あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜
たった一度の歌枠が、すべてを変えた。
都心の配信スタジオ・ミリオンプロダクションの新人マネージャー、ケンタは、社長からアクビという配信者の専属担当を命じられる。身長140センチ、自称2000歳、スペードの女王の衣装をまとい、ハスキーでハイパーな声で話す彼女——そして歌うとき、世界は静まり返る。
「[興奮] あなたが私の新しいマネージャー? 小さくてかわいい!」
彼女の最初の一言に、ケンタは言葉を失う。しかし彼女の配信はいつも大惨事だ。ゲーム中に叫びすぎてマイクを壊し、カラオケのセッティングは機材の配線ミスで大混乱。ケンタは毎晩、機材の修理、スケジュールの調整、そして彼女の無理難題に振り回される。
一方、ライバル事務所のノクターン・エンターテインメントがアクビの引き抜きに目をつける。担当はリョウ——ケンタのかつての親友。彼は「お前には彼女を守れない」と警告し、アクビの過去の配信データを武器にすると脅す。
さらには、アクビの仲間の配信者セラが突然「私、ケンタのことが好きになったかも」と告白。彼のアパートに押しかけ、アクビの配信を覗き、二人の間に割って入ってくる。
「[冷たく]
あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜 - 2000年目の独り言と乱入配信者
夜のハミングバード地区は、昼とは違う顔を見せる。配信者たちが一斉にスタジオへ向かう時間帯。機材を背負った若者、コンビニの袋を提げたスタッフ、そして「今日の配信どうだった?」と声を掛け合う仲間たち。街全体が、ゆるやかに呼吸しているようだった。
佐藤ケンタは、そんな夜の街を歩きながら、スマホの画面を見つめていた。
(また、マイクが三本……)
画面には、今日のアクビの配信ログが並んでいる。ゲーム配信で叫びすぎてマイクを破壊。歌枠の途中で機材の配線を間違えて音が裏返る。視聴者からは「今日も元気でよろしい」と笑いコメントが流れたらしい。
ケンタは、肩にかけたボディバッグを抱え直した。中には工具セットと、書き込みでいっぱいの手帳が入っている。
(手帳、もう半分以上埋まってる)
アクビの専属マネージャーになってから、二週間が過ぎていた。
最初の三日間は、ただがむしゃらに機材を直すだけで精一杯だった。壊れたマイクを修理し、ちぎれたケーブルを繋ぎ直し、配信のスケジュールを組み直す。それが終われば、また新しい破壊の報告が届く。
(まるで、毎日が災害復旧だ)
ケンタは苦笑いした。
ミリオンプロダクション本社の三階建てビルが見えてくる。古びた外壁に、青白いネオンが反射していた。受付の明かりはもう消えている。タナベ・ユキはとっくに帰宅した後だ。
ケンタは、裏口からビルに入った。
(今夜も、修理だ)
階段を上がる。二階の廊下を進む。第二スタジオの扉の前に立つと、中から微かな物音が聞こえた。
(まだ配信してるのか?)
時刻は深夜一時。アクビの今日の配信枠は、とっくに終了しているはずだった。
ケンタは、そっと扉をノックした。
「アクビさん、佐藤です。まだ起きてますか」
返事がない。代わりに、ガサゴソという音と、何かが床に落ちる音がした。
「……入っていいっすか」
ケンタは、ゆっくりとドアを開けた。
部屋の中は、いつも通りの惨状だった。床にはケーブルが蛇のように絡まり、机の上には壊れたマイクが転がっている。壁際の棚には、予備のマイクが整然と並んでいたが、その数は二週間前より明らかに減っていた。
そして、部屋の奥の簡易ベッドの上で、アクビ・デモンスペードが丸まっていた。
赤と黒のドレス。胸元に輝くスペードの紋章。銀色の髪が、枕の上に広がっている。真紅の瞳は閉じられていて、小さな肩がゆっくりと上下していた。
(寝てる……)
ケンタは、足音を殺して部屋に入った。
彼女の寝顔を、初めて見た。配信中の彼女は、いつもハイテンションで、声も大きくて、まるで台風みたいな存在なのに。今は、こんなに静かで、こんなに小さく見える。
(百四十センチ、か)
改めて見ると、本当に小さい。ベッドの上で丸まっていると、まるで子供みたいだった。
ケンタは、床に落ちている壊れたマイクを拾い上げた。ショックマウントが外れ、グリルの部分がへこんでいる。今日のゲーム配信で、彼女が興奮して机に叩きつけたらしい。
(これで四台目……)
手帳を開く。アクビの奇行リストが、びっしりと並んでいた。
・配信中にマイクを投げる(三回)
・激辛カップ麺を深夜に要求(五回)
・配信画面に映り込む猫を追いかけて転倒(二回)
・機材の配線を勝手に繋ぎ直してショートさせる(四回)
