その仮面を、私だけが知っている。
白椿(しらつばき)私立学園。丘の上の女子校は、六月の雨が降り始めると、いっそう閉ざされた空気に包まれる。誰にでも明るい笑顔を向ける佐伯ひまりは、密かにクラスメイトの東雲澪を恋していた。同性を好きになる自分は「おかしい」のだと思い込み、今日も明るい仮面を被って過ごす。けれど澪は知っていた。ひまりの恋心も、苦しみも。澪は気づかないふりをしながら、時折、ひまりにだけ向ける甘い独占欲をのぞかせる。
雨の放課後、忘れ物の折りたたみ傘を差し出す澪。指が触れ合い、ひまりは俯く。「私がいるよ。他に何か、要る?」静かに問う澪。図書室の片隅で、二人きりになると、澪の視線はひまりの唇を追う。更衣室では、冷たい指が髪に触れる。「声、我慢しなくていいよ」。澪は優しい。優しすぎるほどに、ひまりだけを見て、ひまりだけを限界まで追い詰める。
友達と笑うひまりの隣で、澪は囁く。「ひまりって、そうやって笑うんだ」。その声だけで胸が苦しくなる。親友の三波すみれは鋭く、ひまりの引きつった笑みと、澪の冷たい視線に気づいている。それでも何も言えない。軽くからかって、見て見ぬふりをするしかない。
隣接する男子校の高梨朔は、ひ
その仮面を、私だけが知っている。 - 友だちと騒ぐひまりの横で、澪がひまりはそういうふうに笑うんだと囁く。二人きりの図書室で、澪の眼差しを意識して心臓が止まりそうになる。
雨は、まだ降り続いていた。
教室の窓ガラスを、細かい水滴が絶え間なく滑り落ちていく。外の景色は白く霞んで、鈴ヶ丘の木々も、遠くの街並みも、輪郭を失っていた。六月の白鈴学園は、今日も霧と湿気に閉じ込められている。
四時間目の終わりを告げるチャイムが、雨音に半ばかき消されながら鳴った。
「終わったー!お腹すいたー!」
誰かが叫ぶと同時に、教室の空気が一気に緩んだ。教卓の上の教科書を閉じる音、筆箱を片付ける音、机を寄せ合う音。佐伯ひまりは、その騒がしさの真ん中で、今日も明るい声を作る。
「お昼にしよー!みんな、お弁当出して出して!」
ひまりの声が教室に響くと、数人の女子が笑いながら机を寄せてきた。
「ひまちゃん、今日も元気だねー」
「だって、四時間目の数学、頭使ったらお腹すいたんだもん!」
ひまりは笑った。肩を揺らして、目を三日月みたいに細めて、声を弾ませて。クラスのムードメーカー、佐伯ひまり。みんながそう呼ぶ、明るくて誰とでも仲良くなれる女の子。
(そう、これが私)
心の奥で、小さく呟く。
(これが、私の正解)
机の上に水色の弁当箱を置く。蓋を開けると、母が詰めてくれた卵焼きと、冷凍食品のミートボールが並んでいた。何の変哲もない、普通の女子高生の昼食。
「あ、ひま、その卵焼きちょっとちょうだいよー」
横から箸が伸びてきた。明るい栗色のゆるふわミディアムヘアを揺らして、三波すみれがひまりの弁当箱を覗き込む。左サイドの髪を留めたピンクのヘアゴムが、蛍光灯の光を反射して小さく光った。
「えー、すみれの唐揚げと交換ならいいよ?」
「交渉成立!あたしの唐揚げ、一個あげるから卵焼き一個ちょうだい!」
すみれは大きな黒い瞳をくしゃっとさせて笑った。ぷっくりした唇が弧を描き、両頬にえくぼが二つ浮かぶ。首元のパールのネックレスが、彼女が動くたびに小さく揺れていた。
ひまりは卵焼きを一切れ、すみれの箸に乗せた。
「はい、どうぞ。すみれは本当に唐揚げ大好きだよねー」
「だってお母さんの唐揚げ、世界一美味いんだもん!ひまも食べてみなよ、ほら」
すみれが自分の弁当箱から、こんがり色づいた唐揚げをひとつ、ひまりの箸の上に置いた。
「わ、ありがとう!いただきまーす!」
ひまりは唐揚げを口に運ぶ。衣はカリッとしていて、中は肉汁が溢れた。美味しい。普通に、美味しい。
「どう?」
「やばい、めっちゃ美味しい!すみれのお母さん、プロでしょこれ!」
「でしょー?今度あたしの家来る?お母さんに唐揚げ作ってもらおうよ」
「行く行く!絶対行く!」
会話が弾む。笑い声が重なる。教室のあちこちから、箸と弁当箱が触れ合う軽い音が聞こえてくる。
ひまりは笑いながら、隣の席を意識した。
(見てる?)
