小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑
混沌勢の掟は絶対。人間に染まった者は炎で清めなければならない。でも――トールは、私が初めて戦い方を教わった、優しい先輩だった。
純血の焔の戦士・イルルに下った任務は、人間界に潜入したまま戻らないトールの調査と、もし人間と共存しているなら制裁を下すこと。境界の裂け目をくぐり、人間界へ降り立ったイルルが見たのは、混沌界では決して見られない穏やかな街の風景と、エプロンを身につけ人間の女・小林さんに嬉しそうに料理を運ぶトールの姿だった。
「小林さんは、私のメイドとしての全てですわ」
あんな風に笑うトールを、イルルは知らない。人間は支配すべき下等種族のはずなのに。掟に背いたトールを制裁すべきなのに。なのに、なぜ胸がこんなに痛むのか。ガルドに嘘をついてしまった自分に戸惑いながら、イルルは答えの出ない問いを抱えて夜を過ごす。
これは、任務と感情のあいだで揺れる一人の竜の少女の物語。
小林さんちのメイドラゴン外伝 イルルの困惑 - 居候は炎竜の掟を破れるか ―写真の中の笑顔―
違う、と思った。
頭では分かっている。人間は支配すべき下等種族だ。混沌勢の掟の第一箇条。炎竜族として生まれた瞬間から、耳にタコができるほど聞かされてきた。なのに、なぜ胸がこんなに痛いのだろう。
イルルは小林さんのアパートの前に立っていた。築15年の2階建て、全8戸。駅から歩いて15分ほどの住宅街にある「メゾン東エンド」。昨夜、ガルドに嘘をついてから、気づけばここに戻ってきていた。他に行く場所なんて、なかった。
(私、何をやってるんだ)
夜風が吹いて、赤い髪の先が炎のように揺れる。頭頂部の小さな二本の角は、人間擬態の魔法で隠れている。尻尾も、見えない。でも、心の中の炎だけは、どうしても消せなかった。
2階の201号室の窓から、オレンジ色の明かりが漏れている。トールがまだ起きているのだろう。昨日の朝、窓から覗いた光景がまぶたの裏に浮かぶ。エプロン姿のトールが、人間の女に笑顔で料理を運んでいた。あの笑顔が、どうしても頭から離れない。
(制裁しなきゃいけないのに)
ガルドの命令は明確だった。トールが人間と共存しているなら、焰の制裁を下せ。混沌勢の掟の第三箇条、人間に染まった者は制裁する。それは、炎竜族の戦士として当然の義務だ。
でも、できない。
イルルは自分の手を見た。小さな手。炎を生み出すための手。この手で、トールを焼き尽くせというのか。戦い方を教えてくれた、あの優しいトールを。
(嫌だ)
心の奥から、拒否の声が聞こえた。
──その時、ガチャリ、と音がした。
アパートの玄関扉が開く。イルルはとっさに身を隠そうとしたが、遅かった。
「あれ? こんな夜中に何してるの?」
黒いショートヘアに、眠たげな三白眼。くたびれたTシャツにジャージ姿。胸はかなり控えめで、全体的にフェミニンな要素が薄い。小林さん、という人間の女だ。右手にコンビニの袋を提げている。夜食でも買いに行っていたのだろう。
イルルは言葉に詰まった。こんな時間に、アパートの前で立ち尽くしている不審者。どう見ても怪しい。
「……別に。ちょっと、散歩」
声がうわずる。自分でも分かるほど、不自然な言い訳だった。
小林さんはしばらくイルルの顔をじっと見ていた。値踏みするような、でもどこか気の抜けた視線。やがて、ふっと息を吐いた。
「へえ、散歩ね。まあ、いいけど。寒いから、中入ったら?」
「は?」
イルルは目を丸くした。この人間は、何を言っているんだ。怪しい奴を家に入れるなんて、正気か。
「いや、別に。入りたくなかったら、それでいいけど。でも、トールがうるさいからさ。ほら、あの子、あんたのこと気にしてたし」
「トールが……私のことを?」
胸の奥が、チクリと痛んだ。トールが、私のことを気にしている? 制裁対象の、私のことを?
