101回目の魔女裁判
パーマネント王国は破産寸前。富豪商会コーディアスから金を借りることでかろうじて生き延びていた。騎士の家柄であるハザード家は力を失い、女王エルザードは必死だった。コーディアス家は急速に台頭し、テリウス王子とエルリッテの結婚によってパーマネントの財政を救おうと画策する。
だが、18歳のエルリッテ=コーディアスには秘密があった。亡き母が彼女に遺した『死からの帰還』の薬。それは彼女を100回蘇らせてきた。そして今、最後の一服――101回目の周回である。
婚約発表の日、女王エルザードは彼女を魔女だと告発する。テリウス王子は微笑み、偽の証拠を突きつける。父ヴォルクルスは叫ぶが、誰も耳を貸さない。1時間後には異端裁判が開かれる。
エルリッテは何が待っているか知っている。彼女は100回死んできた。ドレスを裂いて縄にし、窓の錠を外し、城から抜け出す。向かう先は、隣国メルクリウス帝国の皇帝ガイウス。
彼女は涙を差し出さない。取引を差し出す。「私に保護を。コーディアスの領地と財産をメルクリウスに差し出しましょう。パーマネントは弱体化する」
ガイウスは笑う。「面白い。私の四男、パリスと結婚しろ」
101回目の魔女裁判 - 見捨てるという選択、最後の涙 ― 孤独の淵で交渉は始まる ―
東塔へ続く階段は、冷え切った石の匂いがした。
壁に染み込んだ夜の湿気が、薄いシュミーズ一枚の肌にまとわりつく。裸足の裏から、石の冷たさが体の芯まで這い上がってくるようだった。
エルリッテ=コーディアスは、壁に手をつきながら、一段、また一段と、暗闇を上っていく。
膝の傷が痛む。すりむいた手のひらが、ひりつく。喉は乾き、唇はかさついていた。
(あと少し)
彼女は、自分に言い聞かせた。
東塔の最上階。メルクリウス帝国の駐在武官に与えられた部屋。あの扉の向こうに、皇帝ガイウスへの道があるはずだった。
でも。
(本当に、あの扉を開けていいの?)
心の奥底で、小さな声が問いかける。
(お父様を、見捨てたのに)
地下牢で聞いた、父の苦悶の声が、まだ耳の奥に残っている。鞭が空気を裂く音。血を吐くような、絞り出すような声。
(それでも、私は行く)
エルリッテは、唇を噛みしめた。
行くしかない。もう、後戻りはできない。
彼女は、足を動かした。
階段の途中、小さな窓から、月明かりが差し込んでいた。青白い光が、彼女の銀に近い淡い金髪を照らす。ポニーテールに結んだ髪は、汗と埃で乱れ、頬に張り付いていた。
深い翠の瞳が、月明かりを反射して、暗闇の中でかすかに光る。
華奢な体。今にも折れてしまいそうな細い手足。けれど、その目つきだけは、百回の死を越えた静かな迫力に満ちていた。
彼女は、胸元の護符に手をやった。
母ユリアの形見。星芒の護符。銀の小瓶が下がっている。死に戻りの薬が入っていた、空の小瓶。
(お母様)
(私、やっと、ここまで来たわ)
エルリッテは、小瓶を握りしめた。
冷たい銀の感触。それが、彼女の心を、少しだけ落ち着かせてくれた。
彼女は、再び階段を上り始めた。
一歩、一歩。
息が切れる。足が重い。視界が、わずかにぼやける。
(大丈夫)
(まだ手はある)
(100回分の私がそう言ってる)
彼女は、口癖のように心の中で繰り返した。
やがて、階段の踊り場にたどり着く。
壁にもたれて、粗い呼吸を整えた。肺が、冷たい空気を求めて、ひゅうひゅうと鳴る。
(ここから、もう少し)
彼女は、顔を上げた。
薄暗い廊下の先。最上階へと続く、最後の階段が見える。
その時だった。
「……誰かいるの?」
かすかな物音が、上の階から聞こえた気がした。
足音。それも、一人分ではない。
エルリッテは、息を潜めた。
壁に背中を押し付け、ゆっくりと、階段の影に身を隠す。
(兵士?)
(それとも、駐在武官?)
