小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑
混沌勢の掟は絶対。人間に染まった者は炎で清めなければならない。でも――トールは、私が初めて戦い方を教わった、優しい先輩だった。
純血の焔の戦士・イルルに下った任務は、人間界に潜入したまま戻らないトールの調査と、もし人間と共存しているなら制裁を下すこと。境界の裂け目をくぐり、人間界へ降り立ったイルルが見たのは、混沌界では決して見られない穏やかな街の風景と、エプロンを身につけ人間の女・小林さんに嬉しそうに料理を運ぶトールの姿だった。
「小林さんは、私のメイドとしての全てですわ」
あんな風に笑うトールを、イルルは知らない。人間は支配すべき下等種族のはずなのに。掟に背いたトールを制裁すべきなのに。なのに、なぜ胸がこんなに痛むのか。ガルドに嘘をついてしまった自分に戸惑いながら、イルルは答えの出ない問いを抱えて夜を過ごす。
これは、任務と感情のあいだで揺れる一人の竜の少女の物語。
小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑 - 炎の決意 ―守りたい、が口から出た―
違う、と思った。
頭では分かっている。人間は支配すべき下等種族だ。混沌勢の掟の第一箇条。炎竜族として生まれた瞬間から、耳にタコができるほど聞かされてきた。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
イルルは台所に立っていた。
夜の闇が、窓の外を深く覆っている。イーストエンドタウンの住宅街からは、遠くの車の音が、かすかに聞こえるだけだった。
(もう、来る)
ガルドが、来る。
あの駅裏の路地で、ガルドは確かに言った。明日、トールとあの女を始末する。邪魔をするなら、お前も焰の制裁だと。
その「明日」が、もう、数時間前に始まっている。
時計の針は、深夜一時を回っていた。
「……火を、吸わなきゃ」
イルルは、ガスコンロのつまみに手を伸ばした。
カチッ。
青い炎が、ボッと音を立てて上がる。
炎竜族のエネルギー源は、炎だ。人間界では、このガスコンロの火を吸って、魔力に変換する。
イルルは、青い炎に顔を近づけた。
ふう、と息を吸い込む。
炎が、細く、イルルの口の中へ流れ込んでいく。
温かい。でも、味はない。人間の火は、味のない軽食みたいなものだ。
(今は、これでいい)
(少しでも、力を)
でも、心は、ちっとも温かくならなかった。
──
リビングから、テレビの音が聞こえる。
深夜のバラエティ番組。人間の笑い声。
「おー、イルル。まだ起きてたのか」
小林さんが、ソファに寝転がったまま、こちらを見た。
黒いショートヘアに、眠たげな三白眼。くたびれたTシャツにジャージ。胸はかなり控えめで、全体的にフェミニンな要素が薄い。手には、缶ビール。
「火ぃ吸ってるとこ悪いけど、そろそろ寝ろよ。明日も早いんだろ」
「……あんたこそ、なんで起きてるんだ」
イルルは、ガスコンロの火を消した。
「んー、なんか眠れなくてな。まあ、いつものことだけど」
小林さんが、缶ビールを傾ける。
その時だった。
──
空気が、変わった。
イルルの首筋の産毛が、総毛立つ。
(来た)
心臓が、冷たい手で掴まれたように、きゅっと縮む。
「……え?」
小林さんも、何かを感じたらしい。缶ビールを置いて、体を起こした。
次の瞬間。
バリンッ!!!
