小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑
混沌勢の掟は絶対。人間に染まった者は炎で清めなければならない。でも――トールは、私が初めて戦い方を教わった、優しい先輩だった。
純血の焔の戦士・イルルに下った任務は、人間界に潜入したまま戻らないトールの調査と、もし人間と共存しているなら制裁を下すこと。境界の裂け目をくぐり、人間界へ降り立ったイルルが見たのは、混沌界では決して見られない穏やかな街の風景と、エプロンを身につけ人間の女・小林さんに嬉しそうに料理を運ぶトールの姿だった。
「小林さんは、私のメイドとしての全てですわ」
あんな風に笑うトールを、イルルは知らない。人間は支配すべき下等種族のはずなのに。掟に背いたトールを制裁すべきなのに。なのに、なぜ胸がこんなに痛むのか。ガルドに嘘をついてしまった自分に戸惑いながら、イルルは答えの出ない問いを抱えて夜を過ごす。
これは、任務と感情のあいだで揺れる一人の竜の少女の物語。
小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑 - 焰の期限 ―教えられた言葉しか出てこない―
違う、と思った。
頭では分かっている。人間は支配すべき下等種族だ。混沌勢の掟の第一箇条。炎竜族として生まれた瞬間から、耳にタコができるほど聞かされてきた。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
イルルはアパートの自分の居候スペースで、膝を抱えて座っていた。
(今夜、返事を)
ガルドの使いの言葉が、頭の中で繰り返される。期限は過ぎた。今夜、返事を聞く。つまり、トールを始末するか、しないか。その答えを、今日中に、ガルドに突きつけなければならない。
(できるわけがない)
心の奥底で、拒否の声が聞こえた。でも、掟は掟だ。人間に染まった者は、炎で清めなければならない。それが混沌勢の正しさ。炎竜族の戦士として、生まれた時から教えられてきたこと。
なのに。
イルルは自分の手を見た。小さな手。この手で、トールを焼き尽くすのか。戦い方を教えてくれた、あの優しいトールを。
(嫌だ)
でも、その感情を認めることは、掟への裏切りに他ならなかった。
「イルル、夕食ですわよ!」
明るい声が飛んできた。振り返ると、ブロンドのツインテールを揺らしたトールが、白いエプロンを身につけて立っている。先端が平らな二又の角が、夕方の光を反射して、きらりと光った。金色の瞳が、楽しそうに細められている。
「……いらない」
イルルは、顔を膝に埋めた。
「どうしたんですの? 朝からずっと部屋に閉じこもって。体調でも悪いのかしら」
トールの声が近づく。気配が、すぐそばに来る。
「別に。なんでもない」
「……イルル、何か隠してるでしょ」
トールの声が、急に真剣になった。
イルルの肩が、びくりと跳ねる。
「あんたには関係ない」
顔を上げずに、吐き捨てるように言った。
「関係ないことなんてないわ。あなたは私の——」
「関係ないって言ってるだろ!」
イルルは叫んだ。自分でも、声が震えているのが分かった。
トールが、黙った。
しばらく、沈黙が続いた。
(なんで、こんなこと言うんだ)
頭のどこかで、冷静な自分が呟く。トールは、心配してくれている。それなのに、突き放すような言葉しか出てこない。
(近づいたら、ダメなんだ)
トールに近づけば近づくほど、始末しなければならないという現実が、重くのしかかる。だから、突き放す。これ以上、優しくされたら、自分が壊れてしまう。
「……分かったわ」
トールが、静かに言った。
「でも、これだけは覚えておいて。私は、あなたがどんな選択をしても、あなたの味方よ」
その言葉が、イルルの胸に、刃のように突き刺さった。
(味方、だって)
私は、あんたを始末しろと命じられているのに。あんたの味方でいられるわけがない。
「夕飯、冷めないうちに食べてね。……おやすみなさい」
トールの足音が、遠ざかっていく。
イルルは、膝に顔を埋めたまま、動けなかった。
(どんな選択をしても、味方)
その言葉が、優しさが、重すぎる。
逃げ場が、ない。
──
翌日。
イルルは、リビングのソファに座って、ぼんやりとテレビを見ていた。
