あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜
たった一度の歌枠が、すべてを変えた。
都心の配信スタジオ・ミリオンプロダクションの新人マネージャー、ケンタは、社長からアクビという配信者の専属担当を命じられる。身長140センチ、自称2000歳、スペードの女王の衣装をまとい、ハスキーでハイパーな声で話す彼女——そして歌うとき、世界は静まり返る。
「[興奮] あなたが私の新しいマネージャー? 小さくてかわいい!」
彼女の最初の一言に、ケンタは言葉を失う。しかし彼女の配信はいつも大惨事だ。ゲーム中に叫びすぎてマイクを壊し、カラオケのセッティングは機材の配線ミスで大混乱。ケンタは毎晩、機材の修理、スケジュールの調整、そして彼女の無理難題に振り回される。
一方、ライバル事務所のノクターン・エンターテインメントがアクビの引き抜きに目をつける。担当はリョウ——ケンタのかつての親友。彼は「お前には彼女を守れない」と警告し、アクビの過去の配信データを武器にすると脅す。
さらには、アクビの仲間の配信者セラが突然「私、ケンタのことが好きになったかも」と告白。彼のアパートに押しかけ、アクビの配信を覗き、二人の間に割って入ってくる。
「[冷たく]
あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜 - 小悪魔の告白と、壊れた女王の声
午後のミリオンプロダクション本社、一階の受付ロビーは、外の暑さを遮るようにひんやりと静かだった。古いビルの空調が、壁の隅で低く唸っている。受付カウンターの向こうでは、タナベ・ユキが無表情のまま書類の束をめくっていた。四十代の彼女は、この事務所の受付兼経理として、今日も黙々と働いている。
佐藤ケンタは、そのカウンターの前に立っていた。肩にはいつものボディバッグ。右手の甲には、機材修理でつけた古い火傷跡が、白い蛍光灯の下でうっすらと光っている。
「アクビさんの配信機材リスト、これで全部ですか」
「ええ。先月分の破損リストも一緒に入れてあるわ」
タナベは、感情を感じさせない声でそう言うと、分厚いファイルをケンタの前に差し出した。ケンタはそれを受け取り、中身をぱらぱらとめくる。
(また、マイクが七本……)
ため息が出そうになるのを、なんとか飲み込んだ。アクビ・デモンスペードの専属マネージャーになってから、すでに三週間が過ぎている。彼女の破天荒な配信は、機材を次々と破壊していく。ケンタの仕事は、いつもその修理から始まるのだった。
「佐藤さん、最近、顔色が悪いわよ。ちゃんと寝てるの」
「あ、はい。大丈夫です。ちょっと修理が立て込んでて」
ケンタは、曖昧に笑ってごまかした。本当は、眠れていない。あの夜、アクビから受け取ったメモ——『また一人になるのが怖いだけ。ごめんね』——を、何度も読み返してしまうからだ。彼女の震える文字を見るたびに、胸の奥がぎゅっと痛む。
(俺、あの時、何も言えなかった)
謝ることしかできなかった。彼女の不安を、受け止めることができなかった。その悔しさが、夜になると押し寄せてくる。
ケンタがファイルをボディバッグにしまおうとした、その時だった。
「あれ、ケンタくんじゃない?」
甘えた声が、ロビーに響いた。
ケンタは、顔を上げた。
そこに立っていたのは、紫がかった長いストレートヘアの少女だった。サイドに三つ編みを垂らし、切れ長の青紫の瞳が、ケンタをまっすぐに見つめている。右手で髪をかき上げる仕草。語尾が少し低くなる、柔らかい声。
セラ・ノクス。十九歳。アクビの同期で、ミリオンプロダクション所属の人気配信者だ。登録者数は八十万人を超え、その小悪魔的なキャラクターで、男性ファンを中心に絶大な支持を集めている。
「セラさん。お疲れさまです」
ケンタは、軽く会釈した。
セラは、ケンタのボディバッグに目をやると、ふふっと小さく笑った。
「今日も工具、持ち歩いてるの? アクビちゃんの担当って、本当に大変なんだね」
「まあ、機材の修理が主な仕事なんで」
「ふふっ。真面目なんだから。でも、そういうところ、私は好きだな」
ケンタは、言葉に詰まった。セラのこういうストレートな物言いは、いつも調子を狂わされる。
「セラさんの配信、面白いっすね。前に見た歌枠、すごく良かったです」
何気なく、そう言った。
その瞬間だった。
セラの目が、豹変した。
それまで柔らかく笑っていた青紫の瞳が、急に真剣な色を帯びる。ケンタを射抜くように、じっと見つめてきた。
「ねえ、ケンタくん」
声が、一段低くなる。
「私、ケンタくんのこと、好きになっちゃったかも」
ロビーの空気が、凍りついた。
ケンタは、固まった。頭の中が真っ白になる。今、この人、なんて言った?
