101回目の魔女裁判
パーマネント王国は破産寸前。富豪商会コーディアスから金を借りることでかろうじて生き延びていた。騎士の家柄であるハザード家は力を失い、女王エルザードは必死だった。コーディアス家は急速に台頭し、テリウス王子とエルリッテの結婚によってパーマネントの財政を救おうと画策する。
だが、18歳のエルリッテ=コーディアスには秘密があった。亡き母が彼女に遺した『死からの帰還』の薬。それは彼女を100回蘇らせてきた。そして今、最後の一服――101回目の周回である。
婚約発表の日、女王エルザードは彼女を魔女だと告発する。テリウス王子は微笑み、偽の証拠を突きつける。父ヴォルクルスは叫ぶが、誰も耳を貸さない。1時間後には異端裁判が開かれる。
エルリッテは何が待っているか知っている。彼女は100回死んできた。ドレスを裂いて縄にし、窓の錠を外し、城から抜け出す。向かう先は、隣国メルクリウス帝国の皇帝ガイウス。
彼女は涙を差し出さない。取引を差し出す。「私に保護を。コーディアスの領地と財産をメルクリウスに差し出しましょう。パーマネントは弱体化する」
ガイウスは笑う。「面白い。私の四男、パリスと結婚しろ」
101回目の魔女裁判 - 101回目の目覚め ― 最後の一滴、ゼロの刻印 ―
水が喉の奥で渦を巻いていた。
「……っ、ぐぁ……!」
冷たい。とにかく冷たい。堀の水は真冬の夜気を含んでいて、骨の芯まで凍りつかせる。手足は縛られ体は沈むだけだった。光が遠ざかる。水面が、上で歪んで揺れている。あの光の輪の向こうに、見たくもない光景がある。
「魔女めが!」「沈めろ!」「浮かんだら火刑だ!」
そんな怒号が、水中ではもう遠い祭囃子のようにしか聞こえなかった。エルリッテ=コーディアスは、その音のひとつひとつをなぜか妙に冷静に数えていた。これが百回目の死だ。毒殺二十三回。絞殺十八回。刺殺十四回。斬首十一回。水死十七回。火刑十四回。そのほか詳細不明が三回。
(……ああ、もう慣れたわ。死ぬのって)
そんなことを思う自分が、少しだけ嫌だった。
肺が軋む。意識の端から銀色の光がこぼれ始める。母の形見の小瓶が最後の光を放ち、視界が白に塗り潰される——。
そして。
「……っ」
エルリッテ=コーディアスは、自分の喉が乾いていることに気づいた。
水の感触はない。冷たさもない。あるのは、柔らかな羽毛の上に沈む背中の感覚とカーテンの隙間から差し込む朝の光だけ。彼女はしばらく、瞬きもせずに天井を見つめていた。見慣れた天井だった。白い漆喰に、銀色の星を散らした模様。コーディアス家の紋章が、中央に薄く浮かんでいる。
(戻ってきた)
百一回目の朝だ。
エルリッテ=コーディアスはゆっくりと上体を起こした。寝台の脇に置かれた鏡台に、自分の姿が映っている。銀に近い淡い金髪が寝癖で乱れていた。深い翠の瞳が、少しだけ腫れている。泣いた痕ではない。前世で水を飲みすぎた名残のような気がしたが、そんなはずはない。
彼女は自分の左手を見た。
握られていた。銀色の、小さな小瓶が。
「……お母様」
母、ユリア=コーディアスが遺した死に戻りの薬。蓋を開けると、中にはもう何もない。だが蓋の内側には小さな刻印があった。
「0」
エルリッテ=コーディアスはその数字を、長いこと見つめた。
ゼロ。残りはゼロ。つまりもうこの薬は効かない。今回の人生が、本当の最後。死ねばもう戻れない。そういうことだった。
彼女は小瓶を胸の前で握りしめた。指先が震えている。震えを止めようとして、うまくいかなかった。
「……最後」
声に出した途端、喉の奥が詰まった。涙は出なかった。出せなかった。けれど、胸の奥のほうで何かがぎゅっと縮こまる感覚があった。
彼女はベッドの端に座り直し、深呼吸をひとつした。
『最後の一滴を使い切った時、お前は本当の自分に出会う』
母が死の間際に言った言葉が、頭の中で蘇る。あの時は意味がわからなかった。今も、まだわからない。本当の自分? 100回殺されてきた、この私が?
