あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜
たった一度の歌枠が、すべてを変えた。
都心の配信スタジオ・ミリオンプロダクションの新人マネージャー、ケンタは、社長からアクビという配信者の専属担当を命じられる。身長140センチ、自称2000歳、スペードの女王の衣装をまとい、ハスキーでハイパーな声で話す彼女——そして歌うとき、世界は静まり返る。
「[興奮] あなたが私の新しいマネージャー? 小さくてかわいい!」
彼女の最初の一言に、ケンタは言葉を失う。しかし彼女の配信はいつも大惨事だ。ゲーム中に叫びすぎてマイクを壊し、カラオケのセッティングは機材の配線ミスで大混乱。ケンタは毎晩、機材の修理、スケジュールの調整、そして彼女の無理難題に振り回される。
一方、ライバル事務所のノクターン・エンターテインメントがアクビの引き抜きに目をつける。担当はリョウ——ケンタのかつての親友。彼は「お前には彼女を守れない」と警告し、アクビの過去の配信データを武器にすると脅す。
さらには、アクビの仲間の配信者セラが突然「私、ケンタのことが好きになったかも」と告白。彼のアパートに押しかけ、アクビの配信を覗き、二人の間に割って入ってくる。
「[冷たく]
あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜 - 配信者都市の新人マネージャー、最強の女王の番犬になる
「……で、今日からお前がアクビの専属マネージャーだ。頼んだぞ」
春の夕方。窓から差し込む光が、社長室の古びたフローリングをオレンジ色に染めていた。佐藤ケンタは、目の前でスウェット姿のまま足を組む男の言葉を、うまく飲み込めずにいた。
(今、なんて言った?)
ミリオンプロダクション本社、三階。ここは、配信文化都市ミリオンボイス・シティの西側、ハミングバード地区に建つ三階建ての小さな事務所だ。家賃の安いこの地区には、小規模な配信スタジオが百二十軒以上ひしめいている。ケンタがこの会社に入って、まだ二週間。仕事は主に、先輩マネージャーの手伝いで機材の搬入やケーブルの整理ばかりだった。
それが、いきなり専属だ。しかも、アクビ。
「ちょ、ちょっと待ってください。俺、まだ入社したばかりで、配信者を一人で担当するなんて……」
ケンタは、シワの目立つ白シャツの襟元を指でつまみながら言った。黒い髪は少し跳ねていて、朝から何度直しても寝癖が残っている。丸くて優しげな茶色の目が、不安そうに社長を見つめていた。肩には、工具の入ったボディバッグをいつものようにかけている。
「聞いてないのか。お前の採用理由を」
ゴウダ・ミツル。五十二歳。恰幅の良い体を安物のスウェットで包んだ、元配信者の社長だ。現役時代は「ミリオンの重戦車」と呼ばれたらしいが、今ではその面影もなく、腹回りに貫禄がついている。
「大学の音響サークルで、文化祭のライブ音響を一人で回したんだろ? 機材トラブルにも強い。何より、辞めない」
「はあ……」
「前の担当は三ヶ月で辞めた。その前は二週間だ。アクビのマネージャーは、うちで一番人が続かない。お前、面接で言ったよな。『誰かの役に立ちたい』って。あれ、嘘か?」
嘘じゃない。本当に、そう思っている。思っているけれど、それは「せめて役に立ちたい」という、自信のなさの裏返しでもあった。ケンタは口を開きかけて、やめた。
(断れる立場じゃない。それに、断ったら多分クビだ)
この街で、配信業界の仕事に就けたのは奇跡に近い。大学を出て、何のコネもない自分が、まともな会社に入れるとは思っていなかった。ミリオンプロダクションは小さな事務所だが、設立十二年、所属配信者二十八名の老舗だ。
「……分かりました。やります」
ケンタは、右手の甲に残る古い火傷跡を、左手の親指でそっと撫でた。大学時代、音響機材の修理中につけた傷だ。何か不安なとき、この傷に触れるのが癖になっている。
「よし、話が早い。で、だ。アクビのプロフィールを見ろ」
ゴウダが机の上に放り投げた一枚の書類。ケンタはそれを手に取り、目を走らせた。そして、固まった。
アクビ・デモンスペード。身長百四十センチ。年齢、自称二千歳。本名、住所、連絡先、すべて未記入。