ガシャン。
受付カウンターの奥で、タナベが持っていた書類の束を、床に落とした。紙が、ばさばさと音を立てて散らばる。タナベは、無表情のまま、ゆっくりと書類を拾い始めた。でも、その手が、ほんの少し震えている。
「あ、今のなしで」
セラは、突然、明るい声で笑った。まるで、さっきの真剣な顔が嘘だったかのように。
「冗談、冗談。びっくりした? ふふっ、ケンタくんのそういう顔、見たかったんだ」
そう言って、セラは軽やかに身を翻した。
「じゃあね。また明日」
彼女は、ロビーを出て行った。
ケンタは、その背中を見送った。
(冗談……?)
そう思った。でも、違った。
セラの背中が、震えていた。
去り際、彼女の細い肩が、小刻みに揺れていた。あれは、笑いをこらえている震えじゃない。
(本気、なのか?)
ケンタの心臓が、うるさく鳴り始めた。
「……佐藤さん」
タナベが、書類を拾い終えて、静かに言った。
「はい」
「あの子、嘘をつくときは、もっと上手に笑うわよ」
ケンタは、返す言葉がなかった。
タナベは、それ以上何も言わず、カウンターの奥へ戻っていった。
ケンタは、ロビーに一人、立ち尽くした。
(セラさんが、俺を?)
信じられなかった。セラ・ノクスは、事務所でも指折りの人気配信者だ。そんな彼女が、なぜ、自分みたいな新人マネージャーを。
(でも、あの背中の震えは……)
計算高い小悪魔の仮面の下に、何かが隠れている。そんな気がした。
ケンタは、ボディバッグを抱え直した。
(とりあえず、仕事だ)
アクビの機材リストを確認しなければ。修理の段取りも組まなければ。やるべきことは、山のようにある。
でも、セラの言葉が、頭から離れなかった。
『好きになっちゃったかも』
あの声が、耳の奥で、何度も繰り返される。
***
その夜、ケンタのアパート。
ハミングバード地区の外れにある、築三十年の古いワンルーム。家賃は安いが、壁が薄く、隣の部屋の配信音が時々聞こえてくる。配信者都市の下町らしい、雑多な空気の場所だった。
ケンタは、机の上に広げた機材リストと格闘していた。明日の修理に必要な部品を、通販サイトで注文しなければならない。右手の火傷跡を、左手の親指で撫でる。考え事をするときの癖だ。
(セラさんのこと、どう考えればいいんだ)
頭の片隅で、昼間の出来事がぐるぐる回っている。
ピンポーン。
突然、インターホンが鳴った。
ケンタは、時計を見た。深夜一時を回っている。こんな時間に、誰だ。
恐る恐る、ドアスコープを覗いた。
そこに立っていたのは、セラ・ノクスだった。
ケンタは、心臓が飛び跳ねるのを感じた。
(なんで、セラさんが、ここに!?)
