101回目の魔女裁判
パーマネント王国は破産寸前。富豪商会コーディアスから金を借りることでかろうじて生き延びていた。騎士の家柄であるハザード家は力を失い、女王エルザードは必死だった。コーディアス家は急速に台頭し、テリウス王子とエルリッテの結婚によってパーマネントの財政を救おうと画策する。
だが、18歳のエルリッテ=コーディアスには秘密があった。亡き母が彼女に遺した『死からの帰還』の薬。それは彼女を100回蘇らせてきた。そして今、最後の一服――101回目の周回である。
婚約発表の日、女王エルザードは彼女を魔女だと告発する。テリウス王子は微笑み、偽の証拠を突きつける。父ヴォルクルスは叫ぶが、誰も耳を貸さない。1時間後には異端裁判が開かれる。
エルリッテは何が待っているか知っている。彼女は100回死んできた。ドレスを裂いて縄にし、窓の錠を外し、城から抜け出す。向かう先は、隣国メルクリウス帝国の皇帝ガイウス。
彼女は涙を差し出さない。取引を差し出す。「私に保護を。コーディアスの領地と財産をメルクリウスに差し出しましょう。パーマネントは弱体化する」
ガイウスは笑う。「面白い。私の四男、パリスと結婚しろ」
101回目の魔女裁判 - 婚約発表の儀 ― 微笑みの告発者、1時間の猶予 ―
朝の光が、ルミナス王城の大広間を満たしていた。
高い天井から吊るされた無数の蝋燭が、まだ朝だというのに煌々と輝いている。壁一面に飾られた金の装飾が、その光を受けて複雑な影を床に落としていた。大広間には既に数百人の人々が集まっている。貴族たち、高官たち、そして各国から招かれた外国使節たち。誰もが華やかな衣装に身を包み、壇上の二人に視線を注いでいた。
エルリッテ=コーディアスは、その壇上に立っていた。
純白のドレスが、蝋燭の光を浴びて淡く輝いている。銀に近い金髪は高い位置でポニーテールに結い上げられ、真珠の飾りが揺れるたびに小さな光を散らした。深い翠の瞳は、まっすぐに前を見据えている。華奢な体に、まるで別の生き物が宿っているかのような静かな迫力があった。
隣に立つのは、パーマネント国王太子テリウス=パーマネント。
二十四歳。柔らかな茶髪をオールバックに流し、垂れ目がちの瞳を細めて微笑んでいる。甘いマスクと人当たりの良さで民衆に人気の王子は、今日も完璧な笑顔を浮かべていた。白と金の正装がよく似合っている。だが、その指先は、誰にも見えないよう服の裾で小さくもじもじと動いていた。
(ああ、この光景)
エルリッテは心の中で、ため息をついた。
この婚約発表の儀は、何度も見た。正確には、九十七回。十六歳から始まった百回の死に戻りの中で、彼女は何度もこの壇上に立った。そして、何度も裏切られた。
(今日も、同じ流れになる)
彼女は知っている。この後、隣の男が笑顔のまま彼女を魔女と告発することを。その証拠として、偽の紋章が描かれた羊皮紙を差し出すことを。そして、一時間後には異端審問が開かれることを。
すべて、知っている。
「本日は、我が国にとって大変めでたい日でございます」
司会を務める老貴族が、広間に響く声で宣言した。
「コーディアス家の令嬢エルリッテ様と、我が国が誇るテリウス王太子殿下の婚約を、ここに発表いたします」
広間から、拍手が起こった。
だが、その拍手には熱がなかった。貴族たちの表情は一様に硬い。外国使節たちは、興味深そうに、あるいは値踏みするように壇上を見つめている。誰もが、この婚約の裏にあるものを知っていた。
パーマネント国は、破産寸前だ。
コーディアス家からの借款は金貨百二十万枚。国家予算の四割が利払いに消える。この婚約は、その借金を帳消しにするための政略結婚に他ならない。成り上がりの商家の娘が、王太子の妃になる。旧貴族たちにとって、それは屈辱以外の何物でもなかった。