・ウーバーイーツを八人前注文して「一人で食べる」と言い張る(一回)
ケンタは、ため息をついた。
(なんで八人前……)
あの日、彼女は本当に八人前のラーメンを一人で平らげた。配信の最後に「ごちそうさま」と満足そうに言った顔が忘れられない。
「……ん」
ベッドの上で、アクビが身じろぎした。
ケンタは、慌てて手帳を閉じた。
「あ、起こしました? すみません」
アクビは、ゆっくりと目を開けた。真紅の瞳が、ぼんやりとケンタを映す。
「……あんた、何してんのよ。こんな時間に」
声は、いつものハスキーボイスより、ずっと柔らかくて、少し掠れていた。
「機材の修理を。今日もマイクが三本やられたって聞いたんで」
「ああ……ごめん。またやっちゃった」
アクビは、体を起こした。ドレスの裾が乱れて、銀色の髪が肩から滑り落ちる。
「別に謝らなくていいっすよ。俺の仕事なんで」
ケンタは、工具を取り出しながら言った。
「……あんた、本当に文句言わないのね。普通、もっと怒るわよ。『何台壊せば気が済むんだ』って」
「怒っても、マイクは直らないんで」
「それ、マネージャーの台詞じゃないわよ」
アクビは、小さく笑った。
ケンタは、壊れたマイクを分解し始めた。ドライバーを回し、外れた部品を確認する。この作業は、もう何度もやった。大学の音響サークルで培った技術が、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。
「あんた、毎晩これやってるの?」
アクビが、ベッドの上からケンタの手元を覗き込んできた。
「まあ、だいたい。配信が終わった後に、壊れた機材を回収して、直せるものは直してます」
「え、じゃあ、あんた、毎晩ここに来てるの?」
「来てますよ。アクビさんが寝てる間に、黙って修理して帰ってます」
「知らなかった……私、寝てる間に人が来てるなんて」
アクビは、自分の体を抱きしめるようにして、ドレスの袖をぎゅっと握った。
「気づかなくて当然っすよ。忍び込んでるわけじゃないんで、堂々と入ってますけど」
「それ、もっと怖いわよ」
ケンタは、マイクの内部の断線を確認しながら、はんだごてを取り出した。
(今日は、これで四台目か……)
手が、少し疲れている。
でも、嫌ではなかった。
(誰かの役に立ってる)
この実感が、ケンタを支えていた。
「ねえ、ケンタ」
不意に、アクビが名前を呼んだ。
「……はい?」
ケンタは、はんだごてを置いて振り返った。
アクビは、ベッドの上で膝を抱えていた。ドレスの裾が、小さな足を隠している。窓から差し込む街灯の光が、彼女の銀色の髪を淡く照らしていた。
「あんた、私のこと、どう思ってる?」
ケンタは、一瞬、言葉に詰まった。
(どう思ってる、って……)
「え、と……すごい配信者だと思います。歌声は反則級ですし、配信のテンションも、その、独特で」
「そうじゃなくて」
アクビは、顔を膝に埋めた。
「二千歳の女が、毎晩マイクを壊して、機材をショートさせて、一人で八人前食べて……あんた、引かない?」
ケンタは、少し考えてから、正直に答えた。
「引かないっすね。むしろ、毎日何が起きるか分からなくて、飽きないっていうか」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてます。多分」
アクビは、顔を上げた。真紅の瞳が、まっすぐにケンタを見つめる。
「……あんた、変わってるわね」
「よく言われます」
ケンタは、再びマイクの修理に取りかかった。はんだごての先端が、細かい部品に触れる。集中する。
しばらく、無言の時間が流れた。
修理の音だけが、静かな部屋に響く。
「なあ、ケンタ」
また、名前を呼ばれた。
「なんですか?」
アクビは、ベッドの上で、窓の外を見ていた。街灯の光が、彼女の横顔を縁取る。
「あんた、二千歳も生きてみ? 大切な奴は、みんな先にいなくなるのよ」
ケンタの手が、止まった。
「私ね、今までずっと、一人だったの。誰かと深く関わっても、どうせ別れが来る。だったら、最初から一人でいいって。そう思って生きてきた」
アクビの声が、震えていた。
配信の時の、あの力強いハスキーボイスとは、まるで別人みたいだった。
「でもね、最近、分かったの。私は、初めて、誰かを失うのが怖いと思ってる。だって、今までずっと一人だったんだもの。失う怖さなんて、知らなかった。知らなかったのに、今は……あんたが、明日いなくなったらどうしようって、考えるだけで、胸が苦しくなる」
ケンタは、何も言えなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
(二千歳……本当に、そうなのか?)