東雲澪。
彼女は今日も、自分の席で静かに弁当を食べていた。誰かと机を寄せるでもなく、話に加わるでもなく、ただ一人で。腰まで届く黒髪が、白い頬の横でさらりと流れている。箸を持つ指先は細くて、長い睫毛が時折、伏せた目元に影を落としていた。
(見てない)
ほっとする。
でも、ほっとした自分が、また嫌だった。
「ねえねえ、ひま、聞いてるー?」
すみれの声で、我に返る。
「え、あ、うん!聞いてるよ!」
「嘘だー。全然聞いてなかったでしょ。目が泳いでたよ」
すみれが、からかうように笑った。でも、その目は笑っていなかった。ひまりの顔をじっと見ている。何かを探るような、でも、それを悟らせないような、そんな視線。
「ち、違うよ!ちゃんと聞いてたってば!」
ひまりは早口で否定した。
(やばい。私、今、変だった?)
心臓が冷たくなる。指先が、無意識にえんじ色のリボンの結び目をいじっていた。
すみれは一瞬、何か言いたそうに口を開きかけた。でも、すぐにいつもの笑顔に戻って、肩をすくめる。
「はいはい、分かった分かった。ひまは真面目だねー。でね、今の話はさ、文化祭の出し物の話!」
「文化祭?」
「そう!十月の白鈴祭!もうすぐクラスで企画出さなきゃじゃん?あたし、メイド喫茶やりたいんだよねー。ひまは?」
「え、メイド喫茶?あー、でも女子校の文化祭って、そういうの多いよね」
「でしょー?絶対可愛いって!ひま、メイド服似合いそうだし!あたしがプロデュースしてあげようか?」
「何それ、すみれのプロデュースって怖いなー!」
ひまりは笑った。今度はちゃんと、普通に。
(大丈夫。まだ、大丈夫)
自分に言い聞かせる。
昼休みの教室は、湿った空気と笑い声と、誰かの弁当の匂いで満ちていた。窓の外は相変わらず白い霧で、世界はこの教室だけみたいに感じる。
「そういえばさー」
すみれが、ふと思い出したように言った。
「澪ちゃんって、いつも一人でお弁当食べてるよね。今日も一人だし」
ひまりの指が、箸を握りしめた。
「あー、澪さん、そうだね。いつも静かに食べてるよね」
声が、自分でも分かるくらい小さくなった。
「ひま、澪ちゃんと隣の席なんだから、たまには声かけてみなよ。ああ見えて、話したら面白いかもよ?」
すみれの声が、少しだけ低くなる。
(すみれ、何か気づいてる?)
背中に、じわりと汗が滲んだ。
「え、いや、澪さんは一人が好きなんだと思うし、あたしが話しかけても迷惑かなって……」
「ひまは真面目だなー。ま、でもさ、澪ちゃんって時々、ひまのこと見てるよね」
ひまりの心臓が、ドクン、と跳ねた。
「え?見てる?誰が?澪さんが?私のこと?ないないない!」
早口。語尾が小さくなる。動揺しているのが、自分でも分かる。
すみれは、そんなひまりを見て、ふっと笑った。
「あはは、冗談だってば。ひま、顔赤くなってるよ。可愛いー」
「もー、すみれの意地悪!」
ひまりは、わざと大きく口を尖らせてみせた。
(冗談。そう、冗談だ)
心の中で繰り返す。
(澪さんが、私を見てるわけない)
そう思うのに、視線が勝手に隣の席へ向かう。
澪は、弁当箱を片付けて、文庫本を開いていた。ページをめくる指先が、窓から差す薄明かりの中で、白く浮かび上がっている。
その時だった。
澪の指が、一瞬止まった。
そして、澪が顔を上げた。
黒い瞳が、まっすぐにひまりを捉える。
(あ)
ひまりの呼吸が、止まった。
澪の唇が、ほんの少しだけ動いた。
「……ひまり」
声は、聞こえなかった。
でも、唇の形で分かった。
澪が、私の名前を呼んだ。
(なんで、今、名前を)
ひまりは、目を逸らせなかった。
澪の瞳は、深い藍色に見えた。雨の光を吸い込んで、底の見えない湖みたいに、静かで、冷たくて、でも、どこか熱を帯びている。
「ひま?」
