小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑
混沌勢の掟は絶対。人間に染まった者は炎で清めなければならない。でも――トールは、私が初めて戦い方を教わった、優しい先輩だった。
純血の焔の戦士・イルルに下った任務は、人間界に潜入したまま戻らないトールの調査と、もし人間と共存しているなら制裁を下すこと。境界の裂け目をくぐり、人間界へ降り立ったイルルが見たのは、混沌界では決して見られない穏やかな街の風景と、エプロンを身につけ人間の女・小林さんに嬉しそうに料理を運ぶトールの姿だった。
「小林さんは、私のメイドとしての全てですわ」
あんな風に笑うトールを、イルルは知らない。人間は支配すべき下等種族のはずなのに。掟に背いたトールを制裁すべきなのに。なのに、なぜ胸がこんなに痛むのか。ガルドに嘘をついてしまった自分に戸惑いながら、イルルは答えの出ない問いを抱えて夜を過ごす。
これは、任務と感情のあいだで揺れる一人の竜の少女の物語。
小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑 - 炎の終結 ―嫌いじゃない、が精一杯―
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
イルルは台所に立っていた。ガスコンロの前に、じっと、一人で。
カチッ。
青い炎が、ボッと音を立てて上がる。
(火を、吸わなきゃ)
炎竜族のエネルギー源は、炎だ。人間界では、このガスコンロの火を吸って、魔力に変換する。イルルは、青い炎に顔を近づけた。
ふう、と息を吸い込む。
炎が、細く、イルルの口の中へ流れ込んでいく。温かい。でも、味はない。人間の火は、味のない軽食みたいなものだ。
(でも、今は、これでいい)
(これが、私の、日常なんだから)
そう思う自分がいることに、イルルは少しだけ驚いた。
昨夜の戦いの後、ガルドは言った。
『純血の焔は諦めない』
あの言葉が、頭の奥に、こびりついて離れない。
(また、来る)
(今度は、もっと、多くの戦士を連れて)
ガルドの性格を考えれば、それは間違いない。あの男は、目的のためには手段を選ばない。仲間への義理は厚いが、掟に背いた者への容赦は、同じだけ薄い。
イルルは、コンロの火を消した。
青い炎が、ふっと消える。
台所に、静けさが戻った。
リビングの壁時計が、カチ、カチ、と時を刻んでいる。
朝の七時半。
小林さんは、まだ寝ている。トールは、そろそろ起きてくる頃だ。
「あら、イルル。おはようございますわ」
明るい声。
振り返ると、トールが立っていた。ブロンドのツインテールを揺らして、白いエプロンを身につけている。先端が平らな二又の角が、朝の光を反射して、きらりと光った。金色の瞳が、楽しそうに細められている。
「……おはよう」
イルルは、小さく答えた。
「今日もいいお天気ですわ。洗濯物がよく乾きそう」
トールが、台所に入ってくる。
「イルル、あなた、昨日はよく戦ったわ。本当に、助かったのよ」
トールの声が、急に真剣になった。
イルルは、視線を落とした。
「……別に。あんたが倒れたら、面倒だから」
「ふふ。素直じゃないんですから」
トールが、柔らかく笑った。
「朝ごはん、何がいいかしら。今日は、小林さんの好きな卵焼きと、お味噌汁と、焼き鮭にしようと思ってますの」
「……なんでもいい」
「なんでもいい、が一番困りますわ。……そうだわ。イルル、あなた、卵焼きは甘い派? しょっぱい派?」
トールが、冷蔵庫から卵を取り出しながら聞いた。
「……知らない。食べたことない」
イルルは、ボソリと答えた。
「まあ! それは大変。今日、両方作って食べ比べましょう。小林さんは甘い派ですわ。カンナはしょっぱい派。イルルは、どちらかしら」
トールが、嬉しそうに卵を割り始める。
カチャカチャと、卵を溶く音が、台所に響いた。
(卵焼き)
(人間の食べ物)
(食べたこと、ない)
(……食べてみたい、かも)
そう思った自分に、イルルは、また少し驚いた。
「イルル、あなたはもう十分戦ったわ。後は私に任せなさい」
トールが、卵を溶きながら、ぽつりと言った。
イルルは、顔を上げた。
「……なに、急に」
「ガルドは、必ずまた来るわ。あの男は、諦めない。だから、次は私が一人で戦う。あなたは、カンナと一緒に、小林さんを守って」
トールの声は、静かだった。
でも、その静けさの奥に、確かな決意があった。