今までは、自称二千歳という設定を、半分冗談だと思っていた。でも、今の彼女の声は、本当に長い時間を一人で生きてきた人間の、孤独の深さを感じさせた。
「……俺、いなくなりませんよ」
やっとの思いで、それだけを言った。
アクビは、ゆっくりとケンタの方を向いた。
「……本当に?」
「本当です。俺、アクビさんのマネージャーですから。勝手にいなくなりません」
「……約束、できる?」
「できます」
ケンタは、自分の心臓の音が、うるさいほど大きくなっていることに気づいた。
(なんで、こんなにドキドキしてるんだ)
胸の奥が、じわりと熱い。
これは、なんだろう。
(守りたい)
その言葉が、自然と浮かんできた。
アクビを守りたい。この小さな女王を、一人にしたくない。
(ああ、そうか)
ケンタは、自分の気持ちに、うっすらと気づき始めていた。
でも、それを言葉にする勇気は、まだなかった。
「……ありがと」
アクビは、小さく呟いて、再びベッドに横になった。
「おやすみ、ケンタ。また明日」
「おやすみなさい、アクビさん」
ケンタは、修理を再開した。
でも、手が震えて、うまくはんだが当てられない。
(まずいな、これは)
心臓の音が、静かな部屋に響いているようだった。
——翌日。
夕方のハミングバード商店街は、配信者たちで賑わっていた。
ケンタは、アクビと二人で、商店街のアーケードを歩いていた。今日は、カフェ・アルペジオで開かれる配信者交流会に参加する日だ。
「ねえ、ケンタ、今日は何着てる配信者が多いかしら? 私、このドレスで浮かない?」
アクビは、いつもの赤と黒のドレス姿だった。胸元のスペードの紋章が、夕日にキラリと光る。
「浮かないと思いますよ。アクビさんは、いつも通りでいいと思います」
「そう? ならいいけど」
アクビは、スキップするように歩き出した。百四十センチの小さな体が、人混みの中をすいすいと進んでいく。
「あ、待ってください、アクビさん! 迷子になりますよ!」
ケンタは、慌てて後を追った。
カフェ・アルペジオは、商店街のほぼ中央にあった。木の看板に、手書きの文字で「カフェ・アルペジオ」と書かれている。店内からは、コーヒーの香りと、ジャズピアノの音が漏れていた。
「着いたわ! 入りましょ!」
アクビは、扉を勢いよく開けた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、店主のモリ・サチコが顔を出した。五十八歳、元声優。白髪混じりの髪を後ろで一つに束ね、エプロン姿で立っている。
「あら、アクビちゃん。今日は交流会でしょ? 奥の席、空けてあるわよ」
「サチコさん! 宇治抹茶ラテ、先に持ってきて! 熱いやつ!」
「はいはい、分かってるわよ」
サチコは、慣れた手つきでカップを用意し始めた。
ケンタは、店内を見渡した。
(すごい人数だ……)
店内には、すでに十人以上の配信者が集まっていた。みんな、それぞれ個性的な衣装を着ている。ネコミミをつけた女性、軍服姿の男性、ゴスロリの少女。配信者交流会というだけあって、まるでコスプレ会場のようだった。
「アクビさん、俺、どこに座れば」
「私の隣に決まってるでしょ! ほら、こっち!」
アクビは、ケンタの手を引っ張って、奥のテーブル席に座った。
「あ、手、手が……」
アクビの小さな手が、ケンタの手をしっかりと握っていた。
(手、冷たい……)
でも、嫌な感じはしなかった。
「どうしたの、ケンタ? 顔、赤いわよ」
「え!? あ、いや、その、ちょっと暑くて」
ケンタは、慌てて手を離した。
「ふふ、かわいい」
アクビは、小さく笑って、メニューを開いた。
交流会が始まった。
配信者たちが、次々と自己紹介をしていく。登録者数、配信ジャンル、最近の悩み。ケンタは、マネージャーとして、他の配信者の話に耳を傾けた。
(みんな、それぞれ苦労してるんだな)
ある配信者は、アンチコメントに悩んでいた。別の配信者は、機材の更新費用が捻出できないと嘆いていた。また別の配信者は、事務所の待遇に不満があると愚痴っていた。
「アクビちゃん、最近どう? マネージャー変わったんでしょ?」
サチコが、宇治抹茶ラテをテーブルに置きながら聞いてきた。
