小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑
混沌勢の掟は絶対。人間に染まった者は炎で清めなければならない。でも――トールは、私が初めて戦い方を教わった、優しい先輩だった。
純血の焔の戦士・イルルに下った任務は、人間界に潜入したまま戻らないトールの調査と、もし人間と共存しているなら制裁を下すこと。境界の裂け目をくぐり、人間界へ降り立ったイルルが見たのは、混沌界では決して見られない穏やかな街の風景と、エプロンを身につけ人間の女・小林さんに嬉しそうに料理を運ぶトールの姿だった。
「小林さんは、私のメイドとしての全てですわ」
あんな風に笑うトールを、イルルは知らない。人間は支配すべき下等種族のはずなのに。掟に背いたトールを制裁すべきなのに。なのに、なぜ胸がこんなに痛むのか。ガルドに嘘をついてしまった自分に戸惑いながら、イルルは答えの出ない問いを抱えて夜を過ごす。
これは、任務と感情のあいだで揺れる一人の竜の少女の物語。
小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑 - 焦土の谷から来た娘 ―人間界という異物―
違う、と思った。
頭では分かっている。人間は支配すべき下等種族だ。混沌勢の掟の第一箇条。炎竜族として生まれた瞬間から、耳にタコができるほど聞かされてきた。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
イルルは焦土の谷の岩場に立ち、燃え盛る溶岩の川を見下ろしていた。黒い岩肌の割れ目から、赤い光がゆらゆらと揺れている。熱風が頬を撫で、髪の先が炎のように揺れた。ここは混沌界の中でも特に過酷な土地で、純血の焔──混沌勢の中でも人間排除を叫ぶ過激派──の本拠地だ。周囲には何もない。溶岩と黒い岩と、時折吹き抜ける熱い風だけが、この谷を満たしていた。
(今日も、訓練か)
イルルは両手を前にかざした。金色の縦スリットの瞳が、ゆっくりと細くなる。体内で炎が生まれる感覚。胸の奥が熱くなり、喉の奥が焼けるように痛む。次の瞬間、彼女の手のひらから混沌の炎が吹き出した。赤と黒が混ざった、普通の火とは違う炎。それは空気を歪ませながら、溶岩の川に向かって一直線に飛んでいった。
ドッ、と音がして、溶岩が跳ね上がる。黒い岩が砕け、破片が周囲に散った。イルルは息を整え、もう一度炎を放とうと構えた。
「相変わらず、いい炎だな」
低い声が、背中から聞こえた。
イルルは振り返らなかった。この声を知らないはずがない。ガルド。純血の焔の戦士で、イルルにとっては兄のような存在でもある男だ。黒い短髪を後ろに流し、赤い眼が鋭く光っている。身長は190センチ近くあり、人間態でもその威圧感は変わらない。黒い鱗を変化させた戦闘服に身を包み、腕を組んでこちらを見ていた。
「ガルド」
イルルは短く名前を呼んだ。彼女の声は低く、感情が読み取りにくい。燃えるような赤いロングヘアが風に揺れ、先端が炎のように跳ねる。155センチの小柄な体は華奢だが、左腕には混沌勢時代に負った古い傷跡が白く浮かんでいた。頭頂部の小さな二本の角と、先端が炎の形をした尻尾が、彼女が人間ではないことを示している。
「何の用?」
ガルドはしばらく黙ってイルルを見ていた。その視線には、値踏みするような鋭さがある。やがて口を開いた。
「トールのことを調べてきてほしい」
イルルの心臓が、一瞬だけ跳ねた。トール。同じ炎竜族の先輩で、かつて混沌勢の中核として戦ったドラゴン。だが、もう何年も人間界に潜入したまま戻っていない。
「トールを?」
「あいつは人間界に降りてから、一度も連絡を寄越していない。掟に背いている可能性が高い。お前が行って、確かめてこい。もし人間と共存しているなら、焰の制裁を下せ」
焰の制裁。その言葉の重みが、熱風の中に沈んだ。イルルは唇を噛んだ。ガルドの言っていることは分かる。掟は絶対だ。人間に染まった者は、炎で清めなければならない。でも、トールは。
(トールは、私が初めて戦い方を教わった相手だ)
小さい頃、まだ炎をうまく操れなかった頃。イルルが何度も失敗して泣きそうになっていると、トールはいつも笑って教えてくれた。「大丈夫、イルルならできるわ」と。あの優しい声を、イルルは今でも覚えている。
「……分かった」
イルルは短く答えた。ガルドは満足したように頷く。
「境界の裂け目は、イーストエンドタウン駅の裏路地にある。夜明け前に開く。そこから人間界へ降りろ。くれぐれも、人間に正体を見られるなよ」
