あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜
たった一度の歌枠が、すべてを変えた。
都心の配信スタジオ・ミリオンプロダクションの新人マネージャー、ケンタは、社長からアクビという配信者の専属担当を命じられる。身長140センチ、自称2000歳、スペードの女王の衣装をまとい、ハスキーでハイパーな声で話す彼女——そして歌うとき、世界は静まり返る。
「[興奮] あなたが私の新しいマネージャー? 小さくてかわいい!」
彼女の最初の一言に、ケンタは言葉を失う。しかし彼女の配信はいつも大惨事だ。ゲーム中に叫びすぎてマイクを壊し、カラオケのセッティングは機材の配線ミスで大混乱。ケンタは毎晩、機材の修理、スケジュールの調整、そして彼女の無理難題に振り回される。
一方、ライバル事務所のノクターン・エンターテインメントがアクビの引き抜きに目をつける。担当はリョウ——ケンタのかつての親友。彼は「お前には彼女を守れない」と警告し、アクビの過去の配信データを武器にすると脅す。
さらには、アクビの仲間の配信者セラが突然「私、ケンタのことが好きになったかも」と告白。彼のアパートに押しかけ、アクビの配信を覗き、二人の間に割って入ってくる。
「[冷たく]
あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜 - ハスキーボイスの女王、初対面でマイクを三台壊す
あの日、社長室でアクビ・デモンスペードの専属を命じられてから、三日が過ぎていた。
佐藤ケンタは、ミリオンプロダクション本社の二階、第二スタジオの前に立っていた。春の午後の光が、廊下の窓から差し込んで、古いフローリングに白い四角を作っている。
(いよいよ、か)
右手の甲の古い火傷跡を、左手の親指でそっと撫でた。大学時代、音響機材の修理中につけた傷だ。不安なとき、この傷に触るのが癖になっている。
心臓が、少しだけ速い。
あの夜、コンビニのベンチでアクビの歌枠アーカイブを聞いてから、ずっとこの瞬間を想像していた。百二十万人が聞きたがる声。スペードの女王。自称二千歳の歌姫。
「……よし」
ケンタは、肩にかけたボディバッグを抱え直し、ドアをノックした。
コン、コン。
返事はない。
もう一度、強くノックする。
「あの、佐藤です。今日から専属マネージャーを」
ドアの向こうから、ガサガサと物音がした。何かが倒れる音。続いて、低くて甘い、少し掠れた声が響いた。
「入ってきなさいよ。鍵、開いてるから」
ケンタは深呼吸して、ドアノブを回した。
——視界が、赤と黒に染まった。
部屋の中に、小さな人影が立っていた。
赤と黒のドレス。胸元に銀色の糸で刺繍された、スペードの紋章。銀色の髪が、腰まで真っ直ぐに伸びている。真紅の大きな瞳が、まっすぐにケンタを見上げていた。
身長は、百四十センチ。資料で読んでいた数字が、そのまま現実になった。
(小さい……)
いや、小さいなんて失礼だ。でも、本当に小さい。
彼女は、部屋の中央にある特注の低いデスクの上に、仁王立ちしていた。ドレスの裾が、デスクの上に散らばったケーブルの束に絡まっている。床には、壊れたマイクが山のように積まれていた。少なくとも、十本はある。
「あんたが新しいマネージャー? ちっちゃくてかわいいじゃない!」
ハスキーボイスが、防音壁に囲まれた狭い部屋に反響した。
ケンタは、一瞬、言葉を失った。
(ちっちゃくてかわいい? 俺が?)
