その仮面を、私だけが知っている。
白椿(しらつばき)私立学園。丘の上の女子校は、六月の雨が降り始めると、いっそう閉ざされた空気に包まれる。誰にでも明るい笑顔を向ける佐伯ひまりは、密かにクラスメイトの東雲澪を恋していた。同性を好きになる自分は「おかしい」のだと思い込み、今日も明るい仮面を被って過ごす。けれど澪は知っていた。ひまりの恋心も、苦しみも。澪は気づかないふりをしながら、時折、ひまりにだけ向ける甘い独占欲をのぞかせる。
雨の放課後、忘れ物の折りたたみ傘を差し出す澪。指が触れ合い、ひまりは俯く。「私がいるよ。他に何か、要る?」静かに問う澪。図書室の片隅で、二人きりになると、澪の視線はひまりの唇を追う。更衣室では、冷たい指が髪に触れる。「声、我慢しなくていいよ」。澪は優しい。優しすぎるほどに、ひまりだけを見て、ひまりだけを限界まで追い詰める。
友達と笑うひまりの隣で、澪は囁く。「ひまりって、そうやって笑うんだ」。その声だけで胸が苦しくなる。親友の三波すみれは鋭く、ひまりの引きつった笑みと、澪の冷たい視線に気づいている。それでも何も言えない。軽くからかって、見て見ぬふりをするしかない。
隣接する男子校の高梨朔は、ひ
その仮面を、私だけが知っている。 - 仮面の剥落——夜の教室、涙の本音
教室の時計の針が、午後七時を指そうとしていた。
六月の雨は夕方になっても止む気配がなく、窓ガラスを絶え間なく叩いている。白鈴学園の本館二階、高等部二年A組の教室には、まだ数人の生徒が残っていた。十月の白鈴祭に向けた準備のためだ。
文化祭の準備期間に入ると、放課後の教室は毎日のようにこの光景が繰り返される。色画用紙を切る音、セロハンテープを引き裂く音、誰かの笑い声。それらが雨音と混ざり合って、夕暮れの教室を満たしていた。
佐伯ひまりは、教室の後方で段ボール箱を開けていた。中に入っているのは、クラスで作る展示物の材料だ。発泡スチロールの板、ペンキの缶、筆、のり。文化祭実行委員ではないが、こういう裏方の作業を買って出るのがひまりの癖だった。誰かの役に立つこと、みんなの輪の中にいること。それが安心できた。
(今日も一日、ちゃんと笑えた)
心の中で、そう呟く。
先週、旧校舎の空き教室で澪に腕を引かれてから、ひまりの心はちっとも落ち着いていなかった。澪の指が手首に食い込んだ感触。耳元に落とされた低い声。あの人の、全部を知らないでしょという言葉。
思い出すだけで、指先が震える。
それでも、学校に来れば笑わなければならない。クラスのみんなが、ひまりの明るい声を待っている。ムードメーカーの佐伯ひまりが暗い顔をしていたら、みんな心配する。
(だから、笑う)
(笑ってれば、大丈夫)
ひまりは段ボールから発泡スチロールの板を取り出し、床に並べた。
「ひまー、そっちの段ボール、あと何個あるー?」
明るい栗色の髪を揺らしながら、三波すみれが近づいてきた。彼女は手にカッターナイフと定規を持っている。ピンクのヘアゴムで左サイドを留めた髪が、動くたびにふわふわと跳ねる。
「あと三個かな!こっちは大丈夫だよ」
ひまりは笑顔で答えた。
「ありがとー。ひまがいると作業が早く進むわー」
すみれが、ひまりの肩に軽く手を置く。
その温かい手のひらに、ひまりは少しだけ救われた。
(すみれは、優しい)
(すみれの前だと、普通でいられる)
そう思う。でも、同時に思う。
(すみれには、何も言えない)
先週、旧校舎での出来事。澪に連れ込まれた空き教室。あの時、廊下で物音がした。誰かがいた。ひまりは、それがすみれだったのではないかと薄々感じていた。すみれからのあの短いメッセージ。『先帰るねまた明日』。絵文字もスタンプもない、硬い文面。
それ以来、すみれは何も言わない。
いつも通りに、明るくひまりに接してくれる。
でも、時々、ほんの一瞬だけ、すみれの視線がひまりの顔を探るように注がれることがある。
