小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑
混沌勢の掟は絶対。人間に染まった者は炎で清めなければならない。でも――トールは、私が初めて戦い方を教わった、優しい先輩だった。
純血の焔の戦士・イルルに下った任務は、人間界に潜入したまま戻らないトールの調査と、もし人間と共存しているなら制裁を下すこと。境界の裂け目をくぐり、人間界へ降り立ったイルルが見たのは、混沌界では決して見られない穏やかな街の風景と、エプロンを身につけ人間の女・小林さんに嬉しそうに料理を運ぶトールの姿だった。
「小林さんは、私のメイドとしての全てですわ」
あんな風に笑うトールを、イルルは知らない。人間は支配すべき下等種族のはずなのに。掟に背いたトールを制裁すべきなのに。なのに、なぜ胸がこんなに痛むのか。ガルドに嘘をついてしまった自分に戸惑いながら、イルルは答えの出ない問いを抱えて夜を過ごす。
これは、任務と感情のあいだで揺れる一人の竜の少女の物語。
小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑 - スーパーで爆発!? 炎竜の嫉妬と揺れる心
違う、と思った。
頭では分かっている。人間は支配すべき下等種族だ。混沌勢の掟の第一箇条。炎竜族として生まれた瞬間から、耳にタコができるほど聞かされてきた。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
イルルはリビングのソファに座り、ぼんやりとテレビを見ていた。朝の情報番組が、今日の天気は晴れ、と繰り返している。窓の外は確かに晴れていた。青い空。混沌界の焦土の谷では、あんな色の空は見られない。
(三日)
頭の中で、その言葉が繰り返される。
ガルドからの伝言。期限は三日。それまでにトールを始末しなければ、私も焰の制裁を受ける。
(できるわけがない)
心の奥底で、拒否の声が聞こえた。でも、掟は掟だ。人間に染まった者は、炎で清めなければならない。それが混沌勢の正しさ。炎竜族の戦士として、生まれた時から教えられてきたこと。
なのに。
イルルは自分の手を見た。小さな手。この手で、トールを焼き尽くすのか。戦い方を教えてくれた、あの優しいトールを。
(嫌だ)
でも、その感情を認めることは、掟への裏切りに他ならなかった。
「イルル! お買い物に行きますわよ!」
明るい声が飛んできた。振り返ると、ブロンドのツインテールを揺らしたトールが、白いエプロンを身につけて立っている。先端が平らな二又の角が、朝の光を反射して、きらりと光った。金色の瞳が、楽しそうに細められている。
「……買い物?」
「ええ! 今日は小林さんもお休みですから、三人でスーパーに行きましょう。フレッシュマート東店ですわ。あそこは品揃えが良くて、小林さんの好きなビールも安いんですの」
フレッシュマート東店。小林さんのアパートから徒歩10分のスーパーだ。イルルは行ったことがない。いや、そもそも人間のスーパーという場所自体、まともに見たことがない。
「あー、行く行く。どうせ暇だしな」
ソファの反対側で寝転がっていた小林さんが、だるそうに体を起こした。黒いショートヘアに、眠たげな三白眼。くたびれたTシャツにジャージ。胸はかなり控えめで、全体的にフェミニンな要素が薄い。この人間の女が、トールの全てを捧げる相手だ。
(なんで、この人間なんだ)
イルルは小林さんをちらりと見た。強くもない。特別な力もない。寿命はたった80年。なのに、トールはこの女のために、掟を破り、命を懸けている。
(意味が、分からない)
胸の奥が、またチクリと痛んだ。
「イルル、どうしたんですの? 顔が暗いですわよ」
