小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑
混沌勢の掟は絶対。人間に染まった者は炎で清めなければならない。でも――トールは、私が初めて戦い方を教わった、優しい先輩だった。
純血の焔の戦士・イルルに下った任務は、人間界に潜入したまま戻らないトールの調査と、もし人間と共存しているなら制裁を下すこと。境界の裂け目をくぐり、人間界へ降り立ったイルルが見たのは、混沌界では決して見られない穏やかな街の風景と、エプロンを身につけ人間の女・小林さんに嬉しそうに料理を運ぶトールの姿だった。
「小林さんは、私のメイドとしての全てですわ」
あんな風に笑うトールを、イルルは知らない。人間は支配すべき下等種族のはずなのに。掟に背いたトールを制裁すべきなのに。なのに、なぜ胸がこんなに痛むのか。ガルドに嘘をついてしまった自分に戸惑いながら、イルルは答えの出ない問いを抱えて夜を過ごす。
これは、任務と感情のあいだで揺れる一人の竜の少女の物語。
小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑 - 居酒屋と駄菓子 ―無防備な善意が武装を剥がす―
違う、と思った。
頭では分かっている。人間は支配すべき下等種族だ。混沌勢の掟の第一箇条。炎竜族として生まれた瞬間から、耳にタコができるほど聞かされてきた。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
イルルは居酒屋「とりまる」の入り口に立っていた。イーストエンドタウン駅前商店街の、赤い提灯がぶら下がった店。焼き鳥の煙とビールの匂いが、暖簾の隙間から流れ出てくる。人間の集まる場所。人間の笑い声が溢れる場所。
(私が、こんな場所に)
トールに「小林さんの会社の飲み会ですわ。イルルもご一緒しましょう」と半ば強引に連れてこられた。断る理由を思いつかなかった。いや、本当は断りたかった。でも、トールの金色の瞳が嬉しそうに細められるのを見たら、言葉が出なかった。
「さあ、入りますわよ!」
隣でトールが、ブロンドのツインテールを揺らして笑った。先端が平らな二又の角が、店の明かりを反射して、きらりと光る。白いエプロン姿はいつも通りだが、今日は特に気合が入っているように見えた。
「お前、なんでそんなに張り切ってんだよ」
黒いショートヘアに眠たげな三白眼。くたびれたスーツ姿の小林さんが、だるそうに首を回した。胸はかなり控えめで、全体的にフェミニンな要素が薄い。この人間の女が、トールの全てを捧げる相手だ。
「小林さんの晴れ舞台ですもの! 私が支えないでどうしますの!」
「ただの飲み会だっつーの」
小林さんは苦笑いして、暖簾をくぐった。トールがその後に続く。イルルは一瞬迷ってから、二人の背中を追いかけた。
──
店内は、思っていたより広かった。カウンター席とテーブル席が並び、壁には手書きのメニューが貼ってある。焼き鳥の煙がもうもうと立ちこめ、油の跳ねる音と、男たちの野太い笑い声が混ざり合っていた。
「おー、小林主任! こっちこっち!」
奥の座敷から、若い男が手を振った。スーツを着崩した、人間の男。隣には同じような男が二人、女が一人。全員、小林さんを見て笑っている。
「おう、悪いな、遅くなった」
小林さんは手を挙げて、座敷に上がった。トールがその隣にちょこんと座る。イルルは少し離れた場所に、ぎこちなく腰を下ろした。
(主任、と呼ばれた)
イルルは小林さんの横顔をちらりと見た。主任。人間の会社での立場。この女が、人間たちから慕われている。
「小林主任、聞きましたよ! 例のプロジェクト、大成功だったらしいじゃないですか!」
「あー、まあ、なんとかな」
「なんとかってレベルじゃないっすよ! 部長がめちゃくちゃ褒めてましたよ!」
「部長はいつも大げさなんだよ」