「まあ、なんて美しいのでしょう」
上座から、鈴を転がすような声が降ってきた。
エルザード=パーマネント。パーマネント国の現王妃にして、ハザード家の出身。四十二歳。濃い赤褐色の髪を高く結い上げ、冷たい碧眼を細めている。口元には扇子が当てられ、その表情は半分以上隠されていた。だが、目だけは笑っていない。
「白いドレスが、あの銀の髪にとても映えておりますわ。まるで、雪の精霊のよう」
エルリッテは、上座の王妃を見上げた。
(この人も、知っている)
エルザードが、この儀の後に何をするのか。何を言うのか。どうやってエルリッテを陥れるのか。すべて、百回分の記憶が教えてくれている。
「お褒めにあずかり、光栄に存じます。王妃陛下」
エルリッテは完璧な礼をした。ドレスの裾を摘み、背筋を伸ばし、優雅に。貴族の令嬢として、一分の隙もない動作だった。
エルザードの碧眼が、一瞬だけ鋭く光った。
(この女、何を考えているの)
エルリッテには、その視線の意味が手に取るようにわかった。エルザードは今、エルリッテが動揺するのを待っている。怯えるのを待っている。だが、エルリッテは動じない。百回の死を経験した彼女にとって、この程度の儀式は、もはや通過点でしかなかった。
「エル、今日は本当に綺麗だね」
隣から、柔らかな声が聞こえた。
エルリッテは、ゆっくりとテリウスの方を向いた。
テリウスは微笑んでいた。人好きのする、優しげな笑顔。民衆が「太陽の王子」と呼ぶ、あの笑顔だ。だが、エルリッテにはわかる。その瞳の奥に、何の感情も宿っていないことを。
「殿下、お言葉ありがとうございます」
彼女は、静かに答えた。
(この人も、私を殺す)
百回の人生で、テリウスはエルリッテを何度も裏切った。時には魔女と罵り、時には見捨て、時には自らの手で彼女を突き落とした。愛していた? 笑わせる。この男は、ただ自分の保身と王位だけを考えている。
だが、今のエルリッテに、そのことを知っている素振りは見せられない。
「君と、こうして並んで立つ日が来るなんて……僕は、本当に嬉しいよ」
テリウスが、うっとりとした口調で言った。
「……私も、光栄に思っております」
エルリッテは、感情を込めずに答えた。
(この台詞も、何度聞いたかしら)
同じ言葉。同じ笑顔。同じ偽りの愛情。すべて、エルリッテが百回見てきた光景だった。
広間の空気が、少しずつ変わっていく。
貴族たちの私語が静まり、外国使節たちが姿勢を正す。何かが始まる。全員が、それを感じ取っていた。
「それでは、これより婚約の儀を執り行いますわ」
エルザードが立ち上がった。
濃い赤褐色のドレスが、上座の階段を滑り降りるように揺れる。王妃の登場に、貴族たちが一斉に頭を下げた。エルリッテも、それに倣う。
(来たわ)
エルリッテの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
これから始まるのは、婚約の儀ではない。告発だ。魔女裁判への導入だ。彼女は、それを百回経験している。
エルザードが、壇上の二人の前に立った。
「テリウス。エルリッテ。二人の婚約は、パーマネント国にとって、まことに喜ばしいことですわ」
扇子を閉じ、エルザードは二人を交互に見た。
「ですが、その前に——」
間。
エルザードの碧眼が、エルリッテに突き刺さった。
「わたくしは、皆様にお知らせせねばならないことがございます」
広間が、ざわついた。
「この娘、エルリッテ=コーディアスは——」
エルザードの声が、冷たく響き渡る。
「——魔女でございます」
一瞬の静寂。
次の瞬間、広間は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「な、なんだと!?」
「魔女だと……!?」
「コーディアス家の令嬢が……?」
