六花の勇者 外伝 ~凶魔統率者テグネウの愛と絶望~
六花の勇者たちの敵、凶魔統率者テグネウ。その知られざる過去が、今明かされる――。
ヨルムンガルド山脈の奥深く、無名の洞窟に潜むテグネウは、黒蜥蜴の群れを人間領へと放っていた。三百十二年もの生涯、誰にも触れられず、異端と罵られ、同族からさえ距離を置かれてきた男。彼の胸に去来するのは、冷たい孤独と、決して満たされない渇望。
そんな折、黒蜥蜴の目を通して見たのは、小さな村で薪を運ぶ少年と少女の姿だった。無造作に伸びた茶色の髪の少年アドレットと、その姉シェトラ。髪を撫で、抱きつき、笑い合う二人の、何気ない、しかし疑いようのない愛情の光景。
その光景が、テグネウの胸の奥で何かを焼き焦がした。嫉妬。三百十二年、決して与えられたことのない温もりへの、制御不能な激情。
「火を放て」
冷徹な策士の仮面の下で、彼は苦渋の決断を下す。この村を焼き、姉を奪い、少年を凶魔への復讐者へと仕立て上げる――。それは、六花の勇者に匹敵する最強の駒を作るための、計算し尽くされた計画のはずだった。
だが、燃え盛る納屋の前で立ち尽くす少年を見つめながら、テグネウの頬を伝ったのは、自分でも意味のわからない涙だった。
六花の勇者 外伝 ~凶魔統率者テグネウの愛と絶望~ - 泉のほとりの呟き——偽りの愛に走る最初の亀裂
洞窟の中は、血の匂いがまだ残っていた。
ヨルムンガルド山脈の南麓、人間の地図からは存在ごと消された無名の洞窟。その奥深く、光の届かない暗がりで、テグネウは冷たい岩壁に背を預けていた。肩の上では、一匹の黒い蜥蜴が身じろぎもせず、主の気配に寄り添っている。
愛を操る力を発動してから、およそ二週間が過ぎていた。
洞窟の床には、剥がれ落ちた漆黒の鱗が散らばったままだ。あの三日三晩の血反吐の記憶は、まだ体の奥に残っている。指先に触れる岩の冷たさが、自分の体温の低さを思い出させる。
だが、それも終わったことだ。
テグネウはゆっくりと息を吐き、目を閉じた。意識を、遥か南の大地へと飛ばす。
黒蜥蜴の群れが、今日も人間たちの領土を這い回っている。草むらを抜け、街道沿いの木々を伝い、野営地の岩陰に潜む。無数の目が、あの二人の姿を捉え続けていた。
アドレット・マイア。
フレミー・スピッドロウ。
テグネウの計画の中心にいる、二人の勇者。
黒蜥蜴の一体が、野営地のすぐ近くまで這い寄っている。茂みの隙間から、焚き火の光が漏れていた。秋の夜気が、火の熱をゆっくりと奪っていく。
アドレットが、焚き火のそばに座っていた。
明るい茶色の髪は、この二週間でさらに伸びている。前髪が目のあたりで跳ね、左手首には焦げた布。姉の形見。あの夜から、少年は一度もその布を外していない。
隣には、フレミーがいた。
雪のように白い長髪が、夜風にそっと揺れる。右目が桃色、左目が青のオッドアイ。焚き火の光を受けて、その瞳がきらきらと輝いている。
二人の距離は、肩が触れ合いそうなほど近かった。
「ほら、これ。食えよ」
アドレットが、焚き火で炙った魚をフレミーに差し出した。自分の分よりも、明らかに大きい方を。
「……あんた、それで足りるの」
フレミーは、差し出された魚をじっと見つめた。素っ気ない口調だったが、その声にはわずかな柔らかさが混じっている。
「俺は地上最強の男だからな。これくらいで十分だぜ」
アドレットは笑った。快活な、明るい笑顔。テグネウが設計した通りの、誰にでも好かれる仮面。
フレミーは、少しだけ口元を緩めた。
「……別に、あんたのためじゃないわ」
そう言いながらも、彼女は魚を受け取った。
テグネウは、黒蜥蜴の目を通して、その光景をじっと観察していた。
(機能している)
偽りの愛が、確かに機能している。フレミーはアドレットの隣で、自然な笑みを浮かべていた。アドレットもまた、彼女を気遣う素振りを見せている。
