生存者のための遺書
西暦2247年、人類は地上を失い、垂直都市ケージに押し込められた。支配者ホルダーと、人権を持たないリソース。その歪な構造の底で、少年カイトは「生きろ」と笑った少女の言葉だけを抱えて生きている。
年に一度のデスゲーム〈トケイバコ〉。本選の舞台はスナドケイ区——指輪を奪い合い、三点に満たなければ爆死する地獄の遊戯だ。カイトは地下組織クサビの密命を背負いながら、誰にも悟られず「所持ゼロ」を装う独自の戦法で人混みから姿を消そうとする。
だがそこで出会ったのは、自分と同じ戦法を選んだ、琥珀色の瞳を持つ少年だった。
名前も声も交わさぬまま、二人は確信する。
——また会う。そして、何かが動き出す。
生き延びることは罪なのか、それとも誰かへの誓いなのか。
壁の中に閉じ込められた人間たちの、絶望と希望が交錯する近未来サバイバル。
これは、死にゆく者たちが残す、生者への遺書である。
生存者のための遺書 - 所有宣告 ―― 沈黙の晩餐
風が、なかった。
タワー・オブ・ヴェルナーの最上階に近い回廊は、厚い壁と分厚い絨毯に覆われ、外の空気が一切入ってこない。カイトはその静けさの中を、案内役の使用人の後ろについて歩いていた。足音が、自分のものも、使用人のものも、ほとんど聞こえない。分厚い絨毯が、靴底の音を吸い込んでしまう。
(ここは、ゲームの会場よりも、ずっと息が詰まる)
カイトは、左眉の上の古い傷を、意識せずに指先でなぞっていた。スナドケイ区の廃墟で、あの監視ドローンの赤いレンズに追われていた時の方が、まだ呼吸が楽だった。あそこには風があった。鉄と血と埃の匂いがあった。だが、この塔には、何もない。ただ、清潔で、静かで、温度が一定に保たれた空気だけがある。
隣を歩くレンも、いつもの軽口を閉ざしていた。茶色の癖毛が、動かない空気の中で、ぴたりと張り付いている。そばかすのある頬は、青白い照明の下で、いつもよりずっと幼く見えた。琥珀色の瞳だけが、忙しなく動いている。柱の影、天井の隅、曲がり角の先。レンは、この屋敷の全てを観察していた。
カイトには、それがわかった。
(こいつも、同じことをしている)
二人は、スナドケイ区の屋上で、互いの嘘を守り合った。指輪を確定させず、脱落者として演出され、そして、気がつけば、この塔にいた。
――優勝者として。
――人権を得た者として。
だが、その言葉が何を意味するのか、カイトには、まだ、よくわかっていなかった。
案内役の使用人は、一言も喋らなかった。灰色の制服を着た、痩せた男だった。年齢は、三十代半ばに見える。だが、その目は、老人のように濁っていた。男の首元には、リソースであることを示す小さな刻印があった。カイトは、その刻印を、目だけで追った。
(元リソースだ)
(この屋敷の使用人は、みんな、そうなのかもしれない)
回廊の壁には、絵が掛かっていた。肖像画だ。何人もの男女が、豪華な衣装を身にまとい、こちらを見つめている。どの顔も、似たような表情をしていた。口元に薄い笑みを浮かべ、目は、どこか遠くを見ている。
「……なあ、あれ、歴代の優勝者だってよ」
レンが、小声で言った。
「ああ」
カイトは、短く答えた。
「みんな、いい服着てるじゃん。幸せそうな顔して」
レンの声は、軽かった。だが、その目は、笑っていなかった。
「……そう見えるだけだろ」
カイトは、肖像画から目を離した。
(幸せそうな顔をしているから、幸せなわけじゃない)
(それは、俺たちが、一番よく知ってる)
回廊の突き当たりに、大きな両開きの扉があった。黒い木でできた、重厚な扉。表面には、砂時計の模様が彫り込まれている。案内役の使用人が、音もなく扉を押し開けた。
光が、溢れ出した。
カイトは、一瞬、目を細めた。
そこは、晩餐の広間だった。
天井は、高かった。見上げると、首が痛くなるほどの高さ。そこから、無数の小さな灯りが吊り下げられている。蝋燭の火が、ゆらゆらと揺れ、壁一面の肖像画を、橙色に照らし出していた。肖像画の数は、回廊の比ではなかった。何十人もの男女が、この広間の壁を埋め尽くしている。
(これが、トケイバコの歴史か)
カイトは、壁を見回した。
(何十人もの優勝者が、この屋敷に来て、そして、どうなった?)