(すみれ、何か気づいてる)
(でも、言わないでいてくれてる)
その優しさが、逆に胸を締め付けた。
「ひま、無理しないでね」
突然、すみれが言った。
声のトーンが、さっきまでと違う。いつもの甲高い明るさではなく、少しだけ低くて、真剣な響き。
ひまりは、心臓が跳ねるのを感じた。
「え?何が?」
「んー、何となく。最近ひま、ちょっと疲れてるでしょ」
すみれの大きな黒い瞳が、じっとひまりを見つめている。
(見抜かれてる)
ひまりの笑顔が、一瞬で固まった。
「そ、そんなことないよ!元気だよ!」
ひまりは、慌てて笑顔を作り直した。
すみれは、それ以上何も言わなかった。ただ、ひまりの肩をぽんぽんと二回叩いて、自分の作業に戻っていった。
(ごめん、すみれ)
(私、うまく笑えてるかな)
ひまりは、すみれの背中を見ながら、唇の内側を噛んだ。
午後七時を過ぎると、クラスメイトたちは次々に帰っていった。
「お疲れさまでしたー!」
「また明日ー!」
「雨すごいね、気をつけて帰ろう!」
明るい声が教室から出ていく。傘を広げる音、廊下を走る足音、笑い声。それらが遠ざかっていく。
やがて、教室は静かになった。
ひまりは、まだ作業を続けていた。発泡スチロールの板に、展示物の下書きを鉛筆で描いている。本当はもう帰ってもいい時間だ。でも、帰りたくなかった。家に帰れば、一人になる。一人になれば、澪のことを考えてしまう。
(あと少しだけ)
(もう少しだけ、ここにいよう)
そう思って、手を動かす。
その時、ふと気配を感じた。
顔を上げる。
教室の窓際。
東雲澪が、そこにいた。
腰まで届く艶のある黒髪。前髪は眉の上で切り揃えられ、雨に濡れた窓の光を反射してしっとりと光っている。細く鋭い切れ長の目。右耳に銀の小さなピアス。口元の右下にある黒子。
澪は、窓辺に立って外を見ていた。
正確には、窓ガラスに映る教室の景色を、見ていた。
(澪ちゃん、まだ残ってたんだ)
ひまりの胸の奥で、心臓が早鐘を打ち始める。
澪は、ひまりが教室に残っていることに気づいていたはずだ。クラスメイトが帰っていく中、澪だけはずっと窓際で作業を続けていた。いや、作業をしているふりをしていただけかもしれない。
(澪ちゃん、いつからあそこに?)
(ずっと、いた?)
(私のこと、見てた?)
考え始めると、指先が震えて鉛筆がうまく握れない。
ひまりは、澪から目を逸らすために、手元の作業に集中しようとした。
発泡スチロールの板。鉛筆の線。文化祭の展示物。何か、普通のことを考えなくては。
でも、だめだった。
澪の気配が、教室の空気を変えている。
ひまりの肌が、澪の存在を感知している。
(やめて)
(意識しないで)
(普通に、普通に)
ひまりは、心の中で何度も唱えた。
でも、澪が時折こちらを見ている気配がする。
視線。
あの、冷たくて、でも熱い視線。
ひまりの手は、鉛筆を握ったまま止まってしまった。
教室の時計の針だけが、無情に進んでいく。
カチ、カチ、カチ。
雨音が、窓を叩く。
ザァァァァ。
静かな教室に、二つの音だけが響いていた。
時計の針と、雨。
そして、ひまりの心臓。
蒸し暑かった。
六月の夜、雨の日。窓を閉め切った教室には、昼間の熱がこもっていた。冷房はすでに切られている。生徒たちの体温と湿気が、空気の中に溶けて滞留している。
ひまりの首筋を、汗が伝う。
制服のブラウスが、背中に張り付く。
(暑い)
(なのに、寒い)
澪の気配を感じるたびに、背筋のあたりがぞわりとする。
ひまりは、無意識に手を首元にやった。
汗で張り付いた髪を、かき上げる。
その瞬間だった。
背後に、気配。
すぐ、後ろ。
吐息が、首筋にかかった。
「……っ」
悲鳴を飲み込んだ。
声が出なかった。
振り返れない。
振り返ってはいけない気がした。
(澪ちゃん)
(澪ちゃんが、後ろにいる)
心臓が、喉の奥から飛び出しそうだ。
澪の吐息が、汗ばんだ首筋をなぞる。