トールが、心配そうに覗き込んでくる。その距離が近い。金色の瞳が、イルルの顔をじっと見つめていた。
「別に。なんでもない」
イルルは顔を背けた。トールの目を、まっすぐ見られなかった。
(この人を、始末しなきゃいけないのに)
トールは、そんなイルルの心の内など知らずに、にこにこと笑っている。
「さあ、行きましょう! 今日はカンナも誘ってありますの。四人でお出かけですわ!」
「カンナも?」
「ええ。カンナは雷を操る力があるでしょう? スーパーの電気系統に興味があるみたいで、前から行きたがってたんですの」
雷を操る力。カンナは、イルルがまだ会ったことのない、もう一人のドラゴンだ。トールの妹分で、人間界では小林さんの親戚として暮らしているらしい。
(人間の子供と、ドラゴンの子供)
イルルは小さく息を吐いた。
──
外に出ると、空気が温かかった。
アパートの前の道を、四人で歩く。先頭はトール。隣に小林さん。その後ろを、イルルが少し離れて歩く。
「いい天気だな。洗濯日和ってやつか」
「ですわね! 帰ったらシーツを洗いましょう。今日はよく乾きますわ」
「お前、ほんと家事好きだよな」
「小林さんのお世話をするのが、私の幸せですもの!」
トールが、小林さんの腕に抱きつく。小林さんは「暑い」と顔をしかめたが、振りほどきはしない。その様子が、イルルの胸をざわつかせた。
(なんで、あんなに楽しそうなんだ)
人間と一緒に歩くことが、そんなに嬉しいのか。下等種族と肩を並べて、笑い合うことが。
(理解できない)
でも、頭で否定すればするほど、目はトールの背中を追ってしまう。
「おー」
突然、小さな声がした。
イルルが振り返ると、そこには白いロングヘアの少女が立っていた。大きな紫色の瞳が、まん丸に見開かれている。背中には小さな白い羽。頭には小さな角。口元が、ほんの少しだけ笑っている。
「カンナ、来てたのね。待たせたかしら?」
「ううん。今来た」
カンナはそう言って、イルルの方へ近づいてきた。物怖じしない足取り。警戒心のかけらもない。
「おー。新しい人。イルルだよね」
「……知ってるのか」
「トールから聞いた。炎のドラゴンで、かわいいって」
かわいい。その言葉に、イルルは一瞬、言葉を失った。
「……かわいくない」
声が、少し裏返る。カンナは、そんなイルルを見て、ふふっと笑った。
「照れてる」
「照れてない!」
イルルは思わず声を荒げた。でも、カンナは全然怖がらない。むしろ、面白そうにイルルの顔を覗き込んでくる。
(この子供、なんなんだ)
イルルは戸惑った。混沌界では、こんな風に無防備に近づいてくる存在なんていなかった。近づけば、戦いになる。それが当たり前だった。
「さあ、行きましょう。カンナ、イルルと手を繋いで歩いてくれる?」
「うん」
カンナが、小さな手を差し出してくる。白くて、柔らかそうな手。イルルは、その手をじっと見た。
(人間の子供の手)
いや、カンナは人間ではない。ドラゴンだ。でも、人間界で育ったドラゴン。人間の子供と同じように、無邪気で、無防備で、温かい。
「……繋がなくても、迷子にはならない」
イルルは、ぶっきらぼうに言った。
「おー……」
カンナが、少し寂しそうに手を引っ込める。その表情を見た瞬間、イルルの胸が、ぎゅっと痛んだ。
(なんで、そんな顔をするんだ)
イルルは、小さく舌打ちをした。
「……別に、繋いでもいいけど」
そう言って、イルルは手を差し出した。カンナの顔が、ぱあっと明るくなる。
「おー!」
カンナが、イルルの手を握った。小さな手のひらが、温かい。
(なんで、私はこんなことを)
イルルは、自分でもよく分からない感情に戸惑いながら、カンナの手を握り返した。
──
フレッシュマート東店は、大きな建物だった。
白い外壁に、赤い看板。自動ドアの向こうから、冷たい空気が流れてくる。駐車場には、車が何台も停まっていた。