食事の後、アドレットが左肩の傷を気にする素振りを見せた。数日前、凶魔との戦いで負った傷。深くはないが、まだ完全には塞がっていない。
フレミーが、その肩に手を当てた。
「動かないで」
彼女の指先が、アドレットの肩に触れる。
「傷、開いてる。ちゃんと手当てしないと」
「へへ……わりいな。お前にばっかり世話になっちまって」
アドレットが、照れくさそうに後頭部を掻いた。
「別に。あんたのためじゃないわ」
フレミーは、また同じ言葉を繰り返した。だが、その声は、明らかに柔らかかった。
テグネウは、洞窟の闇の中で、ゆっくりと口元を歪めた。
(計画通りだ)
愛を操る力。対象の感情に干渉し、特定の人物への愛情を人工的に植え付ける。テグネウにしかできない、繊細で、危険な力。
その力が、確かに二人を縛り付けている。
フレミーの視線が、時折アドレットの横顔に向けられる。桃色と青の瞳が、焚き火の光を反射して揺れる。
だが。
テグネウは、眉をひそめた。
フレミーが、アドレットの言葉に反応する時、ほんの一瞬だけ遅れることがある。目を合わせた後、すぐに逸らしてしまうことがある。
(何だ、この間は)
偽りの愛が完璧に機能しているのなら、こんな不自然な間は生まれないはずだ。
テグネウは、黒蜥蜴の一体を、二人の野営地近くの岩陰に潜ませた。
さらに詳細な観察を続ける。
三統率者の契約。六花の勇者を最も多く倒した者に、他の二体が従う。カーグイックもドズーも、すでに勇者狩りを始めている。
テグネウは、この策が成功すれば、アドレットを勇者狩りの駒として完成させられると計算していた。
愛を操る力で、フレミーをアドレットに縛り付ける。
そして、アドレットの復讐心を利用して、勇者たちを一人ずつ始末させる。
完璧な計画のはずだった。
なのに。
テグネウの胸の奥で、ちりちりと音を立てて燃えるものがある。
それが何なのか、テグネウにはまだ、名前をつけられなかった。
———
夜が、更けていく。
野営地の焚き火が、静かに燃えている。
アドレットは、焚き火のそばで横になっていた。寝息が聞こえる。今日も一日、よく歩き、よく戦った。疲れているはずだ。
フレミーは、まだ起きていた。
彼女は、アドレットの寝顔を、しばらく見つめていた。
焚き火の光が、彼女の白い髪を橙色に染める。右目が桃色、左目が青の瞳が、揺れる炎を映し込んでいた。
やがて、フレミーは静かに立ち上がった。
音を立てないように、慎重に。
彼女は、野営地を離れ、森の中へと歩いていく。
黒蜥蜴の一体が、その後を追った。
テグネウは、洞窟の闇の中で、ゆっくりと目を開いた。
(どこへ行く)
フレミーは、森の奥へと進んでいく。月明かりが、木々の隙間から差し込み、彼女の白い髪を銀色に照らしていた。
しばらく歩くと、小さな泉に辿り着いた。
森の中の、静かな泉。
水面が、月明かりを反射して、銀色に輝いている。
フレミーは、泉のほとりに座った。
膝を抱え、星空を見上げる。
黒蜥蜴は、泉のそばの茂みに潜み、息を潜めた。
テグネウは、黒蜥蜴の目を通して、フレミーの姿を見つめていた。
彼女は、誰にともなく、ぽつりと呟いた。
「……私、嫌いなの」
その声は、夜の空気に溶けるように、静かに響いた。
「あの人、優しすぎて」
テグネウの意識が、ぴたりと止まった。
(……何だ、それは)
偽りの愛が機能しているはずなのに。
なぜ、フレミーは「嫌い」と言うのか。
テグネウは、黒蜥蜴をさらに近づけさせた。茂みの奥から、フレミーの横顔を観察する。
彼女は、星空を見上げたまま、続けた。
「優しくされると、思い出すから」
声が、震えていた。
「私が奪ったものを」
テグネウは、その言葉を、何度も頭の中で反芻した。
私が奪ったもの。
フレミー・スピッドロウが奪ったもの。
アドレット・マイアの姉、シェトラの命。
(あの少女は……告白しかけているのか)
