あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜
たった一度の歌枠が、すべてを変えた。
都心の配信スタジオ・ミリオンプロダクションの新人マネージャー、ケンタは、社長からアクビという配信者の専属担当を命じられる。身長140センチ、自称2000歳、スペードの女王の衣装をまとい、ハスキーでハイパーな声で話す彼女——そして歌うとき、世界は静まり返る。
「[興奮] あなたが私の新しいマネージャー? 小さくてかわいい!」
彼女の最初の一言に、ケンタは言葉を失う。しかし彼女の配信はいつも大惨事だ。ゲーム中に叫びすぎてマイクを壊し、カラオケのセッティングは機材の配線ミスで大混乱。ケンタは毎晩、機材の修理、スケジュールの調整、そして彼女の無理難題に振り回される。
一方、ライバル事務所のノクターン・エンターテインメントがアクビの引き抜きに目をつける。担当はリョウ——ケンタのかつての親友。彼は「お前には彼女を守れない」と警告し、アクビの過去の配信データを武器にすると脅す。
さらには、アクビの仲間の配信者セラが突然「私、ケンタのことが好きになったかも」と告白。彼のアパートに押しかけ、アクビの配信を覗き、二人の間に割って入ってくる。
「[冷たく]
あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜 - 凍てつく川辺の再会、最凶の元親友とどん底からの反撃
違う、と思った。
頭では分かっている。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
佐藤ケンタは、オルフェウス川の遊歩道に立っていた。まだ日も昇りきらない早朝。川面から立ちのぼる冷たい霧が、ハミングバード地区の古い建物の輪郭をぼやけさせている。
昨日の夜のことを、ケンタは何度も思い返していた。
アクビ・デモンスペード。身長140センチ、自称2000歳、スペードの女王の衣装をまとった歌姫。彼女のたった3秒の切り抜き動画が、SNSで炎上した。『人間なんて、みんな嘘つきよ』——前後の文脈を切り取られ、差別発言に仕立て上げられた。スポンサーは契約を打ち切り、ミリオンプロダクションの前にはアンチが押し寄せた。
そしてケンタは、元親友リョウ・クロサキに、川で会う約束をしていた。
(リョウが、完全版のアーカイブを持っている)
それさえ手に入れば、アクビの言葉が悪意ある編集だったと証明できる。そう信じて、ケンタは眠れない夜を過ごした。
遊歩道の先に、人影が見えた。
長身。黒いコート。オールバックに固めた黒髪。冷たい灰色の目。左耳に小さなシルバーピアスが、霧の中で光った。
リョウ・クロサキ。27歳。ノクターンエンタメの敏腕マネージャー。かつての親友。
「早いな、ケンタ」
リョウの声は、川の流れのように静かで、冷たかった。
「リョウ……お前、本物のアーカイブを持ってるんだな」
ケンタの声は、自分でも驚くほど震えていた。
リョウは、コートの内ポケットから、一枚のタブレット端末を取り出した。画面をケンタに向ける。
「見ろよ。これが、3年前のあの配信の、完全版だ」
タブレットの画面には、アクビの配信アーカイブが表示されていた。3年前の、彼女の歌枠。リョウが画面をタップすると、動画が再生され始めた。
『——今日は、私の配信を見てくれてありがとう。でも、ちょっとだけ、話したいことがあるの』
アクビの声。いつものハスキーボイス。でも、どこか沈んでいた。
『私ね、ずっと信じてたの。配信を見てくれる人は、みんな、私のことを好きでいてくれるんだって。でも……違ったみたい』
動画の中のアクビは、うつむいていた。
『私が信頼してたスタッフが、私の裏で、私の個人情報を売ってたの。ねえ、人間なんて、みんな嘘つきよ』
リョウが、動画を止めた。
「これが、切り抜きに使われた部分だ」
ケンタは、画面を見つめた。
(そうだ。これが、真実だ)