ひまりの全身に、鳥肌が立った。
「汗」
澪の声が、耳のすぐ横で聞こえた。
低くて、静かで、それでいてひまりの鼓膜を直接震わせるような声。
「すごい汗。ひまり、暑いの?」
澪の指先が、ひまりの首筋に触れた。
冷たい。
雨に濡れた窓ガラスのような、ひんやりとした指。
その冷たさが、汗ばんだ肌に触れた瞬間、ひまりの体がびくっと跳ねた。
「や、澪ちゃん……近いよ」
ひまりは、震える声で言った。
「近いと、だめ?」
澪の指が、首筋から鎖骨のあたりへ、ゆっくりと滑り降りる。
ひまりの左の鎖骨には、小さな泣きぼくろがある。
澪の指が、その泣きぼくろを、そっとなぞった。
「や、やめて……誰か来たら……」
「誰も来ないよ」
澪の声は、確信に満ちていた。
「もう、誰もいない。ここには、私とひまりだけ」
ひまりは、目を閉じた。
(だめだ)
(逃げなきゃ)
(でも、体が動かない)
澪の指が、鎖骨から首筋へ戻り、今度は髪の生え際をなぞる。
汗で張り付いた髪を、一本一本、丁寧に剥がすように。
「隠しても無駄だよ」
澪が、耳元で囁いた。
その言葉が、ひまりの胸の奥に突き刺さった。
隠しても無駄。
その言葉は、先週の旧校舎での澪の言葉と重なった。
『あの人、ひまりの全部を知らないでしょ』
全部を知っているのは、私だけ。
そういう意味だった。
(澪ちゃんは、全部知ってる)
(私の、全部)
ひまりの脳裏に、今まで隠してきたすべての夜が、走馬灯のように蘇った。
澪を思って泣いた夜。
澪の指を思い出して、身を捩った夜。
澪の声を思い出して、布団の中で息を殺した夜。
澪に触れられて、気持ちよかったと自覚してしまった夜。
おかしいと、自分を責めた夜。
気持ち悪いと、自分を殴った夜。
全部、全部。
澪は知っている。
知っていて、知らないふりをしていた。
知っていて、今日も、こうして、ひまりの首筋に指を這わせている。
「ひまりが、何を考えてるか、全部わかるよ」
澪の声が、耳の奥に染み込んでくる。
「私に触れられて、震えてる。私の指を、思い出してる。違う?」
違わない。
全部、その通りだ。
ひまりは、唇を噛み締めた。
涙が、込み上げてくる。
(だめ)
(泣かないで)
(泣いたら、全部、認めることになる)
でも、もう、無理だった。
澪の指が、ひまりの首筋から離れない。
澪の吐息が、ひまりの耳をくすぐる。
澪の言葉が、ひまりの心を、容赦なく暴いていく。
「ひまり」
澪が、名前を呼んだ。
その瞬間、ひまりの中で何かが、音を立てて壊れた。
「……やめて」
ひまりの口から、小さく、絞り出すような声が漏れた。
「やめて……澪ちゃん……お願い……」
声が、震える。
視界が、ぼやける。
(ああ、だめだ)
(涙が、出る)
ひまりは、その場に崩れ落ちた。
膝から、床へ。
力が抜けて、座り込んでしまう。
「私……私、おかしいの……」
涙が、溢れた。
止まらない。
生まれて初めて、人前で泣いた。
クラスのムードメーカー。みんなを笑わせる佐伯ひまり。明るくて、元気で、誰からも好かれる佐伯ひまり。
その仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。
「女の子なのに……澪ちゃんのこと、好きになって……気持ち悪い……おかしい……私、おかしいの……」
喉の奥から、本音が絞り出される。
自分でも止められない。
二年間、心の底に押し込めてきた言葉。
誰にも言えなかった言葉。
それが、嗚咽と一緒に溢れ出していく。
「おかしい私が、嫌だ……嫌なの……こんなの、気持ち悪い……消えたい……」
ひまりは、床に手をついて、泣き崩れた。
涙が、床に落ちる。
ぽたぽたと、小さな水たまりを作っていく。
(言っちゃった)
(全部、言っちゃった)
(澪ちゃんに、気持ち悪いって思われた)
(もう、終わりだ)
ひまりは、顔を上げられなかった。
澪の顔を見るのが、怖かった。