フレミーは、アドレットに、自分が姉を殺めたことを告げようとしている。
偽りの愛に縛られながら、その罪悪感に押し潰されそうになっている。
テグネウの胸に、冷たい焦りが走った。
(このままでは、策が崩れる)
フレミーが真実を告げれば、アドレットの感情はどうなる。
偽りの愛は、真実の前では脆い。
アドレットの復讐心が、フレミーに向けられる。
そうなれば、テグネウの計画は根底から崩れ去る。
テグネウは、黒蜥蜴に命じた。
フレミーの口を封じろ、と。
黒蜥蜴が、茂みから這い出した。
泉のほとりの岩の上を、ゆっくりと進む。
フレミーの足元に近づいていく。
フレミーは、気配を感じたのか、視線を落とした。
黒蜥蜴が、彼女の足元で止まった。
小さな目が、フレミーを見上げる。
その瞳の奥に、テグネウの意識が宿っていた。
「フレミー」
黒蜥蜴の口から、テグネウの声が漏れた。
人間の耳には聞こえない、凶魔の血を引く者にだけ届く、意識の波。
フレミーの体が、びくりと強張った。
「お前は、何をしようとしている」
テグネウの声は、冷たく、静かだった。
「あの少年に、真実を告げるつもりか」
フレミーは、答えなかった。
唇を噛みしめ、黒蜥蜴を見下ろしている。
「お前の役目は、アドレットの信頼を得て、勇者候補たちの情報を引き出すことだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……わかってる」
フレミーの声は、かすれていた。
「ならば、余計なことを考えるな。お前は道具だ」
黒蜥蜴が、フレミーの足に、するりと触れた。
冷たい鱗の感触。
フレミーは、身を震わせた。
「道具に、心は必要ない」
テグネウの言葉が、夜の空気を切り裂く。
フレミーは、しばらく黙っていた。
そして、黒蜥蜴を見下ろしたまま、小さく呟いた。
「……わかってる。でも」
彼女の声が、微かに揺れた。
「もう少しだけ」
テグネウは、耳を疑った。
(……何だと)
フレミーが、命令に対して、曖昧な抵抗を示した。
今まで、一度もなかったことだ。
テグネウの命令は、常に絶対だった。
フレミー・スピッドロウは、テグネウの道具だった。
道具が、逆らうなど。
「フレミー」
テグネウの声が、低くなる。
「お前は、私に逆らうのか」
フレミーは、答えなかった。
ただ、黒蜥蜴を見下ろしたまま、唇を噛みしめている。
月明かりが、彼女の白い髪を照らしていた。
右目が桃色、左目が青の瞳が、銀色の水面を映し込んでいる。
「……もう少しだけ、あの人の隣に」
その声は、祈るように、静かだった。
テグネウは、黒蜥蜴を引き上げさせた。
洞窟の奥で、テグネウはゆっくりと息を吐いた。
胸の奥で、焦燥が、ちりちりと音を立てて燃えている。
(フレミー・スピッドロウが、私の命令に逆らった)
テグネウは、その事実を、頭の中で何度も反芻した。
(愛を操る力は、完璧なはずだ)
(なのに、なぜ)
答えは、出なかった。
———
同じ頃。
野営地では、アドレットが目を覚ましていた。
焚き火の火が、弱くなっている。
アドレットは、体を起こし、周囲を見回した。
フレミーの姿がない。
「……フレミー?」
声をかけてみたが、返事はない。
アドレットは、立ち上がり、焚き火に薪をくべた。
火が、再び勢いよく燃え上がる。
パチパチと、木が爆ぜる音。
アドレットは、焚き火の前に座り直した。
フレミーのことを考えていた。
(フレミーと話すと、胸が温かくなる)
彼女の声を聞くと、安心する。
彼女の笑顔を見ると、嬉しくなる。
彼女の隣にいると、落ち着く。
(これが、恋ってやつなのか)
アドレットは、自分の胸に手を当てた。
ドクドクと、心臓が脈打っている。
(でも、待てよ)
アドレットは、焚き火の火を、じっと見つめた。
(この気持ちは、本当に俺のものなのか?)