「……あの、社長。これ、プロフィールになってないです」
「そうだ。契約書以外、事務所も個人情報を一切持ってない」
「どういうことですか」
「文字通りの意味だ。あいつは配信者としての姿、『スペードの女王』の衣装を脱ぐと、本当の自分に戻ってしまうと言って、配信外でも絶対に着替えない。飯を食うときも、寝るときも、その格好だ」
ケンタは、書類に印刷された写真を見た。赤と黒のドレス。胸元に輝くスペードの紋章。大きな瞳は真紅で、銀色の髪が腰まで伸びている。背は低く、まるで精巧な人形のようだった。
(これが……アクビ)
「登録者数、百二十万人。うちの看板だ。歌枠の同時接続は、毎回二十万を超える」
「すごい……じゃなくて、え、でも、なんでその人がうちに?」
「さあな。三年前、ふらっと事務所に来て『ここで配信させなさい』と契約書を置いていった。それ以来、うちにいる」
ゴウダは、机の上の湯飲みを手に取り、茶を一口すする。窓の外では、春の夕風が商店街ののぼり旗を揺らしていた。
「それから、もう一つ。最近、ノクターンエンタメがうちの配信者を引き抜こうと動いてる」
ノクターンエンタメ。その名前を聞いた瞬間、ケンタの胸の奥で、何かがチクリと痛んだ。
「最大手の……あの、狩猟型の」
「そうだ。資本力はうちの三倍。所属配信者百二十名。スキャンダルをスクープしては、他社の配信者を引き抜く。やり口は汚いが、金はある」
ケンタは、右手の火傷跡を強く握った。古い記憶が、頭の隅でうずいている。大学時代、親友だったリョウと組んだ配信プロジェクト。数字の取れない配信者を切り捨てる方針に反発して、自分は左遷された。そのリョウは今、ノクターンエンタメで敏腕マネージャーをしていると聞いた。
(あの頃のことは、もう終わったことだ)
そう言い聞かせても、心のどこかがざわつく。ケンタは表情には出さないよう、軽く息を吐いた。
「アクビを守れ。あいつは、うちの命綱だ」
ゴウダの声が、急に低くなった。
「お前にしか頼めん。あいつは、人を選ぶからな」
「……人を、選ぶ」
「会えば分かる。今日はもう帰ったが、明日、第2スタジオに来る。それまでに、部屋の状態を見ておけ」
ケンタは頷き、社長室を後にした。
廊下を歩きながら、窓の外に目をやる。ハミングバード商店街の夕暮れが、眼下に広がっていた。全長四百メートルのアーケードには、配信者向けの機材店やカフェが並び、仕事帰りの配信者やスタッフが行き交っている。
「ここが、俺の働く街か」
ミリオンボイス・シティ。人口三百二十万。この街では、ライブ配信が経済と文化の中心だ。トップ配信者は、芸能人以上の影響力を持つ。市の税収の三十二パーセントが、配信関連産業から生まれている。
その中心を流れるのが、オルフェウス川。川の東側は高層ビル街のクレッシェンド区、西側がこのハミングバード地区だ。そして、街のシンボルであるボイスタワーが、夕日に照らされてオレンジ色に輝いている。高さ二百八十メートル。夜には配信者の楽曲に合わせてライトアップされる、配信アンテナ塔だ。
「この街の電力網は、十二年前のボイスグリッド計画で、音声データ通信網として再設計されてる」
いつの間にか、ゴウダが隣に立っていた。
「配信スタジオが密集する地区には、優先的に電力が供給される。停電しても、スタジオが一番先に復旧する。このハミングバード地区が配信者都市として生き残ってるのは、その恩恵だ」
「だから、こんなにスタジオが多いんですね」
「そうだ。家賃が安いのもあるが、何より電力が安定してる。うちのビルも、あの計画の対象地区に建ってる」
ケンタは、街の景色をじっと見つめた。夕暮れのアーケードに灯りがともり始める。あちこちのビルから、配信のオープニングジングルが微かに聞こえてくるようだった。
(俺が飛び込んだのは、そういう世界なんだ)
改めて、自分が立っている場所の大きさと熱量を感じた。同時に、足元がすくむような不安も、確かにあった。
「それと、ケンタ。一つ言っておく」
ゴウダの声に、ケンタは振り返った。
「アクビの部屋には、物が散乱してる。壊れたマイクの山、切れたケーブル、機材の残骸。前の担当が辞めた原因の一つだ。お前、面倒見が良さそうだからな。……頑張れ」