小林さんがビールを一口飲む。その周りで、同僚たちが次々と話しかける。仕事の話、最近の趣味の話、他愛のない雑談。そのすべてが、小林さんに向けられている。
(この人間は、嫌われていない)
イルルは、手元のグラスを見つめた。トールが注いでくれた、冷たいお茶。氷がカランと音を立てる。
(むしろ、好かれている)
人間は支配すべき下等種族。混沌勢の掟。でも、目の前の光景は、その教えとはまったく違う。小林さんは、人間たちに囲まれて、笑っている。人間たちも、小林さんに笑いかけている。
「イルル、大丈夫ですの? 退屈していませんか?」
トールが、心配そうに覗き込んできた。
「別に。退屈なんてしてない」
イルルは、ぶっきらぼうに答えた。でも、本当は、居心地が悪かった。この温かい空気が、肌に合わない。いや、合わないというより、痛い。温かさが、棘のように突き刺さる。
(なんで、こんなに苦しいんだ)
イルルは、お茶を一口飲んだ。冷たい液体が、喉を通っていく。
「小林主任、この前の資料、ありがとうございました! すごく助かりました!」
若い女の同僚が、小林さんに頭を下げた。
「ああ、あれな。別にいいって。また何かあったら言えよ」
「はい! ありがとうございます!」
女の同僚は、ぱあっと顔を輝かせた。その表情を見て、イルルは、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
(この人間は、誰にでも優しい)
私にも、優しかった。アパートの前で立ち尽くしていた私に、「中入ったら?」と声をかけた。高級和牛をカゴに山積みにした私を、怒りもせずに笑った。
(なんで、こんな人間が)
トールの隣にいるんだ。
イルルは、トールを見た。トールは、小林さんのグラスが空いていないか、常に気を配っている。小林さんがビールを飲み干すと、すかさず新しいのを注ぐ。その動きは、完璧なメイドのそれだった。
「小林さん、そろそろ焼き鳥が焼けますわ。お好きな部位を選んでくださいな」
「お前が選んでくれよ。お前の選ぶやつ、うまいから」
「まあ! 小林さんにそんなことを言っていただけるなんて……私、嬉しくて溶けてしまいそうですわ!」
トールが、両手を頬に当てて、くねくねと体を揺らした。その姿を見て、同僚たちが笑う。
「相変わらず仲良しだなー、小林主任とトールさん」
「ていうか、トールさん、ほんと小林主任のこと好きだよね」
「当然ですわ! 小林さんは私の全てですもの!」
トールが、胸を張って宣言した。同僚たちが、また笑う。温かい笑い。好意的な視線。
(居場所が、ある)
イルルは、自分の手を見た。小さな手。炎を生み出すための手。この手には、何もない。
(トールには、居場所がある)
(小林さんには、居場所がある)
(私は、どこにも)
胸の奥が、きゅうっと締め付けられる。この感覚を、なんと呼ぶのか。イルルには、まだ分からなかった。
──
飲み会が中盤に差し掛かった頃。
「おー、小林! 迎えに来たよ!」
店の入り口から、高い声がした。
振り返ると、白いロングヘアを揺らした小さな少女が立っていた。両端に宝玉がついた羽のような飾り。大きな紫色の瞳。背中に小さな白い羽。頭に小さな角。小林カンナ。トールの妹分で、人間界では小林さんの親戚として暮らしている、ドラゴンの子供。
「おー、カンナ。わざわざ来たのか」
「うん! トールが、そろそろ帰る時間だよって言ってたから」
カンナは、とことこと座敷に上がってきた。同僚たちが、口々に「かわいい」と声を上げる。カンナは、そんな声には慣れているのか、気にした様子もなく、きょろきょろと店内を見回した。
そして、イルルを見つけた。
「おー、イルル! いた!」
カンナは、ぱたぱたとイルルの隣に駆け寄ってきた。物怖じしない。警戒心の欠片もない。
「イルル、これ、食べる?」
カンナが、小さな手を差し出した。その手には、カラフルな包み紙に包まれた、人間の菓子。駄菓子、というやつだ。
「……何、これ」