リビングの窓ガラスが、粉々に砕け散った。
ガラスの破片が、室内に、鋭い音を立てて飛び散る。
「うわっ!」
小林さんが、ソファから転げ落ちるようにして、床に伏せた。
砕けた窓の向こう。
夜の闇の中に、人影があった。
全身を覆う黒い鱗。特に腕と首筋が目立つ。顔には、古い傷跡。赤い眼が、獲物を捉えた獣のように、ギラギラと光っている。
190センチの巨体が、窓枠を踏み越えて、リビングに侵入してくる。
純血の焔の戦士、ガルド。
「見つけたぞ、トール」
低い声が、部屋中に響き渡った。
「ガルド……!」
トールが、奥の部屋から飛び出してきた。
ブロンドのツインテールが、激しく揺れる。先端が平らな二又の角が、月明かりを反射して、冷たく光った。白いエプロン姿のまま、金色の瞳が、怒りに燃えている。
「久しぶりだな、裏切り者」
ガルドの赤い眼が、トールを捉えた。
「裏切り者とは心外ですわ。私は、自分の意思でここにいるんですもの」
トールが、小林さんをかばうように、前に立つ。
「人間に仕えるなど、混沌勢の恥だ。掟に背いた者には、制裁あるのみ」
ガルドが、右手を持ち上げた。
黒い鱗に覆われた手。その指先に、赤い炎が、ちらりと宿る。
「小林さんに、指一本触れさせませんわ!」
トールも、両手を前に突き出した。
その手のひらに、混沌の炎が、オレンジ色に燃え上がる。
「フン。お前の炎など、俺の前では、ろうそくの火も同然だ」
ガルドが、口を開いた。
深く、息を吸い込む。
(来る!)
イルルは、直感した。
「トール! 避けろ!」
イルルの叫びと同時に。
ゴォォォォォ!!!
ガルドの口から、赤い炎のブレスが放たれた。
直径3メートルはあろうかという、灼熱の奔流。
リビングの空気が、一瞬で焼け焦げる。
「結界!」
トールが、両手を広げた。
透明な壁が、トールと小林さんの前に展開される。
認識阻害の結界。本来は人間にドラゴンの存在を隠すためのものだが、今は防御壁として使っている。
ドォォォン!!!
赤い炎が、結界に激突した。
結界が、ギシギシと軋む。
「無駄だ。その結界では、俺の炎は止められん」
ガルドが、さらに炎の出力を上げる。
赤い炎が、結界を内側から焼き焦がしていく。
「くっ……!」
トールの顔に、苦痛の色が浮かぶ。
結界が、ひび割れていく。
「お前の炎は、人間ごときに優しすぎるんだ、トール。混沌の炎は、もっと純粋で、もっと破壊的でなければならない」
ガルドの声が、炎の轟音の向こうから聞こえる。
「小林さんに手を出すな!」
トールが、結界を維持したまま、反撃の炎を放った。
オレンジ色の炎が、ガルドに向かって飛んでいく。
しかし。
「甘い」
ガルドが、片手で、その炎を払った。
まるで、虫を払うかのように。
トールの炎が、あっけなく霧散する。
「見ろ。これが、純血の焔の力だ」
ガルドの炎が、さらに激しさを増す。
バリバリバリッ!!!
結界が、音を立てて砕け散った。
「ああっ!」
トールの体が、炎の余波で吹き飛ばされる。
壁に、背中から激しく叩きつけられた。
ドンッ!!!
「トール!」
小林さんが、悲鳴を上げた。
「まずは、お前からだ。トール」
ガルドが、倒れたトールに、狙いを定める。
赤い炎が、ガルドの口元に集まっていく。
(動けない)
イルルは、台所の入り口で、立ち尽くしていた。
足が、床に張り付いたように、動かない。
(私は、どうすればいい)
(トールを、助けなきゃ)
(でも、ガルドに逆らえば、焰の制裁が)
頭の中で、二つの声が、同時に叫んでいる。
「人間に染まった者は、制裁する」
掟の声。
「あんたがどうしたいかが一番大事なんじゃないの」
小林さんの声。
(私は、どうしたい?)
(分からない)
(分からないけど)
体が、震える。
指先が、冷たい。
「さらばだ、裏切り者」
ガルドが、口を大きく開いた。
赤い炎が、今にも放たれようとしている。
その時。
「イルル」
小林さんが、床に伏せたまま、イルルの方を向いた。
「逃げていいぞ」
その顔は、笑っていた。
炎の熱風に煽られながら、髪を乱しながら。
それでも、小林さんは、確かに、笑っていた。
「お前まで巻き込むことないだろ」
──その笑顔が、イルルの中の何かを、決壊させた。
体が、勝手に動いた。
考えるより先に、足が、床を蹴っていた。
イルルは、ガスコンロの前に飛びついた。
カチッ!