「そうなの! このケンタって言うんだけど、すっごく真面目で、毎晩機材直してくれてるのよ!」
アクビは、ケンタの肩をポンと叩いた。
「へえ、あんたがアクビちゃんの新しいマネージャーさんかい」
サチコが、ケンタをじっと見た。
「は、はい。佐藤ケンタです。まだ新人で、至らないことばかりですが」
「あんた、いいマネージャー捕まえたねえ」
サチコは、アクビに耳打ちするように言った。
「え!? な、なんでそうなるのよ!」
アクビは、顔を真っ赤にして、宇治抹茶ラテを一気に飲み干した。
「あらあら、熱いのに」
サチコは、くすくす笑いながら、カウンターに戻っていった。
「あ、アクビさん、大丈夫ですか!? 熱いの一気飲みしたら」
「だ、大丈夫よ! これくらい平気!」
アクビは、涙目になりながら言い張った。
(かわいい……)
ケンタは、思わずそう思って、すぐに首を振った。
(なに考えてるんだ、俺)
交流会は、和やかな雰囲気で進んでいった。
ケンタは、他の配信者たちに、アクビの配信の切り抜きを見せながら、彼女の魅力を説明した。
「この声は、2000年分の孤独が乗ってるんです。ただのハスキーボイスじゃない。彼女が積み上げてきた時間が、全部この声に詰まってる」
ケンタは、熱心に語った。
周りの配信者たちが、興味深そうに聞いている。
「へえ、アクビちゃんのマネージャーさん、熱いね」
「アクビちゃん、よかったね、こんなに想ってくれるマネージャーで」
アクビは、ケンタの隣で、黙って話を聞いていた。
真紅の瞳が、大きく見開かれている。
(この人、本気で私のこと、そんな風に思ってるの?)
アクビの胸の奥で、何かが熱くなった。
「……ケンタ」
アクビは、小さく呟いた。
「はい?」
「……ありがと」
アクビは、ケンタの袖を、そっと掴んだ。
ケンタは、その小さな手を、そっと握り返した。
(ああ、俺、この人のこと……)
心臓が、またうるさくなった。
交流会が終わったのは、夜の八時を過ぎた頃だった。
ケンタとアクビは、カフェ・アルペジオを出て、オルフェウス川沿いの遊歩道を歩いていた。
川面に、街の灯りが揺れている。対岸には、ボイスタワーの先端が、色とりどりのライトに照らされて浮かび上がっていた。
「今日は、楽しかったわ」
アクビが、ぽつりと言った。
「よかったです。アクビさん、他の配信者さんたちとも仲良く話せてましたね」
「まあね。私、顔が広いのよ」
「そうみたいっすね。みんな、アクビさんのこと、一目置いてました」
「え、そう見えた?」
「見えました。特に、歌枠の話になった時の、あの空気。アクビさん、業界内でもすごい評価されてるんすね」
ケンタは、今日の交流会で、アクビの人気の高さを改めて実感していた。
(百二十万人の登録者、同時接続二十万超え。この数字は、やっぱり本物だ)
「……あんたが、そんな風に言うから、調子狂うわ」
アクビは、照れくさそうに、ドレスの裾を揺らした。
「あ、すみません。変なこと言いました?」
「変なことじゃないわ。……嬉しかったの」
アクビは、ケンタの顔を見上げて、小さく微笑んだ。
その笑顔に、ケンタの胸が、きゅっと締め付けられた。
(ああ、やっぱり、俺は……)
「あ、あの、アクビさん。俺、ちょっとコンビニ寄ってから帰ります。アクビさんは、先に戻っててください」
ケンタは、急に恥ずかしくなって、話題を変えた。
「え? 私も行くわよ。トイレ行きたいし」
「じゃあ、あそこのコンビニで待ってますね」
「分かった。ちょっと待ってて」
アクビは、小走りでコンビニに向かった。
ケンタは、遊歩道のベンチに座って、スマホを開いた。
(今日の交流会、アクビさん、楽しそうだったな)
画面には、アクビの配信スケジュールが表示されている。明日は、午後からゲーム配信、夜に歌枠。機材の準備を忘れずに。
「佐藤さん」
不意に、後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこには、紫がかった長いストレートヘアの女性が立っていた。サイドに三つ編み。切れ長の青紫の瞳が、じっとケンタを見つめている。
(誰だ……?)