イルルは、警戒しながら、その菓子を見つめた。
「駄菓子! おいしいよ! タケトと一緒に買ったの」
「……タケト?」
「うん! 駄菓子屋の店番をしてる子! 今度紹介するね!」
カンナは、にこにこと笑いながら、イルルの手に駄菓子を押し付けてきた。
「これ、甘くておいしいの。イルル、甘いの好き?」
「……別に。好きでも嫌いでもない」
イルルは、ぶっきらぼうに答えた。でも、カンナは、まったく気にしていない。
「じゃあ、食べてみて! きっと好きになるよ!」
カンナの紫色の瞳が、まっすぐにイルルを見つめている。悪意がない。裏表がない。ただ、純粋に、お菓子を分けたいだけ。
(この子供は、なんで)
イルルは、カンナの手の中の駄菓子を、受け取ってしまった。断りきれなかった。いや、断る理由が、見つからなかった。
「やった! イルル、食べてくれるの!」
カンナが、ぱあっと笑った。その笑顔は、さっきの女の同僚の笑顔と、どこか似ていた。
(人間の笑顔は、なんでこんなに)
イルルは、駄菓子の包み紙を、ぎゅっと握りしめた。
「おいしいでしょ? それ、カンナのお気に入りなの」
カンナが、イルルの顔を覗き込む。
「……まだ、食べてない」
「早く食べてみて! おいしいから!」
イルルは、しぶしぶ、包み紙を開けた。中から出てきたのは、小さな丸い菓子。砂糖がまぶしてある。イルルは、それを口に入れた。
甘い。
強烈に、甘い。
「……あま」
「でしょ? おいしいでしょ?」
カンナが、嬉しそうに笑った。
(おいしい、のか?)
イルルは、口の中の甘さを、どう表現していいのか分からなかった。人間の火は、味のない軽食みたいなものだ。でも、この菓子は、味がある。強烈な甘さ。
(これが、人間の味)
イルルは、もう一度、菓子を口に入れた。甘い。でも、嫌な感じはしない。
「イルル、カンナと仲良くしてくれて、ありがとう」
トールが、隣で微笑んでいた。
「別に。仲良くなんてしてない」
イルルは、顔を背けた。でも、口の中の甘さは、まだ残っていた。
──
飲み会が終わり、店の外に出た。
夜風が、火照った体に心地よかった。駅前商店街は、まだ人通りがある。飲み会帰りのサラリーマン、買い物袋を提げた主婦、笑いながら歩く若者たち。
「じゃあ、また明日な」
「お疲れ様でした、主任!」
「お疲れ様でしたー!」
同僚たちが、手を振りながら、駅の方へ歩いていく。小林さんは、軽く手を挙げて、それを見送った。
「さあ、帰りましょう! カンナも、よく来てくれましたわ」
「うん! 楽しかった!」
カンナが、ぴょんぴょん跳ねながら言った。
「カンナ、お前、飲み会来たの初めてだろ。楽しかったのか?」
「うん! イルルに駄菓子あげられたし!」
カンナが、イルルの方を向いて、にこっと笑った。
イルルは、何も言えずに、カンナから目を逸らした。
四人で、駅前商店街を抜け、住宅街の方へ歩いていく。トールと小林さんが前を歩き、その後ろを、カンナとイルルが歩く。
「イルルはさ」
カンナが、不意に、イルルの顔を見上げた。
「……なに」
「なんで、そんなに怒ってるの?」
カンナの紫色の瞳が、真っ直ぐにイルルを見つめている。
「……怒ってなんかない」
イルルは、ぶっきらぼうに答えた。
「でも、いつもこわい顔してるよ」
カンナが、小首を傾げた。
「こわい顔なんて、してない」
「してる。眉が、こうなってる」
カンナが、自分の眉の間に指を当てて、しかめっ面をしてみせた。
「……そんな顔、してない」
イルルは、否定した。でも、心のどこかで、カンナの言う通りかもしれない、と思っていた。
(私は、怒っているのか?)
イルルは、自分の感情を、探ってみた。怒り。苛立ち。悲しみ。寂しさ。いろんな感情が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
(何に対して、怒っているんだ)
人間に対して? トールに対して? 自分に対して?
