あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜
たった一度の歌枠が、すべてを変えた。
都心の配信スタジオ・ミリオンプロダクションの新人マネージャー、ケンタは、社長からアクビという配信者の専属担当を命じられる。身長140センチ、自称2000歳、スペードの女王の衣装をまとい、ハスキーでハイパーな声で話す彼女——そして歌うとき、世界は静まり返る。
「[興奮] あなたが私の新しいマネージャー? 小さくてかわいい!」
彼女の最初の一言に、ケンタは言葉を失う。しかし彼女の配信はいつも大惨事だ。ゲーム中に叫びすぎてマイクを壊し、カラオケのセッティングは機材の配線ミスで大混乱。ケンタは毎晩、機材の修理、スケジュールの調整、そして彼女の無理難題に振り回される。
一方、ライバル事務所のノクターン・エンターテインメントがアクビの引き抜きに目をつける。担当はリョウ——ケンタのかつての親友。彼は「お前には彼女を守れない」と警告し、アクビの過去の配信データを武器にすると脅す。
さらには、アクビの仲間の配信者セラが突然「私、ケンタのことが好きになったかも」と告白。彼のアパートに押しかけ、アクビの配信を覗き、二人の間に割って入ってくる。
「[冷たく]
あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜 - 女王の歌声、2000年の孤独を空に放つ
違う、と思った。
頭では分かっている。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
佐藤ケンタは、特設ステージの袖から、五千人を超える観客の波を見つめていた。
ボイスタワーの直下。高さ280メートルの配信アンテナ塔が、午後の光を背にそびえている。その足元に組まれた巨大なステージは、鉄骨とパネルでできた仮設の城だった。観客席はすでに満員で、立ち見の人間が歩道にあふれている。
(これが、ミリオンボイス・フェス)
ケンタは、手に持った工具を握りしめた。右手の甲にある古い火傷の跡が、汗でじわりと光る。
「佐藤さん、メインミキサーの最終チェックお願いします」
インカムから声が飛んできた。ケンタは「うっす」 と短く返し、機材ラックの裏へ回る。
大学時代の音響サークルで培った技術。あの頃は、配信者の声をどうやったら一番きれいに届けられるか、それだけを考えていた。まさか、こんな形で役に立つ日が来るとは。
「ケーブルは全部接続済み。アクビさんのマイクは、低音域の倍音を拾いやすいようにコンデンサーマイクを選定しました。リミッターも三段階かけてます」
「了解。じゃあ、ボイスグリッドとの連動テストを始めるよ」
ボイスグリッド。視聴者のリアルタイム反応を自動分析して配信者にフィードバックする、音声認識型の配信支援AI。このフェスの配信は、ボイスタワーのアンテナから市内全域に届けられる。同時接続は、すでに十万を超えていた。
(十万……)
ケンタは、ステージ横に設置された大型モニターの数字を見た。
108,432。
数字が、じわじわと増えていく。
(アクビさん、見てるか。これが、あなたの声を待ってる人の数だ)
ケンタは、楽屋へと続く通路を歩いた。
***
楽屋は、ボイスタワーの一階にある関係者用スペースの一角だった。簡易のパーテーションで区切られただけの、狭い空間。鏡台と、パイプ椅子が二脚。それだけ。
アクビ・デモンスペードは、鏡の前に立っていた。
赤と黒のドレス。胸元に輝くスペードの紋章。銀色の髪が、蛍光灯の下で青白く光っている。身長140センチの小さな体は、しかし、その衣装をまとうことで、確かに「女王」だった。
彼女は、自分の胸元を、両手でぎゅっと握りしめていた。
「アクビさん」
ケンタが声をかけると、アクビはゆっくりと振り返った。真紅の瞳が、ケンタを捉える。
「……あんた、汗くさいわよ」
「え、あ、すみません。機材の調整してたんで」
ケンタは慌てて自分のシャツの匂いを嗅いだ。アクビが、ふっと小さく笑う。
「冗談よ。それより、ステージの調子はどうなの」
「ばっちりです。あなたの声が、一番きれいに響くようにセッティングしました。低音の倍音も、ちゃんと拾えます」
「ふぅん。あんた、そういうことだけは自信あるのね」