ゴウダは、励ましているのか脅しているのか分からない笑顔で、ケンタの肩をポンと叩いた。
「……はあ」
ため息が、夕暮れの廊下に溶けていった。
二階へ降りる。階段の壁には、所属配信者のポスターが貼ってあった。歌姫、ゲーマー、雑談の達人。その中で一際目立つのが、銀髪の小さな女王のポスターだ。
『アクビ・デモンスペード 歌枠 毎週金曜22時』
ポスターの中で、彼女は不敵に笑っていた。赤い瞳が、まるでこちらを見透かすように光っている。
(この人を、俺が担当するのか)
現実感が、まだ湧かない。
第2スタジオの前に立つ。ドアには、手書きのプレートがかかっていた。『アクビ専用』。文字が、少し傾いている。
「失礼します」
ドアを開けた瞬間、ケンタは言葉を失った。
「……なんだ、これ」
部屋の中は、想像を超えていた。まず目に飛び込んできたのは、壁際に積み上げられた壊れたマイクの山。十本、いや二十本はある。粉々に割れたヘッドセット、根元から折れたスタンド、潰れたポップガード。床には、配信機材のケーブルが蛇のように散乱し、足の踏み場を探すのも一苦労だ。
部屋の中央には、特注の低いデスク。高さは、一般的なデスクより二十センチは低い。アクビの身長に合わせたものだろう。デスクの上には、空のエナジードリンク缶が五本、ティッシュの箱、何かの包装紙。
壁際の棚には、新品の予備マイクがずらりと並んでいた。少なくとも十五本。壊す前提で、買い置きしてあるらしい。
「……前の担当は、これを全部一人で片付けてたのか」
頭が痛くなってくる。
ふと、壁に目をやる。防音壁の一部に、油性ペンで書かれた落書きがあった。
『2000年目の独り言』
その下に、小さな字で何か書いてある。ケンタは、ケーブルを踏まないように慎重に近づいた。
『今日も誰も来なかった。でも、マイクは待ってる。歌えば、誰かが聞いてる気がする。だから、まだ歌う』
ケンタは、その文字を指でなぞった。インクは、少し掠れている。書かれてから、かなり時間が経っているようだ。
(アクビは、この部屋で一人で)
二千歳。自称だが、その言葉が急に、重みを持った気がした。
「……よし」
ケンタは、肩にかけたボディバッグから工具セットを取り出した。精密ドライバー、ニッパー、テスター、半田ごて。大学時代から使い込んでいる、相棒のような道具たちだ。
「まずは、これだな」
手に取ったのは、比較的損傷の軽いコンデンサーマイク。グリルの部分が凹み、内部の配線が断線している。
「この程度なら、直せる」
ケンタは床に座り込み、マイクを分解し始めた。ドライバーを回す手は、迷いがない。火傷跡のある右手が、慣れた動きで部品を外していく。
大学時代、音響サークルで機材の修理を一手に引き受けていた。壊れたアンプ、ノイズの出るミキサー、断線したケーブル。誰もやりたがらない仕事を、ケンタは進んでやった。
(誰かの役に立ちたかった。それだけだ)
今も、同じだ。目の前の壊れた機材を直す。それが、自分にできる最初の一歩。
半田ごての熱が、基板に触れる。微かな煙と、溶けた半田の匂い。この匂いを嗅ぐと、大学の部室を思い出す。夕方の部室で、一人、機材と向き合っていたあの頃。
「……よし、通電確認」
テスターを当てる。針が振れた。直った。
「次」
二本目。三本目。時間を忘れて、マイクの修理に没頭した。床に散乱したケーブルを束ね、断線箇所を探しては半田で直す。壊れたスタンドは、部品を組み合わせて再生する。
窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。ハミングバード商店街のネオンが、部屋の中に青や赤の光を落としている。
「……はあ、疲れた」
ケンタは床に寝転がり、天井を見上げた。直したマイクは、三本。ケーブルは十本以上。部屋は、さっきよりは少しだけ、マシになった。
(明日、アクビは来るのか)
来る。ゴウダがそう言った。会ったら、なんて言おう。
『初めまして、今日から担当します』
いや、それでいいのか。相手は二千歳の女王だ。もっと敬意を払うべきか。
「……二千歳って、なんだよ」
思わず、声に出して笑ってしまった。
(でも、もし本当に二千歳なら。ずっと、一人で歌ってきたのか)