ふと、そんな疑問が、心の奥底から湧き上がってきた。
(俺の中から、自然に湧き上がったものなのか?)
(それとも……何か外から、押し込まれたものなのか?)
アドレットは、左手首に巻かれた姉の形見の布を、ぎゅっと握りしめた。
「……俺は、地上最強の男だからな」
不安を誤魔化すように、彼は小さく呟いた。
だが、その言葉も、いつものようには機能しなかった。
胸の奥に、説明のつかない違和感が、もやもやと広がっていく。
(なんだ、これ)
アドレットは、焚き火の火を見つめながら、自分でも説明のつかない違和感を抱えていた。
———
洞窟の奥。
テグネウは、黒蜥蜴の目を通して、アドレットの様子を観察していた。
焚き火の前で、一人考え込む少年。
その表情は、テグネウが設計した快活な仮面とは、どこか違っていた。
(あの少年が……自分の感情に、疑問を抱いている?)
テグネウは、ゆっくりと息を吐いた。
(私の策に、最初の亀裂が走った、というのか)
胸の奥で、焦燥が、ちりちりと音を立てて燃えている。
それが何に対する感情なのか、テグネウには、まだわからなかった。
———
フレミーが、野営地に戻ってきた。
足音を忍ばせて、静かに。
「……どこ行ってたんだ」
アドレットが、焚き火のそばから声をかけた。
フレミーは、少しだけ驚いたように、足を止めた。
「別に。散歩よ」
彼女は、素っ気なく答えた。
だが、その声は、どこか硬かった。
アドレットは、フレミーの顔を、じっと見つめた。
焚き火の光が、彼女の白い髪を橙色に染める。右目が桃色、左目が青の瞳が、揺れる炎を映し込んでいた。
「……なに」
フレミーが、居心地悪そうに視線を逸らした。
アドレットは、自分の胸の奥で、何かがざわつくのを感じていた。
フレミーと話すと、胸が温かくなる。
それは、確かだ。
でも、その温かさは、本当に自分のものなのか。
「フレミー」
アドレットは、意を決して、口を開いた。
「俺、お前のこと好きなのかもしれねえ」
フレミーの体が、びくりと強張った。
「でも」
アドレットは、焚き火の火を見つめたまま、続けた。
「それが本当なのか、わからねえんだ」
フレミーは、何も言わなかった。
焚き火の火が、パチパチと音を立てて燃えている。
「俺の中から、自然に湧いてきた気持ちなのか。それとも、何か別のものなのか」
アドレットの声は、迷子の子供のように、心細げだった。
「自分でも、わからねえんだ。こんなの、初めてで」
フレミーは、唇を噛みしめた。
彼女の指先が、微かに震えている。
「……あんた」
フレミーの声が、かすれた。
「優しすぎるのよ」
彼女は、焚き火の火を見つめたまま、続けた。
「だから……嫌い」
その声は、震えていた。
アドレットは、フレミーの顔を見た。
彼女の右目が、桃色に、淡く光っている。
感情が高ぶると、桃色の方が淡く光る。
アドレットは、そのことを、知っていた。
「フレミー……」
アドレットが、手を伸ばそうとした。
だが、フレミーは、その手を避けるように、一歩後ずさった。
「近づかないで」
彼女の声が、鋭くなる。
「お願い。今は」
フレミーは、そう言い残すと、焚き火の場から逃げ出すように、森の中へと走り去った。
「フレミー!」
アドレットの声が、夜の森に響く。
だが、フレミーは振り返らなかった。
白い髪が、月明かりの中に、消えていく。
アドレットは、その背中を見送りながら、立ち尽くしていた。
(俺の言葉が、彼女を傷つけたのか)
アドレットの胸に、鋭い痛みが走った。
(それとも、彼女の「嫌い」には、別の意味があるのか)
アドレットは、フレミーが消えていった森の闇を、じっと見つめていた。
———
洞窟の奥。
テグネウは、黒蜥蜴を介して、フレミーからの声を受け取っていた。
「アドレットに想いを告げられた」
その声は、震えていた。