イルルは、トールの背中を見た。
エプロンの背中。細い肩。
(この背中に、全部、背負わせるのか)
(私が、守りたいと言ったのに)
(なのに、私は、また、守られる側に、なるのか)
胸の奥が、ざわざわした。
「……あんた一人に背負わせるのは、なんか違う」
イルルは、気づいたら、そう言っていた。
自分の口から出た言葉なのに、自分で、少し驚いた。
トールが、卵を溶く手を止めた。
「……イルル?」
トールが、振り返る。
金色の瞳が、まっすぐに、イルルを見た。
「……あんた一人に、戦わせるのは、なんか、違う。私も、戦う。……私が、そうしたいから」
イルルは、言葉を、ゆっくりと、確かめるように言った。
初めてだった。
自分の意思で、協力を申し出たのは。
トールが、驚いた顔をした。
金色の瞳が、大きく見開かれる。
そして、次の瞬間。
トールの顔が、ふわりと、ほどけるように、柔らかく微笑んだ。
「……ええ。ありがとう、イルル。嬉しいわ」
その笑顔が、温かくて、イルルは、思わず目を逸らした。
「……別に。あんたのためじゃないんだから」
「ふふ。分かってますわ」
トールが、笑った。
イルルは、口元が、ほんの少し、緩んだ気がした。
(なんで、こんなに、恥ずかしいんだ)
(戦うって、言っただけなのに)
でも、胸の奥が、温かかった。
──
昼過ぎ。
空気が、変わった。
イルルは、リビングのソファに座っていた。カンナが、隣で、テレビのアニメを見ている。白いロングヘアを揺らして、大きな紫色の瞳を、画面に釘付けにしている。
「おー。この怪獣、強い」
カンナが、ぽつりと言った。
「……カンナ。静かに」
「おー」
カンナが、小さく返事をした。
その時だった。
イルルの首筋の産毛が、総毛立った。
(来た)
心臓が、冷たい手で掴まれたように、きゅっと縮む。
「……カンナ。小林さんのところへ」
イルルは、低い声で言った。
「おー。……イルル、どうしたの?」
カンナが、不思議そうに、イルルを見上げる。
「いいから。早く」
イルルは、立ち上がった。
その時。
外から、声が聞こえた。
低く、腹の底に響くような、威圧的な声。
「裏切り者イルル。そして、人間の女。まとめて焰の制裁だと、俺は言ったはずだぞ」
ガルドの声だ。
窓の外から、聞こえる。
イルルは、カーテンを開けた。
アパートの前の道。
昼間の住宅街。
そこに、ガルドが、立っていた。
全身を覆う黒い鱗。特に腕と首筋が目立つ。顔には、古い傷跡。赤い眼が、鋭く光っている。190センチの巨体が、道の真ん中に、どっしりと、立っていた。
人間態のままだった。
でも、その姿は、異様だった。
道行く人が、ガルドを見て、足を止める。
「な、なんだ、あの人」
「コスプレ……? にしては、すごい迫力だな」
「目、赤くない? やばくない?」
周囲の住民が、ざわめき始める。
「どうしたんですの、イルル!?」
トールが、奥の部屋から飛び出してきた。
「ガルドが来た。外に」
イルルは、短く言った。
トールの顔が、引き締まった。
「分かりましたわ。……カンナ、小林さんの部屋に行って、結界を張っておいて」
「おー。分かった」
カンナが、こくんと頷いて、小林さんの部屋へ走っていく。
「イルル、行きますわよ」
「……ああ」
二人は、アパートの外に出た。
──
外は、昼の光が、容赦なく照りつけていた。
住宅街の真ん中。
ガルドが、仁王立ちしている。
「よく出てきたな、裏切り者ども」
ガルドの赤い眼が、トールとイルルを、じっと見据えた。
「ガルド。ここは人間の街ですわ。あなたの好きにはさせません」
トールが、前に出た。
ブロンドのツインテールが、風に揺れる。
「人間の街? フン。人間など、支配すべき存在。その人間の街ごと、焼き払ってくれる」
ガルドが、右手を持ち上げた。
黒い鱗に覆われた手。
その指先に、赤い炎が、ちらりと宿る。
「お前たちを始末した後、このアパートも、この街も、すべて灰にしてやる。人間に染まった者の末路を、見せてやろう」
ガルドの声が、低く、響いた。
周囲の住民が、悲鳴を上げて、逃げ惑い始める。
「なんだ、あの火!?」
「逃げろ! やばいぞ!」
「イルル、私が結界を張るわ。住民を守るから、あなたは——」
「私も戦う。そう言っただろ」
イルルは、トールの隣に並んだ。
「……ええ。そうでしたわね」
トールが、小さく笑った。
「戯言は終わりか」
ガルドが、口を開いた。
深く、息を吸い込む。
(来る!)