朝の情報番組が、今日の天気は晴れ、と繰り返している。窓の外は確かに晴れていた。青い空。混沌界の焦土の谷では、あんな色の空は見られない。
(トールは、買い物に出かけた)
朝食の後、トールは「小林さんの好物を買ってきますわ」と嬉しそうに出かけていった。カンナも一緒だ。今、アパートには、イルルと小林さんだけがいる。
「おー、イルル。飲むか?」
小林さんが、台所から缶ビールを二つ持って現れた。黒いショートヘアに、眠たげな三白眼。くたびれたTシャツにジャージ。胸はかなり控えめで、全体的にフェミニンな要素が薄い。この人間の女が、トールの全てを捧げる相手だ。
「……飲まない」
イルルは、顔を背けた。
「そうかよ。まあ、未成年に酒は飲ませられないしな」
小林さんは、プルタブを開けて、ビールを一口飲んだ。
(未成年)
イルルは、心の中で苦笑した。自分は20歳だが、見た目はもっと幼い。カンナとさほど変わらない体格だから、無理もない。
「なあ、イルル」
小林さんが、ソファにどっかりと座りながら言った。
「……なに」
「あんたさ、なんでそんなに人間のこと嫌いなの?」
ストレートな質問だった。
イルルは、一瞬、言葉に詰まった。
(なんで、嫌いなのか)
「……教えられたから」
イルルは、絞り出すように答えた。
「教えられたから、か」
小林さんは、ふーん、とだけ言って、またビールを飲んだ。
それだけだった。
「……それだけ?」
イルルは、思わず聞き返した。
「ん? ああ、うん。それだけ」
小林さんは、テレビに視線を戻した。
(なんで、何も言わないんだ)
イルルは、拍子抜けした。
人間は、混沌勢のことを「恐ろしい怪物」と罵るか、あるいは「理解できない存在」と拒絶するか。そういう反応をするものだと思っていた。
なのに、この人間は、ふーん、とだけ言って、ビールを飲んでいる。
「ま、あんたがどうしたいかが一番大事なんじゃないの」
小林さんが、テレビを見ながら、ぽつりと言った。
「……どうしたいか」
イルルは、その言葉を繰り返した。
(私が、どうしたいか)
そんなこと、考えたことがなかった。
生まれた時から、掟があった。人間は敵だと教えられた。戦士として、強くあれと教えられた。
自分の意思で、何かを選んだことなんて、あっただろうか。
「ほら、あんたも飲めよ。ジュースでいいから」
小林さんが、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、イルルに差し出した。
「……いらない」
「まあそう言うなって。喉渇いてるだろ」
小林さんは、イルルの手に、無理やりジュースのパックを握らせた。
冷たい。
イルルは、仕方なく、ストローを刺して、一口飲んだ。
甘い。
(この人間は、なんでこんなに)
棘のある言葉が、出てこない。
この人間の前では、いつもの「別に」「知らない」という言葉が、するすると喉の奥に引っ込んでしまう。
(なんで、だろう)
イルルは、オレンジジュースを、もう一口飲んだ。
甘ったるい味が、妙に、心地よかった。
──
夜。
イルルは、一人で、駅裏の路地に立っていた。
イーストエンドタウン駅の北側。幅2メートルの細い路地。突き当たりは、古い壁。夜になると、ここに、境界の裂け目が開く。混沌勢だけが、感知できる裂け目だ。
(呼ばれた)
正確には、呼ばれたわけではない。でも、分かった。ここに来れば、ガルドが現れる。そういう気配が、あった。
路地は、暗く、静かだった。遠くから、電車の音が聞こえる。
「待たせたな、イルル」
低い声。
闇の中から、一人の男が現れた。
全身を覆う黒い鱗。特に腕と首筋が目立つ。顔には、古い傷跡。赤い眼が、鋭く光っている。190センチの巨体が、路地を塞ぐように立っていた。
純血の焔の戦士、ガルド。
「……ガルド」
イルルは、小さく息を呑んだ。
使いではなく、本人が、直接、現れた。
「純血の焔は、もう待たない」
ガルドが、一歩、近づく。
「明日、トールと、あの人間の女を、俺が始末する」
イルルの心臓が、凍りついた。
「な……っ」
言葉が出ない。
「お前が手を下さないなら、俺がやる。お前は、見ているだけでいい」
ガルドの赤い眼が、イルルをじっと見据える。
「……だが、その前に、聞いておく。お前は、あの人間に染まったな?」
「ちが……私は……」