(……そんなものあるわけないじゃない)
自嘲の笑みが、口元に浮かんだ。すぐに消した。
エルリッテ=コーディアスは立ち上がった。白と淡い青のドレスが、朝の光を反射して柔らかく揺れる。彼女は鏡の前で髪を手早くまとめ、高い位置でポニーテールに結んだ。慣れた手つきだった。100回分の朝の支度は、もはや無意識の領域だ。
ドレスのスカートの裏地に指を這わせる。縫い付けられた小さなポケットに、銀の小瓶をそっと戻した。母の遺品は肌身離さず持っている。たとえ何の力もなくなっても。
(さて)
エルリッテ=コーディアスは、窓の外を見た。
ルミナス王城の庭園が広がっている。手入れの行き届いた芝生、白い石畳薔薇の茂み。その向こうにルミナスの街並みが霞んで見えた。白亜の城壁に囲まれた、大陸の十字路と呼ばれた美しい都。かつては大陸中から商人が集まり、市場には香辛料や絹宝石が溢れていたという。
だが、今は違う。
エルリッテ=コーディアスは街の外縁に目を向けた。王城から遠く離れた場所に、灰色のスラム街が広がっているのが見える。かつての栄光は、もう影も形もない。パーマネント国はもう三十年も借金にまみれて生きている。
(我が家の債権がなければ、この国はとっくに潰れてた)
それは誇りではなかった。呪いだった。コーディアス家は、代々商業で財を成してきた。今やパーマネント最大の債権者だ。国王に金を貸し、貴族に金を貸し軍隊に金を貸している。
そのことが、エルリッテ=コーディアスを何度も殺した。
「エルリッテ様」
扉の外から、控えめな声が聞こえた。侍女だ。
「おはようございます。本日は婚約発表の儀がございます。お支度のお時間です」
「……ええ、わかっているわ」
エルリッテ=コーディアスは、静かに答えた。
婚約発表。テリウス王子との。パーマネント国王太子、テリウス=パーマネント。二十四歳。甘いマスクと人当たりの良さで、民衆の人気を集めている。だがエルリッテ=コーディアスは知っている。あの笑顔の裏側を。
(あの人は、笑いながら私を殺す)
百回の人生で彼女はそれを学んだ。テリウスは、エルリッテ=コーディアスを愛していない。コーディアス家の財産が欲しいだけだ。だから婚約を結び、そして……財産を手に入れた後彼女を消す。
「お支度、お手伝いいたします」
侍女が入ってきてエルリッテ=コーディアスの髪に触れた。エルリッテ=コーディアスはされるがままに、鏡の中の自分を見ていた。
(今日が勝負)
婚約発表の場で、彼女は告発される。テリウスと王妃エルザードによって。魔女の疑いをかけられ、異端審問にかけられる。そして水に沈められる。
それが、これまでの流れだった。
(でも今回は違う)
エルリッテ=コーディアスは、鏡の中の自分の瞳をじっと見つめた。
(今回は絶対に死なない。死んだら、終わりだから)
侍女が髪を結い上げ化粧を施していく。その間、エルリッテ=コーディアスは頭の中で城内の地図を描いていた。100回分の記憶が、無駄ではなかった。彼女は王城のすべての廊下、すべての階段すべての隠し扉を知っている。
(トイレの裏の小窓。あそこは、今晩だけ鍵が開いてる。警備の巡回が変わる隙間があるのよ)
それは、過去の人生で偶然見つけた抜け道だった。たった一度だけ、彼女はそこから逃げ出そうとしたことがあった。その時は失敗したけれど。
今回は、うまくやる。
「お綺麗ですエルリッテ様」
侍女が満足そうに言った。エルリッテ=コーディアスは、鏡の中の自分を見た。淡い青のドレス真珠の首飾り、丁寧に結い上げられた髪。文句のつけようのない、完璧な貴族の令嬢だった。
「ありがとう」
短く礼を言って、エルリッテ=コーディアスは立ち上がった。
(まずは、小窓の確認から)
彼女は廊下に出た。王城の廊下は、朝の光で明るく照らされていた。磨かれた床が、彼女の姿を映している。石柱の間を使用人たちが慌ただしく行き来している。婚約発表の準備で、城内は大わらわだった。
エルリッテ=コーディアスは、何事もないように歩いた。背筋を伸ばし微笑みを浮かべて。貴族の令嬢として、完璧な振る舞いを。
