あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜
たった一度の歌枠が、すべてを変えた。
都心の配信スタジオ・ミリオンプロダクションの新人マネージャー、ケンタは、社長からアクビという配信者の専属担当を命じられる。身長140センチ、自称2000歳、スペードの女王の衣装をまとい、ハスキーでハイパーな声で話す彼女——そして歌うとき、世界は静まり返る。
「[興奮] あなたが私の新しいマネージャー? 小さくてかわいい!」
彼女の最初の一言に、ケンタは言葉を失う。しかし彼女の配信はいつも大惨事だ。ゲーム中に叫びすぎてマイクを壊し、カラオケのセッティングは機材の配線ミスで大混乱。ケンタは毎晩、機材の修理、スケジュールの調整、そして彼女の無理難題に振り回される。
一方、ライバル事務所のノクターン・エンターテインメントがアクビの引き抜きに目をつける。担当はリョウ——ケンタのかつての親友。彼は「お前には彼女を守れない」と警告し、アクビの過去の配信データを武器にすると脅す。
さらには、アクビの仲間の配信者セラが突然「私、ケンタのことが好きになったかも」と告白。彼のアパートに押しかけ、アクビの配信を覗き、二人の間に割って入ってくる。
「[冷たく]
あくび・でもんすぺーど 〜女王と社畜Pの秘めごと〜 - 炎上の夜、女王は屋上で声を捨てる
違う、と思った。
頭では分かっている。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
佐藤ケンタはスマホの画面を凝視したまま、動けなかった。
深夜零時を回ったミリオンプロダクション本社。三階建ての古びたビルは、ハミングバード地区の片隅で静かに眠っているはずだった。だが一階の受付カウンターでは、タナベ・ユキが青白い顔で電話を握りしめていた。
「ええ……はい……契約解除のご通知、承知いたしました」
彼女の声は、感情を消した平坦なものだった。でも、受話器を置く指先は、ほんの少し震えている。
ケンタは、その横で、自分のスマホに表示されたトレンド画面を見つめていた。
『アクビ・デモンスペード 差別発言』
三秒の切り抜き動画。彼女の声が、加工されて、別の言葉にすり替えられている。
「人間なんて、みんな嘘つきよ」
その一言だけが、繰り返し再生される。前後の文脈は切り取られ、あたかも彼女が全人類を敵に回したかのような編集だった。
(これは、リョウの仕業だ)
ケンタは、奥歯を噛みしめた。
三日後と言っていた。だが、前倒しで投稿してきた。予告を破ることで、こちらの反論準備を完全に潰すつもりだ。
「佐藤さん、これで七社目よ」
タナベが、受けた電話のメモを差し出した。有名飲料メーカー、音響機器メーカー、通信会社。アクビがCM契約していたスポンサーが、次々と撤退を通告してきている。
「分かりました。……社長には、俺から連絡します」
ケンタは、そう言うのが精一杯だった。
(反論の材料を、探さなきゃ)
三年前の該当配信アーカイブ。ケンタは、事務所のサーバーにアクセスした。検索をかける。だが、出てこない。
(消されてる)
該当の配信データだけが、きれいに消えていた。リョウが、ここまで手を回している。ケンタは、スマホを握りしめた。手のひらに、汗がにじむ。
(俺は、何もできないのか)
悔しさが、喉の奥にこみ上げた。
***
午前二時。
ミリプロ本社の前の道路に、人が集まり始めた。
最初は十人ほどだった。それが、二十分で五十人を超えた。スマホを掲げ、プラカードを振り回し、建物に向かって叫んでいる。
「嘘つき女王、出てこい!」
「差別主義者を守るな!」
「ミリプロは腐ってる!」
怒号が、防音壁を突き破って、ビルの中にまで響いてくる。
ケンタは、二階の第二スタジオにいた。アクビ専用の配信部屋。彼女の身長に合わせた低いデスク、壁際に並ぶ予備マイク、そして床に散らばったケーブルの残骸。
アクビ・デモンスペードは、その部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。赤と黒のドレス、胸元のスペードの紋章。銀色の髪が、乱れて顔にかかっている。真紅の瞳は、配信機材のモニターに映る自分の切り抜き動画を、じっと見つめていた。
「アクビさん、窓から離れてください。シャッターを下ろします」
ケンタは、窓のシャッターを下ろした。ガラガラと金属が擦れる音。外の怒号が、少しだけ遠くなる。
「機材の電源も、全部落とします。配信は、しばらく休止です」
ケンタは、配信機材の電源を一つずつ切っていった。緑色のランプが、消えていく。
アクビは、何も言わなかった。
「大丈夫です。俺が、何とかしますから」
ケンタは、できるだけ優しい声で言った。
アクビが、ゆっくりと顔を上げた。
「何とかって、何よ」
その声は、いつものハスキーボイスより、ずっと低く、ずっと冷たかった。
「あんたに、何ができるの。あんたは、ただの新人マネージャーじゃない」
ケンタは、言葉に詰まった。
(俺に、何ができる?)