「まあ、とにかく。入るなら入るで、ビールくらい出すよ。入らないなら、勝手に帰って」
小林さんはそう言うと、さっさと玄関の方へ歩いていった。迷いのない足取り。イルルはその後ろ姿を、呆然と見つめた。
(なんで、この人間は)
私を恐れないんだ。警戒しないんだ。普通、知らない奴に「中入ったら?」なんて言わないだろ。
イルルはしばらく迷った。でも、結局、足は玄関の方へ向かっていた。他に行く場所なんて、なかったから。
──
「あら、イルル! いらっしゃい!」
玄関を開けた瞬間、明るい声が飛んできた。ブロンドのツインテールがふわりと揺れる。先端が平らな二又の角。金色の瞳。白いエプロンをつけたトールが、嬉しそうに笑っていた。
「聞きましたわよ。小林さんが、アパートの前で立ち尽くしてたって。もう、こんな夜中にどうしたんですの? お腹でも空きましたの?」
「別に。お腹なんて空いてない」
イルルはぶっきらぼうに答えた。でも、本当は、お腹が空いていた。朝から何も食べていない。ガスコンロの火でも吸えればいいのだが、さすがにこの場でそれはできない。
「ふふっ、素直じゃないんですのね。まあ、いいわ。さあ、上がって。今、温かいお茶を入れますから」
トールはそう言って、イルルを部屋の中へ招き入れた。
リビングには、ソファとテレビ。台所にはガスコンロ。人間の住む部屋。混沌界の焦土の谷とは、まったく違う空間だ。空気が、柔らかい。温かい。
(これが、トールが選んだ場所)
イルルは部屋の中をゆっくりと見回した。壁にはカレンダー。棚には、小さな置物。テレビの上には、リモコン。どれも、人間の生活の匂いがする。
「ほら、座りな。ビール飲む?」
小林さんは冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、一本をイルルに差し出した。
「……人間の飲み物なんて、飲まない」
イルルは警戒しながら、缶をじっと見た。銀色の缶に、知らない文字。プルタブというやつだ。人間の酒。混沌界にはないもの。
「ふーん。じゃあ、いいや。私が飲むから」
小林さんはプルタブを引き抜き、ぐいっと缶を傾けた。喉が動く。ごくごくと、気持ちよさそうに飲んでいく。
「ぷはーっ。うめえ」
その表情が、妙に幸せそうで。
イルルは、むっとした。
(なんで、そんなに美味しそうに飲むんだ)
人間の飲み物なんて、大したことないはずだ。なのに、この人間は、まるで最高のご馳走みたいに飲む。
「……一口、飲んでみる」
イルルは、意地になって言った。
「お、飲めないのかと思った」
「飲めないわけじゃない。ただ、人間の飲み物に興味がなかっただけ」
イルルは缶を受け取ると、小林さんの真似をして、プルタブを引いた。プシュッ、という音。中から炭酸の匂いがする。
(これが、ビール)
イルルは恐る恐る、缶を口に運んだ。
──まずい。
苦い。そして、炭酸が舌を刺す。喉の奥が、焼けるように痛い。
「げほっ! ごほっ!」
イルルはむせた。涙が出る。咳が止まらない。
「あはははは! なに、その反応! 初めてビール飲んだ子供みたい!」
「ふふっ、イルルったら、本当に可愛いんですのね」
二人が笑っている。小林さんは腹を抱えて、トールは口元に手を当てて。
イルルは、顔が熱くなった。恥ずかしい。悔しい。なんで、こんな人間に笑われなきゃいけないんだ。
「うるさい! 別に、飲めないわけじゃない! ただ、人間の酒がまずいだけだ!」
「はいはい、そうだね。まずいね。でも、それでいいんだよ。ビールは、まずいからいいんだ」
小林さんは、まだ笑いながら言った。
イルルは、意味が分からなかった。まずいのに、なんで飲むんだ。まずいのに、なんで笑えるんだ。
(この人間は、本当に、変だ)
イルルは、そう思った。
──
翌朝。
イルルは、小林さんのアパートに居候することになった。
「まあ、ちょっと変わった子ってことで。トールの知り合いなら、別にいいよ。家賃は、まあ、そのうちな」