心臓が、胸の奥で激しく脈打つ。
指先が、冷たくなっていく。
彼女は、音を立てないように、慎重に、階段を上った。
一段、一段。
足音が、近づいてくる。
「……本当に、ここに来るのか?」
聞き覚えのある声。
エルリッテの体が、凍りついた。
(テリウス)
彼女の元婚約者。彼女を魔女と告発した、微笑みの裏切り者。
「ああ。あの女は、必ずここに来る。あの女の性格なら、間違いなく、メルクリウスにすがろうとするはずだ」
テリウスの声が、続いた。
「母上には内緒だ。僕が、あの女を捕まえる。そうすれば、僕の手柄になる。王太子としての、な」
エルリッテは、奥歯を噛みしめた。
(テリウスが、ここに)
(私を、待ち伏せしている)
彼女は、壁に手をつき、必死に体を支えた。
膝が震える。視界が、ぐらりと揺れる。
(どうすれば)
(このまま、引き返す?)
(でも、どこへ?)
地下牢には、ギュンターがいる。父が、捕らえられている。城内の警備は、すでに厳重になっているはずだ。
(私に、逃げ場はない)
エルリッテは、目を閉じた。
暗闇の中で、百回分の記憶が、津波のように押し寄せてくる。
テリウスに真実を打ち明けて、跪いた夜。
「魔女め」
彼は、そう吐き捨てた。
優しかったはずの微笑みは、冷酷な嘲笑に変わっていた。
王妃エルザードに、全財産を差し出すと誓った日。
「あはははは! 全財産? あの成り上がり商家の金を、この私が受け取るとでも?」
エルザードは、高笑いした。
大臣に、金貨を積んで嘆願した朝。
「ご安心ください。私が必ず、陛下にお取り次ぎいたしましょう」
大臣は、金貨を持って、姿を消した。
どの人生でも、彼女は誰かにすがろうとした。
そして、誰にも守られなかった。
(この国には、救いがない)
(100回目の結論は、それだった)
(でも、101回目の今)
エルリッテは、目を開けた。
深い翠の瞳に、暗闇の中でも、はっきりとした光が宿る。
(私は、もう誰にも頼らない)
彼女は、袖で涙を乱暴に拭った。
そして、歯を食いしばって、立ち上がった。
足音を殺し、階段を上る。
最上階の扉の前。
重厚な木の扉。メルクリウス帝国の紋章である、金の鷲が彫り込まれている。
扉の向こうから、テリウスの声が聞こえる。
「……来るなら、早く来い。エル。僕は、お前を待っている」
エルリッテは、扉の前に立った。
手を伸ばす。
指先が、冷たい木の扉に触れる。
(ここで、終わるわけにはいかない)
彼女は、深く息を吸い込んだ。
そして、扉をノックした。
コン、コン、コン。
小さく、しかし、はっきりとした音が、静かな廊下に響いた。
扉の向こうで、気配が動く。
「……誰だ?」
テリウスの声。
エルリッテは、答えなかった。
もう一度、ノックする。
コン、コン、コン。
「……入れ」
低い声が、扉越しに聞こえた。
エルリッテは、扉を押し開いた。
ギィ……
蝶番が、軋む音。
部屋の中は、薄暗かった。
窓から差し込む月明かりだけが、部屋の中を青白く照らしている。
部屋の中央に、テリウスが立っていた。
柔らかな茶髪をオールバックにした、二十歳の青年。垂れ目で、常に人の顔色を窺うような目つきをしている。
華やかな王子の衣装を身に着けているが、その笑顔は、どこか空虚だった。
「……やっぱり、来たか。エル」
テリウスは、ゆっくりと、エルリッテに近づいた。
「君が、ここに来ると思っていたよ。君は、賢い女だからね。メルクリウスにすがるのが、一番の活路だと、そう考えるはずだ」
エルリッテは、真っ直ぐにテリウスを見つめた。
「……テリウス様。お久しぶりですわね」
彼女は、落ち着いた丁寧口調で言った。
「ああ、久しぶりだな。まさか、下着姿で王城をうろつくとは、相変わらず、とんでもない女だ」
テリウスは、薄い笑みを浮かべた。
「それで? 皇帝に会いたいのか? 残念だったな。この部屋には、もうメルクリウスの人間はいない。僕が、追い出したんだ」
エルリッテの心臓が、ドクリと跳ねた。
(駐在武官は、もういない)
(囁きの主も、いない)
(私の、最後の賭けは)
彼女は、唇を噛んだ。
「……だが、安心しろ。僕が、君を助けてやる」
テリウスは、エルリッテの前に立ち、見下ろした。
「エル、僕の側に戻れ。そうすれば、魔女裁判を取り消してやる。僕が、王太子としての権限で、君を守ってやる」
エルリッテは、黙ってテリウスを見上げた。
「但し、条件がある。コーディアス家の全財産、そして、お前の人生全てを、僕に差し出せ。そうすれば、君は助かる。どうだ、悪い話ではないだろう?」
テリウスは、微笑みながら言った。
かつて、彼女が愛した微笑み。
でも、今は、ただ冷酷で、恐ろしいだけだった。
(この人は、私を助けると言いながら、私の全てを奪おうとしている)
(私の家の財産も、私の人生も、全部)
(それで、私は助かる?)