貴族たちの動揺が、波のように広がっていく。外国使節たちが、驚いた表情で壇上を見つめた。
エルリッテは、動かなかった。
(ええ、知ってるわ)
彼女は、心の中で静かにつぶやいた。
(この後、テリウスが証拠を出すのよ)
「そ、そんな……母上、何を——」
テリウスが、わざとらしく動揺した声を上げた。
「テリウス、お前も知っているでしょう。あの証拠を、皆様にお見せなさい」
エルザードの冷たい声。
テリウスは、一瞬だけエルリッテを見た。その瞳に、何かが揺れた。だが、それはすぐに消えた。
「……わかったよ、母上」
テリウスは、正装の袖に手を入れた。
そして、一枚の羊皮紙を取り出した。
「皆様、これを見てください」
テリウスは、その羊皮紙を広間に向けて掲げた。
羊皮紙には、奇妙な紋章が描かれていた。渦を巻く蛇と、三つの月。魔女の集会で使われるとされる、禁断の紋章。パーマネント国では、この紋章を持つだけで異端とみなされる。
「これは、エルリッテ=コーディアスの私室から見つかったものです」
テリウスの声は、震えていた。
「彼女は……夜な夜な、この紋章を使って魔物を呼び寄せていたのです」
広間の空気が、凍りついた。
「殿下、それは本当ですか!?」
「ええ。僕は、彼女を愛していました。だからこそ、この事実を知った時は信じられませんでした。ですが……これは、紛れもない証拠です」
テリウスは、悲しみに暮れた表情を作った。
(……上手いものね)
エルリッテは、冷めた目でテリウスの横顔を見ていた。
この男の演技力は、百回の人生で嫌というほど見てきた。悲しみも、苦しみも、怒りも、すべて作り物。彼の本当の感情は、ただの怯えと保身だけだ。
「エルリッテ。何か申し開きはあって?」
エルザードが、勝ち誇ったように尋ねた。
エルリッテは、静かに顔を上げた。
「……申し開き、ですか」
彼女の声は、凪いだ海のように静かだった。
「わたくしは、魔女ではございません。その羊皮紙も、私室にあったものではなく、誰かが持ち込んだものですわ」
エルザードの目が、すっと細くなった。
「あら。では、この紋章は誰があなたの部屋に置いたとおっしゃるの?」
「存じません。ですが、少なくともわたくしの物ではございません」
エルリッテは、まっすぐにエルザードを見返した。
(無駄な抵抗だって、わかってる)
百回の人生で、この弁明が通ったことは一度もない。エルザードは、最初からエルリッテを魔女に仕立て上げるつもりでいる。証拠も、証人も、判決も、すべて用意されている。
「そう。ならば、証人の言葉を聞きましょう」
エルザードが、扇子で合図をした。
広間の扉が開き、一人の女性が入ってきた。
メイド服に身を包んだ、四十代半ばの女性。顔は青白く、目は泣き腫らしている。小刻みに震えながら、証人席へと歩いていく。
マルタ。
エルリッテが幼い頃から仕えてきた、コーディアス家のメイドだ。
(……マルタ)
エルリッテの胸に、鈍い痛みが走った。
この女は、エルリッテが物心つく前から、彼女の世話をしてきた。食事を運び、髪を梳き、寝物語を聞かせてくれた。エルリッテが母を亡くした時、一番に泣いてくれたのもマルタだった。
だが、この女も、百回の人生で何度もエルリッテを裏切った。
「あ、あの……わたくし、マルタと申します。エルリッテお嬢様に、幼い頃から仕えております」
マルタの声は、震えていた。
「マルタ。あなたは、エルリッテの部屋で何を見たの?」
エルザードの声が、甘く囁くように降りてくる。
マルタは、一瞬だけエルリッテを見た。
そして、すぐに目を逸らした。
「お嬢様は……夜ごと、お部屋で声を出して、魔物を呼び寄せておりました……わたくし、何度もお見かけしました。黒い影が、お嬢様の部屋の窓から入っていくのを……」
マルタの言葉に、広間がどよめいた。
「なんと……!」