ケンタは、一瞬、見とれた。
彼女は、シンプルな白いワンピースを着ていた。夜の遊歩道に、その姿が浮かび上がるように見える。
「あの、どちらさまで」
「セラ・ノクスです。ミリオンプロダクション所属。アクビちゃんの同期なの」
セラは、右手で髪をかき上げながら、ゆっくりと近づいてきた。
(ミリプロの配信者……)
ケンタは、記憶を探った。確か、社内の資料で見たことがある。人気配信者で、登録者数はアクビに次ぐ規模。配信ジャンルは、雑談と歌枠。
「あ、セラさん! すみません、気づかなくて。俺、アクビさんの専属を担当してる、佐藤ケンタです」
ケンタは、慌てて立ち上がって頭を下げた。
「知ってるわ。サチコさんから聞いたの。アクビちゃんの新しいマネージャーさんでしょ?」
セラは、ケンタの隣に、すとんと座った。
「え、あの、セラさん?」
「私も、交流会に出てたのよ。奥の席で、静かに見てたの。あんたが、アクビちゃんのこと、必死に語ってる姿」
セラの声は、柔らかくて、でも、語尾が少しだけ低くなる。
「見られてたんすか……恥ずかしい」
「ふふ、かっこよかったわよ。あんなに真剣に、誰かの魅力を語れる人、なかなかいないもの」
セラは、ケンタのボディバッグに目をやった。
「あんた、いつも工具持ってるの? アクビちゃんの担当だから?」
「まあ、機材がよく壊れるんで、必需品っす」
「ふふ、大変ね。アクビちゃん、相変わらず破壊神なのね」
セラは、小さく笑った。
(この人、雰囲気が……なんだか、落ち着く)
ケンタは、セラの隣に座り直した。
「セラさんの配信、俺、何回か見たことあります。面白いっすよね」
ケンタがそう言った瞬間、セラの目が、すっと細くなった。
「……本当に? 私の配信、見てくれてるの?」
「はい。雑談のテンポが良くて、コメントの拾い方も上手いなって。あと、歌枠の選曲が、その、すごくセラさんらしくて」
ケンタは、正直に感想を述べた。
セラは、じっとケンタの顔を見つめた。
その青紫の瞳が、夜の光を受けて、きらりと輝く。
「……ねえ、ケンタくん」
セラの声が、急に甘くなった。
「は、はい?」
「私、ケンタくんのこと、好きになっちゃったかも」
ケンタは、固まった。
(今、なんて……?)
セラは、ケンタの顔を覗き込むようにして、続けた。
「あんたが、アクビちゃんのこと、あんなに真剣に語ってるのを見てたら、胸がきゅってなったの。こんな気持ち、初めてなのよ」
セラの指が、ケンタの手の甲に、そっと触れた。
「セ、セラさん、何言ってるんすか。俺、ただのマネージャーで」
「ただのマネージャーが、あんなに熱く語れるわけないじゃない? あんた、アクビちゃんのこと、本気で好きなんでしょ?」
ケンタは、返す言葉が見つからなかった。
(好き……? アクビさんのことを?)
