101回目の魔女裁判
パーマネント王国は破産寸前。富豪商会コーディアスから金を借りることでかろうじて生き延びていた。騎士の家柄であるハザード家は力を失い、女王エルザードは必死だった。コーディアス家は急速に台頭し、テリウス王子とエルリッテの結婚によってパーマネントの財政を救おうと画策する。
だが、18歳のエルリッテ=コーディアスには秘密があった。亡き母が彼女に遺した『死からの帰還』の薬。それは彼女を100回蘇らせてきた。そして今、最後の一服――101回目の周回である。
婚約発表の日、女王エルザードは彼女を魔女だと告発する。テリウス王子は微笑み、偽の証拠を突きつける。父ヴォルクルスは叫ぶが、誰も耳を貸さない。1時間後には異端裁判が開かれる。
エルリッテは何が待っているか知っている。彼女は100回死んできた。ドレスを裂いて縄にし、窓の錠を外し、城から抜け出す。向かう先は、隣国メルクリウス帝国の皇帝ガイウス。
彼女は涙を差し出さない。取引を差し出す。「私に保護を。コーディアスの領地と財産をメルクリウスに差し出しましょう。パーマネントは弱体化する」
ガイウスは笑う。「面白い。私の四男、パリスと結婚しろ」
101回目の魔女裁判 - 堀に舞う決別 ― 水底の生還、帝国が義娘を守る ―
王城の正面に広がる大広場。白亜の石畳が、朝の光を受けてまぶしく輝いていた。
だが、その光は、集まった群衆の心を照らしてはいなかった。
広場の中央。堀に面した縁に、一人の少女が立たされている。
銀に近い淡い金髪は、汗と埃で乱れ、ポニーテールが項に張り付いている。薄いシュミーズ一枚の体は、朝の冷たい風に震えていた。華奢な手足。今にも折れてしまいそうな細さだ。
しかし、その深い翠の瞳だけは、まっすぐに前を見据えていた。
百回の死を越えた、静かな迫力。
エルリッテ=コーディアスは、両腕に重い鉄の枷をはめられていた。
異端審問所の縛鎖の呪印。犯罪者の動きを封じる、冷たい魔法の枷だ。手首に食い込む鉄の感触が、現実を突きつけてくる。
「これより、魔女エルリッテ=コーディアスの水刑を執行する」
ギュンターの声が、広場に響き渡った。
黒い法服をまとった、異端審問所の主任審問官。五十歳。冷たい目をした、権力者の意を汲む官僚。彼は手にした羊皮紙を掲げ、群衆に向かって宣言した。
「水に沈めて浮かべば魔女。沈めば無実。これが、魔女裁判法に定められた神聖なる審問である」
群衆が、ざわめいた。
貴族、商人、兵士、そして野次馬。数百人が、固唾を飲んで見守っている。
その中には、エルリッテの父ヴォルクルス=コーディアスの姿もあった。
衛兵に両腕を押さえつけられ、鎖で繋がれた父。地下牢での拷問の痕が、顔や体に生々しく残っている。それでも父は、必死に叫んだ。
「エル! エル、逃げるんだ! お前は魔女なんかじゃない! 誰か、誰か娘を助けてくれ!」
その声は、群衆のざわめきにかき消されそうになる。
エルリッテは、父の声を聞いた。
でも、振り向かなかった。
(お父様)
(ごめんなさい)
(今は、振り向けない)
彼女は、心の中でだけ謝った。
もしここで父に縋れば、すべてが終わる。百回分の絶望が、彼女にそう教えていた。
「……エルリッテ」
冷たい声が、エルリッテの耳に届いた。
振り向かなくても分かる。王妃エルザード=パーマネント。濃い赤褐色の髪を高く結い上げ、冷たい碧眼を細めて、彼女を見下ろしている。左手の薬指には、ハザード家の家宝の指輪。話す時、扇子で口元を隠す癖のある女。
「あなたも、これで終わりですわ。コーディアス家の財産も、領地も、すべてわたくしがいただきますのよ。……ああ、ご安心なさい。あなたの死後、お父様もすぐに後を追わせてあげますわ」
エルザードは、声を潜めて、エルリッテにだけ聞こえるように言った。
勝利を確信した、嘲りの笑み。
エルリッテは、何も答えなかった。
ただ、深い翠の瞳で、エルザードをじっと見つめ返した。
(この女は、何も分かっていない)
(私は、百回、この瞬間を経験してきた)
彼女は、ゆっくりと、堀の方へ体を向けた。
深い堀。ルミナス王城を囲む、深さ約八メートル、幅約十五メートルの水の壁。水面は、朝の光を反射して、不気味に光っている。
百回の人生で、何度も沈められた場所。
水の冷たさも、肺に流れ込む苦しさも、意識が遠のいていく感覚も、すべて覚えている。
(でも、今回は違う)
エルリッテは、右腕を、三度、叩いた。
トン、トン、トン。
あらかじめ決められた合図。
(ダイバー)