百七十センチの自分が、百四十センチの女王に「ちっちゃい」と言われている。しかも、かわいい。
威圧感と可愛さのギャップに、頭の中がぐるぐる回る。
「え、あの、俺、佐藤ケンタです。今日からアクビさんの専属を担当させていただくことに」
「知ってるわよ。社長から聞いた。あんた、音響サークル出身なんだって? 機材直せるの?」
「は、はい。一応、音響機材の修理は得意で」
「いいわね。じゃあ、これ、全部直して。三時間で」
アクビは、デスクの上の壊れたマイクの山を、白い指で指し示した。
「……全部、っすか?」
「全部よ。今日、この後ゲーム配信やるから。それまでに使えるマイクを三本、用意して」
三時間で、壊れたマイク十本以上を修理して、配信環境を整えろ。
無茶だ。普通に考えて、無茶すぎる。
でも。
「……とりあえず直します」
口から出たのは、いつもの口癖だった。
ケンタは、ボディバッグから工具セットを取り出し、床にしゃがみ込んだ。壊れたマイクを一つ手に取る。ショックマウントが外れ、ケーブルの被覆が裂けている。
「あら、素直ね。気に入ったわ」
アクビは、デスクの上からひょいと飛び降りた。ドレスの裾がふわりと広がる。
「私、アクビ・デモンスペード。スペードの女王。二千歳。よろしく」
二千歳。
ケンタは、ドライバーを握ったまま、彼女の顔を見た。
(冗談……だよな?)
でも、その真紅の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
「よろしくお願いします、アクビさん。あの、一つ聞いてもいいですか」
「なに?」
「なんで、この事務所で配信してるんですか? もっと大きな事務所、いくらでもあると思うんですけど」
アクビは、首を傾げた。銀色の髪が、さらりと揺れる。
「ふうん。あんた、初日から面白いこと聞くのね」
「す、すみません。出過ぎたことを」
「別にいいわ。ここが、私の居場所だからよ。それだけ」
それだけ、と彼女は言った。
ケンタには、その言葉の意味が、まだよく分からなかった。
——三時間後。
第二スタジオは、配信の準備が整っていた。
ケンタは、汗だくになりながら、最後のマイクの動作確認をしていた。壊れたマイクの中から、なんとか使える部品を組み合わせて、三本を復活させた。配線も、床に散乱していたケーブルをすべて整理し直した。
「へえ、本当に直したの。あんた、手が器用なのね」
アクビは、感心したように、ケンタの手元を覗き込んだ。
「とりあえず、これで配信できます。あと、配線がぐちゃぐちゃだったので、電源系統と音声系統を分けました。これなら、そう簡単にはノイズが乗らないはずです」
「すごいじゃない。じゃあ、始めるわよ。あんた、そこの椅子に座って、大人しく見てなさい」
アクビは、特注の低いデスクの前に立った。
「ゲーム配信、スタート!」
彼女が配信ソフトを起動すると、壁の4Kモニターに、配信画面が映し出された。視聴者コメントが、画面の右側を流れ始める。
『女王、待ってた!』
『今日もかわいい』
『あれ、後ろにいるの誰?』
「今日はね、新しいマネージャーが来たの。ちっちゃくてかわいいのよ」
『マネージャーww』
『ちっちゃくてかわいいってww』
『女王、それは自分では』
ケンタは、画面の隅に映り込まないように、そっと後ろに下がった。
(ちっちゃくてかわいいは、そっちだろ……)
心の中で、静かにツッコんだ。
ゲームが始まった。
アクビは、コントローラーを握ると、人が変わったように激しくなる。
「そこ! 今そこ! あーっ、避けなさいよ、この雑魚が!」
「ちょっと、何で当たるの! このボス、頭おかしいんじゃない!?」
「あああああああっ!!!」
——バキッ。
マイクが、悲鳴を上げた。
「あ」
ケンタは、音声メーターが振り切れるのを見た。入力過多だ。ショックマウントが外れ、マイク本体が床に転がった。
『音割れたwww』
『女王の絶叫でマイクが死んだwww』
『またかよwww』
「あら、壊れちゃった。マネージャー、代わりのマイク!」
ケンタは、無言で二本目のマイクを差し出した。
「アクビさん、叫ぶときはマイクから少し離れてください。それと、音量はもう少し抑え」
「うるさいわね! これが私の配信スタイルよ! ほら、二本目!」
二本目のマイクは、配信機材の電源ケーブルと音声ケーブルを、アクビが自分で繋ぎ間違えた。
ブツッ、とノイズが走り、スピーカーから耳障りな音が撒き散らされる。
『うわ、ノイズやば』
『女王、またやったwww』
『ポンコツかわいい』