「やはり魔女だったのか!」
「コーディアス家は、魔女を王太子の妃にしようとしていたのか!?」
貴族たちの声が、憎悪を帯びていく。
エルリッテは、唇を噛みしめた。
(知ってた。知ってたわ)
マルタが偽証することも、その涙が演技であることも、すべて百回の人生で経験済みだ。
だが、それでも。
(それでも、胸が痛い)
幼い頃から知っている顔。優しかった声。その人が、涙を流しながら自分を魔女と告発する。何度経験しても、この痛みには慣れない。
「お嬢様、ごめんなさい……わたくし、もう黙っていることができませんでした……」
マルタが、エルリッテに向かって泣き崩れた。
「エルリッテ。あなたの忠実な使用人が、こうして証言していますわ。まだ、魔女ではないと言い張るおつもり?」
エルザードの声が、勝ち誇ったように響く。
エルリッテは、マルタを見た。
「……マルタ。あなたは、本当に私が魔物を呼んでいると見たの?」
彼女の声は、静かだった。
マルタは、びくりと体を震わせた。
「は、はい……何度も……」
「そう。なら、仕方ないわね」
エルリッテは、それ以上何も言わなかった。
(無駄よ。何を言っても、この流れは変わらない)
彼女は、百回の人生で学んでいた。この場でいくら反論しても、証拠を突きつけられ、証人に偽証され、最後は異端審問に引きずられていく。それが、この国の「正義」なのだ。
「待ってくれ!!」
突然、広間に怒号が響いた。
貴族たちの間をかき分けて、一人の男が壇上に向かって走ってくる。
ヴォルクルス=コーディアス。
エルリッテの父であり、コーディアス家の当主。五十代半ば。病弱で、普段は杖をついて歩くこともある男が、今は鬼のような形相で駆け寄ってくる。
「エルは魔女などではない! その羊皮紙も、その証言も、すべて捏造だ! 王妃、あなたが仕組んだことだということは、わかっているのだぞ!!」
ヴォルクルスの声が、広間に響き渡った。
(お父様……)
エルリッテの胸が、締め付けられた。
この人も、百回の人生で何度も同じことをした。娘を守ろうと、必死に叫び、抵抗し、そして——
「ヴォルクルス卿。取り乱さないでくださいませ」
エルザードが、冷たく言い放った。
「黙れ! お前のような女に、私の娘をどうこうする権利はない! エルは、私の大切な娘だ! 誰にも渡さない!」
ヴォルクルスが、壇上に駆け上がろうとした。
「衛兵。この男を捕らえなさい」
エルザードの命令で、鎧を着た衛兵たちが動いた。
「離せ! 離さんか! エル! エル!!」
ヴォルクルスの両腕が、衛兵に掴まれた。
病弱な体では、抵抗できるはずもない。彼は、床に押さえつけられながら、それでも叫び続けた。
「エルは魔女ではない! あの子は、優しい子なんだ! 誰も傷つけたことなどない! お前たちが、お前たちが勝手に——」
「静かになさい。これ以上、見苦しい真似はおやめなさい」
エルザードが、ヴォルクルスを見下ろした。
その瞳には、一片の同情もなかった。
「あなたの娘が魔女かどうかは、異端審問が決めることですわ。それまでは、おとなしくしていなさい」
「お前……お前という女は……!!」
ヴォルクルスが、歯を食いしばった。
エルリッテは、父の姿を見つめていた。
(お父様。ごめんなさい)
心の中で、そう謝った。
(あなたの娘は、これから魔女として裁かれます。でも、大丈夫。私は、もう大丈夫だから)
「異端審問は、一時間後に開廷いたします」
エルザードが、広間全体に宣言した。
「それまで、エルリッテ=コーディアスは地下の控室にて待機。異端審問所の役人が、身柄を拘束いたします」
広間が、再びざわついた。
「一時間後……?」
「ずいぶん急だな」
「だが、王妃が決めたことだ。従うしかない」
貴族たちの声が、遠く聞こえる。
エルリッテは、静かに目を閉じた。
