、僕のものだ」
ましろは、玄葉に背を向けた。そして、茜のもとへ、歩いていった。
茜は、壁にもたれたまま、ましろを、じっと見上げていた。琥珀色の瞳から、涙が、止めどなく溢れている。唇が、小さく震えている。
「……ばか」
茜の声は、かすれていた。
「なんで……なんで、こんなことするの。私、君に、嘘をついてたのに。君の記憶を、消した側なのに」
ましろは、茜の前に、しゃがみ込んだ。そして、拘束された茜の腕に、手を伸ばした。
「茜さんは、僕を逃がした」
ましろの指が、拘束具の留め金を、探る。
「僕を守るために、自分が危ない目に遭うって、分かってて。……それって、嘘をついてたことになるのか」
留め金が、外れた。茜の腕が、自由になる。茜は、自分の手を、ましろの手に、重ねた。その手は、冷たかった。でも、ましろの手の熱が、じわりと、伝わっていく。
「……私、君に、嫌われたと思ってた」
茜の声が、震えていた。
「君の記憶が戻ったら、私がしたこと、全部、知られる。そしたら、君、私のこと——」
「茜さん」
ましろは、茜の手を、強く、握った。
「僕は、君のことが好きだ。記憶がなくても、思い出しても。……それは、変わらない」
茜の瞳から、また、涙が溢れた。でも、その口元は、少しだけ、緩んでいた。
「……ずるい」
「うん」
「……ほんとに、ずるい」
茜は、ましろの手を、ぎゅっと、握り返した。
その時——
「……終わったか」
玄葉の声が、部屋の奥から、聞こえた。
ましろと茜が、振り返る。
玄葉は、レゾナンス・チェアの横に、立っていた。その手には、小さな端末が握られている。灰色の瞳は、もう、揺れていなかった。冷たい、いつもの色に戻っている。
「君たちの絆とやらは、よく分かった。……だが、それは、組織にとっては、何の意味もない」
玄葉は、端末の画面を、ましろに向けた。
「この研究所の地下には、緊急時の自爆システムがある。私が、この端末のボタンを離せば、このフロアは、三秒で消滅する。……君たちごと、な」
茜の手が、ましろの手を、強く握った。
「玄葉さん……そんなこと、やめてください。あなたまで、巻き込まれる」
「私は、構わない」
玄葉の声は、淡々としていた。
「君たちを逃がすくらいなら、この研究所ごと、消した方が、組織のためになる。……ましろ爻。君の記憶が、本当に君のものか、確かめるいい機会だ。自分の記憶と引き換えに、ここで死ぬか。それとも、記憶を捨てて、生き延びるか」
玄葉の親指が、端末のボタンから、わずかに、浮いた。
「選べ」
ましろは、玄葉を、じっと見つめた。そして、茜の手を、そっと、ほどいた。
「ましろ君?」
茜の声が、裏返った。
ましろは、立ち上がった。そして、玄葉に向かって、一歩、踏み出した。
「……選ばない」
玄葉の眉が、微かに、動いた。
「何?」
「選ばない、って言ったんだ」
ましろは、もう一歩、踏み出した。
「あんたは、僕に、二択を押し付けてる。記憶か、命か。……でも、その二択自体が、あんたの土俵だ。あんたが、僕に、選ばせたいものだ」
玄葉の親指が、ボタンの上で、止まった。
「……何が、言いたい」
「僕は、あんたの土俵に、上がらない」
ましろは、三歩目を、踏み出した。
「僕の記憶は、僕が持ってる。僕の命も、僕のものだ。……あんたに、どっちかを選ばせる権利は、ない」
玄葉の灰色の瞳に、初めて、怒りの色が、浮かんだ。
「君は、自分の置かれた状況が、分かっているのか。私は、本気で——」
「分かってるさ」
ましろは、玄葉の目の前まで、来ていた。手を伸ばせば、届く距離。
「あんたが本気なのは、分かってる。でも、あんたの本気は、あんたのものだ。僕の本気は、僕のものだ」
ましろは、玄葉の手を、見つめた。端末を握る、その手。左手の甲の、古い火傷の跡。
「その火傷、若い頃のあんたが、何かに本気で向き合った痕だろ」
玄葉の手が、微かに、震えた。
「……君に、関係ない」
「関係あるさ」
ましろは、静かに、言った。
「あんたも、誰かのために、本気になったことがあるんだろ。だったら、僕が茜さんのために本気になるのを、笑うな」
玄葉の親指が、端末のボタンから、離れた。
端末が、床に、落ちた。
乾いた音が、部屋に、響く。
「……私の負けだ」
玄葉は、そう言って、目を閉じた。
「好きにしろ。……ただし、次に会う時は、容赦しない」
ましろは、玄葉に背を向け、茜のもとへ、戻った。
「茜さん。行こう」
ましろは、茜に、手を差し伸べた。
茜は、その手を、じっと見つめていた。そして、ゆっくりと、自分の手を、重ねた。
「……うん」