つまみを、勢いよくひねる。
ボッ!
青い炎が、上がる。
イルルは、その炎を、一息に吸い込んだ。
(私が、私の炎で)
(守りたいものを、守る)
体の奥底から、力が溢れ出してくる。
混沌の炎。
炎竜族として生まれ、戦士として育てられた、自分の力。
それを、今、自分の意思で、使う。
「やめろぉぉぉぉぉ!!!」
イルルは、ガルドに向かって、混沌の炎を放った。
最大出力。
持てる力の、すべてを込めて。
ゴォォォォォォ!!!
オレンジ色の炎が、ガルドの赤い炎と、正面から激突した。
二つの炎が、リビングの中央で、激しくぶつかり合う。
火花が、四方八方に飛び散る。
「イルル……お前、まさか!」
ガルドの赤い眼が、驚愕に見開かれる。
「私は……私は、人間が好きになったわけじゃない!」
イルルは叫んだ。
炎の出力を、さらに上げる。
「でも、小林さんは、守りたい!」
その言葉が、自分の口から飛び出した瞬間。
胸の奥で、何かが、ストンと落ちた。
(ああ、そうか)
(これが、私の、本当の気持ちだったんだ)
言い訳でも、建前でもない。
初めて、自分の心から、自然に出てきた言葉。
「……イルル」
壁に背を預けたまま、トールが、こちらを見ていた。
その金色の瞳に、驚きと、そして、喜びの色が浮かんでいる。
「今ですわ、イルル! 私の炎と、あなたの炎を、重ねて!」
トールが、立ち上がった。
その両手に、再び、オレンジ色の炎が宿る。
「これで、終わりだ!」
イルルの炎と、トールの炎が、一つに重なった。
ゴォォォォォォォォォ!!!
二つの炎が合わさった、巨大な炎の奔流が、ガルドの赤い炎を、押し返していく。
「な、なに……!?」
ガルドの顔に、初めて、焦りの色が浮かんだ。
「ぐおおおおお!!!」
ガルドが、両手で炎を受け止めようとする。
しかし、イルルとトールの炎は、ガルドの炎を、じりじりと押し戻していく。
「ば、馬鹿な……この俺の炎が……!」
ガルドの足が、床を滑る。
一歩、また一歩と、後退していく。
「ガルド! お前の炎は、支配のための炎だ! でも、私の炎は、守るための炎だ!」
イルルは、叫んだ。
体中の魔力を、すべて炎に変えて、放出する。
「守るための炎が、支配の炎に負けるわけがないんだよ!」
ドォォォォォン!!!