(ここが、スーパー)
イルルは、自動ドアの前で足を止めた。ガラスの向こうに、人間がたくさんいる。カートを押す人、商品を手に取る人、レジに並ぶ人。みんな、当たり前のように、この場所で買い物をしている。
「どうしたの? イルル。入らないの?」
カンナが、イルルの手を引っ張った。
「……別に。入る」
イルルは、自動ドアをくぐった。
瞬間、異様な空気に包まれた。
明るい。とにかく明るい。天井から降り注ぐ白い光。色とりどりの商品が、整然と棚に並んでいる。野菜、肉、魚、お菓子、飲み物、日用品。人間の生活に必要なものが、全部ここに詰まっている。
(これが、人間の市場)
混沌界にも、物々交換の場はある。でも、こんなに整った場所ではない。こんなに明るくない。こんなに、静かではない。
店内には、軽快な音楽が流れていた。知らない曲。でも、耳に心地よい。
「さあ、イルル。カゴを持ってくださいな」
トールが、銀色のカゴを差し出してきた。
「カゴ?」
「買うものを入れるものですわ。ほら、こうやって」
トールは、自分のカゴを手に取り、軽く揺らして見せた。
「……分かった」
イルルは、カゴを受け取った。ひんやりと冷たい。
「じゃあ、俺はビール売り場行ってるわ。後で合流しようぜ」
「ダメですわ。小林さん、いつもビールばかり買うんですもの。今日はちゃんと食材も選びますわよ」
トールが、小林さんの腕をがっしりと掴んだ。
「はいはい。分かったよ」
小林さんは、面倒くさそうに笑った。
──
まず向かったのは、肉売り場だった。
ガラスケースの中に、赤い肉が並んでいる。豚肉、鶏肉、牛肉。薄切り、厚切り、ミンチ。値段のシールが貼られていて、数字が並んでいる。
(肉だ)
イルルは、ガラスケースをじっと見た。混沌界でも、肉は食べる。でも、こんなに綺麗に切り分けられて、値段がついている肉は見たことがない。
「今日は何にしましょうか。小林さん、何か食べたいものはありますの?」
「んー、別に。お前の作るもんなら何でも美味いし」
「もう、小林さんったら……!」
トールが、嬉しそうに身をくねらせる。その様子が、イルルの胸をチクリと刺した。
(あんたばっかり、ずるい)
心の中で、そんな言葉が浮かんだ。
イルルは、無言で肉のパックを手に取った。高級和牛。ラベルには「特選 黒毛和牛 サーロイン」と書いてある。値段は、よく分からない。でも、数字が大きい。
(これが、一番いい肉だ)
イルルは、そのパックをカゴに入れた。もう一つ。また一つ。次々と、高級和牛のパックをカゴに放り込んでいく。
「ちょっと、イルル! 何をしてるんですの!?」
トールが、驚いた声を上げた。
「何って、肉を選んでる。一番高いやつ」
「ダメですわ! そんなに高級肉ばかり買ったら、お給料が飛んでいきます! それに、小林さんは脂の多い肉より、あっさりした鶏肉の方がお好きなんですの!」
トールが、イルルのカゴから高級和牛のパックを取り出し、元の棚に戻していく。
「なんでだ。美味いものは、美味いだろ」
「美味しければいい、というものではありませんわ。小林さんのことを思うなら、食材のことをもっと学びなさい。料理は、作る人の気持ちが一番大切なんですの」
トールの金色の瞳が、真剣にイルルを見つめる。その目には、姉が妹を諭すような、優しさがあった。
(小林さんのことを思うなら)
その言葉が、イルルの胸に深く刺さった。
「……私は、小林さんのことなんて、思ってない」
イルルは、顔を背けた。
「イルルは、素直じゃないですわね」
トールが、ふふっと笑った。
「うるさい」
イルルは、カゴをぎゅっと握りしめた。
(違う。私は、ただ、任務で……)
心の中で、言い訳を並べる。でも、その言葉は、どれも空っぽだった。
──