「ちょっと、なんで音が出ないのよ! マネージャー、早く直しなさい!」
ケンタは、床を這うようにして、配線を辿った。
(電源と音声、逆に刺さってる……)
「アクビさん、このケーブルとこのケーブル、刺さる場所が違います。見てください、ここに色分けのシールが」
「そんなの知らないわよ。全部同じに見えるもの」
「赤は電源、青は音声です。覚えてください」
「ふん。二千歳の女王に、色の区別を教える気?」
『女王、言い訳が雑www』
『マネージャーさん、教育がんばって』
ケンタは、無言で配線を直した。
三本目のマイクは、アクビが「この曲、二千年前に聴いたわ」と言いながら、コントローラーを振り回した拍子に、マイクスタンドごと床に叩きつけられた。
ガシャン。
「あ」
「……あ」
二人の声が、重なった。
『マイク三本目www』
『今日の女王、絶好調にポンコツ』
『マネージャーさん、可哀想』
ケンタは、床に散らばったマイクの残骸を拾い集めた。
(三時間かけて直したのに、三十分で三本全滅……)
でも、不思議と腹は立たなかった。
(この人、本当に楽しそうに配信するんだな)
アクビは、マイクを壊したことを、まるで悪いと思っていない。いや、むしろ、配信が盛り上がっていることを喜んでいるように見えた。
視聴者コメントは、笑いと応援で埋め尽くされている。
『女王、マイク破壊記録更新中www』
『マネージャーさん、今日から地獄やなwww』
『でも、このコンビ、なんかいい』
ケンタは、壊れたマイクの部品を、手早く組み合わせて、応急処置を施した。
「アクビさん、これで最後の一本です。次壊したら、配信止めますよ」
「あら、あんた、意外と強気なのね」
「強気じゃないです。ただ、機材がないと配信できないんで」
アクビは、ケンタの顔をじっと見つめた。
「ふうん。……分かったわ。次は気をつける」
少しだけ、素直な返事だった。
——ゲーム配信が終わった。
時刻は、夕方の五時を回っていた。
ケンタは、汗で張り付いたシャツの襟を、指でつまんで風を送った。
「お疲れ様でした、アクビさん。今日の同時接続、最高で三万人でしたよ。すごいですね」
「三万人? こんなもの、私にしたら少ない方よ。ゲーム配信は、本気出してないし」
「本気出してないんですか?」
「当たり前でしょ。私の本気は、歌よ。歌枠じゃないと、力が出ないの」
アクビは、そう言うと、配信ソフトの画面を切り替えた。
「じゃあ、最後に一曲いくわよ。あんた、配線、ちゃんと直したんでしょ? なら、歌えるわ」
「え、今からですか? 機材のチェックも」
「大丈夫よ。あんたが直したんでしょ? なら、大丈夫」
アクビは、新しいマイクをスタンドにセットした。
「……聞きなさい。これが、私の歌よ」
彼女が、目を閉じた。
——最初の一音で、世界が変わった。
低く、深く、甘い声が、防音壁に囲まれたスタジオに満ちた。
ケンタの肌が、震えた。
(なんだ、これ)
イヤホン越しに聞いたアーカイブとは、比べ物にならない。生の声が、空気を震わせて、直接、骨に響いてくる。
低音域に、倍音が重なっている。資料にあった「ハスキーボイス・エフェクト」という言葉が、頭をよぎる。
(物理的に、震えてる)
腕の産毛が、全部、逆立っている。
視聴者コメントが、滝のように流れ始めた。
『ナニコレ』
『鳥肌立った』
『震えた』
『今日も神』
『女王の歌、やっぱ反則』
同時接続者数の数字が、モニターの隅で、ぐんぐん跳ね上がっていく。
三万。五万。八万。
『アクビ・バーストきたああああ』
『一瞬で三倍とかwww』
『この声、マジでやばい』
ケンタは、息をするのも忘れて、彼女の歌を聞いていた。
(すごい、なんて)
歌が、終わった。
スタジオに、静寂が戻る。
アクビは、ゆっくりと目を開けた。
「……どうだった?」
ケンタは、自分の声が、うまく出ないことに気づいた。
「この声、すごいっすね」
素直な感想が、そのまま口から出た。
アクビは、一瞬だけ、照れたように顔を伏せた。
「……二千歳も生きてれば、これくらい普通よ」
でも、その声は、初対面の時よりも、少しだけ柔らかかった。
——配信が終わった。
ケンタは、機材の後片付けをしていた。アクビは、スタジオの隅にある簡易ベッドに、ドレス姿のまま寝転んだ。
「アクビさん、着替えたらどうですか? 配信終わったし、楽な服の方が」
アクビは、天井を見たまま、ぽつりと言った。
「脱ぐと、本当の自分に戻ってしまうから」
ケンタは、ケーブルを巻く手を止めた。
(本当の自分に、戻ってしまう?)