廊下の角を曲がると小さな使用人用の通路がある。そこを抜けて、トイレの裏手へ向かう。100回分の記憶が彼女の足取りを導く。
(ここよ)
他の誰もいないことを確認して、エルリッテ=コーディアスは小窓に手をかけた。鍵は、開いていた。
「……よし」
彼女は小窓をそっと開け、外を確認した。眼下には堀が見える。深く暗い水をたたえた堀。三点ほど下に、細い石のへりがある。次話以降彼女はここを渡る。
エルリッテ=コーディアスは、窓を閉めて鍵は開けたままにしておいた。
廊下に戻ると、誰かが近づいてくる足音がした。エルリッテ=コーディアスは、自然な足取りでその場を離れた。振り返らない。表情を変えない。
(準備は、できた)
自室に戻ると彼女はドレスの端から小さな針と糸を取り出した。これは、100回の人生で覚えた護身術のひとつだった。監禁された時に、これで縄を切ったことがある。枕の下にそっと隠す。
使用人や侍女に悟られないように、ごく自然に。
「エルリッテ様」
また扉の外から声がした。今度は、別の侍女だった。
「国王陛下と王妃様がお呼びです。婚約発表の儀の前に、お言葉を賜りたいと」
「……すぐに参ります」
エルリッテ=コーディアスは、鏡の前で最後にもう一度自分の姿を確認した。
(今回は、誰にも頼らない)
彼女は心の中で誓った。父ヴォルクルスにも、母の遺言にもテリウスにも誰にも。
(私が私の力で、この運命を変える)
その瞳の奥に揺らぎがあった。恐怖が、消えない。父が自分のせいで拷問される未来が、瞼の裏に焼き付いている。止められないかもしれない。それでも。
(やるしかない)
エルリッテ=コーディアスは、深く息を吸って部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼女はふと思い出した。母ユリアがまだ生きていた頃のこと。エルリッテ=コーディアスがまだ十歳にも満たない頃、母は彼女を膝に乗せて星の話をしてくれた。
『エル、星はね過去の光で輝いているのよ』
母の声が今でも耳に残っている。
『ずっと昔に消えた星の光が、何百年もかけて私たちのところに届くの。だから、今見ている星はもう存在しないかもしれない。それでも、私たちはその光を見て願いをかけるのよ』
エルリッテ=コーディアスは、窓の外を見た。朝の光の中で星は見えない。けれど、彼女は知っている。夜になれば星は輝く。百回の人生で、何度も見上げた夜空を。
(お母様。私今度こそ生きてみせるわ)
それが、母への返事だった。
王城の大広間へ続く廊下は、長かった。両脇に歴代の国王の肖像画が並んでいる。その誰もが、エルリッテ=コーディアスをじっと見下ろしているように感じられた。
大広間の扉の前に、近衛兵が立っていた。彼はエルリッテ=コーディアスを見て、恭しく扉を開けた。
「——」
広間の中は、異様な空気に満ちていた。
国王王妃エルザード、テリウス王子そして数十人の貴族たち。全員の視線が、エルリッテ=コーディアスに集中している。
王妃エルザードが、微笑んだ。その笑顔は氷のように冷たかった。
「よくいらしたわね、エルリッテ」
その声を聞いた瞬間、エルリッテ=コーディアスの背筋に冷たいものが走った。この声を、彼女は知っている。百回の人生で何度も聞いた。
(この人は、私を殺す人)
それでもエルリッテ=コーディアスは、完璧な礼をした。
「お呼びいただき、光栄に存じます王妃陛下」
顔を上げた時、彼女はもう笑顔を浮かべていた。
(さあ始まるわ。101回目の、最後の勝負)
朝の光が大広間のステンドグラスを通して、床に色とりどりの模様を落としていた。その光の中に立って、エルリッテ=コーディアスは思った。
(今回は絶対に、生き残ってみせる)
100回分の絶望の先に彼女はまだ見ぬ希望の光を探していた。それがどんな形をしているのか、まだ知らないまま。
けれどその瞳の奥には確かな決意の火が灯っていた。
(私は、死にません)
それが彼女の最初の誓いだった。Noveliaとは?
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