アクビは、人間全体を否定したわけじゃない。信頼していたスタッフに裏切られた直後の、傷ついた心から出た言葉だった。切り抜き動画は、その前後の文脈を完全に消して、最後の一言だけを抽出していた。
「分かっただろ。あの切り抜きは、意図的な編集だ。悪意のあるな」
リョウは、タブレットをケンタに差し出した。
「持っていけ。お前が欲しかった証拠だ」
ケンタは、タブレットを受け取った。手が震える。
(これで、アクビさんの汚名を晴らせる)
そう思った瞬間だった。
「でもな、ケンタ」
リョウの声が、一段低くなった。
「お前、これで世間が納得すると思ってるのか?」
ケンタは、顔を上げた。
「切り抜きが悪意ある編集だって、お前は知ってる。俺も知ってる。でもな、世間はもう、あの3秒の印象で動いてるんだよ。完全版を公開したところで、誰が見る? 拡散したアカウントは、訂正なんてしない。メディアも、今さら『誤報でした』なんて大きく報じない。お前がどんなに正しくても、世間はもう聞かないんだ」
ケンタの指先が、冷たくなっていく。
「お前は、彼女を守れなかった。3年前と同じだな」
その言葉が、ケンタの胸を貫いた。
3年前。ケンタは、大学の音響サークルで、ある配信者の音響を担当していた。数字が取れない配信者。事務所は彼女を切り捨てようとした。ケンタは反対した。でも、何も変えられなかった。彼女は配信者を辞めた。ケンタは、左遷された。
「あの時も、お前は何もできなかった。正論を振りかざすだけで、結果を変えられなかった。今回も同じだ。お前の正しさは、何の力にもならない」
リョウの灰色の目は、笑っていなかった。
ケンタは、拳を握りしめた。
(違う。今度こそ、守るんだ)
そう思った。でも、声が出なかった。リョウの冷徹な目を見ていると、言葉が喉の奥に張り付いて、出てこない。
「お前じゃ無理だよ。諦めろ」
リョウが、背を向けようとした。
その時だった。
「ケンタくん!」
遊歩道の向こうから、紫がかった長いストレートヘアの少女が、走ってきた。サイドに三つ編みを揺らしながら、切れ長の青紫の瞳を涙でいっぱいにしている。
セラ・ノクス。19歳。ミリオンプロダクション所属の人気配信者。アクビの同期。
「セラさん……!?」
セラは、ケンタの前まで駆け寄ると、その場に崩れるように膝をついた。息が上がっている。白いブラウスが乱れ、三つ編みがほどけかけていた。
「私が……私が、拡散したの」
ケンタは、固まった。
「トレンドで見つけた切り抜きを、何も考えずにシェアしたの。私のフォロワー、80万人いるから……一気に広がった。ごめんなさい……ごめんなさい、ケンタくん……」
セラの涙が、遊歩道のアスファルトに落ちて、黒い染みを作った。
「でも、違うの。私、あの切り抜きが悪意ある編集だって気づいてから、ずっと悔やんでた。どうすれば取り返せるか、ずっと考えてた」
セラは、顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃになった顔で、まっすぐにケンタを見た。
「私、アクビちゃんを超えたい。同じ配信者として、ライバルとして、いつか絶対に超えたい。でも……それと同じくらい、アクビちゃんの本物の声を守りたいの。あの子の歌は、本物だから。私がシェアしたせいで、あの子の歌が消えるのは、私が一番嫌なの」
ケンタの胸の奥で、何かが動いた。
(セラさんは、わざとじゃなかったんだ)
セラの告白は、計算でも演技でもなかった。ただ、必死だった。彼女の本心が、涙と一緒に溢れ出していた。
「だから、私に協力させて。完全版アーカイブの解析も、拡散も、私にできることがあるなら、なんでもする。お願い、ケンタくん。私にも、償わせて」
ケンタは、セラの肩に手を置いた。
「……ありがとう、セラさん。俺も、一人じゃ何もできなかった。一緒に、アクビさんを守ろう」
セラの目から、また涙が溢れた。でも、今度は、少しだけ笑っていた。
リョウが、その様子を、冷たい目で見ていた。
