真白の記憶、茜の想い
『ごめんね、ましろ君』——忘れていた声が、深夜の配信終わりに蘇る。
ミナモ大学心理学部二年のましろは、都市伝説の検証配信を生業にしていた。ホラーは怖くない、むしろわくわくする。そんな彼の機材が、ある夜、勝手に起動した。映し出されたのは、知らないはずの記憶。白い天井、消毒液の匂い、誰かに手を引かれて走る自分。そして、泣き出す寸前みたいな、女性の声。
「オレは、何を忘れてるんだ——」
その頃、ましろが秘密組織クロノス機関に監視されていることを、彼だけが知らなかった。失われた記憶、揺れる能力、冷たい水しか喉を通らない奇妙な癖。すべては、2年前に消された何かへと繋がっている。
明日、あの声の主がましろの前に現れる。学園×青春×記憶ミステリー、開幕。
真白の記憶、茜の想い - 記憶の共鳴——夜明けの共犯者たち
白い光が、すべてを塗りつぶしていた。
ましろ爻は、レゾナンス・チェアに拘束されていた。両手首、両足首、胸、額——冷たい金属のバンドが、体を椅子に縫い付けている。ヘッドギアから伸びる無数の電極が、こめかみと後頭部に貼り付けられていた。
(ここは……第7研究所の、地下3階)
意識は、まだあった。でも、頭の芯がぼんやりと熱い。電気刺激が、記憶の奥底を、無理やりこじ開けようとしている。
「始めようか、ましろ爻君」
低い声が、部屋に響いた。
銀色の短髪。額に一本だけ白い筋。冷たい灰色の瞳。左手の甲の古い火傷の跡。クロノス機関の幹部、玄葉什が、レゾナンス・チェアの操作盤の前に立っていた。
「君の記憶は、我々にとって極めて価値の高い資産だ。特に、君が無自覚に保持している『共鳴』の能力——あれは、記憶管理の根幹を揺るがす」
玄葉の指が、起動スイッチに触れた。
「やめて!」
茜灯の叫びが、部屋の隅から響いた。両腕を後ろ手に拘束されたまま、茜は床に膝をついていた。明るい栗色のセミロングが乱れ、琥珀色の大きな瞳が涙でいっぱいになっている。
「お願い、玄葉さん!私の記憶を全部あげるから、彼を解放して!」
玄葉は、ゆっくりと茜の方を向いた。その顔には、相変わらずの微笑みが張り付いている。でも、目は全く笑っていない。
「君の記憶では足りないよ、茜君」
声は、穏やかだった。それが、かえって恐ろしい。
「君の記憶は、確かに貴重だ。記憶管理者としての知識、組織の内部情報、そして対象Mへの深い理解。だが——私が欲しいのは、彼の力そのものだ。記憶と想いを共鳴させ、他者の記憶に干渉する力。それが、我々の研究を完成させる最後の鍵なんだ」
「ましろ君は、データじゃない!人間だよ!彼の記憶も、想いも、あんたの研究の材料じゃない!」
茜の声は震えていた。でも、目はまっすぐに玄葉を見ていた。
「残念だよ、茜君。君ほどの才能が、感情というノイズに支配されている」
玄葉は、茜から視線を外し、操作盤に向き直った。
「では、始めよう。まずは、記憶の表層から剥がしていく。君が彼と過ごした時間の記憶から、順に」
玄葉の指が、スイッチを押し込んだ。
——ブゥン。
低い駆動音が、部屋に満ちた。
ましろの体に、電気が走った。ビリビリと、頭の奥が痺れる。視界が、白く点滅する。
「ましろ君!」
茜の叫びが、遠くに聞こえた。
(ダメだ……意識が……)
ましろは、歯を食いしばった。でも、抗えない。何かが、頭の中を、無理やり引っ張り出そうとしている。記憶の引き出しを、片っ端から開けられて、中身を床にぶちまけられている。そんな感覚だった。
——図書館の匂い。紙と埃の混ざった、あの静かな空気。
——「ねえねえ、聞いてよ!」明るい声。振り返ると、栗色の髪の少女が笑っていた。
——夜の街。ネオンの光。隣を歩く茜の横顔。
——「私、君を守りたいんだ」雨の夜。震える声。
——「ごめんね、ましろ君。ずっと嘘をついてた」
——燃える家。連れ去られる茜。
——「逃げて、ましろ君!」
記憶の断片が、ばらばらになって、頭の中で渦を巻いた。
(やめろ……)
ましろは、心の中で叫んだ。
(これは、僕の記憶だ。僕の……僕と、茜さんの……)
「ほう。興味深い。記憶のリコールが、外部刺激に反応して加速している。やはり君は、特別だ」
玄葉の声が、遠くで響いた。
「出力を上げる。記憶の深層にアクセスする。二年前のデータを、直接引き出す」
——ゴオオオオッ。
チェアの駆動音が、大きくなった。
ましろの体が、大きく痙攣した。
(ああ……ダメだ……何かが……)
意識が、深い闇に、引きずり込まれていく。
——そして。
——パッ。
視界が、切り替わった。