迷った。出るべきか、出ないべきか。
ピンポーン。ピンポーン。
インターホンが、しつこく鳴る。
ケンタは、観念して、ドアを開けた。
「あ、ケンタくん。よかった、起きてたんだ」
セラは、にっこりと笑った。手には、小さな工具箱が握られている。
「セラさん、どうしてここに……というか、なんで住所知ってるんですか」
「事務所の人に聞いたの。あ、これ、ケンタくんの工具。忘れてったよ」
セラは、工具箱を差し出した。
ケンタは、自分のボディバッグを確認した。工具は、全部入っている。
「いや、俺、工具忘れてないっすけど」
「あれ、そう? ふふっ、じゃあ、これは私からのプレゼントってことで」
セラは、悪びれもせずに言った。
(やっぱり、忘れてなかった)
ケンタは、確信した。これは、彼女なりの口実だ。
「ねえ、上がってもいい? ちょっと話したいことがあるの」
「え、あの、こんな時間に、それはちょっと」
「いいでしょ? ね?」
セラは、上目遣いでケンタを見た。青紫の瞳が、潤んでいるように見える。
ケンタは、押しに弱かった。頼まれると断れない。それが、自分の短所だと分かっているのに。
「……どうぞ。散らかってますけど」
「ありがとう。お邪魔しまーす」
セラは、軽やかに部屋へ入ってきた。
六畳一間の部屋に、女の子の匂いが広がる。甘い、花のような香り。ケンタは、自分の部屋が急に狭くなったように感じた。
セラは、部屋の中央に座ると、持っていたタブレットを起動させた。
「ねえ、ケンタくん。これ、見て」
画面には、アクビの配信アーカイブが映っていた。三週間前の歌枠。彼女が本気で歌う、あの配信だ。
「この子、本気で歌うと、すごいんだよね。私、同期として、ずっと見てきたから分かるの」
セラは、画面を操作して、アクビの歌声を再生した。
ハスキーボイスが、部屋に響く。低く、甘く、聴く者の体を震わせる声。
「でもね、ケンタくん。あんたに歌ってるとき、この子の声、ちょっと違うんだよ」
ケンタは、ドキッとした。
「違うって、何がですか」
「うーん、上手く言えないけど……この子の歌って、いつもは、もっと冷たいの。聴いてる人を突き放すような、孤高の女王の歌。でも、あんたが近くにいるときの歌は、すごく……あったかい」
セラの言葉に、ケンタの胸が、ざわついた。
(アクビさんの声が、あったかい?)
自分には、分からなかった。でも、セラには分かるらしい。同期として、彼女の歌をずっと聴いてきたから。
「だからね、私は、負けないから」
セラは、小悪魔の顔で笑った。でも、その目は、笑っていなかった。
「明日も来るね。ケンタくん」
セラは、立ち上がると、部屋を出て行った。
ケンタは、ドアを閉めた後、しばらく動けなかった。
自分の心臓が、うるさいほど鳴っている。
(なんなんだ、これは)
セラの言葉、アクビの歌、自分の鼓動。全部が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
ケンタは、机の前に座り、壊れたマイクの修理を始めた。手を動かしていないと、頭がおかしくなりそうだった。
***
翌朝。
ミリオンプロダクション本社、二階の第二スタジオ。
アクビ・デモンスペードは、配信を終えたばかりだった。赤と黒のドレス、胸元のスペードの紋章。銀色の髪が、汗で額に張り付いている。
今日の朝配信は、ひどかった。
ゲームで負け続け、コメント欄には心ない言葉が並ぶ。いつもなら笑い飛ばせるのに、今日は、どうしても笑えなかった。
(ケンタから、連絡がない)
昨日の夜から、ずっと。
いつもなら、配信の前に必ず「今日のスケジュール」を送ってくる。配信後には「お疲れさまでした」とメッセージが来る。それなのに、今日は、何も来ない。
アクビは、配信機材のモニターを、じっと見つめた。
(あいつ、今、何してるのよ)
胸の奥が、もやもやする。この感覚を、彼女は知っていた。
寂しい。
不安。
誰かに取られるかもしれない、という恐怖。
(私、二千歳も生きてきて、なんでこんな……)
アクビは、拳を握りしめた。
そして。
ガシャァァァン!!