長いテーブルが、広間の中央に置かれていた。白いテーブルクロス。銀の燭台。磨き抜かれた食器。グラスの中の水が、蝋燭の光を反射して、きらきらと輝いている。
「……すげえ」
レンが、小さく呟いた。
「食い物、全部うまそう」
レンは、軽い口調でそう言ったが、その声には、かすかな緊張が混じっていた。
「……お前、腹減ってるのか」
カイトは、低く言った。
「減ってるに決まってるじゃん。何日、まともな飯食ってないと思ってんの」
レンは、肩をすくめた。
カイトは、答えなかった。
確かに、腹は減っていた。スナドケイ区では、まともな食事など、一度もなかった。配給の栄養ペーストと、雨水と、時々、奪い合いで手に入れた乾パン。それだけだ。だが、今、この豪奢な晩餐を前にして、食欲は、不思議と湧いてこなかった。
(食い物の匂いが、気持ち悪い)
カイトは、そう思った。
肉の焼ける匂い。香辛料の匂い。甘いソースの匂い。それらが混ざり合って、鼻の奥に張り付く。スナドケイ区の、あの血と鉄の匂いの方が、まだ、ずっと落ち着く。
「おかけください」
案内役の使用人が、初めて声を発した。
カイトとレンは、顔を見合わせた。
(ここに座れ、ということか)
カイトは、テーブルの端に置かれた椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。レンも、その隣に座る。椅子は、柔らかかった。体が、深く沈み込む。スナドケイ区の、あの硬いコンクリートの床とは、まるで違う。
(落ち着かない)
カイトは、背もたれに体重を預けるのをやめた。
使用人たちが、音もなく動き始めた。ワインを注ぎ、料理を運び、銀の食器を並べる。全員が、灰色の制服を着ていた。全員が、無表情だった。全員の首元に、リソースの刻印があった。
(この屋敷の使用人は、全員、元リソースか)
カイトは、目だけで、彼らを追った。
(そして、全員、記憶を消されてる)
(そうでなければ、こんな顔はできない)
使用人たちの目は、どこを見ているのかわからなかった。焦点が合っていない。人形のように、機械的に、給仕の動作を繰り返している。カイトは、その光景を、ただ黙って見つめた。
「……カイト」
レンが、テーブルの下で、カイトの膝を軽くつついた。
「……何だ」
カイトは、声を潜めて答えた。
「あれ、見ろよ。壁の肖像画。一番新しいやつ」
レンが、視線だけで、壁の一角を指した。
カイトは、目を動かした。
壁の一番端。他の肖像画よりも、少しだけ色が鮮やかな絵があった。若い男の肖像画だった。二十歳前後。黒い髪。鋭い目。口元は、笑っているようで、笑っていない。
「……知ってる顔か」
「たぶんな。三年前の優勝者だよ。ゲームの告知映像で見たことがある」
「三年前」
「ああ。名前は、たしか、オルド・ヴァイス。スナドケイ区で、二十人以上を殺して、生き残った男。優勝者として、この屋敷に来たはずだ」
レンの声が、少しだけ低くなった。
「……その男が、今、どこにいるか、知ってるか」
「知らない。だから、調べるんだろ」