「音響だけは、誰にも負けません」
ケンタは、言い切った。
アクビは、少しだけ目を細めた。
「……ねえ、ケンタ」
名前を呼ばれて、ケンタの胸の奥が、小さく跳ねた。
「私、今日、本気で歌うわ。今までで、一番、本気の歌を」
「……はい」
「あの切り抜きで、私の声は、一度、死んだ。でも、あんたが、もう一度ステージに立たせてくれた。だから、今日は、全部、取り戻すの」
アクビは、胸元のスペードの紋章を、指でなぞった。
「この衣装を着てる限り、私は、スペードの女王。脱いだら、ただの、歌うのが好きなだけの、ちっぽけな女の子に戻っちゃう。……でも、今日は、そのどっちでもない。今日の私は、あんたが信じてくれた、私よ」
ケンタは、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
(この人は、今、何と戦ってるんだろう)
アクビの背中には、二千年の時間がある。ケンタには想像もできない孤独が、あの小さな体の中に詰まっている。
「……アクビさん。俺、ステージの袖で見てます。何があっても、あなたの歌を、最後まで」
「当たり前でしょ。あんたは、私のマネージャーなんだから」
アクビは、そう言って、もう一度鏡に向き直った。
***
開演まで、あと三十分。
ケンタは、ステージ袖に戻った。
「佐藤さん、これ、見てください」
スタッフが差し出したタブレットには、フェスの公式配信画面が表示されていた。コメント欄が、異様な速度で流れている。
『アクビまだ出てくんな』
『差別発言した奴がよく出られるな』
『ミリプロは恥を知れ』
アンチのコメントが、明らかに組織的に書き込まれている。
「ブロックはしてますが、追いつきません。それに……」
スタッフが言いかけた時だった。
会場の空気が、変わった。
ざわめきが、波のように広がっていく。
「……なんだ?」
ケンタは、ステージ袖から会場を見渡した。
観客の視線が、一斉に、ある一点に集まっている。
ステージと観客席の間の、関係者通路。
そこに、長身の男が立っていた。
黒いスーツ。オールバックに固めた黒髪。冷たい灰色の目。左耳に小さなシルバーピアスが、午後の光を反射している。
リョウ・クロサキ。
「よお、ケンタ。いいフェス日和だな」
リョウは、ゆっくりとステージ袖に近づいてきた。
「お前、何しに来た」
ケンタの声が、低くなる。
「見に来たんだよ。お前の大事な女王様が、どうやって沈むかをな」
リョウは、内ポケットから、一枚の封筒を取り出した。
「彩声協会には、もう通達済みだ。これから、この完全版アーカイブを、公式配信で公開する」
「なに……?」
「3年前のあの配信の、完全版だよ。お前が必死に探してた、あれだ。切り抜きの元になった、本物のアーカイブ。文脈も何もかも、全部入ってる。これを公開すれば、お前の女王様が、あの時、何を言ったのか、誰の目にも明らかになる」
ケンタの指先が、冷たくなっていく。
「お前……本気か。あれは、悪意ある編集だって、お前が一番よく知ってるはずだ」
「だからこそ、公開する価値がある。完全版を見れば、切り抜きが編集だったことは分かる。でもな、ケンタ。世間は、あの3秒の印象で動いてる。完全版を見たところで、『なんだ、やっぱり嘘つきって言ってるじゃないか』で終わりだ。むしろ、傷口を広げるだけだ」
リョウの灰色の目は、笑っていなかった。
「お前の女王様は、今日、ステージの上で、自分の声が、自分の言葉が、世界に否定される瞬間を味わうことになる。それが、数字と結果の世界の現実だ」
ケンタは、拳を握りしめた。
(くそ……また、こいつは)
リョウのやり方は、いつもそうだ。正面から潰す。正論で、数字で、現実で。
でも。
(俺は、もう、あの時の俺じゃない)
ケンタは、顔を上げた。
「……分かった。なら、公開しろ。ただし、条件がある」
「ほう? 条件?」
「完全版を公開するなら、ステージ上のスクリーンで、同時に流せ。観客全員と、配信視聴者全員の前で、だ」
リョウの目が、わずかに細くなった。
「……何を考えてる」
「お前が言ったんだろ。完全版を見れば、切り抜きが編集だったことは分かるって。なら、一番多くの人間の前で、それを明らかにしてやる。アクビさんの言葉の、本当の意味をな」
「お前、本気で言ってるのか。あれを大画面で流せば、お前の女王様は、もっと残酷に晒されるぞ」