澪の目に、軽蔑の色を見るのが、怖かった。
「……ひまり」
澪の声が、上から降ってきた。
ひまりは、肩を震わせた。
(来ないで)
(見ないで)
(お願い、もう何も言わないで)
でも、澪の声は、想像していたよりもずっと静かだった。
「顔を上げて」
澪が言った。
ひまりは、首を横に振った。
「いや……見ないで……こんな顔、見ないで……」
「見るよ」
澪の声に、迷いがなかった。
「私は、ひまりの全部を見る。今も、これからも」
ひまりは、ゆっくりと顔を上げた。
涙でぼやけた視界の先に、澪が立っていた。
澪の黒い瞳が、じっとひまりを見下ろしている。
その瞳には、見下すような冷たさも、いたぶるような嗜虐性もなかった。
ただ、初めて見せる、揺らぎがあった。
澪の指先が、かすかに震えている。
唇が、何か言葉を探すように、かすかに動いた。
「……みお、ちゃん」
ひまりは、掠れた声で呼んだ。
澪は、答えなかった。
ただ、その場に、動かずに立っていた。
逃げずに。
目を逸らさずに。
ひまりのすべてを、待つように。
雨音が、教室を満たしていた。
時計の針が、進んでいく。
カチ、カチ、カチ。
静かな教室に、ひまりの嗚咽だけが、まだ響いていた。
「私……もう、普通には戻れない……」
ひまりは、床に落ちる自分の涙を見つめながら、言った。
「普通の女の子になりたかった……普通に、男の子を好きになって……普通に、恋して……普通に、結婚して……」
涙が、止まらない。
「でも、私は……澪ちゃんのことしか、見えない……澪ちゃんのことしか、考えられない……おかしいよ……こんなの……」
ひまりは、自分の胸を、ぎゅっと掴んだ。
心臓が、痛い。
「もし、澪ちゃんに嫌われたら……私、死んじゃう……死にたい……」
その言葉を口にした瞬間、ひまりは自分の本心を、初めて認めた。
(ああ、そうだ)
(私は、澪ちゃんに嫌われたら、生きていけない)
(それくらい、澪ちゃんのこと、好きなんだ)
(おかしくても、気持ち悪くても、これが私の、本当の気持ちなんだ)
ひまりは、顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、澪を見た。
澪は、まだ、そこに立っていた。
そして、澪は、ゆっくりと手を差し出した。
白くて、細い、綺麗な指。
その手が、ひまりに向かって、ゆっくりと開かれている。
「……ひまり」
澪の声が、雨音に混じって、ひまりの耳に届いた。
澪の手は、ひまりを拒絶するための手ではなかった。
突き放すための手ではなかった。
ただ、ひまりを、待っていた。
ひまりは、その手を見つめた。
(触れたい)
(澪ちゃんの手に、触れたい)
(でも、触れたら、私は壊れてしまう)
(もう、二度と、普通には戻れなくなる)
(でも、もう、戻れない)
(とっくに、戻れないところまで来てる)
ひまりの心の中で、二つの自分がせめぎ合っていた。
澪の手に触れることを願う自分。
触れた瞬間に、自分が壊れてしまうと恐れる自分。
涙の中で、二つの感情が、ぐるぐると渦を巻いていた。
澪は、まだ言葉を発さない。
ただ、その手だけが、ひまりに向けて、ゆっくりと開かれている。
雨が、窓を叩く。
時計が、時を刻む。
六月の夜の教室で、二人の時間だけが、静かに止まっていた。
ひまりは、震える指を、ゆっくりと持ち上げた。
澪の手に、触れる。
あと、少し。
あと、数センチ。
ひまりの指先が、澪の指先に、触れようとした、その時——
教室の扉が、ガタン、と音を立てた。
ひまりは、びくっとして手を引っ込めた。
澪も、ゆっくりと振り返る。
扉の向こうには、誰もいなかった。
風で、扉が動いたのだろうか。
いや、この教室の扉は、風で動くほど軽くはない。
澪の目が、すっと細くなった。
「……誰か、いる」
澪が、低い声で呟いた。
ひまりは、心臓が凍りつくのを感じた。
(誰か、見てた?)