頭の中が、ぐるぐる回る。
「でも、いいの。私も、あんたのこと、好きになっちゃったから。ライバルは、多い方が燃えるでしょ?」
セラは、そう言って、ケンタの手をぎゅっと握った。
——その時だった。
「……何してるの?」
冷たい声が、夜の遊歩道に響いた。
ケンタは、弾かれたように振り返った。
そこには、コンビニの袋を提げたアクビが立っていた。手には、宇治抹茶ラテのカップ。
その真紅の瞳が、ケンタとセラの握り合った手を、じっと見つめている。
「あ、アクビさん! これは、その、違くて」
ケンタは、慌てて手を離した。
「違くて、なに?」
アクビの声が、いつものハイテンションから、完全に消えていた。
「あら、アクビちゃん。久しぶりね」
セラは、平然とした顔で、アクビに手を振った。
「セラ……あんた、何してるのよ。私のマネージャーに」
「何って、お話してただけよ。ねえ、ケンタくん?」
セラが、ケンタに微笑みかける。
「あ、はい、お話してただけで」
「……あんた、誰とでもそういう顔するのね」
アクビの言葉が、鋭く突き刺さった。
「え? どういう顔、っすか」
「分かんないなら、いいわ。……帰る」
アクビは、宇治抹茶ラテを握りしめたまま、くるりと背を向けた。
「あ、アクビさん! 待ってください!」
ケンタは、追いかけようとした。
「来ないで! 今日は帰って。明日も来なくていいわ」
アクビは、そう言い捨てて、走り出した。
「アクビさん!」
ケンタは、セラに一礼してから、アクビの後を追いかけた。
セラは、ベンチに座ったまま、二人の背中を見送った。
「……ふふ、面白くなってきたわ」
セラの青紫の瞳が、夜の闇の中で、妖しく光った。
——ミリオンプロダクション本社。
ケンタが第二スタジオに着いた時、扉には鍵がかかっていた。
「アクビさん! 開けてください! 話を聞いてください!」
ケンタは、扉を叩いた。
返事はない。
「アクビさん、誤解なんです! セラさんとは、たまたま会って、話してただけで」
「……帰って」
扉の向こうから、小さな声が聞こえた。
「アクビさん、お願いです。話を」
「あんたが誰と話そうと、あんたの自由でしょ。私が怒る理由なんて、ないわ。……ないのよ」
アクビの声が、震えていた。
「アクビさん……」
「今日は帰って。明日も来なくていいわ。……お願いだから、今は、一人にして」
ケンタは、扉の前で立ち尽くした。
(俺、何か間違えたのか?)
セラと話していただけなのに。手を握られただけなのに。
(でも、アクビさんは、傷ついた顔をしてた)
あの冷たい声。あの震える声。
(あれは、怒りだけじゃない。悲しみと、不安と……)
ケンタは、扉にもたれかかって、その場に座り込んだ。
(俺、アクビさんを守るって、そう決めたのに)
守るどころか、傷つけてしまった。
「……ごめんなさい、アクビさん」
ケンタは、扉に向かって、小さく呟いた。
返事は、なかった。
ケンタは、廊下で一晩中、待ち続けた。
床に座り込み、背中を壁に預けて、目を閉じる。
(ここで待ってれば、朝には、話を聞いてくれるかもしれない)
そう信じて、待った。
夜が明けるまで、あと数時間。
ケンタは、ボディバッグから手帳を取り出した。
(アクビさんの奇行リスト……)
ページをめくる。びっしりと並んだ文字。
(俺、このリストを作りながら、本当は、楽しんでたのかもしれない)
彼女の破天荒な行動に振り回される毎日。
(でも、それが、楽しかった)
ケンタは、手帳を胸に抱えた。
(アクビさん、俺は、あんたのマネージャーでいたい。それだけなんだ)
朝方、五時を過ぎた頃。
カチリ、と音がした。
扉が、ほんの少しだけ開いた。
「……ケンタ」
ケンタは、顔を上げた。
扉の隙間から、アクビの小さな手が差し出されていた。
その手には、一枚の紙切れが握られていた。
「……これ、読んで。……ごめんね」
アクビは、そう言って、紙切れをケンタに渡すと、すぐに扉を閉めた。
ケンタは、紙切れを広げた。
そこには、震える文字で、こう書かれていた。
『また一人になるのが怖いだけ。ごめんね』
ケンタは、そのメモを、何度も何度も読み返した。
(アクビさん……)
胸が、締め付けられるように痛い。
(俺、あんたを一人にしない。絶対に)
ケンタは、メモを握りしめた。
——その時、ケンタのスマホが震えた。
知らない番号からのメッセージ。
ケンタは、メモをポケットにしまい、スマホを開いた。
『アクビ・デモンスペードの真の声を聴け。3年前のアーカイブ、切り抜きだけでは伝わらないものがある』
短い文面。
そして、暗号化されたリンクが添えられていた。
ケンタの手が、震えた。
(これは……)
差出人は不明。でも、この文面から伝わるのは、明確な悪意と、挑発だった。
(リョウ……お前か)
ケンタは、リンクを開こうとして、指を止めた。
(これは、罠か? それとも……)
炎上計画が、静かに動き出している。
ケンタは、スマホを握りしめたまま、廊下の壁にもたれかかった。
夜明けの光が、窓から差し込んで、古いフローリングを白く染めていた。
(アクビさんを、守らなきゃ)
でも、どうやって?
ケンタは、答えの出ない問いを抱えたまま、朝の光の中に立ち尽くしていた。Noveliaとは?
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