「感動的な再会だな。だが、状況は何も変わらないぞ」
リョウは、タブレットをケンタから取り上げようとした。ケンタは、それを拒んだ。
「お前ら、本気で世間をひっくり返せると思ってるのか?」
「やってみなきゃ分からないだろ」
ケンタの声は、さっきより強くなっていた。
リョウは、少しだけ目を細めた。
「……昔みたいに言うなよ」
小さく、そう呟いた。
リョウは、背を向けて、霧の中に消えていった。
***
ミリオンプロダクション本社。ハミングバード地区の3階建てビル。
ケンタとセラは、3階の社長室にいた。
社長のゴウダ・ミツルは、52歳。恰幅の良い体格で、今日もスウェット姿だった。元配信者で、今はこの小さな事務所を切り盛りしている。彼は、ケンタの報告を、腕を組みながら黙って聞いていた。
「なるほどな。リョウの野郎、完全版を渡してきたのか」
「はい。でも、リョウは、世間はもう聞かないと言ってました。完全版を公開しても、拡散されないと」
「だろうな」
ゴウダは、深くため息をついた。
「佐藤、お前はどうしたい?」
「俺は、アクビさんの歌を、もう一度、みんなに届けたいです」
ケンタの声は、迷いがなかった。
「そのために、ミリオンボイス・フェスの予選枠に、アクビさんをエントリーさせてください」
ゴウダの目が、少し見開かれた。
「フェスだと? 本気か」
「本気です」
ミリオンボイス・フェス。年に一度、5月に開催される、配信者たちの祭典。普段はバーチャルな存在が、実際にステージに立つ、唯一の機会。今年の予選は、すでに締め切り間近だった。
「アクビの声は、ライブで聴けば、誰だって分かります。あのハスキーボイス・エフェクトを、生のステージで聴かせれば、切り抜きの嘘なんて、吹き飛ぶはずです」
ケンタは、大学時代の音響サークルで培った知識を思い出していた。アクビの声は、低音域に倍音が重なる特殊な波形を持っている。マイクを通すと、聴者に物理的な震えを与える。本気で歌えば、同時接続者数が3倍に跳ね上がる。あの声を、ライブステージの音響で最大限に引き出せば——。
「でも、予選のエントリーには、事務所の推薦と、直近の配信実績が必要だ。アクビは今、炎上中で、配信も止めてる。書類が通るかどうか」
「そこは、私がなんとかするわ」
セラが、一歩前に出た。
「私のSNSアカウントと、フェス関係者への人脈を使って、根回しする。私、こう見えて、そういうの得意なのよ」
セラの声は、まだ少し震えていた。でも、その目は、決意に満ちていた。
「私のせいで、アクビちゃんが傷ついた。だから、私が、彼女をステージに戻す」
ゴウダは、二人の顔を交互に見た。
「……分かった。タナベ、エントリー用の書類を準備してくれ」
受付兼経理のタナベ・ユキが、無表情で頷いた。
「かしこまりました。すぐに用意します」
タナベは、40代の寡黙な女性だ。でも、その仕事は正確で、この事務所の縁の下の力持ちだった。
「ただし、佐藤。フェスに出るってことは、アクビ本人の同意がいる。お前、あいつを説得できるのか?」
ケンタは、一瞬、言葉に詰まった。
アクビは、炎上以降、第2スタジオに閉じこもっている。配信もしていない。彼女が、もう一度、人前に立つ気になるのか——。
「説得します。必ず」
ケンタは、そう言った。
その時だった。
ケンタのスマホが、震えた。
画面を見る。
知らない番号からのメッセージ。
『フェスに出すなら、もっと残酷な切り抜きを出す。今度は、お前の過去も一緒にな』
ケンタの指が、止まった。
(お前の過去も一緒に)
3年前の、左遷事件。数字が取れない配信者を守ろうとして、結局守れなかった、あの日のこと。リョウは、それも暴くつもりだ。
「ケンタくん……?」
セラが、心配そうにケンタの顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。ちょっと、リョウからメッセージが来ただけです」
ケンタは、スマホをポケットにしまった。
(俺の過去が公になる?)