(私が、泣いてるところを?)
(私が、澪ちゃんに触れようとしたところを?)
恐怖が、涙を止めた。
澪は、扉の方へ歩き出した。
「澪ちゃん、待って!」
ひまりは、思わず澪の名前を呼んだ。
澪は、足を止めて、振り返った。
「大丈夫。見てくるだけ」
澪は、それだけ言うと、教室を出て行った。
ひまりは、一人、教室に残された。
床に座り込んだまま、動けなかった。
涙の跡が、頬に残っている。
(誰か、見てたの?)
(誰が?)
(すみれ?)
(それとも、他の誰か?)
ひまりの胸に、新たな恐怖が広がっていく。
もし、誰かに見られていたら。
もし、このことが、クラスに広まったら。
もし、学校中に知られたら。
白鈴学園の閉鎖的な空気の中で、同性を好きになるということが、どれほどの重みを持つか。
ひまりは、よく知っていた。
エスの文化。女子校特有の親密さ。それが、恋愛と認識された途端に、排斥の対象になる不文律。
「気持ち悪い」
「ありえない」
「近づかないで」
そんな言葉が、脳裏に浮かぶ。
(怖い)
(怖い、怖い、怖い)
ひまりは、自分の体を抱きしめた。
震えが、止まらない。
雨音だけが、教室に響いていた。
澪は、しばらくして教室に戻ってきた。
「誰もいなかった」
澪は、静かに言った。
「でも、音が……」
「風だよ。窓が少し開いてた」
澪は、窓の方を指さした。
確かに、教室の一番後ろの窓が、ほんの少しだけ開いていた。
ひまりは、ほっと息をついた。
でも、完全には安心できなかった。
(本当に、風?)
(本当に、誰もいなかった?)
疑念が、心の奥に残る。
澪は、ひまりの前にしゃがみ込んだ。
目線を合わせるように。
「ひまり、立てる?」
澪の声が、さっきまでとは違って、少しだけ柔らかかった。
ひまりは、こくりと頷いた。
でも、足に力が入らない。
澪は、無言でひまりの腕を取った。
「あ……」
澪の力で、ひまりの体が持ち上がる。
「ほら、掴まって」
澪が、ひまりの手を自分の肩に回させた。
ひまりの体が、澪の体に寄りかかる。
澪の体温が、制服越しに伝わってくる。
(温かい)
(澪ちゃんの体、温かい)
冷たい指とは、違う。
澪の体は、ちゃんと温かかった。
「立てた?」
「う、うん……」
ひまりは、自分の足で立った。
でも、澪の肩に回した手は、離せなかった。
離したくなかった。
「ひまり」
澪が、ひまりの耳元で囁いた。
「おかしくなんかない」
ひまりの心臓が、跳ねた。
「おかしいのは、ずっと、私の方」
澪の声は、低く、静かだった。
でも、その声には、今までにない感情が込められていた。
(澪ちゃん、何を言ってるの?)
(おかしいのは、私の方?)
(どういう意味?)
ひまりは、澪の顔を見ようとした。
でも、澪はひまりの肩に手を回したまま、顔を見せなかった。
「……今日は、帰ろう」
澪は、それだけ言うと、ひまりから離れた。
ひまりの体から、澪の温かさが消えていく。
(行かないで)
(もっと、そばにいて)
心の中で、そう叫ぶ。
でも、声には出せなかった。
澪は、自分の荷物をまとめると、教室の入り口に向かった。
「ひまりも、早く帰りな。雨、強くなってる」
澪は、振り返らずに言った。
「……うん」
ひまりは、小さく返事をした。
澪は、教室を出て行った。
廊下に、澪の足音が遠ざかっていく。
ひまりは、一人、教室に残された。
さっきまで澪がいた場所を見つめる。
(おかしくなんかない)
澪の言葉が、耳の奥で繰り返される。
(おかしくないって、言ってくれた)
(でも、おかしいのは私の方って、どういうこと?)