彼女は、配信機材のモニターを、拳で叩き割った。
液晶が砕け、破片が床に散らばる。拳から、血が滲んだ。でも、痛くなかった。
「なんで、連絡してこないのよ……あんたは、私のマネージャーでしょ……」
声が、震えていた。
その時、スタジオのドアが開いた。
「アクビさん! 大丈夫ですか!? 今、すごい音が——」
ケンタが、飛び込んできた。
彼は、床に散らばったモニターの破片と、アクビの血が滲む拳を見て、顔色を変えた。
「何やってるんですか! 手、怪我してるじゃないですか!」
ケンタは、アクビの手を取ろうとした。
「触らないで」
アクビは、ケンタの手を振り払った。
「あんた、昨日、どこにいたの」
声が、冷たかった。
「え? 昨日は、機材リストの確認と……それから、セラさんと少し話を——」
ケンタが「セラ」と言った瞬間、アクビの顔から、すべての表情が消えた。
「セラと、何話してたの」
アクビは、床に落ちていた予備のマイクを掴んだ。
そして、それを、思い切り床に叩きつけた。
ガシャン!
マイクが、粉々に砕ける。
「あんた、誰とでもそういう顔するのね……私にだけじゃ、なかったのね……」
アクビの声が、震えていた。
三週間前、配信者交流会の帰り道。セラに手を握られていたケンタを見た時、彼女が言った言葉。
『あんた、誰とでもそういう顔するのね』
その言葉を、アクビは、もう一度繰り返した。
「アクビさん、違います。セラさんとは、ただ、配信の話を——」
「嘘つき! あの子、あんたのこと、好きなんでしょ! 私、知ってるんだから!」
アクビの叫びが、防音壁に反響した。
ケンタは、言葉を失った。
(知ってる? なんで、アクビさんが……)
「私、二千歳も生きてるのよ。人の心の機微くらい、分かるわ。あの子が、あんたを見る目……あれは、本気よ」
アクビの真紅の瞳が、涙で潤んでいた。
二千歳の女王が、今、泣きそうになっている。
「アクビさん、落ち着いてください。俺は、アクビさんのマネージャーです。それ以上でも、それ以下でもない。セラさんとは、本当に何も——」
「それ以上でも、それ以下でもない……そうよね。私は、あんたの『担当』だものね」
アクビは、自嘲するように笑った。
「でも、私……あんたのこと、もう、専属マネージャーとして見れない」
ケンタは、息が止まるかと思った。
「アクビさん、それ、どういう——」
「そのままの意味よ。……ごめんなさい」
アクビは、ケンタに背を向けた。
そして、スタジオから、走り去った。
「アクビさん!」
ケンタは、追いかけようとした。
その時、ポケットのスマホが震えた。
ケンタは、足を止めた。
画面を見る。知らない番号からのメッセージ。添付ファイル付き。
『女王の素顔』
ファイル名を見た瞬間、ケンタの全身の血が、逆流するかと思った。
震える指で、ファイルを開く。
動画が再生された。
三年前の、アクビの配信アーカイブ。彼女が、歌枠の最後に、ポツリと呟く瞬間。
『人間なんて、みんな嘘つきよ』
たった三秒。
でも、文脈を無視すれば、これは差別発言に取られかねない。人間という言葉が、特定の集団を指しているように切り取られれば、炎上は避けられない。
添付メッセージが表示される。
『3日後、これがSNSに出る。止めたければ、俺と会え。場所はオルフェウス川沿い。リョウ』
ケンタの手が、震えた。
(リョウ……お前、本気か)
大学時代、一緒に配信プロジェクトを組んでいた、かつての親友。今は、ノクターンエンターテインメントの敏腕マネージャー。
(これが、お前のやり方か)
数字のためなら、何でもする。弱者を切り捨てる。そういう男だった。
ケンタは、動画ファイルを削除しようとした。アクビに、知られてはいけない。
「それ、私の声ね」
背後から、声がした。