その後、トールは、迷わず小林さんの好物をカゴに入れていった。
ビール。枝豆。唐揚げ用の鶏もも肉。どれも、小林さんが好きなものばかりだ。
「お、よく分かってるじゃん」
「当然ですわ! 小林さんの好きなものは、全部把握していますの!」
小林さんが、トールの頭をぽんぽんと叩く。トールが、嬉しそうに目を細める。
その自然なやり取りを、イルルは少し離れた場所から見ていた。
(あんたばっかり、ずるい)
また、同じ言葉が浮かぶ。
トールの笑顔。小林さんに向けられた、柔らかな笑顔。イルルには、一度も向けられたことのない表情。
(なんで、私はこんなにイライラしてるんだ)
イルルは、自分の感情に戸惑った。これは、怒りか。悲しみか。それとも、別の何かか。
「あんたばっかり、ずるい」
気づけば、口から言葉が漏れていた。
トールが、振り返る。金色の瞳が、驚いたように見開かれた。
「イルル?」
「……別に。なんでもない」
イルルは、踵を返した。
「待って、イルル。あなたも一緒に選びなさいな。ほら、これなんかどう? あなたも、辛いものは好きでしょう?」
トールが、追いかけてきて、唐辛子の入った調味料を差し出した。
「……いらない」
イルルは、その手を払いのけた。
(素直になれない)
分かっている。トールは、悪気なんてない。むしろ、私のことを気遣ってくれている。でも、その優しさが、今は痛かった。
イルルは、足早に売り場を離れた。
──
お菓子売り場の前で、イルルは立ち止まった。
色とりどりの袋が、棚にずらりと並んでいる。チョコレート、スナック、キャンディ。どれも、見たことのないものばかり。
(人間の子供は、こんなものを食べるのか)
イルルは、一つの袋を手に取った。カラフルな包み紙。中には、小さな星の形をした砂糖菓子が入っている。
「おー、それ、おいしいよ」
いつの間にか、カンナが隣に立っていた。
「……カンナ」
「カンナ、それ好き。甘くて、口の中でぱちぱちする」
カンナは、無邪気な笑顔で言った。
「人間のお菓子なんて、興味ない」
イルルは、袋を棚に戻そうとした。
「じゃあ、これ、あげる」
カンナが、ポケットから小さな駄菓子を取り出した。細長い袋に入った、ラムネ菓子。
「……なんで、私に」
「イルル、さっきから、つまんなそうな顔してる。だから、カンナの好きなもの、あげる」
カンナは、そう言って、イルルの手に駄菓子を押し付けた。
イルルは、手のひらの上の駄菓子を、じっと見た。
(人間の子供の、善意)
無防備で、無邪気で、打算がない。
(なんで、こんなに)
イルルは、戸惑った。人間は敵のはずなのに。人間の子供は、もっと弱くて、愚かで、支配されるべき存在のはずなのに。
なのに、この小さな手から差し出されたものは、どうしてこんなに温かいんだ。
「……受け取らない」
イルルは、そう言った。でも、手は、駄菓子を握りしめたままだった。
「おー。イルル、照れてる」
「照れてない!」
イルルは、顔を赤らめた。
(なんで、断れないんだ)
自分でも、よく分からなかった。
──
その時だった。
パチン、という音がした。
店内の電気が、一斉に消えた。
「きゃあっ!」
「な、なんだ!?」
悲鳴と怒号が、あちこちから上がる。非常灯が、赤く点滅し始めた。
(停電?)
イルルは、目を凝らした。暗闇の中でも、ドラゴンの目ははっきりと見える。
そして、見てしまった。
カンナの尻尾が、プラグの形に変わっている。そのプラグが、壁のコンセントに差し込まれている。
(カンナが、電気を吸ってる!)
カンナは、無邪気な顔で、コンセントから電気を吸い込んでいた。白い羽が、パチパチと静電気で光っている。
「おー、電気、おいしい」
カンナが、満足そうに言った。
その瞬間、店の電気系統が、完全にショートした。
バチバチバチッ!