「言われなくても分かってる」
イルルは背を向けた。これ以上、ガルドの顔を見ていたくなかった。胸の奥で、何かがざわついている。トールを制裁する。その命令に、なぜか心が拒否反応を示している。
(違う。これは任務だ。感情を挟むな)
そう言い聞かせて、イルルは歩き出した。
──
境界の裂け目をくぐる感覚は、いつも気持ちが悪い。
まるで体がぐにゃりと曲がって、別の場所に押し出されるような感覚。イルルは目を閉じ、次の瞬間には冷たい空気に包まれていた。
(ここが……人間界)
イルルはゆっくりと目を開けた。
イーストエンドタウン駅の裏路地。幅2メートルほどの細い道の突き当たりに、イルルは立っていた。空はまだ暗い。夜明け前の薄闇が、街を包んでいる。だが、イルルの目には、その光景が異様に映った。
ビル。電灯。アスファルトの道路。遠くから聞こえる車の音。すべてが混沌界にはないものばかりだった。混沌界には、こんなに整った建物はない。こんなに明るい光もない。こんなに静かな夜もない。
(人間は、こんな場所に住んでいるのか)
イルルは路地から一歩踏み出した。駅の方向へ歩いていくと、人通りが少しずつ増えてくる。早起きのサラリーマン、新聞配達の若者、コンビニの袋を提げた女。みんな、普通の顔をして歩いている。誰もイルルの角や尻尾に気づかない。いや、気づいていないはずだ。イルルは人間擬態の魔法を解いていない。角も尻尾も、人間には見えないようになっている。
(人間は、支配すべき下等種族)
混沌勢の掟の第一箇条が、頭の中で繰り返される。仲間を裏切らない。人間に染まった者は制裁する。三つの掟が、呪いのようにイルルに絡みつく。
でも、目の前の光景は、教えられてきた「支配すべき下等種族」のものとは思えなかった。
駅前の商店街には、魚屋が店を開け、パン屋からは焼きたての匂いが漂ってくる。スーツを着た男が、携帯端末を見ながら急ぎ足で歩いていく。高校生らしき少女が、友達と笑いながら自転車を漕いでいる。
(なんで、笑ってるんだ)
人間は、弱いくせに。魔術も使えないくせに。寿命だって、たった80年しかないくせに。
なのに、どうしてこんなに穏やかな顔で笑えるんだ。
イルルは足を止め、しばらく街の風景を眺めていた。混沌界の焦土の谷では、誰もあんな風に笑わない。笑う余裕なんてない。強くなければ生きていけない。弱い者は、ただ淘汰されるだけだ。
(ここは、違う)
イルルの胸に、言葉にできない違和感が広がった。
──
トールの住むアパート「メゾン東エンド」は、駅から歩いて15分ほどの住宅街にあった。築15年の2階建てで、全8戸。イルルは事前に調べた住所を頼りに、その建物の前に立っていた。
(ここに、トールが)
2階の201号室。窓から、オレンジ色の明かりが漏れている。もう朝だというのに、まだ灯りがついている。
イルルは音を立てないように、建物の裏手に回った。塀を軽く蹴って、2階の窓のすぐ下まで跳び上がる。小柄な体を器用に動かし、窓の端から中を覗き込んだ。
そして、息を呑んだ。
(トール……?)
そこにいたのは、ブロンドのツインテールを揺らし、白いエプロンを身につけた女性だった。先端が平らな二又の角が、頭の上にちょこんと生えている。金色の瞳が、優しく細められていた。間違いない。トールだ。
でも、イルルが知っているトールとは、何かが違った。
「小林さん、朝ごはんできましたわ」
トールはリビングのテーブルに、湯気の立つ皿を並べていた。目玉焼きにソーセージ、サラダに味噌汁。どれも丁寧に作られた、人間の料理だ。
「んー……あと5分……」
ソファに寝転がっていた女が、だるそうに体を起こした。黒いショートヘアに、眠たげな三白眼。服装はくたびれたTシャツにジャージ。胸はかなり控えめで、全体的にフェミニンな要素が薄い。この女が小林さん、という人間らしい。
「今日はお休みですから、ゆっくりでいいんですよ。でも、お味噌汁が冷めちゃいますわ」
トールは嬉しそうに笑った。その笑顔が、イルルの胸に突き刺さる。
(なんで、そんな顔で笑えるの)
トールは、混沌勢の掟に背いて、人間と暮らしている。それだけじゃない。あんなに楽しそうに、人間の女に料理を運んでいる。まるで、それが当然の幸せだと言わんばかりに。
「小林さんは、私のメイドとしての全てですわ」
トールが、ふと真剣な声で言った。
「はいはい、ちょろゴンめ」
小林さんは面倒くさそうに手を振り、テーブルに座った。トールはその隣に腰を下ろし、小林さんの顔をじっと見つめている。
(ちょろゴン……?)