茜は、立ち上がった。足が、少し、震えていた。でも、ましろの手を握る力は、強かった。
「ましろ君」
「うん」
「……ありがとう」
「うん」
二人は、部屋を出た。
玄葉は、その後ろ姿を、ただ、見送っていた。床に落ちた端末を、拾いもせずに。
——
地下2階のフロアに、奈羅花の姿があった。
黒いスーツの男たちが、床に、倒れている。奈羅花は、その中に、立っていた。息を切らしているが、笑っていた。
「遅いわよ、ましろ」
「奈羅花……!」
「警備員、十人。全部、あたしが相手した。……褒めて」
奈羅花は、そう言って、ましろと茜を見た。茜の姿を確認すると、少しだけ、目を細めた。
「……茜さん。無事で、よかった」
「奈羅花さん……あなたが、ましろ君を」
「ええ。あんたのことは、ましろから、聞いてる。……あんたが、ましろを守った人でしょ。だったら、あたしが、あんたを助けるのは、当然よ」
奈羅花は、そう言って、ましろに、ウインクした。
「ほら、行くわよ。まだ、上に警備が残ってるかもしれない」
三人は、白い廊下を、駆け上がった。
——
夜明けの光が、廃工場の隙間から、差し込んでいた。
ましろ、茜、奈羅花は、旧ミナモ精機工場の裏手に、辿り着いた。三人とも、息が上がっている。
「……ふう。なんとか、出られたわね」
奈羅花は、壁にもたれて、息を整えた。
「奈羅花。本当に、ありがとう」
ましろは、奈羅花に、頭を下げた。
「いいのよ。……あんたが、無事に茜さんを助けた。それで、十分」
奈羅花は、そう言って、茜の方を見た。
「茜さん。ましろを、よろしくね。……このバカ、一人じゃ、何もできないんだから」
「……うん」
茜は、小さく、うなずいた。そして、ましろの手を、握った。
「私が、守るから。今度は、私が」
ましろは、茜の顔を、見た。琥珀色の瞳が、朝の光を、きらきらと、反射している。
「……うん。でも、今度は、僕も、茜さんを守る」
「……ばか」
茜は、そう言って、笑った。
それは、ましろが初めて見る、心からの、茜の笑顔だった。
「……行きましょう。ぱわことニアが、待ってる」
「そうだな」
「……猫ちゃんたち、無事?」
「ええ。私の知り合いが、預かってくれてる。……元気にしてるわよ、きっと」
三人は、夜明けの街を、歩き出した。
——
数日後。
ミナモ市の、小さなアパートの一室。
ましろは、窓辺に座って、外を眺めていた。膝の上には、ぱわことニアが、丸くなっている。
茜は、台所で、お茶を淹れていた。その横顔を、ましろは、そっと、見つめる。
「……茜さん」
「ん?」
茜が、振り返る。エプロン姿の茜は、どこか、普通の女の子に見えた。でも、その目には、もう、涙はなかった。
「僕の記憶、少しずつ、戻ってきてる」
ましろは、そう言った。
「全部じゃないけど。……図書館の本の匂いとか、君がいつも、少しだけ、僕より先を歩いてたこととか」
茜は、お茶のカップを、ましろの前に、置いた。
「……私、そんなこと、してた?」
「うん。いつも、君が先。でも、時々、振り返って、僕がついてきてるか、確認してた」
茜は、少し、照れたように、目を逸らした。
「……記憶、戻ってきてるんだね」
「うん。でも、全部、戻らなくてもいいかな、って思ってる」
「どうして?」
ましろは、膝の上のぱわこを、そっと、撫でた。
「全部、戻ったら、君が、また、いなくなっちゃいそうで」
茜の手が、止まった。
「……そんなこと、ないよ」
茜は、ましろの隣に、座った。
「私は、もう、どこにも行かない。……ましろ君のそばに、いる」
茜は、ましろの肩に、そっと、頭を、もたせた。
「約束する。今度は、私から」
ましろは、茜の頭に、自分の頭を、そっと、寄せた。
「……うん」
窓の外には、青い空が、広がっていた。
三毛猫のぱわこが、のびをして、ましろの膝から、降りた。黒猫のニアが、その後を、追いかける。
「にゃあ」
ぱわこが、茜の足元に、すり寄った。
茜は、小さく、笑った。
「……ぱわこも、ましろ君のそばに、いたいんだね」
「だな」
ましろは、茜の手を、そっと、握った。
茜の手は、もう、冷たくなかった。
「……あったかい」
茜が、小さく、そう言った。
「うん」
ましろは、茜の手を、強く、握り返した。
(これから、少しずつ)
(記憶も、想いも、重ねていこう)
(茜さんと、一緒に)
窓の外の青空が、まぶしかった。
でも、ましろは、もう、目を逸らさなかった。Noveliaとは?
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