それでも、引くわけにはいかない。
***
第2スタジオ。ミリプロ本社2階。
ケンタは、防音壁に囲まれたその部屋の前に立っていた。
アクビ専用の配信部屋。彼女の身長に合わせた低い特注デスク。壁際に並ぶ予備マイク。そして、壁に書かれた『2000年目の独り言』という落書き。
ケンタは、深呼吸して、ドアをノックした。
「アクビさん。俺です。話したいことがあります」
返事がない。
「アクビさん、お願いします。開けてください」
しばらくして、ドアが、ゆっくりと開いた。
アクビ・デモンスペード。赤と黒のドレス、胸元にスペードの紋章。銀色の髪が、乱れて顔にかかっている。真紅の瞳は、ケンタを見ると、少しだけ揺れた。
「……あんた、まだ、私の担当を外れてなかったの」
アクビの声は、掠れていた。
「外れません。俺は、あなたのマネージャーです」
ケンタは、部屋の中に入った。
床には、壊れたマイクの残骸が散らばっていた。アクビが、炎上以降、感情を抑えきれずに壊したものだ。
「アクビさん、聞いてください」
ケンタは、すべてを話した。
リョウと会ったこと。完全版アーカイブを手に入れたこと。でも、世間はもう聞かないとリョウに言われたこと。セラが拡散したことを謝罪し、協力を申し出てくれたこと。そして、ミリオンボイス・フェスの予選にエントリーする計画。
「リョウは、フェスに出すなら、もっと残酷な切り抜きを出すと言ってきました。今度は、俺の過去も一緒に暴くそうです」
アクビは、黙って聞いていた。
「それでも、俺は、あなたの歌を、みんなに届けたい。あなたの声は、本物だから。ライブで聴けば、誰だって分かる。あの切り抜きが、嘘だって」
ケンタの声は、震えていた。
アクビは、ゆっくりと、壁に近づいた。
壁には、彼女が書いた落書きがあった。
『2000年目の独り言』
その下に、小さく、何かが書き足されていた。
ケンタは、目を凝らした。
『でも、まだ歌える』
アクビが、その文字を、指でなぞった。
「私、歌うわ」
ケンタは、息を止めた。
「あんたが私を信じるなら、私もあんたを信じる」
アクビが、振り返った。
真紅の瞳が、まっすぐにケンタを見た。
「だから、私を、ステージに立たせて。私の歌で、あの嘘を、全部壊してやるのよ」
ケンタの胸の奥が、熱くなった。
(この人は、まだ、戦える)
守られるだけの存在じゃない。アクビは、自分の声で、自分の歌で、戦おうとしている。
「はい。絶対に、ステージに立たせます。俺が、あなたを守り切ります」
ケンタは、深く頭を下げた。
アクビが、小さく笑った。
「ふん、当たり前よ。あんたは、私のマネージャーなんだから」
その声は、久しぶりに、いつものハスキーボイスに戻っていた。
***
夜。
ケンタは、ミリプロ本社の屋上にいた。
ハミングバード地区の夜景が、眼下に広がっている。古いビルの灯り、商店街の看板、遠くに見えるボイスタワー。高さ280メートルの配信アンテナ塔が、夜の空にそびえていた。
(これから、何が起きるんだろう)
ケンタは、スマホを握りしめた。
フェスの予選エントリー。アクビのライブ復帰。リョウの脅迫。そして、自分の過去。
すべてが、一つの巨大な渦になっていく。
その時だった。
スマホが、また震えた。
今度は、匿名のメッセージだった。
『クロサキ・レイジが動き出した。気をつけろ』
ケンタは、画面を見つめた。
クロサキ・レイジ。ノクターンエンタメの社長。45歳、元投資家。リョウの上司。
(リョウの背後に、社長がいる?)
ケンタの背筋に、冷たいものが走った。
リョウは、駒に過ぎなかったのか。
本当の敵は、もっと巨大な影——。
ケンタは、夜空を見上げた。
星は、見えなかった。
でも、遠くのボイスタワーの頂上から、電波が、街中に配信者たちの声を届け続けていた。
アクビの声を、もう一度、あの塔から。
ケンタは、拳を握りしめた。Noveliaとは?
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