ケンタは、心臓が止まるかと思った。
振り返ると、アクビが立っていた。
彼女は、いつの間にか戻ってきていた。そして、ケンタのスマホの画面を、後ろから覗き込んでいた。
「アクビさん、これは——」
「見せて」
アクビは、ケンタの手から、スマホを奪い取った。
彼女は、動画を再生した。
『人間なんて、みんな嘘つきよ』
自分の声を、無表情で聞いている。
「……そう。これ、三年前の私ね」
アクビは、静かに言った。
「リョウって、あの、ノクターンの。あんたの元親友でしょ。あいつ、私の過去を使って、あんたを脅してるのね」
「アクビさん、俺が、なんとかします。だから、これは——」
「なんとかするって、どうやって? あんた、私の過去の何を知ってるの?」
アクビの声が、鋭くなった。
ケンタは、答えられなかった。
アクビの過去。三年前に、彼女に何があったのか。声を失いかけた、という噂。リョウとの関係。何も知らない。
「知らないくせに、守るとか、言わないで」
アクビは、ケンタのスマホを握りしめたまま、うつむいた。
その時だった。
「あらあら。お邪魔だったかしら?」
甘えた声が、スタジオの入り口から聞こえた。
ケンタとアクビが、同時に振り返る。
そこに立っていたのは、セラ・ノクスだった。紫がかった長い髪。切れ長の青紫の瞳。右手で髪をかき上げながら、小悪魔の微笑みを浮かべている。
「セラ……あんた、なんでここに」
アクビの声が、一段低くなった。
「なんでって、私もここの所属だもの。スタジオを使いに来ただけよ。ふふっ、それにしても、すごい声が聞こえたから、気になっちゃって」
セラは、床に散らばったモニターとマイクの破片を見て、肩をすくめた。
「相変わらず、壊すのね。アクビちゃんは。機材がかわいそう」
「あんたに関係ないでしょ。それより、あんた、ケンタに何話したの?」
アクビは、セラを睨みつけた。
真紅の瞳が、怒りで燃えている。
「別に? 好きだって言っただけよ。私、ケンタくんのこと、本気で好きになっちゃったみたい」
セラは、さらりと言った。
アクビの顔が、青ざめた。
「あんたに、ケンタの何が分かるの」
アクビは、セラに詰め寄った。
「じゃあ、あんたは分かってるの? ケンタくんの、何が」
セラは、一歩も引かなかった。
「私は、あんたよりずっと、あいつの近くにいる。毎日、一緒に仕事してる。あいつの真面目さも、不器用さも、私が一番知ってる」
「ふふっ。仕事の話じゃないのよ、私が言ってるのは。あんた、ケンタくんの、何を守りたいの? あんたの声、あんた自身が一番怖がってるくせに」
セラの言葉が、スタジオに冷たく響いた。
アクビの顔が、さらに青ざめた。
「……なに、それ」
「あんた、自分の声が、いつか消えるかもしれないって、ずっと怖がってるんでしょ。だから、あんなに無茶な配信をして、自分を壊そうとしてる。私、同期だから、分かるのよ」
セラの言葉は、静かで、でも、鋭い刃のようだった。
アクビは、何も言えなかった。
セラは、アクビに背を向けた。
「私、本物のアクビちゃんの歌、聴きたいな」
そう呟いて、セラは、スタジオを出て行った。
静寂が、残った。
アクビは、その場に、崩れ落ちた。
「……ケンタ」
かすれた声。
ケンタは、アクビのそばに駆け寄った。
「アクビさん、大丈夫ですか。立てますか」
ケンタは、アクビの肩に手を置こうとした。
「触らないでって、言ったでしょ……」
アクビは、ケンタの手を、弱々しく振り払った。
でも、その手は、さっきよりずっと力がなかった。
アクビは、顔を上げた。
真紅の瞳から、涙が、こぼれ落ちていた。
大粒の涙が、白い頬を伝って、ドレスの胸元に落ちる。
スペードの女王が、初めて、ケンタの前で泣いた。