答えは、見つからない。
アクビは、再びモニターを見つめた。画面の中では、三秒の切り抜きが、何度も何度も再生されている。
「私、こんなこと、言ったっけ」
「言ってません。前後の文脈を切って、加工したものです」
「でも、みんな、信じてる」
アクビの小さな拳が、ぎゅっと握りしめられた。白くなるほど、強く。
「二千年も生きてきて、初めてよ。私の声が、否定されたのは」
その言葉に、ケンタは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
(アクビさんは、今、自分の存在そのものを否定されている)
彼女の声は、彼女のすべてなのに。
***
午前三時。
ビルの裏口から、足音が聞こえた。
ケンタは、身構えた。だが、ドアを開けて入ってきたのは、紫がかった長いストレートヘアの少女だった。サイドの三つ編みが揺れ、切れ長の青紫の瞳が、ケンタを捉える。
セラ・ノクス。十九歳。アクビの同期で、ミリオンプロダクション所属の人気配信者。
「ケンタくん、大変だったね」
セラは、息を切らせながら、ケンタに駆け寄った。
「セラさん、なんでここに。危ないですから、帰ってください」
「だって、心配だったんだもん。アクビちゃんの切り抜き、すごい拡散されてるから」
セラは、右手で髪をかき上げながら、首を傾げた。
「あの切り抜き、私、拡散しといたよ。だってトレンドで見つけて、アクビちゃんのこと、もっと知ってもらえると思って」
ケンタは、固まった。
(今、なんて言った?)
「なんでそんなことしたんですか! あれは、アクビさんを陥れるための動画ですよ!」
ケンタは、思わず声を荒げた。
セラの顔から、笑みが消えた。
「悪意はなかった。本当に。でも、私が拡散したのは、事実なの」
セラの目に、涙が滲んだ。
「ごめんね、ケンタくん。私、アクビちゃんのためだと思って……」
その時だった。
スタジオの扉が、ゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、アクビだった。
真紅の瞳が、ケンタとセラを、交互に見つめる。
「あんたも、グルだったのね」
その声は、氷のように冷たかった。
「違います! 俺は、何も知らなくて——」
「じゃあ、なんであんた、セラとこんな時間に会ってるの」
アクビの声が、震えた。
「二人で、私を笑ってたんでしょ。私の声が、嘘つきの声だって」
「アクビさん、落ち着いてください。セラさんは、悪意があったわけじゃ——」
「黙って!」
アクビの叫びが、防音壁に反響した。
「あんたの言葉なんて、もう信じない。誰も、信じない」
アクビは、そう言い残すと、踵を返して走り出した。
「アクビさん! 待ってください!」
ケンタは、追いかけようとした。だが、セラがケンタの腕を掴んだ。
「ケンタくん、私、どうしたらいいの。アクビちゃんに、嫌われちゃった」
セラの涙が、ケンタの腕に落ちた。
「セラさん、今は、アクビさんを追わせてください」
ケンタは、セラの手を振りほどき、アクビの後を追った。
***
午前四時。
アクビは、事務所の屋上にいた。
三階建てのビルの、さらに上。夜明け前のハミングバード地区が、眼下に広がっている。古いビル群の屋根、狭い路地、遠くに光るボイスタワーの赤いランプ。
アクビは、手に一枚の紙を握りしめていた。
契約書。
「三年で、終わりにするつもりだったのに」
彼女は、呟いた。
「なんで、こんなに辛いの」
風が吹いた。屋上の壁に、誰かが書いた落書きが揺れる。
『2000年目の独り言』
その続きが、壁に刻まれていた。
『誰かを好きになると、別れるのが怖い』
アクビは、スマホを取り出した。契約解除の連絡を、社長ゴウダに入れようとしている。
指が、震える。
ボタンを、押せない。
「押せない……なんで、押せないのよ」
涙が、画面に落ちた。
その時、屋上のドアが、勢いよく開いた。
「アクビさん!」