「どうすればいい。私、わからない」
テグネウは、洞窟の岩壁に、爪を突き立てた。
ギリギリと、岩が削れる音。
(あの少年が、フレミーに想いを告げた)
(しかも、それが本当なのかわからない、と)
テグネウの胸の奥で、何かが、音を立てて燃え上がった。
嫉妬。
焦燥。
そして、説明のつかない、激しい痛み。
テグネウは、洞窟の岩壁を、何度も、何度も、爪で引っ掻いた。
バリバリと、岩が砕ける音。
肩の上の黒蜥蜴が、驚いたように身を縮めた。
(なぜだ)
テグネウは、心の中で叫んでいた。
(なぜ、あの少年は、迷いながらも、前に進めるのだ)
(なぜ、あの少年は、偽りの愛を、本物に変えようとしているのだ)
テグネウの脳裏に、過去の記憶が、フラッシュバックした。
———
三百十二年前。
テグネウが、この世に生まれた日。
漆黒の鱗。
生まれた瞬間から、テグネウの体は、他の凶魔たちとは違っていた。
黒い鱗は、凶魔たちの間で、忌み嫌われる色だった。
「異端」
「穢れ」
「触れるな」
同族の凶魔たちは、テグネウを見ると、そう言って距離を置いた。
誰も、テグネウに触れようとしなかった。
誰も、テグネウを抱きしめようとしなかった。
テグネウは、生まれてからずっと、一人だった。
———
洞窟の闇の中で、テグネウは、岩壁に爪を突き立てたまま、動けなくなっていた。
(誰かに愛されたい)
その願いは、三百十二年間、一度も叶ったことがない。
(誰かを愛したい)
その方法も、三百十二年間、一度もわからなかった。
テグネウは、愛を操る力で、他者の感情を偽造することはできる。
だが、自分の愛を本物にすることはできない。
その事実が、テグネウの心を、内側から焼き焦がす。
「……愛とは、かくも理不尽なものだ」
テグネウの声は、洞窟の岩壁に、虚ろに響いた。
「お前たちは、なぜ那么容易く愛し合える?」
答えは、なかった。
あるはずもなかった。
テグネウは、フレミーに命じた。
「アドレットから離れろ」
黒蜥蜴を通じて、その命令は、森の中のフレミーに届いた。
「お前は道具だ。道具が、愛など語るな」
フレミーからの返事は、なかった。
しばらくの沈黙。
そして、黒蜥蜴を介して、小さな声が届いた。
「……いやよ」
テグネウは、耳を疑った。
(……何だと)
「私は、あんたの道具じゃない」
フレミーの声は、震えていた。
だが、確かに、テグネウの命令を拒否していた。
「少なくとも、彼の前では」
テグネウの怒りが、爆発した。
「フレミー・スピッドロウ!!」
洞窟の岩壁が、びしりと軋んだ。
テグネウは、黒蜥蜴の群れに命じた。
フレミーの周囲に集まり、威圧しろ、と。
森の中。
フレミーの周囲に、黒蜥蜴の群れが、音もなく集まってきた。
一匹、二匹、三匹。
十匹、二十匹、三十匹。
無数の黒蜥蜴が、フレミーの足元に、這い寄ってくる。
フレミーは、その場に立ち尽くしていた。
月明かりが、彼女の白い髪を照らしている。
右目が桃色、左目が青の瞳が、足元の黒蜥蜴たちを見下ろしていた。
黒蜥蜴の群れが、フレミーの周りを取り囲む。
「お前は、私の道具だ」
黒蜥蜴の群れから、テグネウの声が響いた。
「お前が、あの少年の姉を殺した。その事実は、決して消えない」
フレミーの体が、強張った。
「私が、そのことを、いつでも彼に告げられると思い知れ」
黒蜥蜴の群れが、ざわめいた。
無数の小さな目が、フレミーを睨みつけている。
フレミーは、唇を噛みしめた。
「私は、あんたの道具じゃない」
彼女の声は、震えていたが、確かだった。
「少なくとも、彼の前では」
テグネウは、フレミーを直接的には折らなかった。
代わりに、静かに告げた。
「アドレット・マイアの姉、シェトラを殺めたのが、お前であることを、いつでも彼に告げられる」
その言葉が、フレミーの心臓を、鋭く貫いた。
「それを忘れるな」