イルルは、身構えた。
「結界!」
トールが、両手を広げた。
透明な壁が、トールとイルル、そして周囲の住宅を包み込むように展開される。認識阻害と防御を兼ねた、トールの結界だ。
ゴォォォォォ!!!
ガルドの口から、赤い炎のブレスが放たれた。
直径3メートルはあろうかという、灼熱の奔流。
アスファルトが、焼け焦げる。
結界が、炎を受け止めた。
ギギギギギ……!!
結界が、軋む。
「フン。この程度の結界か」
ガルドが、さらに炎を強めた。
赤い炎が、白く、変わっていく。
純度が、上がっている。
昨夜の戦いの時よりも、明らかに、強い。
「くっ……!」
トールが、歯を食いしばった。
結界に、ヒビが入り始める。
「トール!」
イルルが、叫んだ。
「大丈夫ですわ。まだ、持ちます……!」
でも、トールの声は、苦しそうだった。
ガルドの炎が、結界を、じわじわと、押し込んでくる。
「トール。お前の炎は、俺の前では、ろうそくの火も同然だと言ったはずだ。それがどうだ。お前の結界も、同じこと。人間ごときに、何を守る必要がある」
ガルドの声が、炎の向こうから、嘲るように響いた。
「黙りなさい! 私は、私の大切なものを、守っているだけですわ!」
トールが、叫び返した。
でも、結界のヒビは、広がっていく。
(このままじゃ、トールが、持たない)
イルルは、唇を噛んだ。
(私が、何か、しなきゃ)
(でも、何を)
ガスコンロの火だけじゃ、足りない。
昨夜の戦いで、ガルドの炎の強さは、身に染みている。
(もっと、力が、いる)
(もっと、火が、いる)
その時、イルルの目に、アパートの壁の配電盤が映った。
(電気)
(カンナは、コンセントから電気を吸う)
(私は、火を吸う。でも、電気も、力にできるはず)
(だって、電気は、火と、同じ、エネルギーだ)
イルルは、走った。
配電盤の前まで。
「イルル!? どこへ!?」
トールの声が、後ろから聞こえた。
イルルは、配電盤のカバーを、手でこじ開けた。
バキッ!
中から、複雑な配線が、現れる。
(これを、吸う)
イルルは、手を、配線に伸ばした。
バチバチバチッ!!
青白い火花が、イルルの指先に、飛び散る。
「ぐっ……!」
電気が、体の中に、流れ込んでくる。
痛い。
でも、力が、満ちていく。
(まだ、足りない)
イルルは、隣の家の、プロパンガスボンベを見た。
(あれも、火)
(人間の火)
(味のない、軽食)
(でも、今は)
(ここを守るための、力になる)
イルルは、隣家の敷地に飛び込んだ。
プロパンガスボンベの、バルブを、ひねる。
シューッ、と、ガスが、漏れる。
イルルは、そのガスに、手をかざした。
ボッ!
ガスが、青い炎を上げて、燃え上がる。
イルルは、その炎を、吸い込んだ。
深く、深く、吸い込んだ。
体の中に、炎が、流れ込んでくる。
温かい。
(ああ、そうか)
(この火は、味のない軽食なんかじゃない)
(ここを守るための、力なんだ)
イルルの体内で、魔力が、膨れ上がっていく。
混沌の炎が、イルルの全身を、包み込んだ。
オレンジ色の炎が、青白く、白く、輝きを増していく。
「イルル……! その力は……!」
トールが、驚きの声を上げた。
「トール! 今ですわ、イルル!」
トールが、叫んだ。
「ああ!」
イルルは、トールの隣に、駆け戻った。
二人の手が、同時に、前に突き出される。
「行けえええええっ!!」
「はあああああっ!!」
二人の口から、同時に、炎のブレスが放たれた。
オレンジ色の炎と、白い炎。
二つの炎が、一つに、重なる。
ゴォォォォォォォォォ!!!