(あなたは、あの場所にいるはず)
彼女は、心の中で、そう呼びかけた。
「では、執行する。鎖を外せ」
ギュンターの命令で、審問官の一人が、エルリッテの腕の枷を外した。
ガチャン、と鉄の音が響く。
手首に、赤い痕が残っていた。
エルリッテは、その手を、ゆっくりと胸の前に持ってきた。
そして、一歩、前に出た。
群衆が、息を呑む気配がした。
彼女は、堀の淵に立った。
水面までの距離は、約八メートル。
(怖い)
(でも、大丈夫)
(まだ手はある。百回分の私がそう言ってる)
エルリッテは、深く息を吸い込んだ。
朝の冷たい空気が、肺を満たす。
そして、彼女は、叫んだ。
「私は死にましぇん!」
その瞬間。
エルリッテは、自らの意思で、堀へと飛び込んだ。
小さな体が、空を舞う。
銀の髪が、朝日にきらめいた。
ドボンッ!
大きな水しぶきが上がり、水面が激しく揺れた。
「なっ……!」
エルザードの顔から、笑みが消えた。
まさか、自分から飛び込むとは思っていなかった。
「……何をしておる。早く鎖を引け! 浮かべば魔女だ! あの女は魔女に決まっておる!」
彼女は、扇子を握りしめ、審問官たちに怒鳴った。
しかし、審問官たちも、群衆も、ただ水面を見つめるだけだった。
水の揺れが、ゆっくりと収まっていく。
やがて、水面は、再び静かな鏡のようになった。
沈んだ。
エルリッテは、浮かんでこない。
数秒。
十秒。
三十秒。
群衆の間に、動揺が広がり始める。
「……浮かんでこないぞ」
「水に沈めば無実……なのか?」
「だが、もう三十秒は経っている。普通なら、苦しくなって浮かんでくるはずだ」
ざわざわと、声が大きくなっていく。
エルザードの顔が、青ざめていく。
「……何をしておる! 早く引き上げろ! あの女は、わざと沈んでいるだけですわ! 魔女の力で、水中に隠れているのです!」
彼女の声は、もはや群衆には届いていなかった。
人々の目は、静かな水面に釘付けだった。
———。
冷たい。
暗い。
静か。
エルリッテは、堀の底で、じっとしていた。
水の冷たさが、体の芯まで染み込んでくる。
(ここは、百回目の死の場所)
彼女は、目を閉じた。
百回目の人生。
あの時も、彼女は、この堀に沈められた。
縛られた体。水に流れ込む苦しさ。もがくことすらできない無力感。そして、意識が、ゆっくりと、闇に溶けていく感覚。
(あの時は、死んだ)
(でも、今回は違う)
彼女は、目を開けた。
暗い水底。
そこに、人影があった。
黒い装束に身を包んだ、一人の男。
密偵ダイバー。
メルクリウス帝国直属の特殊諜報員。水中活動を専門とする、帝国の影。
彼は、エルリッテに近づくと、手に持った奇妙な装置を、彼女の口元に当てた。
アクアラング。
メルクリウス帝国が開発した水中呼吸装置。錬金術と蒸気技術を組み合わせた、軍事機密の品。
冷たい空気が、彼女の肺に流れ込む。
(ありがとう)
エルリッテは、心の中で、ダイバーに礼を言った。
ダイバーは、無言で、彼女の体を支えた。
そして、二人は、堀の底の、光の届かない暗がりへと移動した。
水面の上では、時間が過ぎていく。
一分。
二分。
五分。
十分。
群衆は、息を潜めて、水面を見つめ続けていた。
「……おかしい。もう十分だ。浮かんでこないのは、おかしい」
「死んだのか? まさか、本当に沈んだのか?」
「無実だ! あの娘は、無実なんだ! 水に沈んだ! 魔女じゃない!」
一人が叫ぶと、その声は、瞬く間に広がっていった。
「無実だ!」
「魔女じゃない!」
「コーディアス家の令嬢は、無実なんだ!」
群衆の声が、大きくなっていく。
エルザードの顔は、もはや真っ青だった。
「黙りなさい! あなたたち、何を勝手なことを! あの女は、まだ生きている! 魔女の力で、水中に隠れているのですわ! 時間をかければ、必ず浮かんでくる! それまで、審問は続行しますのよ!」
彼女は、扇子を振り回しながら、叫んだ。
しかし、群衆の声は、彼女の怒鳴り声をかき消していく。
「王妃様、もうおやめください! 水刑は、本来、数分で結果が出る審問! 二時間も沈んでいる者が、無実でなくてなんだというのです!」
「そうだ! これは、魔女裁判法の悪用だ! あの娘は、最初から嵌められていたんだ!」
民衆の怒りが、エルザードに向けられ始めた。
テリウス=パーマネントは、群衆の後方で、ただ立ち尽くしていた。
柔らかな茶髪をオールバックにした、垂れ目の王子。いつもは微笑みを絶やさない彼の顔から、今は、表情が消えていた。
(エルが……沈んだ?)