「それでも、逃げない。アクビさんは、自分の声で、自分の歌で、全部ひっくり返す。俺は、それを信じてる」
ケンタの声は、震えていなかった。
リョウは、しばらくケンタを見つめていた。
「……面白い。いいぜ、その条件、飲んでやる。彩声協会には、俺から話を通す。ステージ上のスクリーンで、完全版を同時公開。開演直前に、な」
リョウは、封筒をケンタの胸に押しつけた。
「受け取れ。これが、その完全版だ」
ケンタは、封筒を受け取った。
リョウが、ケンタの耳元に、顔を寄せる。
「……ケンタ。次は、本気で潰しに来る。お前の過去も、あの小娘の秘密も、全部暴いて、二度と配信業界に戻れないようにしてやる。社長が、そう決めたんだ」
「社長……?」
「クロサキ・レイジ。ノクターンエンタメのトップだ。あの人が動けば、お前の事務所ごと、この業界から消える。覚悟しておけ」
リョウは、それだけ言うと、背を向けた。
「せいぜい、今日のステージを楽しめよ。お前の女王様の、最後の晴れ舞台だ」
リョウは、関係者通路の向こうに消えていった。
ケンタは、封筒を握りしめたまま、立ち尽くした。
(クロサキ・レイジ……)
ノクターンエンタメの社長。リョウの上司。
(リョウだけじゃない。もっと巨大な敵が、動いてる)
ケンタの背筋に、冷たいものが走った。
***
開演五分前。
会場の照明が、ゆっくりと落ちていく。
観客のざわめきが、期待と不安の混じった静けさに変わっていく。
ケンタは、ステージ袖で、大型モニターを見つめていた。
同時接続者数は、十五万を超えていた。
(リョウの通告で、視聴者が増えてる)
完全版アーカイブの公開予告。それが、ネット上で拡散され、野次馬が集まってきている。
「佐藤さん、スクリーンへの映像出力、準備できました」
「……お願いします」
ケンタは、ステージの中央を見た。
暗いステージ。
その中心に、小さな影が立っていた。
赤と黒のドレス。銀色の髪。
アクビ・デモンスペード。
彼女は、マイクを手に、静かに立っていた。
(アクビさん……)
ケンタは、心の中で、彼女の名前を呼んだ。
その時だった。
ステージ上の巨大スクリーンが、白く光った。
『——今日は、私の配信を見てくれてありがとう。でも、ちょっとだけ、話したいことがあるの』
3年前の、アクビの声。
会場が、ざわりと揺れた。
『私ね、ずっと信じてたの。配信を見てくれる人は、みんな、私のことを好きでいてくれるんだって。でも……違ったみたい』
スクリーンの中のアクビは、うつむいていた。
『私が信頼してたスタッフが、私の裏で、私の個人情報を売ってたの。ねえ、人間なんて、みんな嘘つきよ』
その瞬間、会場の空気が、張り詰めた。
あの3秒の切り抜き。
でも、今、流れているのは、その前後の文脈を含む、完全版。
『……ごめん。今の、忘れて。私、ちょっと、疲れてるだけ。今日も、最後まで聞いてくれて、ありがとう』
スクリーンの中のアクビは、そう言って、小さく笑った。
映像が、止まる。
会場が、沈黙に包まれた。
観客たちは、困惑していた。
(そうだ。これが、真実だ)
ケンタは、スクリーンを見つめた。
あの言葉は、信頼していたスタッフに裏切られた直後の、傷ついた心から出たもの。人間全体を否定したわけじゃない。そして、その直後、彼女は「忘れて」と言い、「ありがとう」と笑った。
(この文脈があれば、切り抜きが、どれだけ歪んでいたか、分かるはずだ)
でも。
「なんだ、やっぱり言ってるじゃん」
「嘘つきって言ったのは事実だろ」
「謝れば済むと思ってるのかよ」
観客席から、声が上がる。
(リョウの言った通りだ)
完全版を見ても、世間は、あの3秒の印象で動いている。
「差別発言した奴が、よく出てこれるな!」
「帰れ!」
「嘘つき女王!」
野次が、波のように広がっていく。
ケンタは、ステージ袖で、唇を噛んだ。
(くそ……このままじゃ)
その時だった。
アクビが、マイクを握りしめた。
小さな体が、ステージの中央で、すっと伸びる。
彼女は、観客を見渡した。
そして。
「……うるさいわよ」
その声が、会場に響いた。
ハスキーボイス。低音域に倍音が重なる、彼女だけの声。
たった一言。
それだけで、会場の空気が、変わった。
野次が、止まった。
「あんたたち、私の何を知ってるの。切り抜きの3秒? 編集された言葉? それで、私の二千年を、全部、分かったつもりになってるの?」