フレミーは、涙を堪えながら、うつむいた。
黒蜥蜴の群れが、ゆっくりと散っていく。
フレミーは、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
やがて、彼女は、ゆっくりと歩き出した。
アドレットのいる野営地へと、戻っていく。
———
洞窟の奥。
テグネウは、剥がれ落ちた漆黒の鱗を、握りしめていた。
冷たい。
自分の体の一部なのに、氷のように冷たかった。
(偽りの愛が、本物に変わる)
テグネウは、自分が最も恐れていた事態が、現実になりつつあることを悟った。
(そうなれば、私の策は崩れる)
アドレットの感情が、テグネウの力による偽りではなく、本物の愛になってしまえば。
フレミーの感情が、テグネウの命令ではなく、本物の想いになってしまえば。
二人は、テグネウの手を離れる。
計画は、崩壊する。
「……なぜだ」
テグネウは、洞窟の闇の中で、呟いた。
「なぜ、私は……こんなにも苦しいのだ」
答えは、なかった。
あるはずもなかった。
テグネウは、握りしめた鱗を、さらに強く握った。
鱗が、手のひらに食い込み、赤黒い血が滲む。
痛みは、なかった。
いや、痛みを感じる余裕がなかった。
胸の奥で、嫉妬と渇望が、制御不能に膨れ上がっていく。
「アドレット・マイア」
テグネウの声は、暗闇に吸い込まれていった。
「お前は、私が偽造した愛を、本物に変えようとしている」
「お前は、私が三百十二年間、一度も手に入れられなかったものを、迷いながらも、手にしようとしている」
テグネウの黄金の瞳が、暗闇の中で、深紅に変色した。
「……許さない」
洞窟の外では、秋の夜風が、山肌を吹き抜けていた。
遠く、地の底から、魔神復活の鼓動が、前触れよりもはっきりと、大きくなっている。
———
野営地。
フレミーが、戻ってきた。
アドレットは、焚き火のそばに座っていた。
フレミーの足音に気づき、顔を上げる。
「……フレミー」
アドレットの声は、安堵に満ちていた。
「ごめん。さっきは、変なこと言って」
フレミーは、答えなかった。
焚き火のそばに、静かに座る。
彼女の白い髪が、夜風に揺れる。右目が桃色、左目が青の瞳が、焚き火の光を映し込んでいた。
「……別に」
フレミーは、小さく呟いた。
「あんたが、何を思おうと、私には関係ないわ」
その声は、いつもの素っ気ない調子だった。
だが、アドレットは、気づいていた。
フレミーの指先が、微かに震えていることを。
彼女の右目が、桃色に、淡く光っていることを。
(泣いているのか)
アドレットは、そう思った。
だが、何も言わなかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
二人は、焚き火を挟んで、黙って座っていた。
パチパチと、木が爆ぜる音だけが、静かな夜に響いている。
———
洞窟の奥。
テグネウは、黒蜥蜴の目を通して、二人の姿を見つめていた。
焚き火のそばに、肩を並べて座る、アドレットとフレミー。
その距離は、近い。
だが、二人の間には、目に見えない亀裂が走っていた。
テグネウが、初めて作り出した、亀裂。
(これでいい)
テグネウは、心の中で呟いた。
(フレミーは、私の道具だ。道具は、道具らしく、私の手のひらの上で踊っていればいい)
(アドレットは、私の駒だ。駒は、駒らしく、私の思うままに動けばいい)
テグネウは、そう自分に言い聞かせた。
だが、胸の奥の痛みは、消えなかった。
(なぜ、私は……こんなにも苦しいのだ)
テグネウは、その問いから、逃げられなかった。
剥がれ落ちた漆黒の鱗を、握りしめたまま。
洞窟の闇の中で、テグネウは、一人、静かに、苦しみ続けていた。Noveliaとは?
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