(浮かんでこない?)
彼の頭の中は、混乱していた。
(僕は、彼女を魔女だと告発した)
(母上の命令で、偽の証拠を突きつけた)
(でも、まさか、彼女が、本当に死ぬなんて……)
彼は、指をもじもじと動かした。
笑顔の裏で、常に指をもじもじさせる癖。
その指が、今は、激しく震えていた。
「……エル」
彼の口から、かすれた声が漏れた。
———。
二時間。
エルリッテは、暗い水底で、二時間を耐え抜いた。
アクアラングから送られる空気を、ゆっくりと吸い、ゆっくりと吐く。
冷たい水に体温を奪われ、体は感覚を失いかけていた。
(寒い)
(でも、大丈夫)
(まだ、終わってない)
彼女は、意識を保つために、百回分の記憶を、一つ一つ思い出していた。
毒を盛られた夜。
絞められた朝。
火に炙られた午後。
水に沈められた夕暮れ。
何度も、何度も、死んだ。
(でも、今回は、死なない)
(私は、死にません)
彼女は、心の中で、強く誓った。
その時、ダイバーが、彼女の腕を軽く叩いた。
合図だ。
もう、浮上する時。
エルリッテは、こくりと頷いた。
———。
「浮かんだぞ!」
誰かが叫んだ。
水面が、ゆっくりと揺れ始めた。
そして、中心から、小さな泡が、ぷくぷくと浮かび上がってくる。
「鎖を引け! 早く!」
審問官たちが、慌てて、エルリッテの体に結ばれた鎖を引き上げ始めた。
ガチャガチャと、鎖が鳴る。
やがて、水面から、小さな影が現れた。
銀色の髪。
白い肌。
そして、深い翠の瞳。
エルリッテ=コーディアスは、生きていた。
ずぶ濡れの体を、数人の兵士に支えられながら、堀の縁に上がってくる。
「生きてるぞ! あの娘、生きてる!」
「二時間だ! 二時間も水に沈んで、生きて帰ってきた! これは、女神エテルナの加護だ! 魔女なんかじゃない!」
「無実だ! 無実が証明された!」
群衆から、どよめきと歓声が上がった。
それは、もはや、エルザードの声も、ギュンターの命令も、何もかもを飲み込むほどの、大きな波だった。
エルリッテは、石畳に膝をついた。
体が震える。寒さで、歯の根が合わない。
でも、彼女は、顔を上げた。
深い翠の瞳で、群衆を見渡した。
そして、小さく、微笑んだ。
(私は、生きて帰ってきた)
(私の勝ち)
彼女の心は、静かな達成感で満たされていた。
しかし、その時だった。
「火刑だ! 火刑にせよ!」
エルザードの金切り声が、歓声を切り裂いた。
彼女は、もはや扇子で口元を隠すことも忘れ、鬼のような形相で叫んでいた。
「あの女は魔女ですわ! 水に沈んで生きていた? それこそが魔女の力の証拠ですのよ! 水で死なないなら、火で焼けばいい! 今すぐ、火刑台を持ってきなさい! わたくしが直々に、あの女を焼き殺してやりますわ!」
彼女の声は、怒りと憎しみで、震えていた。
異端審問官ギュンターは、エルザードの顔色を窺いながら、おろおろとしている。
「で、ですが、王妃様。水刑で無実と証明された者を、火刑に処すのは、魔女裁判法に反するのでは……」
「黙りなさい! この国で、法を決めるのは、わたくしですのよ! さあ、早く火刑台を! あの女を、この場で、灰にしてやりますわ!」
エルザードは、ヒステリックに叫び続けた。
群衆は、彼女の狂気じみた姿に、戸惑いと恐怖を感じ始めていた。
誰も、彼女を止められない。
誰も、彼女に逆らえない。
その時だった。
「……ほう。面白いことを言うではないか」
低い、腹の底に響くような声が、広場に響き渡った。
群衆が、一斉に、声のした方へ振り返る。
広場の入口。
そこに、一人の男が立っていた。
白髪交じりの黒髪を、短く刈り上げている。
鋭い金の瞳。見る者を射抜くような、強い眼光。
左頬には、古い戦傷の跡。笑うと、その傷が歪む。
身長は、百九十センチ。
右手には、ワイングラス。
メルクリウス帝国皇帝、ガイウス=メルクリウス。