ケンタが、息を切らせて駆け上がってきた。
「来ないで!」
アクビが、叫んだ。
「あんたに、何ができるの。あんたは、私を守れなかったじゃない!」
涙が、銀色の髪を伝って、ドレスに染みていく。
「あんたは、セラと一緒に、私を笑ってたんでしょ。私の声を、嘘つきの声だって」
「違います。俺は、アクビさんの声を、一度だって疑ったことはない」
ケンタは、一歩、前に出た。
「俺が、絶対、真実を証明します。あの切り抜きが、加工されたものだって、必ず」
「どうやって? 証拠は、全部消されてるんでしょ?」
アクビの声が、震える。
「それでも、諦めません。俺は、あんたのマネージャーです。あんたの声を、守るのが俺の仕事だ」
ケンタは、アクビの目を、まっすぐに見つめた。
「あんたに、何ができるの……」
アクビの声が、小さくなる。
ケンタは、深呼吸をした。
(今、話さなきゃ。俺の過去を。俺が、なぜ、ここにいるのかを)
「俺、大学の時、リョウと一緒に、配信プロジェクトを立ち上げたんです」
アクビは、黙って聞いていた。
「リョウは、数字がすべてだって言った。再生数が伸びない配信者は、切り捨てるべきだって。俺は、反対した。でも、負けた。リョウのやり方が、正しいって、認めさせられた」
ケンタの声が、少し震えた。
「その時、俺が担当してた配信者がいたんです。数字は、伸びなかった。でも、その人は、毎日、一生懸命配信してた。俺は、その人を守れなかった。リョウに、切り捨てさせた」
ケンタは、拳を握りしめた。右手の甲の古い火傷跡が、夜明け前の薄明かりに浮かび上がる。
「あの時、俺は逃げた。だから、今度は、絶対に逃げない。アクビさんを、一人にしない」
ケンタの声が、屋上に響いた。
「俺は、もう、誰も見捨てない」
アクビの目が、わずかに揺れた。
彼女の握りしめた契約書が、風に揺れる。
「……あんた、そんなこと、今まで、言わなかったじゃない」
アクビの声が、少しだけ、柔らかくなった。
「言えなかったんです。俺は、あんたに、カッコ悪いところを見せたくなかった」
「バカね」
アクビが、小さく笑った。涙が、まだ頬に残っている。
「あんた、本当に、不器用なんだから」
その時だった。
ケンタのスマホが、震えた。
着信。画面に表示された名前を見て、ケンタの表情が、凍りついた。
リョウ・クロサキ。
ケンタは、通話ボタンを押した。
「ケンタ、久しぶりだな」
スピーカーから、冷たい声が流れた。
「完全版アーカイブ、受け取りに来い。オルフェウス川沿いの遊歩道、朝六時。お前一人で来い」
「お前、何を企んでる」
「来なければ、今夜、もう一本、切り抜きを出す。今度は、もっと面白いやつだ」
リョウの声には、感情がなかった。
「結果がすべてだ。お前も、よく知ってるだろ」
通話が、切れた。
ケンタは、スマホを握りしめたまま、立ち尽くした。
(完全版アーカイブ。それが手に入れば、反論できる)
でも、それは、リョウの罠かもしれない。
「行かないで」
アクビが、ケンタの服の裾を、小さく掴んだ。
「あの男は、危険よ。あんた、何をされるか分からない」
「でも、行かなければ、アクビさんの声を、守れない」
ケンタは、アクビの手を、そっと握った。
小さな手。冷たい手。
「行ってきます。必ず、戻ります」
「……約束よ」
アクビの声が、震えた。
ケンタは、頷いた。
そして、屋上を後にした。
背後で、アクビの小さな泣き声が、風に消えていった。
***
夜明け前のハミングバード地区を、ケンタは走った。
本社前のアンチたちは、警察が来て解散させられた後だった。道路には、破られたプラカードと、踏みつけられた紙コップが散らばっている。
ケンタは、オルフェウス川に向かって、走り続けた。
(リョウ、お前は、俺を試してるのか)
それとも、本当に、アーカイブを渡すつもりなのか。
分からない。
でも、行くしかない。
アクビの声を、守るために。
彼女の、二千年分の孤独を、これ以上、増やさないために。