「ケンタ、私……もう、あんたのこと、専属マネージャーとして、見れない……」
アクビは、泣きながら、そう言った。
「あんたのこと、マネージャーとしてじゃなくて……一人の男の人として、見てる。……おかしいでしょ。二千歳の女王が、たった三週間で、こんな……」
アクビの声が、震える。
「私、あんたがいないと、ダメなの。配信も、歌も、何もかも。あんたが、セラと話してるだけで、胸が苦しくて、どうにかなりそうで……」
ケンタは、言葉を失った。
アクビが、そんな風に思っていたなんて。
「でも、私は、あんたを縛れない。あんたには、あんたの人生がある。セラは、きっといい子よ。私より、ずっと、あんたに合ってる」
アクビは、涙を拭おうともせず、立ち上がった。
「だから、もう、私の担当を、外れて。……お願い」
そう言って、アクビは、スタジオから走り去った。
「アクビさん! 待ってください!」
ケンタは、追いかけようとした。
でも、足が、動かなかった。
ポケットの中で、スマホが震える。
リョウからのメッセージ。
『返事はまだか。時間がないぞ。あの小娘の未来が、お前の返事にかかってる』
ケンタは、スマホを握りしめた。
(アクビさんを追うか、リョウと会うか)
二つの選択が、ケンタを引き裂く。
(アクビさんを、追わなきゃ。今、追わなきゃ、もう二度と、彼女に会えなくなるかもしれない)
心が、叫んでいる。
でも、リョウの脅迫も、無視できない。三日後、あの動画がSNSに出れば、アクビの配信者人生は、終わる。
「……くそ」
ケンタは、床に散らばったモニターの破片を、拳で殴った。
ガラスの破片が、右手の甲に突き刺さる。古い火傷跡の上に、新しい傷が重なる。血が、ぽたぽたと床に落ちた。
痛い。でも、それ以上に、胸が痛い。
(俺は、誰を守りたいんだ)
ケンタは、その場に座り込んだ。
答えは、出なかった。
***
夜。
ケンタは、アパートの自室で、壊れたマイクの修理をしていた。
右手には、包帯が巻かれている。スタジオでつけた傷だ。血は、もう止まっていた。
机の上には、アクビが叩き割ったモニターの破片と、粉々になったマイクの残骸。それから、リョウから送られてきた動画ファイル。
ケンタは、半田ごてを握りしめたまま、動かなかった。
(アクビさんは、今、どこにいるんだ)
追いかけなかった。追いかけられなかった。
(リョウに、会うべきなのか)
あの動画を、どうにかしなければ。でも、リョウに会えば、どんな要求をされるか分からない。
(セラさんは、なぜ、あんなことを)
アクビの前で、あんなに残酷な言葉を。でも、あれは、セラなりの本心だったのかもしれない。
『私、本物のアクビちゃんの歌、聴きたいな』
あの言葉は、嘘じゃない気がした。
ケンタは、壊れたマイクを見つめた。
アクビが、最後に掴んで、床に叩きつけたマイク。
(このマイクを、直せば、アクビさんは、また歌ってくれるのか?)
分からない。
でも、直すことしか、今の自分にはできなかった。
ケンタは、半田ごてを握り直した。
「俺は、誰を守りたいんだ……」
小さく、呟いた。
答えは、まだ、出ない。
でも、右手の火傷跡が、熱を持っている。
あの日、守れなかった配信者のことを、思い出す。
(今度こそ、守るんだ)
そう、決めたはずだった。
なのに、また、何もできていない。
ケンタは、修理を続けた。
半田ごての先が、小さく震えていた。
窓の外では、ハミングバード地区の夜が、いつも通りに更けていく。配信者たちの声が、遠くで、歌うように響いていた。
その声の一つが、アクビの声であればいいのに。
ケンタは、そう思った。
でも、今夜の街に、彼女の歌は、聞こえなかった。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。