(一時間)
それが、彼女に残された最後の猶予だった。
異端審問所の役人が、二人、壇上に上がってきた。黒い法衣をまとった、無表情な男たち。その手には、銀色の鎖が握られている。
「エルリッテ=コーディアス。我々は異端審問所の者です。おとなしく、縛鎖の呪印を受けなさい」
縛鎖の呪印。犯罪者の動きを封じる魔法の枷。これをかけられると、体が鉛のように重くなり、自由に動けなくなる。
エルリッテは、抵抗しなかった。
「……わかりました」
彼女は、両腕を差し出した。
審問官が、呪文を唱え始める。
「縛鎖の呪印。その身に刻み、動きを封じる。時の女神エテルナの名において、罪人の自由を奪う」
銀色の鎖が、エルリッテの両腕に巻きついた。
瞬間、体が重くなった。まるで、全身に鉛を詰め込まれたような感覚。指先の感覚が鈍くなり、足が床に張り付いたように動かない。
(……これも、何度目かしら)
エルリッテは、心の中で苦笑した。
縛鎖の呪印の感覚も、すっかり慣れてしまった。百回の人生で、彼女は何度もこの鎖をかけられた。
「連れて行け」
審問官の声で、エルリッテの体が押された。
彼女は、ゆっくりと歩き出した。
広間の中央を横切り、扉へ向かう。貴族たちの視線が、突き刺さる。
「魔女め」
「成り上がりの分際で、王太子に近づくからだ」
「これでコーディアス家も終わりだな」
聞こえよがしの声が、耳に入ってくる。
エルリッテは、顔を上げたまま歩いた。
(ええ、言いなさい。好きなだけ)
彼女の心は、不思議なくらい静かだった。
広間を出る直前、エルリッテは一度だけ振り返った。
テリウスが、壇上から彼女を見ていた。
その顔には、もう笑顔はなかった。ただ、青ざめた表情で、エルリッテを見つめている。
(今さら、そんな顔をしても遅いわ)
エルリッテは、テリウスから視線を外した。
廊下に出ると、冷たい空気が肌を刺した。
王城の廊下は、大広間とは打って変わって静かだった。石造りの壁が、ひんやりとした空気を蓄えている。窓から差し込む日差しだけが、かろうじて温かさを保っていた。
審問官に挟まれ、エルリッテは廊下を歩く。
(地下の控室までは、この廊下を真っ直ぐ行って、階段を降りる)
彼女は、頭の中で城内の地図を描いていた。
百回分の記憶が、正確に道を教えてくれる。地下の控室の位置も、そこから脱出するための経路も、すべて。
廊下の途中に、大きな窓があった。
エルリッテは、その窓の外を見た。
眼下に、堀が見える。
深く、暗い水をたたえた堀。ルミナス王城を囲む、深さ約八メートル、幅約十五メートルの巨大な水堀だ。水面は、朝の光を反射して鈍く輝いている。
(あの水に、私は何度沈められたかしら)
百回の人生で、エルリッテは十七回、水に沈められて死んだ。
冷たい水。肺に流れ込む水。遠ざかる光。そして、母の小瓶の銀色の輝き。
(でも、今回は違う)
エルリッテは、堀の水面を見つめながら、静かに決意を固めた。
(今回は、絶対に死なない)
「何をしている。早く歩け」
審問官の無機質な声が、後ろから聞こえた。
「……ええ、すみません」
エルリッテは、窓から目を離し、再び歩き出した。
地下へ続く階段を降りる。
一歩降りるごとに、空気が冷たくなっていく。石の壁に染み込んだ湿気が、肌にまとわりつく。蝋燭の灯りが少なく、薄暗い。
地下の控室は、階段を降りた先にあった。
鉄格子の扉。中は、石造りの小さな部屋。床には藁が敷かれ、壁には水滴が伝っている。窓はなく、光は扉の隙間から差し込むだけ。
「ここで大人しくしていろ。一時間後、迎えに来る」
審問官が、エルリッテを部屋に押し込んだ。
鉄格子の扉が、重い音を立てて閉まる。
ガチャン。
鍵がかけられる音。
審問官たちの足音が、遠ざかっていく。
エルリッテは、一人になった。
彼女は、石の床にゆっくりと座り込んだ。