分からない。
「イルルは、怒ってないの?」
カンナが、もう一度、尋ねた。
「……分からない」
イルルは、絞り出すように言った。
「そっか。分かんないのか」
カンナは、それ以上、何も聞かなかった。ただ、イルルの隣を、とことこと歩いた。
(この子供は、なんで、こんなに)
イルルは、カンナの小さな手を見た。さっき、駄菓子を差し出してきた手。温かそうな手。
(私のことを、怖がらない)
(私のことを、嫌わない)
(なんで)
イルルは、カンナの手を、握りたくなった。でも、できなかった。
前を歩くトールは、何も言わずに、小林さんと並んで歩いていた。時々、小林さんが何か言うと、トールが笑う。その笑い声が、夜の静かな住宅街に、小さく響いた。
──
アパートに戻った。
「あー、疲れた。風呂入って寝るわ」
小林さんは、そう言って、リビングのソファに倒れ込んだ。
「小林さん、お風呂の準備は私がしておきますわ。今日はゆっくり浸かってくださいな」
トールが、てきぱきと浴室に向かう。
「カンナも、今日は泊まっていく?」
「うん! 泊まる! イルルと一緒に寝る!」
カンナが、嬉しそうに言った。
「……は? なんで私と」
イルルは、目を丸くした。
「だって、イルル、あったかいんだもん」
「……あったかくない」
「あったかいよ。炎竜だもん」
カンナは、にこにこ笑っている。
イルルは、反論できなかった。確かに、炎竜族の体温は、人間より高い。
「イルル、カンナに懐かれてるじゃない」
ソファに寝転がったまま、小林さんが笑った。
「懐かれてない」
イルルは、顔を背けた。
──
夜。
イルルは、居候スペースで、一人、天井を見つめていた。
(今日、いろんなことがあった)
小林さんの飲み会。人間たちの温かい空気。カンナの駄菓子。カンナの質問。
(なんで、そんなに怒ってるの?)
カンナの声が、頭の中で繰り返される。
(私は、怒っているのか)
イルルは、自分の胸に手を当てた。心臓が、静かに脈打っている。
(怒ってる、のかもしれない)
人間は敵だと教えられた。でも、目の前の人間たちは、敵じゃない。小林さんは、私に優しい。カンナは、私に駄菓子をくれる。トールは、私の姉でいたいと言う。
(教えと、現実が、違う)
その違いに、私は、怒っているのか。
(それとも、悲しいのか)
分からない。
「イルル、起きてる?」
居候スペースの入り口から、トールの声がした。
「……起きてる」
イルルは、体を起こした。
トールが、静かに入ってきた。ブロンドの髪が、月明かりで、銀色に光っている。
「今日は、どうだった?」
トールが、イルルの隣に座った。
「……別に。普通だった」
「ふふっ、イルルは素直じゃないですわね」
トールが、微笑んだ。
「素直じゃなくて悪かったな」
イルルは、ぶっきらぼうに言った。
トールは、しばらく、何も言わなかった。静かな夜。遠くで、虫の声が聞こえる。
「イルル」
トールが、静かに口を開いた。
「……なに」
「あなたがどんな結論を出しても、私はあなたの姉でいたい」
トールの金色の瞳が、真っ直ぐにイルルを見つめている。
「……何の話」
イルルは、とぼけた。でも、心臓が、ドキドキと脈打ち始めた。
(この人は、知っている)
ガルドからの命令。トールを始末しろという命令。トールは、それを知っている。
「イルルが、どんな選択をしても、私はイルルを責めないわ」
トールが、続けた。
「だって、イルルは、私の大切な妹ですもの」
トールの声は、優しかった。でも、その優しさが、イルルの胸に、深く突き刺さった。
(私は、この人を、始末しなきゃいけないのに)
(なのに、この人は、私を妹だと言う)
イルルは、唇を噛んだ。
「あんた、お人好しすぎるわよ」
イルルは、精一杯の棘を、トールにぶつけた。
「よく言われますわ」
トールは、柔らかく笑った。
その笑顔。
写真の中で、小林さんと一緒に笑っていた、あの無防備な笑顔。
(同じだ)
イルルの胸が、ぎゅっと苦しくなった。
「……私は」
イルルは、言葉を、絞り出そうとした。
(私は、まだ、何も決めてない)
(トールを始末するか、掟に背くか)
(まだ、決められない)
でも、その言葉は、喉の奥で、つかえて、出てこなかった。
「……私は、まだ」
イルルは、もう一度、言おうとした。でも、やっぱり、言葉にならない。
(なんで、言えないんだ)
(なんで、こんなに、苦しいんだ)
イルルは、下を向いた。
「大丈夫よ。焦らなくていいの」
トールが、イルルの頭を、そっと撫でた。
その手が、温かかった。
「……やめろ」
イルルは、トールの手を、振り払おうとした。でも、体が、動かなかった。
「イルルは、私の妹ですもの。お姉ちゃんに、甘えていいのよ」
トールが、優しく言った。
イルルは、何も言えなかった。
(甘える?)