アクビの声が、マイクを通して、ボイスタワーのスピーカーから、会場中に響き渡る。
「いいわ。聞かせてあげる。私の、本当の声を。私の、本当の歌を。あんたたちが、嘘だって思ってる、私の全部を」
アクビは、目を閉じた。
静寂。
そして、彼女は、歌い始めた。
***
最初の一音が、会場を貫いた。
低い。
深い。
地面の底から響いてくるような、重い音。
ケンタは、ステージ袖で、全身の毛が逆立つのを感じた。
(これが……アクビさんの、本気の歌)
ハスキーボイス・エフェクト。
彼女の声は、ただの声じゃない。低音域に倍音が重なり、マイクを通すと、聴く者の体に物理的な震えを与える。
観客たちが、息を止めた。
五千人の空気が、一斉に、彼女の声に飲み込まれていく。
『——あの日、私は、空を見てた』
歌詞が、始まった。
『二千年の夜を、一人で数えて』
『誰にも言えない、孤独の歌を』
『声に出さずに、歌ってた』
アクビの声が、ボイスタワーの壁に反射して、空に抜けていく。
ケンタは、大型モニターを見た。
同時接続者数が、跳ねていた。
15万。
20万。
30万。
「……アクビ・バースト」
ケンタは、呟いた。
彼女が本気で歌うと、同時接続者数が一気に跳ね上がる現象。
40万。
50万。
数字が、止まらない。
『——私の声を、信じてくれる?』
アクビの歌が、クライマックスに向かっていく。
『嘘つきって、言われても』
『それでも、歌うの』
『私の声が、届くなら』
『二千年の、孤独が』
『誰かの、光になるなら』
アクビの声が、最高音を打ち抜いた。
その瞬間。
ケンタは、見た。
観客の中に、泣いている人がいる。
手を口に当てて、涙を流している女性。
隣の男も、目頭を押さえている。
野次を飛ばしていた連中が、黙って、ステージを見つめている。
(届いてる)
ケンタの胸の奥が、熱くなった。
(アクビさんの声が、本当の意味で、届いてる)
切り抜きで歪められた声じゃない。
編集された言葉じゃない。
彼女の、本物の声が、本物の歌が、五千人の心に、十万の視聴者の心に、直接、届いている。
『——ありがとう』
アクビの最後の一音が、静かに消えていった。
沈黙。
数秒の、空白。
そして。
拍手が、起こった。
一人が、二人が、十人が、百人が。
五千人の観客が、総立ちで、拍手を送っている。
「アクビー!」
「女王様ー!」
「ごめんなー!」
声が、飛び交う。
さっきまで野次を飛ばしていた人間が、涙を流しながら、拍手をしている。
ケンタは、ステージ袖で、拳を握りしめた。
(やった……)
(アクビさん、やったんだ)
モニターの同時接続者数は、60万を超えていた。
開演前の、約四倍。
三倍どころの騒ぎじゃない。
アクビは、マイクを持ったまま、観客を見渡した。
彼女の真紅の瞳に、涙が浮かんでいる。
「……私の声を、信じてくれて、ありがとう」
彼女の声が、マイクを通して、会場に響いた。
「私は、二千年、一人で歌ってきた。誰にも、届かないかもしれないって、思ってた。でも、今日、初めて、分かったの。私の声は、ちゃんと、届くんだって」
アクビは、ゆっくりと、ステージの袖にいるケンタの方を振り返った。
目が、合った。
彼女は、小さく、笑った。
涙を浮かべたまま。
ケンタは、何か言おうとして、言葉が出なかった。
(守り切った)
(俺は、今日、アクビさんを、守り切った)
胸の奥から、じわりと温かいものが込み上げてくる。
でも、同時に。
(この声の、秘密)
(スペードの女王の、正体)
アクビが言っていた。
「祖母から受け継いだ声」
「脱ぐと本当の自分に戻ってしまう」
(彼女は、一体、何者なんだ)
ケンタの胸に、新たな疑問が、静かに、しかし確かに、芽生えていた。
***
ステージが終わり、観客がゆっくりと退場していく。
会場の熱気が、夕方の風に溶けていく。
ケンタは、機材の撤収作業をしていた。
「佐藤さん、今日は本当にお疲れ様でした」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」
スタッフと握手を交わす。
(終わったんだ)
(フェスが、終わった)
ケンタは、ステージを見上げた。
アクビが立っていた場所。
彼女の歌が、まだ、空気の中に残っているような気がした。