イルルには意味が分からなかった。でも、トールがその呼び方を嫌がっていないことは、表情を見れば分かる。むしろ、嬉しそうにすら見える。
胸が、痛い。
イルルは自分の胸に手を当てた。心臓がドキドキと速く脈打っている。これは、怒りか。それとも、悲しみか。自分でも分からない。ただ、トールが人間と笑い合っている光景が、イルルの心を激しく揺さぶっていた。
(人間界に潜入している混沌勢は、約5000人)
ガルドから聞いた数字が、ふと頭に浮かぶ。その中には、トールのように人間と共存している者もいるのかもしれない。竜族の寿命は800年から1000年。人間は、たったの80年。トールは、その短い命の人間に、自分の全てを捧げている。
(意味が、分からない)
イルルは窓枠を握りしめた。指先が、白くなる。
その時、小林さんがふと窓の方を見た。
「今、誰かいた気がする」
イルルはとっさに身を隠した。窓の下の壁に背中を張り付け、息を殺す。心臓が、さっきよりもずっと速く鳴っている。
(見つかった? いや、気のせいのはず)
「気のせいですわ。さあ、冷めないうちに召し上がってくださいな」
トールの明るい声が、窓の向こうから聞こえた。イルルは唇を噛みしめた。
(なんで、私が隠れなきゃいけないの)
任務なら、堂々とトールに会えばいい。制裁するなら、今すぐにでも。でも、体が動かなかった。隠れてしまった。自分でも、なぜ隠れたのか分からない。それが、無性に腹立たしかった。
イルルは静かにその場を離れた。
──
約30年前、イーストエンドタウン付近で境界の亀裂事件が起きた。混沌界との境界に大規模な裂け目が生じ、混沌獣が人間界に流出。人間側に約20人の犠牲者が出た。この事件をきっかけに、混沌勢の人間界への潜入が本格化した。
イルルは、その話をガルドから聞いたことがある。
「人間は、あの事件を覚えている。だから、混沌勢を恐れている。お前も、正体を隠せ」
ガルドの言葉が、頭の中で繰り返される。イルルは街の外れにある小さな公園のベンチに座り、空を見上げていた。空はもうすっかり明るく、青い色が広がっている。混沌界では、あんなに綺麗な青空を見たことがなかった。
(人間は、あの空の下で笑ってる)
イルルは目を閉じた。まぶたの裏に、トールの笑顔が浮かぶ。小林さんに向けられた、あの優しい笑顔。イルルには一度も向けられたことのない、柔らかな表情。
(トールは、人間に染まった)
掟に背いた。制裁しなければならない。でも。
でも、あの笑顔を消したくない、と思っている自分がいる。
イルルは強く首を振った。
「違う。私は任務を果たすだけ」
声に出して言ってみた。でも、その言葉は空っぽで、ベンチの下の砂利に吸い込まれていった。
──
夜になった。
イルルは駅裏の路地で、ガルドと合流した。ガルドは闇に溶けるように立っていて、赤い眼だけが不気味に光っている。
「トールはどうだった」
イルルは一瞬、言葉に詰まった。
(トールは、人間と一緒にいた。笑っていた。料理を作っていた)
本当のことを言えば、それで任務は終わる。ガルドがトールを制裁する。それだけの話だ。
でも、イルルの口から出たのは、違う言葉だった。
「まだ何も。アパートの場所は確認した。でも、トールの姿は見てない」
嘘をついた。自分でも驚くほど、自然に。
ガルドはしばらくイルルの顔を見ていた。その視線に、イルルの心臓が縮み上がる。見透かされているんじゃないか。嘘がばれているんじゃないか。
「そうか。だが、純血の焔は待たないぞ。次に会う時は、はっきりした報告を聞かせろ」
ガルドはそう言い残し、闇の中に消えた。
イルルは一人、路地に立ち尽くした。
(なんで、嘘なんかついたの)
自分でも分からない。トールをかばったのか。それとも、自分の心が決まらないから、時間を稼いだのか。どちらにせよ、ガルドに嘘をついたのは事実だ。それは、掟の第二箇条「仲間を裏切らない」に背く行為かもしれない。
(私は、どうしたいの)
答えは出ない。
イルルは気づくと、小林さんのアパートの前に戻っていた。夜の住宅街は静かで、虫の声だけが聞こえる。2階の201号室の窓には、まだオレンジ色の明かりが灯っていた。
(制裁すべき相手なのに)
イルルは窓を見上げた。トールの影が、カーテンの向こうで動いている。小林さんの笑い声が、かすかに聞こえた。
(なんで、胸が痛むの)
イルルは自分の胸に手を当てた。心臓が、ドキドキと脈打っている。これは痛みだ。でも、傷ついたわけじゃない。体のどこも怪我していない。なのに、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように痛い。
(分からない)
イルルはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
夜風が吹いて、彼女の赤い髪を揺らす。先端が炎のように跳ね、暗闇の中でほんの少しだけ赤く光って見えた。
イルルは、答えの出ない問いを抱えたまま、その夜を一人で過ごした。Noveliaとは?
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