(私が?)
(そんなこと、できるわけない)
でも、トールの手は、温かくて、心地よかった。
イルルは、目を閉じた。
(今だけ、今だけ)
心の中で、そう呟いた。
──
翌朝。
イルルは、台所に立っていた。
(火を、吸わなきゃ)
炎竜族のエネルギー源は、炎だ。人間界では、ガスコンロの火を吸って、魔力に変換する。
イルルは、コンロのつまみに手を伸ばした。
「イルル!」
後ろから、カンナの声がした。
振り返ると、カンナが、ぱたぱたと台所に入ってきた。
「……なに」
「イルル、この火、分けてくれる?」
カンナが、ガスコンロの前に立ち、つまみに手をかざした。
「……火を?」
「うん! イルルの火、すごくきれいなんだもん。カンナ、見たい!」
カンナの紫色の瞳が、きらきらと輝いている。純粋な好奇心。悪意の欠片もない。
(この子供は、私の力を、怖がらない)
イルルは、カンナの無邪気な笑顔を見た。
(私の炎を、きれいだと言う)
混沌の炎。人間を焼き尽くすための炎。それを、この子供は、きれいだと言う。
「……いいけど」
イルルは、コンロのつまみをひねった。
ボッ、と青い炎が上がる。
イルルは、その炎に、自分の魔力を少しだけ混ぜた。炎が、ほんの少し、オレンジ色に変わる。混沌の炎の欠片。
「わあ……」
カンナが、目を輝かせた。
「あったかい……きれい……」
カンナが、ガスコンロの火に、小さな手をかざした。その手が、オレンジ色の炎に照らされて、温かそうに見える。
「イルル、すごい! イルルの火、すごくきれい!」
カンナが、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、イルルの口元が、自然と緩んだ。
(あれ?)
イルルは、自分の顔に触れた。
(私、今、笑った?)
カンナの無邪気な笑顔が、イルルの心の奥に、そっと火を灯した。
(なんで、笑ったんだ)
イルルは、カンナの笑顔を見つめた。
(この子供の笑顔を、守りたい)
そう思った自分に、イルルは、驚いた。
──
その瞬間。
「イルル」
低い声が、台所の窓の外から聞こえた。
イルルは、はっと顔を上げた。
窓の外。アパートの裏手。黒い外套を身にまとった男が、立っている。純血の焔の使い。顔は、フードで隠れている。
「期限は過ぎた。今夜、返事を聞く」
使いは、それだけ言うと、音もなく消えた。
イルルは、その場に、立ち尽くした。
(今夜)
心臓が、冷たくなる。
(今夜、返事を)
トールを始末するか、しないか。
その返事を、今夜、ガルドに、しなければならない。
「イルル、どうしたの?」
カンナが、イルルの顔を覗き込んだ。
「……なんでもない」
イルルは、カンナから目を逸らした。
カンナの笑顔。その笑顔を、守りたいと思った。
でも、掟が、それを許さない。
(私は、どうすればいい)
イルルは、ガスコンロの炎を見つめた。
青い炎。オレンジ色の炎。
その炎が、ゆらゆらと揺れている。
(今夜、私は、選ばなければならない)
トールを始末するか。
それとも、掟に背くか。
イルルの平穏な朝は、一瞬で、崩れ去った。Noveliaとは?
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