彼の背後には、帝国の紋章、金の鷲が太陽を掴む図柄が描かれた軍旗を掲げた、近衛騎士団の一団が控えていた。
黒曜石と金で装飾された鎧。手には、抜き身の剣。
その数、ざっと百。
たった百人。
しかし、彼らが放つ威圧感は、広場にいた数百人の群衆を、一瞬で沈黙させた。
「朕の義娘を、火刑に処すと? 貴様、今、なんと言った?」
ガイウスは、ゆっくりと、エルザードの方へ歩み寄った。
一歩、一歩。
その足音が、静まり返った広場に、やけに大きく響く。
エルザードは、青ざめた顔で、ガイウスを見上げた。
「……ぎ、義娘……? な、何を言っておるのですか。あの女は、パーマネントの罪人。コーディアス家の娘ですわ。メルクリウス皇帝陛下には、関係のない……」
「関係なくはないな」
ガイウスは、エルザードの言葉を遮った。
「エルリッテ=コーディアスは、朕の四男、パリス=メルクリウスの婚約者だ。つまり、朕の義理の娘。メルクリウス帝国の、皇族に連なる者である」
ガイウスの言葉に、群衆が、どよめいた。
エルザードの顔から、血の気が、完全に失われた。
「そ、そんな……そんな話、聞いたことも……」
「貴様が知らぬだけだ。……で、どうする? 朕の義娘を、火刑に処すか? 貴様の国が、帝国と戦争をする覚悟があるなら、好きにすればいい。ただし、その時は、この国ごと、灰にしてやるぞ」
ガイウスは、低く、静かに言った。
その声には、有無を言わせない、絶対的な力があった。
エルザードは、ガタガタと震え始めた。
「そ、そんな……わたくしは、ただ、この国のために……」
「黙れ」
たった一言。
しかし、その重みが、エルザードを黙らせた。
ガイウスは、エルザードから視線を外し、群衆を見渡した。
「パーマネントの貴族どもよ。よく聞け。朕は、この娘を、帝国の保護下に置く。この娘に、指一本触れてみろ。その時は、この国を、地図から消してやる」
群衆は、息を呑んだ。
誰も、何も言えない。
パーマネントの貴族たちは、帝国の軍事力の前に、ただ震えることしかできなかった。
エルザードは、その場に崩れ落ちた。
「……そんな……わたくしの計画が……ハザード家の未来が……」
彼女の目から、涙がこぼれた。
それは、悲しみではなく、怒りと屈辱の涙だった。
———。
その時、一人の男が、群衆の間から飛び出してきた。
テリウス=パーマネント。
彼は、エルリッテの前に、どさりと跪いた。
「エル! エル、許してくれ! 僕が、僕が悪かった! 母上に脅されていたんだ! 僕は、本当は、君を愛していた! 君を魔女だなんて、思ったことなんて一度もない! だから、どうか、どうか許してくれ!」
テリウスは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、エルリッテの足に縋りついた。
「お願いだ! 僕を見捨てないでくれ! 君さえ許してくれれば、僕は何だってする! 王位だって、捨てる! だから、だから……」
エルリッテは、テリウスを見下ろした。
百回の人生で、何度も裏切られた男。
優しい微笑みの裏で、何度も、彼女を突き落とした男。
彼女は、テリウスに、視線も向けなかった。
ただ、まっすぐ前を見たまま、静かに言った。
「……どいてくださいませんか、テリウス様」
その声は、驚くほど冷たく、そして、穏やかだった。
テリウスは、びくりと体を震わせた。
「エル……!」
エルリッテは、テリウスの手を、静かに、しかし、はっきりと振り払った。
そして、彼女は、ガイウスの方へ歩き出した。
一歩、一歩。
びしょ濡れの体で、震えながら、それでも、背筋を伸ばして。
テリウスは、その後ろ姿を、ただ見つめることしかできなかった。
「……エル……僕は……僕は……」
彼は、石畳に突っ伏して、泣き続けた。
それは、あまりにも無様で、哀れな姿だった。
———。
ガイウスは、近づいてきたエルリッテを見て、口元を歪めた。