すみれの声が、遠くに聞こえた。
「あ、うん、何でもない!ちょっと、お手洗い行ってくる!」
ひまりは、立ち上がった。
椅子が、ガタンと音を立てる。
教室を出る時、もう一度だけ、澪の方を振り返ってしまった。
澪は、もう文庫本に視線を戻していた。
さっきの名前は、何だったの。
心臓が、うるさくて、苦しい。
廊下に出ると、雨の匂いが濃くなった気がした。
ひまりは、壁に手をついて、深く息を吐く。
(おかしい。私、おかしい)
額に、薄っすら汗が浮いていた。
放課後。
雨は、朝よりも強くなっていた。
校舎の外は、白い霧と雨に覆われて、数メートル先も見えない。傘を差しても、肩が濡れるような降り方だった。
「じゃあねー!また明日ー!」
「気をつけて帰ってねー!」
「バイバーイ!」
昇降口で、ひまりはクラスメイトたちに大きく手を振った。
(今日も、ちゃんと笑えた)
(大丈夫。私は、普通の女の子)
靴を履き替えて、傘立てから自分の傘を取る。
昨日、澪から返してもらった折り畳み傘は、ちゃんとバッグに入れてある。
(傘、返したのに)
(もう、澪さんと話すきっかけ、ないのに)
なのに。
(また、会いたい)
ひまりは、唇を噛んだ。
(触れたい、って思ってる)
(おかしい。こんなの、気持ち悪い)
昇降口から出る時、もう一度だけ、校舎を振り返った。
雨に濡れた校舎は、灰色の空に溶けて、巨大な影みたいに見えた。
ひまりは、傘を差して、坂道を下り始めた。
スクールバスには乗らなかった。
(一人になりたい)
鈴坂と呼ばれる坂道は、桜並木が続く一本道だ。六月の桜は葉を茂らせて、雨の日は昼間でも薄暗い。アスファルトの路面を、雨水が細い川みたいに流れていく。
傘に打ち付ける雨音だけが、静かに響いていた。
(澪さんの指、冷たかった)
昨日のことを思い出す。
傘を差し出された時の、指先の感触。
冷たくて、細くて、でも、触れた瞬間だけ、燃えるみたいに熱くなった。
(また、触れたい)
(でも、触れたいって思う自分が、一番おかしい)
ひまりは、傘を持つ手に力を込めた。
バス停の屋根が見えてきた。
その時だった。
「佐伯さん?」
後ろから、声がした。
ひまりは、びくっとして振り返る。
「え……あ、宮野先生!」
図書室の司書、宮野先生が、傘を差して立っていた。四十代の穏やかな女性で、いつも静かな声で話す。白鈴学園の図書館棟を一人で管理している。
「こんな雨の中、歩いて帰るの?バスに乗らなかったのね」
「あ、はい。ちょっと、考え事しながら歩きたくて」
「そう。風邪をひかないようにね。あ、そうだ、佐伯さん。今日、図書室に忘れ物を届けに来てくれないかしら。あなたが借りた本のことで、少し確認したいことがあるの」
「借りた本ですか?」
「ええ。先週、貸し出した本が、返却記録に反映されていなくて。すぐ終わるから、寄ってくれる?」
「あ、はい、分かりました。じゃあ、このまま学校に戻ります」
「ありがとう。助かるわ」
宮野先生は、静かに微笑んで、先に坂を下りていった。
ひまりは、来た道を引き返す。
(図書室か)
(あそこは、澪さんがよくいる場所)
心臓が、また少し早くなる。
(でも、放課後の図書室に、澪さんがいるとは限らない)
(今日は、もう帰ったかもしれない)
自分に言い聞かせながら、ひまりは雨の中を歩いた。
図書館棟は、本館の奥にある二階建ての建物だった。
ひまりが扉を開けると、紙と埃と、雨の湿気が混ざった匂いがした。蔵書は約一万八千冊。放課後の図書室は、ひっそりと静まり返っていて、蛍光灯の光が、高い天井にぼんやりと浮かんでいる。
「すみません、宮野先生、いらっしゃいますか?」
声をかけるが、返事がない。
カウンターを見ると、小さなメモが置いてあった。