(違う)
(そんなのは、生かされているだけだ)
エルリッテは、ゆっくりと、首を横に振った。
「……お断りしますわ、テリウス様」
彼女は、静かに、しかし、はっきりと言った。
テリウスの笑顔が、凍りついた。
「……何?」
「私は、あなたの側には戻りません。あなたに、私の人生を差し出すこともありません」
エルリッテは、真っ直ぐにテリウスを見つめた。
「私は、私の力で、生き延びます。あなたの助けは、必要ありません」
テリウスの顔が、わずかに歪んだ。
「……本気か? エル。君は、自分の置かれている状況が、分かっていないようだな。君は、魔女として告発されているんだ。異端審問が、もうすぐ開廷する。君は、水に沈められるんだぞ」
「ええ、分かっていますわ。でも、それでも、私はあなたに頼りません」
エルリッテの声は、震えていなかった。
「……なぜだ? なぜ、そこまでして、僕の助けを拒む? 僕は、君を愛しているんだぞ」
テリウスは、一歩、エルリッテに近づいた。
「君が魔女だなんて、僕は信じていない。母上が、勝手にやっていることだ。僕は、君を守りたい。だから、僕の側に戻れ」
エルリッテは、テリウスの目を見つめた。
垂れ目で、常に人の顔色を窺うような目。
(この人は、本当に私を愛しているの?)
(それとも、私の家の財産が、欲しいだけ?)
百回分の記憶が、彼女に囁く。
(この人は、私を裏切った)
(この人は、私を魔女と告発した)
(この人の言葉を、信じてはいけない)
「……テリウス様。あなたは、婚約発表の儀で、私を魔女と告発なさいました。偽の証拠を突きつけて。それが、あなたの愛なのですか?」
テリウスの表情が、一瞬、曇った。
「……あれは、仕方なかったんだ。母上の命令で、逆らえなかった。僕は、王太子として、国を守らなければならない。そのためには、君を犠牲にするしかなかったんだ」
テリウスは、言い訳のように言った。
「でも、今は違う。僕は、自分の意思で、君を助けようとしている。君が、僕の側に戻ってくれれば、すべてうまくいく。だから、頼む。エル、僕の側に戻ってくれ」
テリウスは、エルリッテに手を差し伸べた。
エルリッテは、その手を見つめた。
白く、細い、王子の手。
(この手を、取れば、私は助かる)
(でも、私は、またこの人に、人生を支配される)
(100回目の人生と同じように)
エルリッテは、首を横に振った。
「……いいえ。私は、あなたの手を取りません」
彼女は、一歩、後ろに下がった。
「私は、もう、誰にもすがりません。あなたにも、王妃様にも、大臣にも。私は、私の力で、未来を切り開きます」
テリウスの顔から、笑みが消えた。
「……後悔するぞ、エル。君は、僕の助けを拒めば、確実に死ぬんだぞ。水に沈められて、苦しんで、死ぬんだ」
テリウスの声は、冷たかった。
「それでも、いいのか? 君は、そんなに、僕のことが嫌いか?」
エルリッテは、テリウスを見つめた。
(嫌い?)
(いいえ)
(私は、この人を、愛していた)
(でも、この人は、私を裏切った)
(だから、私は、この人に、もう、何も期待しない)
「……テリウス様。私は、あなたを嫌いではありません。でも、あなたを信じることも、もうできません」
エルリッテは、静かに言った。
「私は、あなたの助けを借りずに、生き延びてみせます。たとえ、あなたが私を殺そうとしても、私は、死にません」
テリウスは、しばらく、エルリッテを見つめていた。
それから、ゆっくりと、手を下ろした。
「……そうか。分かった。君が、そこまで言うなら、もう何も言うまい。後悔するぞ。いや、必ず、後悔させてやる」
テリウスは、顔を歪めて、そう言った。
「君は、一人で、死んでいくんだ。誰にも看取られずに、冷たい水の底で、一人で」
テリウスは、そう言い残すと、部屋を出て行った。
バタン。
扉が、閉まる音。
エルリッテは、一人、薄暗い部屋に残された。
静寂。
遠くで、風の音が聞こえる。
彼女は、その場に立ち尽くしていた。
(私は、一人だ)
父は、地下牢で拷問されている。
マルタは、偽証で裏切った。
テリウスは、敵になった。
駐在武官の囁きの主も、もういない。
(全ての扉が、閉ざされた)
エルリッテは、壁に手をついた。
体から、力が抜けていく。
ずるずると、壁にもたれて、座り込む。
冷たい石の床。
薄いシュミーズ一枚では、冷え切った体が、震え始めた。
(私は、どうすればいいの)
彼女は、膝を抱えた。
(もう、どこにも行けない)
(誰も、助けてくれない)
(私は、一人で、死ぬの?)