天井の蛍光灯が、一斉に明滅する。レジのモニターが、真っ暗になる。冷蔵ケースのモーターが、異音を立てて止まった。
「火事か!?」
「ママー!」
店内が、パニックに包まれた。人々が、出口に向かって殺到する。押し合い、へし合い、悲鳴が飛び交う。
(まずい)
イルルは、立ち尽くした。
(私が、何とかしないと)
でも、何をすればいい? 炎を吐いて、明かりを灯す? そんなことをしたら、正体がバレる。それに、こんな大勢の人間の前で、力を出すなんて、掟に反する。
(どうすれば)
イルルは、動けなかった。
その時。
「皆さん、落ち着いてください! 私が電気を抑えますわ!」
トールの声が、店内に響き渡った。
トールは、両手を天井に向けて掲げた。金色の瞳が、暗闇の中で強く輝く。
「はあっ!」
トールの体から、淡い光が溢れ出した。その光が、ショートした電気系統に流れ込み、暴走した電流を抑え込んでいく。
バチバチバチッ……。
明滅していた蛍光灯が、ゆっくりと安定していく。レジのモニターが、再び点灯する。冷蔵ケースのモーターが、静かに動き出した。
「電気が、戻った……」
「な、なにが起きたんだ?」
人々が、困惑した表情で、周囲を見回す。
「すみません、停電だったみたいですね。もう大丈夫ですよ」
小林さんが、冷静に店員に声をかけていた。
「あ、は、はい。ご迷惑をおかけしました……」
店員が、青い顔で頭を下げる。
「いやいや、こっちこそ。大丈夫でしたか? お客さんに怪我は?」
「え、ええ。今のところ、報告は……」
小林さんは、てきぱきと店員に状況を説明し、客の誘導を手伝い始めた。その姿は、普段のだらけた様子からは想像もつかないほど、頼もしかった。
(小林さんも、トールも)
イルルは、二人の姿を、呆然と見つめていた。
(私だけが、何もできなかった)
悔しさが、じわりと胸に広がる。
(私は、炎竜族の戦士なのに)
戦うことしか知らない。破壊することしか教えられてこなかった。だから、人間を守る方法が分からない。トールのように、優しく光で包む方法が分からない。
「イルル、大丈夫?」
カンナが、心配そうにイルルの顔を覗き込んできた。
「……カンナ。お前のせいだぞ」
イルルは、低い声で言った。
「……ごめんなさい。電気、おいしそうだったから」
カンナが、しゅんと肩を落とす。
「……別に、怒ってない」
イルルは、カンナの頭に手を置いた。白い髪が、ふわふわと柔らかい。
「おー?」
「お前は、悪くない。……私が、何もできなかっただけだ」
イルルは、そう言って、カンナの頭を撫でた。
(なんで、こんなことをしてるんだ)
自分でも、よく分からなかった。
──
買い物を終えて、店を出た。
外は、まだ明るかった。青い空に、白い雲が浮かんでいる。
「いやー、びっくりした。まさかスーパーで停電に遭うとはな」
「カンナ、もうコンセントから電気を吸ってはダメですわよ。人間の電気系統は、ドラゴンの魔力に弱いんですから」
「はーい……」
カンナが、しょんぼりと返事をする。
「でも、誰も怪我がなくて良かったですわ。小林さんも、落ち着いて対応してくれて、助かりましたわ」
「別に。あれくらい、普通だろ」
「さすが小林さんですわ!」
トールが、また小林さんに抱きつく。小林さんが、面倒くさそうに笑う。
イルルは、その後ろを、無言で歩いていた。
(私だけが、役に立たなかった)
その思いが、重く心に沈んでいく。
「ねえ、イルル」
トールが、振り返って、イルルの隣に並んだ。
「……なに」
「あなたは、人間を嫌っているの?」
その問いは、あまりにも静かで、あまりにも真っ直ぐだった。
イルルは、足を止めた。
「……嫌いよ。教えられたもの」
イルルは、そう答えた。でも、声は弱々しく、自分でも情けないほど震えていた。
「私も、最初はそうだった」
トールが、遠くを見るように言った。
「人間は、弱くて、愚かで、支配されるべき存在。父に、そう教えられてきた。疑ったことなんて、一度もなかった。でもね、イルル。私は、人間界に来て、死にかけたことがあるの」