レンは、カイトの目を見た。
「俺たちは、ここで、それを調べるんだ」
カイトは、何も言わなかった。
(そうだ。俺たちは、クサビの任務で、ここにいる)
(ゲームの規則の外側にある情報を、探るために)
だが、それは、口に出してはいけないことだった。レンも、カイトも、互いに、自分がクサビの構成員であることを、明かしていない。薄々、気づいている。だが、明言はしない。それが、二人の間の、暗黙の了解だった。
「……静かにしろ。来るぞ」
カイトは、視線を正面に戻した。
広間の奥の扉が、開いた。
音もなく。
一人の男が、入ってきた。
銀髪を後ろに流した長髪。冷たい薄い青の瞳。常に微笑んでいるような口元。左手には、大きな宝石の指輪。歩くときの足音が、ほとんどしない。
ヴェルナー・フォン・アルストレム公爵。
ケージ支配層の頂点に立つ五大貴族家の一つ、ヴェルナー公爵家の当主。トケイバコの主催者。ホルダー評議会の議長。そして、カイトとレンにとって、今や、この上なく近くにいる、最も危険な男。
「やあ、よく来てくれたね」
公爵の声は、穏やかだった。
「二人とも、疲れているだろう。今日は、堅苦しい話は抜きにしよう。ただ、食事を楽しんでほしい」
公爵は、テーブルの上座に、ゆっくりと腰を下ろした。
「私のことは、ヴェルナーと呼んでくれて構わないよ。ここでは、皆、そう呼んでいる」
カイトは、黙って、公爵を見た。
(この男は、笑っている)
(だが、目が、笑っていない)
公爵の薄い青の瞳は、氷のように冷たかった。その視線が、カイトとレンを、交互に、じっくりと観察している。値踏みするような目。商品を検分するような目。
「……どうぞ、遠慮なく」
公爵が、手を軽く挙げた。
使用人たちが、一斉に動き出した。前菜の皿が、カイトとレンの前に置かれる。色とりどりの野菜と、薄切りの肉。ソースが、芸術的な模様を描いている。
「……いただきます」
レンが、軽い口調で言って、フォークを手に取った。
カイトは、レンの横顔を、一瞬だけ見た。
(こいつは、こういう場でも、いつも通りに振る舞える)
(それが、こいつの武器だ)
カイトも、フォークを手に取った。料理を、一口、口に運ぶ。
(うまい)
(だが、味が、しない)
カイトは、ゆっくりと咀嚼しながら、公爵の言葉を待った。
公爵は、ワイングラスを手に取り、中身を、くるくると回した。
「君たちは、スナドケイ区で、実に見事な戦いを見せてくれた」
公爵が、静かに言った。
「脱落者として処理されたはずの二人が、実は、生きていた。あの指輪の抜け穴を、あそこまで綺麗に使うとはね。正直、私も、あれには驚かされたよ」
カイトの手が、一瞬、止まった。
(知っている)
(この男は、全部、知っている)
「……まあ、君たちが、どうやってあの状況を切り抜けたのか、細かいことは、今は問わない。ただ、一つだけ、言っておきたいことがある」
公爵は、ワインを一口、含んだ。
「君たちは、私のものだ」
広間が、静まり返った。
蝋燭の火が、揺れる。
カイトは、フォークを置いた。
(……今、この男は、何と言った?)