轟音。
周囲の空気が、震える。
二対一の炎が、ガルドの炎を、押し返した。
「な、なに……!?」
ガルドの赤い眼が、見開かれた。
「この俺の炎を、押し返すだと……!?」
ガルドが、さらに炎を強める。
でも、もう、押し返せない。
イルルとトールの炎が、ガルドの炎を、飲み込んでいく。
「うおおおおおおっ!!」
イルルが、叫んだ。
体内の魔力を、全部、絞り出す。
(守るんだ)
(ここを)
(小林さんを)
(トールを)
(カンナを)
(この、温かい場所を)
ズドォォォォォン!!!
爆発。
ガルドの炎が、完全に、押し負けた。
「ぐあああああっ!!」
ガルドの巨体が、吹き飛ばされた。
アスファルトを、数メートル、転がる。
黒い鱗が、ところどころ、焦げている。
「……なぜだ、イルル」
ガルドが、ゆっくりと、起き上がった。
膝をついたまま、赤い眼で、イルルを見上げる。
「なぜだ、イルル。お前は、純血の焔の戦士だろう。炎竜族の誇りを、忘れたのか。人間など、支配すべき存在だと、そう教えられてきたはずだ」
ガルドの声は、怒りと、困惑と、そして、ほんの少しの悲しみが、混ざっていた。
イルルは、ガルドを、まっすぐに見た。
金色の縦スリットの瞳が、ガルドの赤い眼を、捉える。
「……教えられたことは、覚えてる。人間は敵だって、支配すべきだって。でも、私が選んだのは、こっち」
イルルは、静かに、言った。
「お前は、掟に背いた。焰の制裁は、免れないぞ」
「それでも。私が、ここにいたいから」
イルルの声は、震えていなかった。
自分でも、驚くほど、はっきりと、言えた。
ガルドが、しばらく、イルルを見つめた。
そして、ゆっくりと、立ち上がった。
「……そうか。ならば、次は、もっと多くの戦士が来る。純血の焔は、諦めない。お前も、トールも、あの人間の女も、いずれ必ず、焰の制裁を受ける」
ガルドが、背を向けた。
「覚えておけ。これは、終わりではない。始まりだ」
ガルドは、そう言い残すと、路地の奥へと、歩いていった。
境界の裂け目へ。
混沌界へ。
ガルドの姿が、消えた。
──
静けさが、戻ってきた。
住宅街に、風が吹く。
焼け焦げたアスファルトの匂いが、漂っていた。
「……終わった、のか」
イルルは、ぽつりと、呟いた。
足から、力が抜けていく。
「ええ。終わりましたわ。……あなたのおかげよ、イルル」
トールが、イルルの隣に立った。
「あなたは、私の妹よ。本当に、誇らしいわ」
トールが、柔らかく微笑んだ。
金色の瞳が、温かく、イルルを見つめる。
イルルは、顔が、熱くなった。
「……勘違いしないで。あんたのためじゃないんだから」
イルルは、顔を背けた。
でも、口元が、緩んでしまう。
「ふふ。分かってますわ」
トールが、笑った。
「おーい、二人とも、大丈夫かー?」
アパートの玄関から、小林さんが、顔を出した。
黒いショートヘアに、眠たげな三白眼。くたびれたTシャツにジャージ。胸はかなり控えめで、全体的にフェミニンな要素が薄い。手には、缶ビール。
「また、えらいことになったな。窓、また割れてないか?」
小林さんが、のんびりとした口調で言った。
「大丈夫ですわ、小林さん! 今回は、外での戦闘でしたから、窓は無事です!」
トールが、嬉しそうに答えた。
「そうか。なら、まあ、いっか」
小林さんが、ビールを一口飲んだ。
「おー、カンナも、よくやったな」
「おー。カンナ、結界、張った。でも、すぐ終わった」
カンナが、小林さんの後ろから、ひょこっと顔を出した。
白いロングヘアが、風に揺れる。
「まあ、終わったなら、いいんだよ。……で、イルル」
小林さんが、イルルを見た。
「……なに」
「あんた、また、えらい派手にやったな。……かっこよかったぞ」
小林さんが、ニヤリと笑った。
イルルは、顔が、ボッと熱くなった。
「……な、なに言ってんのよ。別に、かっこよくなんか、ない」
イルルは、うつむいた。
「照れてる照れてる」
小林さんが、笑った。
「照れてない!」
イルルが、叫んだ。