壁の落書きが、頭から離れない。『今日も誰も来なかった』。あの言葉が、妙に胸に刺さる。
ケンタは起き上がり、低いデスクの前に立った。椅子も、特注で低い。座ってみる。膝が、胸のあたりまで曲がる。
(この目線で、彼女は配信してるのか)
モニターの位置も、デスクに合わせて低い。この部屋のすべてが、アクビの身長に合わせて作られている。
「……すごいな、ほんとに」
感心しているのか、呆れているのか、自分でも分からない。
ふと、デスクの隅に、一枚のメモが置いてあるのに気づいた。手に取る。小さな字で、こう書いてあった。
『新しいマネージャーへ。マイクは大事に使うこと。でも、盛り上がると壊れちゃうの。ごめんね。アクビ』
ケンタは、そのメモをじっと見つめた。
「……先に、謝られてる」
笑いが込み上げてくる。同時に、胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
(この人、きっと、いい人だ)
根拠はない。でも、このメモと、壁の落書きだけで、なんとなくそう思えた。
ケンタは、工具をボディバッグにしまい、部屋の電気を消した。暗くなった部屋で、壁の落書きが、窓からのネオンに照らされて浮かび上がる。
『2000年目の独り言』
「明日、ちゃんと会おう」
誰に言うでもなく、呟いた。
廊下に出ると、階段の向こうから、誰かの歌声が微かに聞こえてきた。一階の倉庫だろうか。低く、震えるような、不思議な声。
(今の、歌……)
ケンタは足を止めた。声は、すぐに消えた。空耳だったかもしれない。
でも、確かに聞こえた。あの声が、アクビのものかどうかは分からない。分からないけれど、背筋がぞわりとした。
「……なんだ、今の」
心臓が、少し速い。
(もし、あれがアクビの声だとしたら)
百二十万人が聞きたがる理由が、少し分かった気がした。
一階の受付を通り過ぎようとすると、受付兼経理のタナベ・ユキが、無言で封筒を差し出してきた。四十代の、寡黙だが有能な女性だ。ケンタは会釈して受け取る。中には、アクビの配信スケジュール表と、視聴者データの資料が入っていた。
「……ありがとうございます」
タナベは、小さく頷いただけだった。
外に出る。春の夜風が、汗ばんだ首筋を冷やしていく。ハミングバード商店街は、夜になっても人通りが絶えない。配信帰りの若者、機材を担いだスタッフ、夜配信に向かう配信者たち。
「炎上焼き鳥、一本百八十円! 今日はサービスで三本五百円!」
居酒屋ノイズの呼び込みの声が、夜のアーケードに響く。名物の炎上焼き鳥は、配信者たちの愚痴のつまみだ。
ケンタは、その前を通り過ぎながら、ふと足を止めた。
(今日は、飲んで帰るか)
いや、やめた。明日は、初めてアクビに会う日だ。二日酔いで行くわけにはいかない。
代わりに、コンビニでおにぎりとお茶を買った。店の外のベンチに座り、一人で夕食をとる。スマホで、アクビの配信アーカイブを開いた。
『【歌枠】2000年分の歌、聞いてくれる?』
再生する。
——最初の一音で、世界が変わった。
低く、深く、甘い声。それが、イヤホンを通して鼓膜を震わせる。ハスキーボイス、と資料には書いてあった。低音域に倍音が重なる、独特の波形。マイクを通すと、聴く者に物理的な震えを与える。
「……すご」
声にならない声が、漏れた。
コメントが、流れる。
『この声、反則だろ』
『今日も神回』
『耳が幸せ』
ケンタは、おにぎりを口に入れたまま、動けなくなった。
(これが、俺が担当する配信者)
歌が終わる。余韻で、指先が震えている。
「……マジか」
この人を、守れと社長は言った。
(守れるのか、俺に)
自信は、ない。でも。
「やるしか、ないよな」
ケンタは、スマホを閉じ、残りのおにぎりを口に押し込んだ。
空を見上げる。ビルの隙間から、ボイスタワーの先端が見えた。夜のライトアップが、配信者の楽曲に合わせて、ゆっくりと色を変えている。
(この街で、俺は)
何者になれるのか。何者にもなれないのか。
分からない。でも、目の前のことをやるだけだ。
「明日、ちゃんと会おう。アクビさん」
ケンタは立ち上がり、夜のハミングバード地区を歩き出した。
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