「違わない。お前の目を見れば分かる。人間の温もりを知った者の目だ」
ガルドが、ゆっくりと、首を振った。
「残念だ。お前には、炎竜族の戦士としての才能があった。だが、掟に背く者は、制裁あるのみ」
ガルドの右手が、持ち上がる。
黒い鱗に覆われた手。その指先に、赤い炎が、ちらりと宿った。
「明日、トールとあの女を始末する。邪魔をするなら、お前も焰の制裁だ」
焰の制裁。
純血の焔が執行する、追放または処刑。
「分かったな」
ガルドは、それだけ言うと、路地の奥へと歩いていった。
闇の中に、溶けるように消えていく。
イルルは、一人、路地に取り残された。
足が、震える。
膝から、力が抜けていく。
「……どう、すれば」
声が、かすれた。
トールを守るか、掟に従うか。
どちらを選んでも、自分は罰を受ける。
守れば、焰の制裁。
従えば、トールを失う。
(絶対に、助からない)
壁に背を預けて、ゆっくりと、しゃがみ込んだ。
夜の闇が、重く、のしかかってくる。
──
アパートに戻ると、リビングの明かりが、まだついていた。
「あら、イルル、おかえりなさい」
トールが、エプロン姿で、にこにこと笑っている。
「お、おかえり。遅かったな」
小林さんが、ソファに寝転がって、ビールを飲んでいた。
「……ただいま」
イルルは、小さく答えた。
「夕飯、用意してあるわよ。今日は、小林さんの好きなハンバーグですの!」
「いや、俺の好きなハンバーグって、お前が作っただけだろ」
「小林さんが喜ぶから作ったんですわ! メイドとして当然のことです!」
トールが、嬉しそうに笑う。
小林さんが、苦笑いしながら、ビールを飲む。
その光景が、温かくて、眩しくて、イルルは、直視できなかった。
「……先に、休む」
イルルは、リビングを通り抜けて、台所に向かった。
「イルル、ご飯は?」
「……いらない」
イルルは、ガスコンロの前に立った。
(火を、吸わなきゃ)
炎竜族のエネルギー源は、炎だ。人間界では、ガスコンロの火を吸って、魔力に変換する。
イルルは、コンロのつまみをひねった。
ボッ、と青い炎が上がる。
イルルは、その炎を、ゆっくりと吸い込んだ。
炎が、体の中に入っていく。温かい。でも、味はない。人間の火は、味のない軽食みたいなものだ。
(でも、今は、これでいい)
イルルは、目を閉じた。
リビングから、トールと小林さんの笑い声が聞こえる。
「あはは、ちょっと、小林さん、ビールこぼしてますわ!」
「うっせー、いいだろ別に」
「もう、しょうがない人ですわね。ほら、拭きますから」
温かい音。
楽しそうな声。
でも、その温かさは、自分には、届かない。
(あの輪の中に、私の居場所は、ない)
イルルは、コンロの火を見つめた。
青い炎。
(私は、どうしたいの?)
初めて、自分に問いかけた。
教えられたことしか、口にできない。
棘のある態度でしか、自分を守れない。
でも、本当は。
(本当は、私も、あの中に)
そこまで考えた瞬間、視界が、にじんだ。
涙が、溢れてくる。
(なんで、泣くんだ)
イルルは、手の甲で、乱暴に涙を拭った。
でも、涙は、止まらない。
(私は、何を感じてるんだ)
分からない。
分からないけど、胸が、苦しい。
その時。
イルルの髪の一部が、黒い鱗に変わった。
感情の高ぶりで、人間擬態が乱れたのだ。
(これが、私の、本当の気持ち)
イルルは、黒い鱗に変わった髪を、そっと触った。
人間の姿を保てないほど、心が、揺れている。
(私は、感じてる)
教えられたことじゃない。
自分の心が、確かに、何かを感じている。
それが、嬉しいのか、悲しいのか、苦しいのか。
まだ、分からない。
でも、確かなことが、一つだけ。
(私は、もう、何も感じない戦士には、戻れない)
炎が、消える。
台所に、静かな闇が戻った。
イルルは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
リビングの笑い声が、遠くに聞こえる。
その温かい音が、自分には、手の届かないものに思えた。
(明日、ガルドが、トールと小林さんを、始末する)
(私が、守らなきゃ)
(でも、どうやって)
答えは、出ない。
ただ、涙だけが、止まらなかった。Noveliaとは?
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