でも、その怒りは、ちっとも怖くなかった。
むしろ、温かかった。
──
夕方。
アパートのリビング。
戦いの後、四人で、遅い昼食を食べた。
トールが作った、卵焼き。
甘い派と、しょっぱい派。
両方。
イルルは、初めて、卵焼きを食べた。
「……甘い方が、好きかも」
イルルは、小さく言った。
「まあ! イルルは、小林さんと同じ、甘い派ですのね!」
トールが、嬉しそうに笑った。
「甘い卵焼きは、正義だからな」
小林さんが、うんうんと頷いた。
「おー。カンナは、しょっぱい方が好き」
カンナが、しょっぱい卵焼きを、口いっぱいに頬張った。
(卵焼き)
(甘い)
(……悪くない)
イルルは、そう思った。
食後。
小林さんが、ビールを、イルルに差し出した。
「ほら。飲むか?」
「……飲めない」
「昨日、一口飲んだろ。まあ、無理にとは言わないけど。……でも、今日は、飲んでもいいんじゃないか? 戦い、頑張ったんだし」
小林さんが、缶ビールを、イルルの前に置いた。
イルルは、缶ビールを、じっと見た。
(……ちょっとだけ)
(ちょっとだけ、飲んでみよう)
イルルは、缶ビールを、手に取った。
プルタブを、開ける。
シュッ、と音がした。
イルルは、ビールを、一口、飲んだ。
「げほっ……に、苦い……」
イルルは、むせた。
「あはは、やっぱり飲めないんじゃないか」
小林さんが、声を上げて笑った。
「ふふ、イルルったら、顔が真っ赤ですわよ」
トールも、口元に手を当てて、笑っている。
「う、うるさい! これは、その、なんだ! ……まずいわね、これ」
イルルは、顔を真っ赤にして、言った。
「まずいけど、飲むんだろ?」
「……まあ、ちょっとだけなら」
イルルは、ビールをもう一口、飲んだ。
苦い。
でも、この苦さが、なんだか、心地よかった。
(これが、人間の、味)
(……悪くない)
イルルは、そう思った。
──
夜。
イルルは、一人で、アパートの外に出た。
駅裏の路地。
イーストエンドタウン駅の北側。
幅2メートルの細い路地。
突き当たりは、古い壁。
夜になると、ここに、境界の裂け目が開く。
混沌勢だけが、感知できる裂け目だ。
(ガルドは、ここから、撤退した)
(何か、残していないか)
イルルは、路地の奥へと、歩いていった。
月明かりが、路地を、ぼんやりと照らしている。
そして。
見つけた。
壁に、一枚の札が、貼り付けられていた。
黒い札。
その中央に、赤い紋章が、刻まれている。
炎の形をした、紋章。
純血の焔の、紋章。
イルルは、その札を、じっと見た。
(焰の制裁)
(掟に背いた者に下される、追放または処刑の、予告)
(これが、私への、宣告)
イルルは、札を、壁から剥がした。
手の中で、札が、ひんやりと冷たい。
(やっぱり、来る)
(制裁が、来る)
(私が、ここにいる限り)
(この場所も、みんなも、危険に、さらされる)
イルルは、札を、握りしめた。
──
アパートに戻ると、リビングの明かりが、ついていた。
「お、イルル。遅かったな。どこ行ってたんだ?」
小林さんが、ソファに寝転がって、ビールを飲んでいた。
「おかえりなさい、イルル。お風呂、沸いてますわよ」
トールが、台所から、顔を出した。
「……ただいま」
イルルは、小さく答えた。
「……トール。話がある」
イルルは、トールを、まっすぐに見た。
トールが、イルルの様子に、何かを感じ取った。
「……ええ。聞きますわ」
トールが、エプロンを外して、リビングに来た。
「……私は、いつか、ここを去らなきゃいけないかもしれない」
イルルは、言った。
声が、少し、震えた。
「……どういうことですの?」
トールの金色の瞳が、真剣な色に変わる。
「焰の制裁。……純血の焔は、掟に背いた者を、追放か、処刑する。私がここにいれば、あなたも、小林さんも、カンナも、巻き込む」
イルルは、握りしめていた札を、テーブルの上に置いた。
黒い札。
赤い紋章。
「これは……純血の焔の、制裁の札……」
トールの顔色が、変わった。