「人権を得た、という言葉を、君たちは、どう受け止めているのかな」
公爵は、微笑みながら、続けた。
「人権とは、何だと思う? 自由に生きる権利? 自分の意思で、物事を決める権利? ……残念ながら、このケージにおいて、リソース出身者に与えられる人権とは、そういうものではないんだよ」
公爵は、グラスを、テーブルに置いた。
「君たちに与えられたのは、所有される権利だ。誰かの所有物として、生きることを許される権利。そして、その所有者は、私だ」
カイトは、呼吸を、ゆっくりと整えた。
(人権とは、所有される権利のことだったのか)
(そうか)
(そういうことか)
胸の奥で、何かが、冷たく固まっていくのがわかった。怒りでも、悲しみでもない。ただ、諦めに似た、重い感覚。
(俺は、また、物に戻っただけだ)
(ソダテヤにいた時と、何も変わらない)
(いや、違う。所有者が、施設から、この男に変わっただけだ)
カイトは、顔を上げた。
無表情だった。
恐怖も、怒りも、何も、顔に出さない。それが、ソダテヤで覚えた、最初の技術だった。
「……そうか」
カイトは、短く言った。
公爵の目が、カイトに、じっと向けられた。
「君は、驚かないんだね」
「驚いても、何も変わらないだろ」
カイトは、静かに答えた。
公爵は、少しだけ、目を細めた。
「……実に興味深い」
公爵の口元が、ゆっくりと、弧を描いた。
「そうだ。その通りだ。驚いても、何も変わらない。君は、よくわかっている」
公爵は、隣に立つ使用人に、目配せをした。
使用人が、カイトとレンのグラスに、ワインを注ぐ。
カイトは、その使用人の手元を見た。
(この手は、震えていない)
(この屋敷の使用人は、みんな、そうだ)
(感情を、消されてる)
「……で、俺たちは、これから、どうすればいいわけ?」
レンが、軽い口調で、公爵に尋ねた。
「君たちは、私の客人として、この屋敷に滞在する。部屋は、用意してある。食事も、衣服も、必要なものは、全て与えよう」
「へえ。豪華じゃん」
「ただし、屋敷の外には、出られない。君たちは、私の所有物だからね。所有物が、勝手に外を出歩くことは、許されない」
公爵の声は、あくまでも穏やかだった。
「……監視は、いるの?」
「無論だ。君たちの行動は、全て、私の目に入る。だが、心配しなくていい。君たちが、私の期待を裏切らなければ、快適に過ごせるように、手配してある」
公爵は、カイトを見た。
「君たちには、近いうちに、面白い仕事を頼むつもりだ。今日は、その顔合わせだと思ってくれればいい」
「……仕事」
カイトは、低く繰り返した。
「ああ。君たちの能力を、存分に活かせる仕事だよ。楽しみにしていてくれ」
公爵は、それ以上、何も言わなかった。
食事が、進んだ。
カイトは、料理を、ただ黙って口に運び続けた。味は、やはり、しなかった。
レンも、黙っていた。
いつもの軽口は、なかった。
広間に、食器の触れ合う音だけが、かすかに響いていた。
――
しばらくして、使用人の一人が、カイトの隣に来て、ワインを注いだ。
カイトは、何気なく、その手元を見た。
そして、気づいた。
(この手は、震えている)
使用人の手が、微かに、震えていた。
カイトは、ゆっくりと、顔を上げた。
黒い長髪を後ろで一つに束ねた、若い女だった。切れ長の黒い瞳。無表情な顔。右耳の後ろに、小さな痣。
サラ・ノックス。
トケイバコの運営補助。リソース管理局所属。そして、反抗組織クサビの連絡係。
カイトは、息を止めた。
(サラが、ここに)
(使用人として、この屋敷に)
サラは、カイトと目を合わせなかった。機械的に、ワインを注ぎ、一礼し、音もなく、下がっていく。
「……おい、今の」
レンが、テーブルの下で、カイトの足を軽く蹴った。
「ああ。見た」
カイトは、声を潜めて答えた。
「サラだよな。あれ、絶対、サラだよな」
「……ああ」
「何で、あいつが、ここに」
「知るか」
カイトは、グラスに注がれたワインを、じっと見つめた。
(サラの手は、震えていた)
(あの女は、ゲームの規則説明の時、あれだけの人数の前で、一度も声を震わせなかった)
(なのに、今、ワインを注ぐ手が、震えていた)
(……何かが、ある)
カイトは、サラが下がっていった方向を、目だけで追った。
サラは、広間の壁際に立ち、他の使用人たちと同じように、無表情で、正面を見つめていた。
「……面白い」
公爵の声が、突然、聞こえた。