『佐伯さんへ。少し席を外しています。奥の閲覧席で待っていてください。宮野』
(奥の閲覧席)
ひまりは、図書室の奥へ足を進めた。
二階に上がる階段の軋む音だけが、静寂を破る。
二階の奥に、四つ掛けの閲覧席が六つ。放課後はほとんど人が来ない、静かな場所。
ひまりは、窓際の席に座った。
窓の外は、相変わらずの雨。
薄暗い光が、窓ガラスを通して、床に細長い影を落としている。
(誰もいない)
ほっとする。
でも、同時に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
(私、今、一人だ)
(一人で、澪さんのことを考えてる)
ひまりは、バッグから折り畳み傘を取り出した。
深い藍色の小さな傘。
昨日、澪が差し出してくれた傘。
(返したのに、まだ、手元にあるみたいに感じる)
指先で、傘の表面をそっとなぞる。
(澪さんの指、冷たかった)
(でも、触れたところだけ、熱かった)
(あの熱が、まだ残ってる)
ひまりは、傘を両手で握りしめた。
(おかしい)
(おかしいよ、私)
(女の子なのに、女の子に触れたいなんて)
唇を噛む。
鉄の味が、じんわりと広がった。
(普通になりたい)
(普通の女の子になって、普通の男の子を好きになって)
(そしたら、こんな気持ち、持たなくて済むのに)
窓の外で、雨が強くなった。
雨音が、図書室の静けさを、さらに深くする。
ひまりは、目を閉じた。
まぶたの裏に、澪の横顔が浮かぶ。
中学二年の六月。
図書室で見た、雨の光を浴びた黒い髪。
ページをめくる、白い指。
あの時から、ずっと。
(好きだ)
(澪さんが、好きだ)
(でも、この気持ちは、おかしい)
胸の真ん中が、ぎゅうっと痛む。
涙が出そうになって、ひまりは下唇を噛んで堪えた。
どれくらい、そうしていただろう。
不意に、階段を上る足音がした。
(誰か来た)
ひまりは、慌てて折り畳み傘をバッグにしまった。
(宮野先生かな)
顔を上げる。
足音が、ゆっくりと近づいてくる。
そして、ひまりのいる窓際の席の前で、止まった。
「……やっぱり、ここにいた」
低くて、静かな声。
ひまりは、心臓が止まるかと思った。
「み、澪さん……」
東雲澪が、立っていた。
黒い髪は、雨の湿気を含んで、いつもより深い光を帯びている。切れ長の黒い瞳が、薄暗い図書室の中で、ひまりだけを見つめていた。
澪は、何も言わずに、ひまりの隣の席に座った。
(近い)
(近すぎる)
澪の肩と、ひまりの肩が、触れそうな距離。
澪は、手に持っていた文庫本を開いた。
ページをめくる音だけが、静かに響く。
(何で、ここに)
(何で、隣に)
ひまりは、体を固くしたまま、動けなかった。
澪の存在が、空気を変える。
図書室の温度が、急に下がったみたいに感じる。
いや、違う。
澪の周りだけ、空気が違う。
冷たくて、でも、触れたら火傷しそうな、そんな空気。
(逃げたい)
(でも、逃げられない)
ひまりの指先が、膝の上で震えていた。
「……本、読まないの」
澪が、本から視線を上げずに言った。
「え?あ、あの、私、宮野先生を待ってて……」
「宮野先生は、今日はもう帰ったよ」
「え?そうなんですか?でも、メモが……」
「メモ?」
澪が、初めて顔を上げて、ひまりを見た。
その瞳が、あまりに真っ直ぐで、ひまりは言葉を失った。
(見ないで)
(そんな目で、見ないで)
澪の唇が、かすかに動いた。
「……あのメモ、私が書いたの」
「え?」
「宮野先生は、先週、借りた本の返却記録を確認してほしいって、私に言ってた。だから、同じことを、あなたにも伝えただけ」
澪の声は、淡々としていた。
でも、その言葉の裏に、何かが隠れている気がした。
(澪さんが、私をここに呼んだ?)
(なんで?)
(なんで、私を?)