そこは、薄暗い廊下だった。
無機質な壁。冷たい蛍光灯の光。どこかで、機械の駆動音が響いている。
(ここは……)
ましろは、自分の手を見た。
若い。細い。そして、誰かの手に、強く握られている。
顔を上げる。
栗色の髪。琥珀色の瞳。泣き腫らした目で、必死に前を向いて走っている少女。
茜灯。
二年前の茜だった。
「こっち!早く!」
茜は、ましろの手を引いて、廊下を走っていた。涙が、頬を伝って、床に落ちる。
「ましろ君、聞いて。私、もう決めたの。あなたを逃がす。組織の命令に背いても、あなただけは、絶対に渡さない」
茜の声は、震えていた。でも、その手は、ましろの手を、絶対に離さなかった。
「私、記憶管理者の資格を捨てる。組織から追われることになる。でも、それでいい。あなたが自由になれるなら、私は……」
茜は、そこで言葉を切った。
そして、振り返って、ましろの目をまっすぐに見た。
「ごめんね、ましろ君。私のせいで、あなたの記憶を消すことになって。本当に、ごめんね」
——ごめんね、ましろ君。
その声が、ましろの記憶の奥底で、何度も何度も、繰り返し響いていた。
(ああ……そうか)
ましろは、理解した。
あの記憶の断片。何度もフラッシュバックしていた、あの声。あの「ごめんね」は、茜の声だった。
茜は、二年前から、ずっと。
ましろを守るために、自分のすべてを捨てて。
組織に逆らって。
資格を捨てて。
追われる身になって。
それでも、ましろのそばにいるために、図書館で、偶然を装って、声をかけた。
(茜さんは……ずっと、僕を守ってくれていた)
ましろの胸の奥で、何かが、熱くなった。
それは、怒りでも、悲しみでもない。
もっと深い、もっと強い、何か。
——ゴゴゴゴゴゴッ。
突然、レゾナンス・チェアが、激しく振動し始めた。
「なに……!?」
玄葉の声が、初めて、動揺を帯びた。
操作盤のモニターが、赤く点滅する。数値が、ありえない速度で跳ね上がっていく。
「出力が……制御不能!?ありえない、こんなことが——」
ましろの中で、記憶と想いが、共鳴していた。
二年前の茜の涙。
図書館での笑顔。
夜の街で交わした約束。
「私、君を守りたいんだ」
「今度は、私が守るから」
「私は、もう、どこにも行かない」
茜の言葉が、記憶の断片が、すべて、一つに繋がっていく。
そして——
——バチンッ。
ましろの体の中から、何かが弾けた。
光が、溢れ出した。
ヘッドギアが、電極が、拘束バンドが、次々と弾け飛ぶ。
「馬鹿な……これが……これが、彼の力なのか……」
玄葉の顔が、恐怖に歪んだ。
チェアが、オーバーロードを起こしていた。操作盤から火花が散り、壁一面のモニターが、次々とブラックアウトしていく。
「記憶管理システムが……崩壊する……!」
ましろは、ゆっくりと立ち上がった。
体中から、力が溢れ出していた。失われていた記憶が、全部、戻ってきている。二年前のあの夜のことも、茜が自分を逃がすために何を犠牲にしたのかも、全部。
ましろは、茜の方を向いた。
茜は、床に座り込んだまま、ましろを見上げていた。涙でぐしゃぐしゃの顔で、でも、確かに、笑っていた。
ましろは、茜に歩み寄り、手を差し伸べた。
「茜さん。手を」
茜は、震える手で、ましろの手を握った。
ましろは、茜を立たせ、その手を、強く握りしめた。
そして、玄葉の方を向いた。
「僕の記憶も、茜さんの記憶も、僕たちの想いも——全部、僕たちのものだ。あんたには、渡さない」
声は、静かだった。
でも、その声には、二年前とは違う、確かな強さがあった。
玄葉は、火花を散らす操作盤の前で、立ち尽くしていた。銀色の髪が乱れ、灰色の瞳が、初めて、明確な恐怖を映している。
「……興味深い。実に興味深いよ、ましろ爻君。君の力は、私の想像をはるかに超えている」
玄葉は、震える声で、それでも微笑みを浮かべようとした。
「だが、これで終わりではない。君の力は、必ず私が——」
——バンッ。
執務室の扉が、勢いよく開いた。
「ましろ!」
黒髪のロングヘアを三つ編みにした女性が、息を切らして飛び込んできた。紫がかった黒い瞳。手には小さな手帳。ましろの元同期、奈羅花だった。
「あんたたち、無事だったのね!」
奈羅花の顔が、ほっと緩んだ。
「奈羅花……来てくれたんだ」
「当たり前でしょ。心配性なだけよ。……無理しないで、って言ったのに、全然無理してるじゃない」
奈羅花は、そう言って、小さく笑った。
「追手は、私が振り切ってきた。でも、すぐに増援が来る。早く脱出しましょう」
「……うん」
ましろは、茜の手を握ったまま、うなずいた。