カイトは、公爵を見た。
公爵は、サラの方を見ていた。
「あの娘は、有能な道具だ。リソース管理局から、一時的に借り受けている。ゲームの運営実務に、長けているからね。この屋敷でも、重宝しているよ」
「……道具」
カイトは、低く繰り返した。
「ああ。道具だ。リソースは、皆、そうだろう? 物として生まれ、物として使われ、物として処分される。あの娘も、その一人だ。だが、あの娘は、物の中では、比較的、使える方だよ」
公爵は、微笑んだ。
「君たちも、あの娘を見習うといい。自分の価値を、正しく理解すること。それが、このケージで生き延びる、唯一の方法だ」
カイトは、何も言わなかった。
ただ、サラの方を、もう一度だけ見た。
サラは、微動だにしなかった。
だが、カイトには、わかった。
(あいつは、今、この男の言葉を、必死に耐えている)
(手を、握りしめている)
(爪が、掌に食い込むくらい、強く)
カイトは、自分の手のひらを見た。
(……俺も、同じだ)
――
晩餐は、終わった。
カイトとレンは、別々の使用人に案内され、それぞれの部屋へと向かった。
「……また、明日な」
別れ際、レンが、小声で言った。
「ああ」
カイトは、短く答えた。
レンは、笑顔を作った。
「じゃ、おやすみ」
レンは、使用人と共に、廊下の左へ。カイトは、右へ。
カイトの案内役は、無言のまま、先を歩いていた。
廊下は、長かった。
壁には、等間隔で、絵画が掛けられている。風景画。静物画。そして、時々、肖像画。
カイトは、足を止めた。
(……あれは)
廊下の曲がり角。
一人の使用人が、雑巾を手に、床を拭いていた。
若い男だった。
痩せていた。頬がこけ、目の下に、深い隈があった。灰色の制服は、他の使用人たちと同じもの。首元には、リソースの刻印。
カイトは、その男の顔を、見た。
(……知っている)
(こいつは、スナドケイ区で、脱落したはずの参加者だ)
(北区画の罠で、三人組に囲まれて、頭を砕かれたはずの男だ)
男は、ゆっくりと、顔を上げた。
虚ろな目が、カイトを捉えた。
男の唇が、微かに動いた。
だが、声は、出なかった。
男は、すぐに、視線を床に戻し、雑巾を動かし始めた。
カイトは、その場に、立ち尽くした。
(生きている)
(脱落したはずの参加者が、生きている)
(そして、記憶を消されて、この屋敷で、使用人として働かされている)
カイトの胸の奥で、何かが、ざわざわと騒ぎ始めた。
「……お客様」
案内役の使用人が、カイトを振り返った。
「どうかなさいましたか」
「……いや。何でもない」
カイトは、足を動かした。
(レンに、伝えるべきか)
(伝えれば、レンは、動揺するかもしれない)
(動揺すれば、任務に支障が出る)
(だが、伝えなければ、俺だけが、この秘密を抱えることになる)
カイトは、廊下を歩きながら、考え続けた。
(いや、待て)
(レンは、動揺しない)
(あいつは、俺よりも、ずっと、冷えている)
(あいつは、この事実を知っても、笑顔で、軽口を叩くだろう)
(……だが、それでも、伝えるべきじゃない)
(今は、まだ)
カイトは、自分の部屋の前で、足を止めた。
「こちらが、お客様のお部屋です」
使用人が、扉を開けた。
「何かございましたら、壁の呼び鈴をお使いください」
「……ああ」
カイトは、部屋に入った。
扉が、音もなく、閉じられた。
部屋は、広かった。
大きなベッド。柔らかな絨毯。窓には、厚いカーテン。天井からは、柔らかな光。
カイトは、部屋の中央に、立ったまま、動かなかった。
(レンに、伝えるか)
(伝えないか)
カイトは、目を閉じた。
(……伝えない)
(今は、まだ)
カイトは、そう決めた。
そして、窓に近づき、カーテンを、少しだけ開けた。
外は、暗かった。
ケージの上層部。ここからは、中層や下層の明かりが、遠く、小さく、瞬いているのが見える。
(あの光の中に、ソダテヤがある)
(あの光の中に、スナドケイ区がある)
(あの光の中に、俺たちが、殺してきた、たくさんの人間がいる)
カイトは、カーテンを閉じた。
部屋の中は、静かだった。
空気が、動かない。
音が、しない。
カイトは、ベッドに、腰を下ろした。
(疲れた)
(だが、眠れない)
カイトは、左眉の上の傷を、指先でなぞった。
(あの男の顔が、頭から離れない)
(脱落したはずの男の、虚ろな目が)
(俺たちが生き残ったから、あいつは、ああなったのか?)