頭の中が、ぐるぐる回る。
「そ、そうだったんですね。じゃあ、私、もう帰ります……」
ひまりは、立ち上がろうとした。
その時。
澪の手が、ひまりの手首に触れた。
「待って」
冷たい指。
昨日の、あの指。
ひまりの心臓が、激しく脈打った。
「み、澪さん……?」
澪は、手首を離さなかった。
「少しだけ、話そう」
低い声。
でも、どこか優しい。
ひまりは、座り直した。
澪の指が、ゆっくりと手首から離れていく。
(触れてた)
(澪さんが、私に触れてた)
手首の皮膚が、じんじんと熱い。
澪は、文庫本を閉じて、窓の外を見た。
雨が、ガラスを叩いている。
「今日、昼休み」
澪が、ぽつりと言った。
「あなた、笑ってた」
「え?あ、はい。すみれと、話してて……」
「うん」
澪は、短く頷いた。
「ひまりは、そういうふうに笑うんだ」
その声は、囁くように小さくて、雨音に紛れそうだった。
でも、ひまりの耳には、はっきりと届いた。
(そういうふうに笑う?)
(どういう意味?)
(私の笑い方が、どうかしたの?)
訊きたいのに、声が出ない。
澪の眼差しが、ひまりの顔に注がれている。
唇に。
目に。
頬に。
(見られてる)
(澪さんに、見られてる)
その事実だけで、体の芯が震える。
「……私の前では、そういうふうに笑わないでしょ」
澪が、もう一度言った。
今度は、少しだけ、声が低かった。
(え?)
(私、澪さんの前で、笑ってない?)
(そんなこと、ない)
(笑ってるはず)
(普通に、笑ってるはず)
なのに。
(澪さんの前だと、笑えない)
(笑おうとすると、顔が引きつる)
(心臓が痛くて、息が苦しくて)
(好きって気持ちが、溢れそうで)
ひまりは、俯いた。
指先が、膝の上で、服の裾をぎゅっと握りしめる。
「……私、笑ってます」
やっとの思いで、声を絞り出した。
「笑ってる、はずです」
「そう」
澪の声は、優しかった。
「でも、今のあなたは、笑ってない」
ひまりは、顔を上げられなかった。
(違う)
(違うの)
(澪さんの前だと、普通でいられないだけ)
(好きだから)
(好きだから、笑えないの)
心の中で叫ぶのに、声にならない。
澪が、少しだけ体を傾けた。
肩が、触れる。
「……ひまり」
名前を呼ばれた。
昨日、傘を差し出された時と同じ声。
静かで、冷たくて、でも、熱を秘めた声。
「私のことは、怖い?」
澪の問いかけに、ひまりは、びくっと肩を震わせた。
(怖い)
(怖いよ)
(澪さんが、怖い)
(好きすぎて、怖い)
「こ、怖くない、です……」
「嘘」
澪が、即座に言った。
「あなたは、私の前だと、いつも震えてる」
ひまりは、自分の手を見た。
震えていた。
指先が、小刻みに。
「……ごめんなさい」
気づいたら、謝っていた。
「ごめんなさい、私、変で……」
「変じゃない」
澪の声が、少し強くなった。
「ひまりは、変じゃない」
(変だよ)
(私、おかしいよ)
(澪さんに、触れたい)
(女の子なのに、女の子に触れたいなんて)
(気持ち悪い)
(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い)
頭の中で、自分の声が反響する。
「私、帰ります……」
ひまりは、立ち上がった。
今度は、澪も止めなかった。
でも、澪の視線が、背中に突き刺さる。
(見られてる)
(澪さんに、見られてる)
ひまりは、図書室の出口に向かって歩き出した。
足が、もつれそうになる。
(逃げなきゃ)
(これ以上、澪さんのそばにいたら)
(私、おかしくなっちゃう)
ドアの前に着いた。
取っ手に手を伸ばした、その時。
後ろから、澪の手が伸びてきた。
「待って」
冷たい指が、ひまりの手首を掴んだ。
「っ……!」
ひまりの体が、硬直した。
澪の指は、昨日の傘を差し出した時よりも、少しだけ強く、手首を握っていた。
「……逃げないで」
澪の声が、耳のすぐ後ろで聞こえた。
吐息が、首筋に触れる。
ひまりの全身に、鳥肌が立った。
(近い)
(澪さんが、近い)
(手首、掴まれてる)
(吐息、触れてる)
心臓が、壊れそうなくらい暴れている。
「澪さん、離して……」
声が、震える。
「嫌」
澪が、はっきりと言った。
「離さない」
(なんで)
(なんで、そんなこと言うの)
(私のこと、どうしたいの)
涙が、じわりと滲んだ。
「お願い、離して……私、おかしいの……澪さんに、触れたいって思う自分が、気持ち悪くて……」
言ってしまった。
(言っちゃった)
(澪さんに、言っちゃった)
(触れたいって、言っちゃった)
(気持ち悪いって、思われた)
(もう、終わりだ)
ひまりは、目をぎゅっと閉じた。
澪の指が、手首から、ゆっくりと離れていく。
(やっぱり)
(気持ち悪いって思われた)
(離してくれた)
(もう、終わり)
涙が、こぼれそうになった。
その時。
澪の指が、今度は、ひまりの手のひらに触れた。
「……気持ち悪くなんかない」
澪の声が、静かに響いた。
「触れたいって思うことは、おかしくない」
「でも、私、女の子で……澪さんも、女の子で……」
「だから何」
澪の声は、冷たかった。
でも、その冷たさが、逆に、ひまりの心を落ち着かせた。
「私は、ひまりに触れたいと思われて、嬉しい」
(え?)