どういう意味だ。
「それ、どういう」
「あんた、明日も来るでしょ?」
アクビは、ケンタの質問を遮るように言った。
「……はい。来ます」
「なら、いいわ。……おやすみ」
アクビは、安心したように、目を閉じた。
ケンタは、それ以上、何も聞けなかった。
(この人は、何を抱えてるんだ)
奇妙な執着。脱ぐと本当の自分に戻る、という言葉。
分からないことだらけだった。
ケンタは、起こさないように、そっとスタジオを出た。
廊下に出る直前、壁の落書きが目に入った。
『2000年目の独り言』
あの日、初めてこの部屋を見た時にも、この落書きを見た。
(二千歳、か)
ケンタは、もう一度、その文字を指でなぞった。
——その夜。
ケンタは、一階の受付で、タナベ・ユキに呼び止められた。
「佐藤さん。これ、アクビさん宛てに届いてます」
タナベは、無表情のまま、白い封筒を差し出した。
「あ、ありがとうございます。明日、渡しておきます」
ケンタは、封筒を受け取った。
表には、アクビ・デモンスペード宛て、と書かれている。差出人は——
ノクターンエンターテインメント。
ケンタの指が、ぴくりと止まった。
(ノクターンから、アクビさんに?)
社長の言葉が、頭の中で蘇る。
『最近、ノクターンエンタメがうちの配信者を引き抜こうと動いてる』
ケンタは、封筒をボディバッグにしまい、事務所の外に出た。
春の夜風が、汗ばんだ首筋を冷やしていく。
(開けるな。明日、そのまま渡せばいい)
頭では、そう分かっている。
でも、足は、自然と近くの公園に向かっていた。
人通りの少ないベンチに座り、封筒を取り出す。
(アクビさんに渡す前に、中身を確認する。マネージャーとして、当然の確認だ)
そう自分に言い訳して、封を開けた。
中から出てきたのは、一枚のスクリーンショットと、一枚の手紙だった。
スクリーンショットには、アクビの過去の配信アーカイブの一部が切り抜かれていた。三年前の日付。彼女が、歌枠の最後に、何かを呟いている瞬間の静止画。
(これは……)
手紙を広げる。
『アクビ・デモンスペード様。契約更新前に、一度お話しませんか。あなたの歌声は、当社でこそ輝きます』
差出人欄には、名前が書かれていた。
リョウ・クロサキ。
ケンタの心臓が、冷たい手で握られたように縮んだ。
(リョウ……)
大学時代、一緒に配信プロジェクトを組んでいた、かつての親友。数字が取れない配信者を切り捨てる方針に反発して、自分が左遷された。あの日から、会っていない。
(お前が、アクビさんを)
手紙を持つ手が、震えていた。
社長に報告すべきか。
それとも、アクビを守るために、自分一人で処理すべきか。
ケンタは、封筒を握りしめたまま、動けなかった。
(今回こそ、守りたい配信者を、手放さない)
そう決めたのに。
リョウの名前を見た瞬間、あの日の無力感が、まとめて押し寄せてきた。
「……くそ」
小さく、呟いた。
ケンタは、封筒をボディバッグの奥に隠した。
(明日、アクビさんには、変なDMが来てたから消しておいた、って言おう)
それが、正しいのか、間違っているのか。
分からない。
でも、今は、彼女にこの手紙を見せたくなかった。
ケンタは、立ち上がり、夜のハミングバード地区を歩き出した。
右手の火傷跡が、熱を持っているような気がした。Noveliaとは?
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