(さて)
縛鎖の呪印がかけられた両腕を見る。銀色の鎖が、手首に食い込むように巻きついている。体は重い。だが、動かせないわけではない。
(この程度なら、まだ動ける)
エルリッテは、壁に背を預けて、目を閉じた。
(一時間)
彼女に残された時間は、あと一時間。
その間に、彼女は脱出しなければならない。
(でも、その前に)
エルリッテは、百回の人生を思い返していた。
(整理しましょう。私がこれまで、どんな手を使ってきたかを)
十六歳の時、最初の人生。
彼女は、テリウスに真実を話した。自分が魔女ではないと、あの羊皮紙は偽物だと。だが、テリウスは聞く耳を持たなかった。彼は、エルリッテを魔女と罵り、突き放した。
十七回目の人生。
彼女は、王妃エルザードに跪いて許しを乞うた。金貨を積み、宝石を差し出し、家の財産の半分を渡すと約束した。だが、エルザードは高笑いしながら、その申し出を拒否した。
二十五回目の人生。
彼女は、大臣に泣きついた。冤罪を晴らしてほしいと、証拠を調べてほしいと。だが、大臣は金貨を受け取っただけで、何もしなかった。
四十三回目の人生。
彼女は、自ら命を絶とうとした。もう逃げられないなら、いっそ死んでしまおうと。だが、死に戻りの薬が発動し、彼女は再び朝を迎えた。
五十八回目の人生。
彼女は、城から脱出しようとした。トイレ裏の小窓から抜け出し、堀を泳いで逃げようとした。だが、警備の兵士に見つかり、捕らえられた。
七十六回目の人生。
彼女は、外国の使節に助けを求めた。メルクリウス帝国の駐在武官に、保護を求める手紙を送った。だが、手紙は届かず、彼女は処刑された。
八十九回目の人生。
彼女は、密偵ダイバーと出会った。堀の底で、アクアラングを渡された。あの時、彼女は初めて「生き延びる」という選択肢を見つけた。
九十三回目の人生。
彼女は、メルクリウス帝国の皇帝ガイウスに直談判しようとした。だが、城から出る前に捕まり、火刑に処された。
そして、百回目の人生。
彼女は、堀に飛び込んだ。
「私は死なない!」
そう叫んで、自ら水に飛び込んだ。
だが、その時は失敗した。アクアラングを受け取る前に、水が肺に入り、意識を失った。
(……今回が、最後)
エルリッテは、目を開けた。
(死に戻りの薬は、もう残っていない。蓋の裏の刻印は「0」。これが、本当の最後の人生)
彼女は、立ち上がった。
縛鎖の呪印がかけられた体は重い。だが、動けないわけではない。
(まだ、手はある)
エルリッテは、ドレスのスカートの裏地に手をやった。
縫い付けられたポケットの中に、母の形見の銀の小瓶がある。
(お母様。私、やっとわかったわ)
母が死の間際に言った言葉。
『最後の一滴を使い切った時、お前は本当の自分に出会う』
(本当の自分は、誰にも頼らない。誰にも泣きつかない。自分の力で、自分の未来を掴む)
エルリッテは、鉄格子の扉に近づいた。
鍵がかかっている。だが、彼女は知っている。この控室の鍵は、古くて、少し力を入れれば壊れることを。
(まずは、この扉から)
彼女は、ドレスの端から小さな針と糸を取り出した。
百回の人生で覚えた、護身術の道具。監禁された時に、これで縄を切ったことがある。
(まだ、終わってない)
エルリッテは、静かに笑った。
(私の101回目の人生は、まだ始まったばかりよ)
地下の控室に、冷たい空気が流れ込んでいた。
だが、エルリッテの胸の奥には、確かな熱があった。
それは、100回の死を越えた者だけが持つ、静かな覚悟の炎だった。
(一時間)
彼女は、鉄格子の鍵穴に針を差し込んだ。
(この一時間で、私は運命を変える)
カチリ。
小さな音が、地下の静寂に響いた。Noveliaとは?
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