ひまりは、目を見開いた。
涙で歪んだ視界に、澪の顔が映る。
澪は、真っ直ぐにひまりを見ていた。
その瞳は、深い藍色で、底が見えなくて、でも、確かに、ひまりだけを見ていた。
「だから、逃げないで」
澪の指が、ひまりの手のひらを、そっと握った。
冷たい指。
昨日と同じ、冷たい指。
でも、今は、その冷たさが、心地よかった。
「……澪さん」
ひまりは、やっとの思いで、澪の名前を呼んだ。
澪の口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「やっと、私の名前を呼んだ」
澪が、小さく呟いた。
「……いつも、私の前だと、あなたは私の名前を呼ばない」
「え……そう、ですか?」
「そう。私の前だと、あなたはいつも、私のことを『澪さん』って呼ぶ。でも、他の子の前では、『澪ちゃん』って呼んでる」
ひまりは、ドキリとした。
(聞いてたんだ)
(私が、澪さんのことを、澪ちゃんって呼んでるの)
「あ、あれは、その、すみれが言うから、つい……」
「別に、責めてない」
澪は、静かに言った。
「ただ、私は、ひまりに名前を呼ばれるのが、好きだから」
(好きだから)
(澪さんが、私に名前を呼ばれるのが、好き)
(それって、どういう意味?)
ひまりの心臓が、また、激しく脈打った。
「……澪、ちゃん」
ひまりは、恐る恐る、澪の名前を呼んだ。
「澪ちゃん」
澪の瞳が、微かに揺れた。
「……うん」
澪が、小さく頷いた。
「それで、いい」
澪の指が、ひまりの手を離した。
でも、手のひらに残る冷たさは、昨日よりも、ずっと強く、温かく感じられた。
「……また、明日」
澪が言った。
「うん。また、明日」
ひまりは、図書室のドアを開けた。
廊下に出ると、雨音が、さっきよりも大きく聞こえた。
(澪ちゃん)
(澪ちゃん、澪ちゃん、澪ちゃん)
心の中で、何度も繰り返す。
(触れたいって思うことは、おかしくない)
澪の言葉が、耳の奥で、何度も蘇る。
(気持ち悪くなんかない)
(嬉しいって、言ってくれた)
ひまりは、自分の手のひらを見つめた。
澪の指が触れた場所が、まだ、じんじんと熱い。
(おかしくないのかな)
(私の気持ち、おかしくないのかな)
まだ、自分を信じられない。
でも、さっきまでより、少しだけ、息がしやすい気がした。
ひまりは、昇降口で傘を差し、雨の中へ踏み出した。
空は、相変わらず白く霞んでいた。
でも、その白さが、少しだけ、柔らかく見えた。
(澪ちゃんに、触れたい)
(その気持ちは、まだ、私の中にある)
(でも、今は、それを、全部否定しなくてもいいのかもしれない)
ひまりは、坂道を下りながら、そっと、自分の手首を握った。
澪の指の冷たさを、確かめるように。
雨は、まだ、降り続いていた。
でも、その雨音が、いつもより、少しだけ優しく聞こえた。
(明日、澪ちゃんに、ちゃんと笑えるかな)
(澪ちゃんの前で、普通に、笑えるかな)
(まだ、分からない)
(でも、明日は、澪ちゃんの名前を、もっと呼びたい)
ひまりは、傘を傾けて、白い空を見上げた。
雨粒が、頬に当たる。
冷たい。
でも、その冷たさが、澪の指を思い出させて、胸の奥が、少しだけ温かくなった。Noveliaとは?
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