川沿いの遊歩道が見えてきた。
朝霧が、水面を覆っている。
その霧の中に、黒いコートを着た男が、立っていた。
オールバックに固めた黒髪。冷たい灰色の目。左耳のシルバーピアスが、朝の光を反射する。
リョウ・クロサキ。
ケンタの元親友。
そして、今は、最大の敵。
「遅かったな、ケンタ」
リョウが、口元に笑みを浮かべた。
「相変わらず、間の抜けた顔をしてる」
ケンタは、リョウを睨みつけた。
「アーカイブを、渡してもらうぞ」
「ああ、渡すとも。ただし、条件がある」
リョウが、一歩、前に出た。
「あの小娘の担当を、辞めろ。そして、ノクターンに来い。お前の能力は、うちでこそ活きる」
「断る」
ケンタは、即答した。
「そうか。なら、アーカイブは渡せないな」
リョウが、ポケットからUSBメモリを取り出した。
「これが、三年前の完全版だ。お前が欲しければ、俺の条件を飲め」
「お前は、いつもそうだ。数字のためなら、何でもする」
「結果がすべてだ。お前だって、本当は分かってるんだろ」
リョウの灰色の目が、ケンタを射抜く。
「お前は、あの小娘を守れる男じゃない。昔も、今も、な」
その言葉が、ケンタの胸に突き刺さった。
(違う。俺は、もう逃げない)
ケンタは、拳を握りしめた。
「お前が、あの時、切り捨てた配信者。俺は、あの人を守れなかった。でも、今度は違う。アクビさんは、絶対に守る」
ケンタの声が、朝霧の中に響いた。
リョウは、少しだけ、目を細めた。
「……お前、まだ、あのことを」
「忘れられるわけがない」
二人の間に、沈黙が流れた。
川の水が、静かに流れていく。
「なら、実力で奪ってみせろよ」
リョウが、USBメモリを、川に向かって投げた。
小さな金属片が、弧を描いて、水面に落ちる。
「なにを——!」
ケンタは、川に飛び込んだ。
冷たい水が、全身を包む。
(どこだ、どこに落ちた)
暗い水の中を、手探りで探す。
光るものを見つけた。
USBメモリ。
ケンタは、それを掴み取った。
水面から顔を出す。
「相変わらず、お前は、馬鹿だな」
リョウの笑い声が、川岸から聞こえた。
「それは、ダミーだ。本物は、俺が持ってる」
リョウは、もう一つのUSBメモリを、指に挟んで見せた。
「お前の必死な姿、面白かったよ。昔と、何も変わってないな」
ケンタは、川の中で、立ち尽くした。
ずぶ濡れの体。冷たい水。握りしめたダミーのUSB。
(また、俺は、何もできなかった)
リョウは、背を向けた。
「今日は、これで帰る。だが、覚えておけ。次は、もっと容赦しない」
リョウは、朝霧の中に消えていった。
ケンタは、川から上がり、膝をついた。
水が、髪から滴り落ちる。
(アクビさん……)
約束したのに。
必ず、戻ると。
でも、手ぶらで戻るわけにはいかない。
ケンタは、スマホを取り出した。
画面は、水で濡れて、うまく動かない。
それでも、何とか操作して、アクビの番号を呼び出した。
「アクビさん……俺、今、川にいます」
「なんで川に!? 大丈夫なの!?」
アクビの声が、スマホから聞こえた。
「アーカイブは、まだ手に入ってません。でも、必ず、見つけます。だから、待っててください」
「……あんた、本当にバカね。でも、信じてるから」
アクビの声が、涙で震えていた。
「私、あんたのこと、信じてるから」
その言葉が、ケンタの胸に、深く染み込んだ。
(俺は、まだ、終わってない)
ケンタは、立ち上がった。
朝日が、オルフェウス川の水面を、金色に染め始めていた。
ハミングバード地区の向こうに、ボイスタワーが、静かにそびえている。
その頂上から、電波が、街中に配信者たちの声を届けている。
アクビの声も、いつか、また。
ケンタは、濡れた服のまま、歩き出した。
リョウに、一矢報いるために。
アクビの声を、取り戻すために。
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