澪の言葉の意味を、考えようとする。
でも、頭が働かない。
涙の跡が、頬に張り付いて、ひりひりする。
ひまりは、窓の外を見た。
雨は、ますます強くなっていた。
鈴ヶ丘の木々が、黒く濡れて揺れている。
校舎の外は、濃い霧に包まれていた。
(帰らなきゃ)
ひまりは、自分の荷物を手に取った。
でも、足が動かない。
さっき、澪が差し出した手。
あの手に、触れられなかった。
触れようとした瞬間に、扉の音がして、手を引っ込めてしまった。
(もし、あの音がなかったら)
(私は、澪ちゃんの手を握っていた)
(それで、どうなってた?)
(澪ちゃんは、私を抱きしめてくれた?)
(それとも、突き放した?)
わからない。
でも、一つだけ、確かなことがある。
(私は、澪ちゃんの手を握りたかった)
(今も、握りたい)
(触れたい)
(澪ちゃんに、触れたい)
ひまりは、自分の右手を見つめた。
さっきまで、澪の手が、あんなに近くにあった。
あと数センチで、触れられた。
(でも、触れられなかった)
(神様が、触れるなって言ってるのかな)
(おかしい私には、澪ちゃんに触れる資格がないって)
ひまりは、右手をぎゅっと握った。
涙が、また、こぼれた。
「……触れたかった」
声に出して、呟いた。
その言葉は、雨音に溶けて、誰にも聞こえなかった。
ひまりは、教室の電気を消した。
暗闇が、教室を包む。
窓の外から、街灯の光が、かすかに差し込んでいた。
ひまりは、暗い教室の中で、しばらく立ち尽くしていた。
雨音。
時計の音。
自分の呼吸。
それだけが、世界のすべてだった。
(私、どうなっちゃうんだろう)
(澪ちゃんに、全部、言っちゃった)
(おかしいって、泣いちゃった)
(もう、前みたいに、笑えないかもしれない)
(でも)
(澪ちゃんは、おかしくないって言った)
(おかしいのは、私の方って)
(あの言葉は、どういう意味なんだろう)
ひまりは、澪の言葉を、何度も心の中で繰り返した。
おかしくなんかない。
おかしいのは、ずっと、私の方。
その言葉の奥に、澪のどんな感情が隠されているのか。
ひまりには、まだ、わからなかった。
でも、わからないなりに、一つだけ、感じることがあった。
(澪ちゃんは、私を、拒絶しなかった)
(私が、おかしいって泣いても、気持ち悪いって言っても、澪ちゃんは逃げなかった)
(ずっと、そこにいてくれた)
(私の全部を、見ててくれた)
その事実が、ひまりの心の奥底で、小さな光になっていた。
まだ、かすかで、消えそうな光。
でも、確かに、そこにあった。
ひまりは、ゆっくりと教室を出た。
廊下は、しんと静まり返っていた。
雨の音だけが、校舎中に響いている。
ひまりは、昇降口へ向かった。
下駄箱で、靴を履き替える。
外に出ると、雨が容赦なく降り注いでいた。
傘を差す。
鈴ヶ丘の坂道を、一人で下りていく。
雨に濡れた桜並木が、暗いトンネルのように続いていた。
ひまりの足音だけが、雨音に混じって響く。
(明日、学校に来たら、澪ちゃんに何て言えばいいんだろう)
(普通に、おはようって、言えるかな)
(無理だ)
(昨日の今日で、普通になんて、できない)
ひまりは、傘の下で、小さく溜め息をついた。
スマホが、震えた。
すみれからだった。
『ひま、もう帰った?大丈夫?』
短いメッセージ。
でも、その言葉に、ひまりの胸は締め付けられた。
(すみれ)
(すみれは、いつも、私を心配してくれる)
(なのに、私は、すみれに何も言えない)
ひまりは、スマホを握りしめた。
返信を打とうとして、指が止まる。
何て返せばいい?
大丈夫。
それだけ打てばいい。
でも、大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
ひまりは、スマホの画面を、じっと見つめた。
雨が、画面に落ちて、文字を滲ませる。
ひまりは、結局、返信を打たずに、スマホをポケットにしまった。
そして、夜の坂道を、一人で下りていった。
雨は、降り続けていた。
白鈴学園の長い梅雨の夜を、冷たい雨音が、包み込んでいく。Noveliaとは?
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