「行こう、茜さん」
「……うん」
茜は、涙を拭って、笑った。
三人は、執務室を出た。
後ろで、玄葉の声が響いた。
「また会おう、ましろ爻。君の力は、必ず……!」
でも、三人は振り返らなかった。
——
地下通路を駆け抜け、地上への階段を上る。
警備の追手は、奈羅花が事前に撒いた妨害装置のせいで、混乱していた。三人は、廃工場の影を縫って、アッシュ・レーンを抜けた。
空が、白み始めていた。
夜明けだった。
「……はあ、はあ……」
ましろは、息を切らしながら、立ち止まった。茜も、奈羅花も、同じように肩で息をしている。
「……みんな、無事?」
「うん。僕は、大丈夫」
「私も……大丈夫」
茜の声は、まだ少し震えていた。でも、その目には、もう涙はなかった。
「……猫ちゃんたち、迎えに行かなくちゃね」
奈羅花が、スマートフォンを取り出した。
「私の知り合いの家に預けてる。すぐに連絡する」
「ありがとう、奈羅花」
「お礼は、全部終わってから言いなさい」
奈羅花は、そう言って、電話をかけ始めた。
ましろは、茜の方を向いた。
茜は、夜明けの空を見上げていた。オレンジ色の光が、彼女の栗色の髪を、柔らかく照らしている。
「……茜さん」
「ん?」
茜が、ましろを見た。
「僕、思い出したんだ。二年前のこと。茜さんが、僕の手を引いて、研究所から逃げてくれた夜のこと」
茜の目が、大きく見開かれた。
「……思い出したの?」
「うん。全部。茜さんが、泣きながら、ごめんねって言ってたこと。僕の手を、ずっと離さなかったこと。組織に背いて、資格を捨てて、僕を逃がしてくれたこと」
ましろは、茜の手を、両手で包み込んだ。
「……ごめんね、茜さん。僕、何も知らなくて。茜さんが、ずっと、一人で戦ってたのに」
茜は、首を横に振った。
「違うよ。謝るのは、私の方。私が、ましろ君の記憶を消す手伝いをした。私が、ましろ君に嘘をついてた。私が……全部、私のせいなのに」
茜の目から、涙がこぼれた。
「違うよ」
ましろは、茜の涙を、指で拭った。
「茜さんがいたから、僕は今、ここにいる。茜さんが守ってくれたから、僕は、記憶を取り戻せた。……ありがとう、茜さん」
茜は、泣きながら、笑った。
「……私も、ありがとう。ましろ君。私、ましろ君に会えて、本当に良かった」
ましろは、茜の手を握りしめた。
「僕はもう、一人でさまよわない。君がいるから」
茜の瞳が、朝の光を反射して、きらきらと輝いた。
「私も、もう嘘はつかない。ずっと、君のそばにいる」
その時だった。
「にゃあ」
小さな鳴き声が聞こえた。
見ると、いつの間にか、三毛猫のぱわこと、黒猫のニアが、二人の足元にすり寄っていた。
「ぱわこ!ニア!」
ましろは、しゃがみ込んで、二匹を抱き上げた。
「……あんたたち、本当に、ましろと茜さんが心配で、自分で脱走してきたの?」
奈羅花が、呆れたように言った。
「にゃあ」
ぱわこが、得意げに鳴いた。
「……まったく。でも、無事で良かった」
奈羅花は、小さく笑った。
「あんたたち、本当にお似合いね。……猫まで二人の味方だし」
「……そうかな」
ましろは、少し照れたように、目を逸らした。
茜は、ぱわこの頭を撫でながら、笑った。
「……ぱわこ、ニア。ありがとう。私のこと、心配してくれたんだね」
「にゃ」
ニアが、茜の手に、頭を擦りつけた。
夜明けの光が、四人と二匹を、優しく包み込んでいた。
ましろは、茜の手を握り直した。
茜の手は、温かかった。
(ああ、そうか)
ましろは、思った。
(僕が探していたのは、都市伝説でも、失われた記憶でもなかった)
(僕は、この温もりを、探していたんだ)
「……行こう、茜さん」
「うん」
二人は、手を繋いだまま、夜明けの街を歩き出した。
その後ろを、奈羅花が、ぱわことニアが、静かに、でも確かに、ついていく。
新しい家族の形が、そこから始まろうとしていた。
——だが。
その数時間後。
崩壊した第7研究所の地下3階。
瓦礫の山の中から、銀色の髪の男が、ゆっくりと起き上がった。
玄葉什。
灰色の瞳が、暗闇の中で、異様な光を放っていた。
「……興味深い。実に、興味深い」
玄葉は、壊れた操作盤の残骸を見つめながら、呟いた。
「ましろ爻。君の力は、私の想像を、はるかに超えていた。記憶と想いの共鳴——あれは、人類の進化の鍵だ。そして、私は……」
玄葉の口元が、ゆっくりと、弧を描いた。
「……まだ、諦めてはいないよ」
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