(それとも、最初から、そうなる運命だったのか?)
カイトは、答えを出せないまま、ただ、暗い天井を見つめていた。
――
翌朝。
カイトは、使用人に起こされた。
「お客様。公爵様が、執務室にお呼びです」
「……わかった」
カイトは、身支度を整え、案内されるままに、屋敷の上層へと向かった。
途中、レンと合流した。
「……おはよう」
レンは、いつもの笑顔だった。
「ああ」
カイトは、短く返した。
(こいつは、昨夜のことを、もう、なかったことにしてる)
(いや、違う)
(なかったことにしてるんじゃない。なかったことにできるんだ)
(それが、こいつの強さだ)
執務室は、塔の最上階にあった。
扉を開けると、そこは、広大な部屋だった。
一面の窓。そこから、ケージの上層部が、一望できる。
公爵は、窓際に立っていた。
銀髪が、朝の光を受けて、白く輝いている。
「よく眠れたかな」
公爵は、振り返らずに言った。
「……それなりに」
レンが、軽く答えた。
「それは良かった」
公爵は、ゆっくりと、振り返った。
薄い青の瞳が、二人を捉える。
「早速だが、本題に入ろう」
公爵は、窓の外を見た。
「私は、退屈している」
カイトは、黙って、公爵の背中を見た。
「トケイバコは、今年も、盛況のうちに終わった。観客は満足した。賭けの売り上げも、過去最高だった。だが、私個人としては、少し、物足りなかった」
公爵は、窓に手を触れた。
「君たちのあの逆転劇は、確かに面白かった。だが、あれは、ゲームの規則の外側で起きたことだ。私は、ゲームの内側で、もっと、面白いものを見たい」
公爵は、振り返った。
「そこで、次の余興を、考えた」
公爵の口元が、笑みの形を作った。
「脱落者同士を、戦わせる」
広い部屋に、公爵の声が、静かに響いた。
「ゲームで脱落した者たちは、まだ、生きている。この屋敷の地下に、保管してある。彼らに、もう一度、戦ってもらうんだ。今度は、観客の前で、もっと、直接的に。もっと、残酷に」
カイトは、呼吸を止めた。
(脱落者たちは、生きている)
(この屋敷の地下に、保管されている)
(昨夜、廊下で見たあの男も、その一人だ)
「そして、その催しの運営側に、君たちに立ってもらう」
公爵は、カイトとレンを、交互に見た。
「君たちは、優勝者だ。脱落者たちにとって、君たちは、憎しみの対象だ。そんな君たちが、彼らの戦いを、運営する。面白いだろう? 彼らの絶望と、君たちの居心地の悪さ。その両方を、観客は楽しむ」
「……断ったら?」
カイトは、低く言った。
公爵は、微笑んだ。
「断れば、人権は消える」
公爵の声は、あくまでも穏やかだった。
「君たちは、また、リソースに戻る。いや、リソース以下だ。ゲームの脱落者として、あの地下に、逆さに吊るされることになるだろう」
公爵は、一歩、カイトに近づいた。
「それでも、断るかね?」
カイトは、黙っていた。
(断れるわけがない)
(断れば、俺も、レンも、死ぬ)
(いや、死ぬだけなら、まだマシだ)
(この男は、俺たちを、生かしたまま、もっと酷い目に遭わせる)
「……やります」
レンが、突然、明るい声で言った。
カイトは、レンを見た。
レンは、笑顔だった。