「ケンタくん」
声がした。
振り返ると、セラ・ノクスが立っていた。
紫がかった長いストレートヘア。サイドに三つ編み。切れ長で感情が読みにくい青紫の目。右手で髪をかき上げる、彼女の癖。
「セラさん。今日は、裏方、ありがとうございました。SNSでの拡散、すごく助かりました」
「ふふっ、どういたしまして。アクビちゃんの歌、すごかったわね。私、裏で泣いちゃったのよ」
セラは、そう言って、ケンタの隣に立った。
「ねえ、ケンタくん。私、今日、アクビちゃんの歌を聞いて、思ったの」
「……何をですか?」
「私、やっぱり、あんたのことが好き。本気で、好き。冗談でも、計算でもなく、心の底から」
セラの声は、いつもの甘えた調子じゃなかった。
低く、真剣で、少しだけ震えている。
「アクビちゃんは、あんたのことを、マネージャーとして、信じてる。それは、分かってる。でも、私のこの気持ちは、それとは別。私は、ケンタくんを、一人の男として、好きになってるのよ」
ケンタは、言葉に詰まった。
(セラさん……)
セラの告白は、初めてじゃない。
でも、今までとは、重さが違う。
「返事は、今すぐじゃなくていいの。ただ、私の気持ち、本気だってことだけ、覚えておいて。……それじゃ、私、次の仕事があるから」
セラは、そう言って、背を向けた。
「あ、セラさん——」
ケンタが呼び止めようとした時、セラは、もう歩き出していた。
その後ろ姿を、ケンタは、ただ見つめていた。
(俺は、どうしたいんだ)
セラへの気持ち。
アクビへの気持ち。
二つの感情が、胸の中で、ぐるぐると渦を巻いている。
その時だった。
ケンタは、視線を感じた。
振り返る。
ステージの反対側。
関係者通路の奥。
アクビ・デモンスペードが、立っていた。
赤と黒のドレス。銀色の髪。
彼女は、ケンタとセラのやりとりを、遠くから見つめていた。
真紅の瞳が、夕日に染まって、赤く光っている。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、じっと、ケンタを見つめていた。
(アクビさん……)
ケンタは、彼女の視線の意味を、考えた。
嫉妬?
それとも、信頼?
それとも、もっと別の、何か?
アクビは、ゆっくりと、目を逸らした。
そして、関係者通路の奥へ、消えていった。
***
夜。
フェスの撤収作業が終わり、ケンタは、ボイスタワーの足元に立っていた。
高さ280メートルの塔が、夜空にそびえている。
頂上のアンテナから、電波が、街中に配信者たちの声を届け続けている。
(今日、アクビさんの声は、あの塔から、世界に届いた)
ケンタは、スマホを取り出した。
アクビの配信アーカイブ。
今日のフェスの映像が、すでに何万回も再生されている。
コメント欄には、
『アクビちゃん、ごめん。切り抜き信じてた』
『本物の歌、すごかった』
『女王様、これからも応援します』
謝罪と称賛の言葉が、溢れていた。
(良かった……本当に、良かった)
ケンタは、スマホを握りしめた。
でも。
リョウの言葉が、頭から離れない。
『次は、本気で潰しに来る』
『クロサキ・レイジが動けば、お前の事務所ごと、この業界から消える』
(ノクターンエンタメの社長……)
(リョウの背後にいる、本当の敵)
ケンタは、夜空を見上げた。
星は、見えなかった。
でも、ボイスタワーの頂上から、電波が、静かに、街中へと広がっていく。
(アクビさんの正体)
(彼女の声の秘密)
(そして、クロサキ・レイジの影)
ケンタは、拳を握りしめた。
(やるべきことは、まだ、たくさんある)
(でも、今日だけは)
ケンタは、目を閉じた。
アクビの歌が、まだ、耳の奥で響いている。
『私の声が、届くなら』
『二千年の、孤独が』
『誰かの、光になるなら』
(届いてたよ、アクビさん)
(あなたの声は、ちゃんと、届いてた)
ケンタは、静かに、目を開けた。
ボイスタワーの灯りが、夜の街に、優しく溶けていた。
彼の戦いは、まだ、終わらない。
でも、今日という日は、確かに、一つの勝利だった。
アクビの声が、世界に届いた日。
そして、ケンタが、初めて、守り切れた日。
その記憶は、きっと、これからの戦いの中で、彼を支え続ける。
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