涙が、あふれてきた。
止められない。
百回の死。
百回の裏切り。
百回の孤独。
それら全てが、一気に押し寄せてくる。
彼女は、声を殺して、泣いた。
「……お父様……」
小さく、かすれた声が、漏れた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
彼女は、何度も、謝った。
父を助けられなかったこと。
父を見捨てたこと。
一人で、ここまで来て、結局、何もできなかったこと。
「……お母様……」
母の形見の小瓶を、握りしめた。
冷たい銀の感触。
「……私は、どうすれば……どうすればいいの……」
彼女は、暗闇の中で、一人で泣き続けた。
どれくらい、泣いていただろうか。
涙が、枯れ果てるまで。
声が、かすれて出なくなるまで。
彼女は、泣いた。
そして、ゆっくりと、顔を上げた。
月明かりが、彼女の涙で濡れた頬を、青白く照らしている。
深い翠の瞳が、暗闇の中で、静かに光っていた。
(……私は、まだ、死んでいない)
彼女は、そう思った。
(私は、まだ、生きている)
(だから、まだ、手はある)
エルリッテは、涙を拭った。
袖で、乱暴に、何度も。
そして、立ち上がった。
膝が震える。
足に力が入らない。
それでも、彼女は、立った。
(私は、もう一度、ガイウスに会いに行く)
(駐在武官がいないなら、別の方法で)
(私は、この国で、一番、この城のことを知っている)
(100回分の記憶が、私にはある)
彼女は、胸元の小瓶を握りしめた。
母の遺言が、蘇る。
『最後の一滴を使い切った時、お前は本当の自分に出会う』
(本当の自分)
(それは、誰にも頼らない、自分の足で立つ、強い自分)
(涙ではなく、利を武器に、交渉する自分)
エルリッテは、目を閉じた。
(私は、コーディアス家の娘)
(私は、商人の娘)
(私は、泣き寝入りしない)
彼女は、目を開けた。
深い翠の瞳に、強い光が宿っていた。
「……私は、死にません」
彼女は、小さく、しかし、はっきりと言った。
「……絶対に、死にません」
エルリッテは、部屋の窓辺に立った。
月明かりが、彼女の体を照らす。
薄いシュミーズ一枚の、華奢な体。
けれど、その背筋は、真っ直ぐに伸びていた。
彼女は、窓の外を見た。
ルミナスの街並みが、眼下に広がっている。
白亜の王城。放射状に広がる街路。遠くに見える、灰色のスラム街。
この国は、腐っている。
でも。
(私は、終わらない)
エルリッテは、東の空を見つめた。
メルクリウス帝国は、あの山の向こうにある。
(皇帝ガイウス)
(私は、必ず、あの人に会う)
(そして、涙ではなく、利を差し出す)
(コーディアス家の領地と財産。それを、メルクリウスに差し出す)
(そうすれば、私は、保護される)
(パーマネントは、弱体化する)
(これは、私の復讐の、第一歩)
彼女は、小さく息を吐いた。
白い息が、夜の闇に溶けていく。
(夜明けまで、あと数時間)
(異端審問の開廷まで、あと数時間)
(時間は、まだ、ある)
エルリッテは、部屋の中央に戻り、冷たい床に座った。
そして、頭の中で、城内の見取り図を広げた。
(東塔の別室)
(そこに、ガイウスとの非公式な連絡ルートがあるはず)
彼女は、百回分の記憶を、必死に掘り起こした。
(駐在武官が、いつも、鳩を飛ばしていた場所)
(あの窓の下に、隠し棚があったはず)
エルリッテは、立ち上がった。
もう、迷わない。
もう、泣かない。
涙は、もう、流し切った。
(私は、私の力で、運命を変える)
彼女は、部屋の扉へと歩き出した。
裸足の足音が、静かな部屋に響く。
一歩、一歩。
彼女の顔には、100回分の絶望を越えた、静かな決意が浮かんでいた。
夜は、まだ、終わらない。
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