最後の一押し。
イルルとトールの炎が、ガルドの炎を、完全に打ち破った。
「ぐあああああっ!!!」
ガルドの巨体が、炎の奔流に押し流され、窓の外へと吹き飛ばされた。
砕けた窓枠が、さらに大きく壊れる。
ガルドは、夜の闇の中へ、消えていった。
──静寂。
リビングに、静けさが戻った。
焼け焦げた壁。砕けた窓。散らばったガラスの破片。
でも、戦いは、終わった。
「……やった、のか?」
小林さんが、床に伏せたまま、顔を上げた。
「ええ、終わりましたわ。小林さん」
トールが、小林さんに駆け寄り、手を差し伸べた。
「お前、大丈夫か? 怪我は?」
小林さんが、トールの手を取って、立ち上がる。
「私は大丈夫ですわ。それより、イルルが」
トールが、イルルの方を振り返った。
イルルは、台所の入り口に、へたり込んでいた。
体中の力が、抜けきって、立っていられない。
「イルル、ありがとう。あなたは、私の妹よ」
トールが、イルルの前に、しゃがみ込んだ。
その金色の瞳が、優しく細められる。
「……妹なんかじゃない」
イルルは、顔を背けた。
でも、本当は、その言葉が、胸の奥に、じんわりと染み込んでいくのが分かった。
「おー、かっこよかったぞ、イルル」
小林さんが、冷蔵庫から、缶ビールを二つ取り出してきた。
一つを、イルルに差し出す。
「……あんた、さっきまで死にかけてたのに、ビール飲むのか」
イルルは、呆れたように言った。
「こういう時こそ、飲むんだよ。ほら」
小林さんが、無理やり、イルルの手に、缶ビールを握らせた。
冷たい。
イルルは、仕方なく、プルタブを開けた。
「勘違いしないで。あんたたちのためじゃないんだから」
イルルは、そう言って、ビールを一口飲んだ。
「げほっ……に、苦い……」
イルルは、むせた。
「あはは、やっぱり飲めないんじゃないか」
小林さんが、声を上げて笑った。
「ふふ、イルルったら、顔が真っ赤ですわよ」
トールも、口元に手を当てて、笑っている。
「う、うるさい! これは、その、なんだ!」
イルルは、顔を真っ赤にして、叫んだ。
でも、その怒りは、ちっとも怖くなかった。
むしろ、温かかった。
──この笑い声が、なぜか、心地よい。
そう思った。
──
夜明け前。
イルルは、一人で、台所に立っていた。
(眠れなかった)
戦いの後、三人で、簡単に片付けをした。
砕けた窓には、とりあえず、段ボールを貼った。
トールが「明日、業者を呼びますわ」と言っていた。
小林さんは「明日は仕事だってのに」とぼやきながら、自分の部屋に戻っていった。
イルルは、自分の居候スペースに戻ったが、眠れなかった。
(ガルドは、言っていた)
(純血の焔は、諦めない、と)
(掟に背いた私に、制裁が下る)
その事実が、頭から離れない。
でも、それ以上に。
(ここに、いたい)
その気持ちが、胸の中で、確かに、脈打っていた。
「お、イルル。早いな」
小林さんが、寝ぼけ眼で、台所に入ってきた。
「コーヒーでも淹れるか」
小林さんが、ケトルに水を入れる。
イルルは、ガスコンロの前に立った。
(火を、吸いたい)
(でも、昨日のことがあるから、なんとなく)
(自分から、頼むのは、恥ずかしい)
イルルは、ガスコンロのつまみに、手をかざした。
でも、ひねる勇気が出ない。
「ん? どうした?」
小林さんが、イルルの様子に気づいた。
「……火、分けてくれる?」
イルルは、小さな声で、言った。
自分から、頼んだ。
初めてだった。
「おう、好きなだけ吸え」
小林さんは、あっさりと言った。
そして、ガスコンロのつまみを、自分でひねった。
ボッ。
青い炎が、上がる。
「ほら、遠慮すんな」
小林さんが、イルルに、場所を譲った。
イルルは、青い炎に、顔を近づけた。
ふう、と息を吸い込む。
炎が、体の中に入っていく。
温かい。
(ああ、そうか)
(私、ここにいたいんだ)
その感情を、初めて、素直に認めた。
掟に背いても。
制裁を受けることになっても。
それでも、ここにいたい。
この、味のない火のそばに。
「イルル、今日も買い物に行きますわよ!」
トールの明るい声が、リビングから聞こえた。
「……仕方ないから、付き合ってやるわ」
イルルは、ガスコンロの火を消して、振り返った。
「丸くなったな、あいつ」
小林さんが、コーヒーを淹れながら、ぽつりと呟いた。
その声は、イルルには、聞こえていなかった。
──それでも。
イルルの胸の中には、昨夜の炎の熱さが、まだ、確かに残っていた。
守りたい、と叫んだ、あの瞬間の熱さが。
それは、ガスコンロの火よりも、ずっと、ずっと、温かかった。Noveliaとは?
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