「なんだ、それ。物騒なもん見つけたな」
小林さんが、起き上がって、札を見た。
「焰の制裁とは、純血の焔が、掟に背いた者に下す、追放または処刑のこと。……イルルは、ガルドに逆らって、私と小林さんを守った。だから、イルルは、制裁の対象になったのよ」
トールが、説明した。
「ふーん。つまり、イルルは、狙われてるってことか」
小林さんが、ビールを一口飲んだ。
「……だから、私は、ここを去るべきなんだ。私がいなくなれば、あなたたちは、安全」
イルルは、うつむいた。
(去りたくない)
(本当は、ずっと、ここにいたい)
(でも、それじゃ、みんなを、危険に、さらす)
(私が、ここにいる限り、純血の焔は、諦めない)
胸が、ぎゅっと、痛んだ。
「イルル」
トールが、イルルの前に、しゃがみ込んだ。
「その時は、私も一緒に行くわ。あなたを、一人で行かせない」
トールの金色の瞳が、まっすぐに、イルルを見つめた。
「……え?」
イルルは、顔を上げた。
「あなたは、私の妹よ。妹が危険な目に遭うのに、姉が黙って見ていられるわけがないでしょう? だから、その時は、私も一緒に行く。……小林さんには、申し訳ないけれど」
トールが、小林さんの方を、ちらりと見た。
「ま、なんとかなるだろ。ビールでも飲め」
小林さんが、呑気に笑った。
「ほら、イルルも、飲むか?」
小林さんが、ビールを、イルルに差し出した。
「……飲まない」
イルルは、顔を背けた。
でも、口元が、ほんの少し、緩んだ。
(なんとかなるだろ)
(ビールでも飲め)
(……この人間は、本当に、呑気だ)
(でも、その呑気さが、今は、心地よかった)
「イルル、今日は、一緒にお風呂に入りましょう。背中、流してあげますわ」
トールが、明るく言った。
「な、なんでよ! 一人で入れる!」
イルルが、顔を真っ赤にして、叫んだ。
「照れなくてもいいじゃない。姉妹なんだから」
「姉妹じゃない!」
「あら、さっき、私が妹って言った時、嬉しそうな顔してたじゃない」
「してない! してないから!」
イルルが、全力で否定した。
「あはは、イルル、顔真っ赤だぞ」
小林さんが、笑った。
「おー。イルル、照れてる」
カンナが、無邪気に言った。
「カンナまで! もう、知らない!」
イルルは、ソファに、顔を埋めた。
でも、その顔は、笑っていた。
──
深夜。
イルルは、一人で、台所に立っていた。
ガスコンロの前に。
(火を、吸いたい)
カチッ。
青い炎が、ボッと音を立てて上がる。
イルルは、青い炎に、顔を近づけた。
ふう、と息を吸い込む。
炎が、体の中に入っていく。
温かい。
(ああ、そうか)
(私、ここにいたいんだ)
(ここが、私の、帰る場所なのかもしれない)
その感情を、初めて、素直に認めた。
掟に背いても。
制裁を受けることになっても。
それでも、ここにいたい。
この、味のない火のそばに。
でも。
(去らなきゃいけない日が、来る)
(それは、分かってる)
(純血の焔は、諦めない)
(ガルドは、必ず、また来る)
(次は、もっと、多くの戦士を連れて)
イルルは、コンロの火を、じっと見つめた。
青い炎。
小さく、でも、確かに、燃えている。
(それでも、今は)
(ここに、いる)
(ここに、いたい)
イルルは、目を閉じた。
リビングから、トールと小林さんの笑い声が、かすかに聞こえる。
温かい音。
(この音を、守りたい)
(この場所を、守りたい)
イルルは、静かに、そう思った。
青い炎が、ゆらゆらと、揺れていた。
その炎の向こうに、イルルは、明日のことを思った。
明日が、どうなるのか。
分からない。
でも、確かなことが、一つだけ。
(私は、もう、一人じゃない)
イルルは、コンロの火を、消した。
青い炎が、ふっと消える。
台所に、静かな闇が戻った。
でも、イルルの胸の中には、小さな炎が、確かに、灯っていた。Noveliaとは?
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