「運営側、やります。面白そうじゃないですか。脱落者同士の戦いを、間近で見られるなんて」
レンの声は、軽かった。
だが、カイトには、わかった。
(こいつは、今、嘘をついている)
(自分の本心を、必死に隠している)
公爵の目が、レンに向けられた。
「……君は、話が早いな」
「ええ。俺、そういうの、得意なんです」
レンは、笑顔のまま、答えた。
公爵は、満足そうに、頷いた。
「素晴らしい。では、決まりだ。詳細は、追って伝える。今日は、下がっていい」
カイトとレンは、一礼し、執務室を出た。
廊下に出た瞬間、カイトは、大きく息を吐いた。
(……最悪だ)
(脱落者たちは、生きていた)
(そして、俺たちは、その脱落者たちを、戦わせる側に回される)
二人は、無言で、廊下を歩いた。
しばらくして、レンが、口を開いた。
「……カイト」
レンの声は、低かった。
「……何だ」
「あんた、昨夜、何か見たろ」
カイトは、足を止めた。
「……何の話だ」
「廊下で、脱落したはずの参加者を見た。そうだろ」
レンの声は、静かだった。
カイトは、レンを見た。
レンの琥珀色の瞳は、まっすぐに、カイトを捉えていた。
「……ああ」
カイトは、短く認めた。
「そうか。俺もだ」
レンは、薄く笑った。
「俺も、昨夜、廊下で、見た。スナドケイ区で、死んだはずの女を。あいつ、俺の顔を見て、笑ったんだよ。何も言わずに、ただ、笑ってた」
レンの笑みが、深くなった。
「……あんた、俺に、そのことを、言わなかったな」
「……お前もだろ」
「そう。俺も、言わなかった」
二人は、黙って、見つめ合った。
「……なあ、カイト」
レンが、静かに言った。
「あんたと俺、同じことを考えてるなら、今は、黙ってた方がいい」
カイトは、何も言わなかった。
「今、言葉にしたら、たぶん、もう、後戻りできなくなる。だから、今は、黙ってよう。俺たちは、まだ、何も知らない。何も決めてない。……そういうことに、しておこう」
レンの声は、低く、静かだった。
カイトは、レンの目を見た。
(こいつは、俺と同じだ)
(俺と同じことを考えて、俺と同じように、それを隠している)
(そして、俺と同じように、言葉にすることを、恐れている)
カイトは、無言で、頷いた。
「……ああ」
レンは、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「じゃ、行こう。部屋に戻ろう」
二人は、また、歩き始めた。
廊下は、静かだった。
空気は、動かなかった。
足音は、絨毯に吸い込まれて、聞こえなかった。
(俺たちは、今、共犯になった)
(互いの嘘を、守り合うための、沈黙の共犯に)
カイトは、そう思った。
(だが、この沈黙は、いつまで続く?)
(いつか、必ず、破れる)
(その時、俺たちは、どうなる?)
カイトは、答えを出せないまま、自分の部屋へと向かった。
部屋の窓から、ケージの上層部が見えた。
朝の光が、白い壁に反射して、眩しかった。
カイトは、カーテンを閉めた。
部屋は、暗くなった。
静かだった。
何も聞こえなかった。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。