「……ふっ、ははははは! 見事だ! 実に見事だ、エルリッテ=コーディアス! 二時間も水に沈んでおいて、よく生きていたな! 朕は、お前のことを、少しは買っていたが、ここまでとは思わなかったぞ!」
彼は、豪快に笑った。
その笑い声は、広場の重苦しい空気を、一瞬で吹き飛ばすようだった。
「……ありがとうございます、ガイウス陛下」
エルリッテは、深々と頭を下げた。
「礼には及ばん。お前は、朕の義娘だ。義父が、娘を守るのは当然であろう? それに、朕は、お前との取引を、まだ果たしておらんからな」
ガイウスは、そう言って、エルリッテの頭に、ぽんと手を置いた。
その手は、大きく、温かかった。
エルリッテは、少しだけ、目を閉じた。
(ああ、私は、本当に、守られたんだ)
(自分の力で、未来を掴み取ったんだ)
彼女の胸の奥に、じわりと、温かいものが広がっていく。
「……さて、エルリッテ。行くぞ。この国に、用はない」
ガイウスは、踵を返した。
エルリッテは、彼の後に続いた。
その時、彼女は、ふと、足を止めた。
群衆の中に、父の姿を見つけた。
衛兵に鎖を解かれ、ぼろぼろの体で、彼女を見つめている父。
ヴォルクルス=コーディアスは、涙で濡れた顔で、娘に微笑みかけた。
「……エル……お前は……お前は、強い子だ……」
エルリッテは、父に、小さく、頷いた。
(お父様)
(ありがとう)
(私は、大丈夫)
彼女は、父に背を向け、ガイウスの後を追った。
———。
王城の外れ。
ルミナス川に面した船着き場。
メルクリウス帝国の旗を掲げた、大型の船が、彼女たちを待っていた。
エルリッテは、ガイウスと共に、船に乗り込んだ。
船は、ゆっくりと、岸を離れていく。
「……ははは! 見ろ、エルリッテ。あの国は、もう終わりだ。コーディアス家の財産を失い、帝国に頭を下げた。パーマネントは、これから、長い長い衰退の道を歩むことになる」
ガイウスは、船上で、ワイングラスを傾けながら、豪快に笑った。
「……ええ。ですが、私は、あの国に、一片の未練もございませんわ」
エルリッテは、船の縁に手をつき、遠ざかっていくルミナスの街を見つめた。
白亜の王城。放射状に広がる街路。そして、あの深い堀。
百回の人生で、何度も死んだ場所。
(さようなら、パーマネント)
(さようなら、私の、過去)
彼女は、心の中で、静かに別れを告げた。
「……それで、エルリッテ。お前、これからどうする? 帝国に来れば、パリスとの婚約が待っている。あれは、なかなか手強い男だぞ」
ガイウスが、エルリッテに問いかけた。
エルリッテは、ガイウスを振り返り、複雑な微笑みを浮かべた。
「……大丈夫ですわ。私は、もう、誰にも負けません。たとえ相手が、帝国の智謀と呼ばれるパリス殿下であろうと」
彼女の深い翠の瞳は、もう、迷いなく、前を見据えていた。
「……ほう。面白い。いいだろう。その言葉、忘れるなよ」
ガイウスは、満足げに笑った。
船は、ルミナス川を下り、メルクリウス帝国へと向かう。
エルリッテは、船の上から、もう一度だけ、ルミナスの街を振り返った。
父は、まだ、あの岸にいるだろうか。
(お父様、待っていて)
(私は、必ず、あなたを迎えに行く)
彼女は、心の中で、強く誓った。
そして、彼女は、東の空を見つめた。
メルクリウス帝国。
新たな戦場。
帝国宮廷という、百回の人生でも経験したことのない、未知の世界。
(私は、戦う)
(自分の力で、未来を切り開く)
エルリッテ=コーディアスの、101回目の人生は、まだ始まったばかりだった。
しかし、彼女の心は、もう、かつてのように、絶望に染まってはいなかった。
(大丈夫)
(まだ手はある)
(百回分の私が、そう言ってる)
彼女は、胸元の星芒の護符を、そっと握りしめた。
銀の小瓶が、冷たく、手のひらに触れる。
母の形見。
そして、彼女の、新しい人生の証。
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