「死にかけた?」
「ええ。神との戦いで、背中に神剣を突き刺されてね。もう、助からないと思った。人間界の山で、一人で死を待っていた。その時、小林さんが現れたの」
トールの金色の瞳が、揺れた。
「小林さんは、何も聞かずに、私を助けてくれた。ドラゴンの私を。敵かもしれない私を。あの人は、ただ、目の前で苦しんでいる者がいたから、手を差し伸べた。それだけなの。でも、その手の温かさが、私の全てを変えた」
トールは、そこで言葉を切った。
「私は、掟を破った。人間に染まった。でも、後悔してない。小林さんと出会えたこと。小林さんのメイドになれたこと。それが、私の誇りだから」
トールの声には、迷いがなかった。
(後悔してない)
イルルは、トールの横顔を見た。夕日に照らされた、美しい顔。
(この人は、本気で、そう思ってる)
イルルには、その強さが、眩しすぎた。
「……私は、まだ、分からない」
イルルは、絞り出すように言った。
「それでいいのよ。焦らなくて。私だって、時間がかかったんですもの」
トールが、優しく微笑んだ。
「おーい、二人とも。置いてくぞー」
前の方から、小林さんの声がした。
「あ、待ってくださいな、小林さん!」
トールが、駆け出していく。
イルルは、その背中を見つめながら、立ち尽くしていた。
(私も、いつか、あんな風に)
そう思った自分に、イルルは驚いた。
──
その夜。
イルルは、一人で、駅裏の路地に立っていた。
夜の路地は、暗く、静かだった。遠くから、電車の音が聞こえる。
(また、呼び出された)
正確には、呼び出されたわけではない。でも、分かった。ここに来れば、ガルドの使いが現れる。そういう気配が、あった。
「イルル」
低い声。
闇の中から、一人の男が現れた。純血の焔の使い。黒い外套を身にまとい、顔は、フードで隠れている。
「ガルド様からの伝言だ。期限は明日。それまでに、トールを始末しなければ、お前も焰の制裁を受ける」
イルルは、黙って、その言葉を聞いていた。
(明日)
心臓が、冷たくなる。
「……分かってる」
イルルは、短く答えた。
使いは、それだけ言うと、闇の中に消えた。
イルルは、一人、路地に残された。
(明日)
頭の中で、繰り返される。
(明日、トールを、始末する)
できるわけがない。
(できない)
イルルは、壁に背を預けて、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
(どうすればいい)
答えは、出ない。
トールの言葉が、頭の中で繰り返される。「後悔してない」。
小林さんの笑顔が、浮かぶ。「敵でも、飯はうまいだろ」。
カンナの手の温かさが、蘇る。
(私は、どっちを選ぶんだ)
イルルは、空を見上げた。
夜空に、星が、またたいている。
──
アパートに戻ると、リビングの明かりが、まだついていた。
「お、おかえり。遅かったな」
小林さんが、ソファに寝転がって、ビールを飲んでいた。
「……ただいま」
イルルは、小さく答えた。
「腹減った? トールが、夕飯、用意してくれてるよ。あんたの分も」
「……あとで食べる」
イルルは、台所に向かった。
ガスコンロの前に立つ。
(火)
イルルは、コンロのつまみをひねった。
ボッ、と青い炎が上がる。
イルルは、その炎を、ゆっくりと吸い込んだ。
炎が、体の中に入っていく。温かい。でも、味はない。人間の火は、味のない軽食みたいなものだ。
(でも、今は、これでいい)
イルルは、目を閉じた。
(明日、どうなるのか)
(私が、どちらを選ぶのか)
(まだ、決められない)
炎が、消える。
台所に、静かな闇が戻った。
イルルは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
(私は、トールを始末するという決断を、先送りにしている)
その事実が、何よりも重く、心にのしかかっていた。Noveliaとは?
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