小林さんは、朝のコーヒーを飲みながら、あっさりとそう言った。
「まあ! イルルがうちに住むんですの! 嬉しいわ! 私、張り切ってお部屋を掃除しますわね!」
トールは、目を輝かせて、掃除道具を取り出した。
イルルは、ソファの端に座って、二人の様子を眺めていた。
(いいのか、これで)
私は、トールを制裁するために来た。なのに、トールと同じ家に住む。それどころか、この人間に世話になろうとしている。
(ガルドに、なんて言えば)
頭の中で、ガルドの顔が浮かぶ。赤い眼が、鋭く光っている。「純血の焔は待たないぞ」と、あの低い声が言った。
(時間がない)
でも、まだ、トールを制裁する気にはなれない。トールが、なぜ人間と共存しているのか。それを、知りたい。知ってからでも、遅くないはずだ。
イルルは、自分にそう言い聞かせた。
──
「イルル、ちょっと台所に来てくださる?」
昼過ぎ。トールが、イルルを台所に呼んだ。
トールはエプロンを着けたまま、シンクの前に立っていた。真剣な表情。金色の瞳が、まっすぐにイルルを見つめている。
「あなたがここに住むなら、いくつか覚えてほしいことがありますの」
「……何よ」
イルルは、警戒しながら台所に入った。
「まず、人間界で目立たないこと。あなたのその角と尻尾は、人間には見えないようになっていますけど、感情が高ぶると、うっかり出てしまうことがありますの。気をつけてくださいな」
「分かってる」
「それから、余計なことをしないこと。人間界には、人間のルールがありますの。混沌界の常識は、通用しません。勝手に炎を出したり、空を飛んだりしてはいけませんわ」
「……分かってるわよ」
「そして、何より」
トールは、少しだけ声を低くした。
「小林さんの邪魔をしないこと。小林さんは、お仕事でお疲れなんですの。だから、私が、小林さんを癒やして差し上げる。それが、メイドとしての私の務めですわ」
その言葉に、イルルの胸が、ざわついた。
「……あんた、本当に人間のメイドなんかやってるのね」
イルルは、棘のある言い方で返した。
「ええ。小林さんのメイドであることは、私の全てですわ」
トールは、微笑んだ。
その笑顔が、昨日、窓から見たものと同じで。
(また、その顔)
イルルは、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるのを感じた。
「……別に、あんたの勝手でしょ」
イルルは、それだけ言って、台所を出た。
──
夕方。
トールが、買い物に出かけた。
「小林さんの大好きな、お豆腐が特売なんですの! ちょっと行ってきますわね! イルルは、お留守番をお願いしますわ」
トールは、買い物袋を持って、嬉しそうに出かけていった。
イルルは、リビングに一人残された。
(留守番、か)
ソファに座って、テレビをつける。人間の番組が、賑やかに流れている。でも、内容は、まったく頭に入ってこない。
(トールの部屋)
イルルの視線が、廊下の奥に向いた。トールの部屋のドア。閉じられた、木の扉。
(見てはいけない)
頭では、そう思う。でも、体が、動く。
イルルは、立ち上がった。
(ちょっとだけ。ちょっとだけなら)
自分に言い訳をしながら、廊下を進む。心臓が、ドキドキと速く脈打っている。
トールの部屋のドアの前に立つ。ノブに手をかける。金属の冷たさが、指先から伝わってくる。
(ここに、トールの秘密がある)
人間と共存する理由。掟を破った理由。それを知る手がかりが、きっと、この部屋の中にある。
イルルは、ゆっくりと、ドアを開けた。
──部屋の中は、きれいに片付いていた。
ベッド。机。クローゼット。そして、机の上に、一枚の写真。
イルルは、吸い寄せられるように、机に近づいた。
(これは)
写真を手に取る。
そこには、小林さんとトールが、並んで写っていた。商店街の前で、二人で笑っている。トールは、エプロン姿ではなく、私服。そして、その顔は──
イルルは、息を止めた。
(なに、この顔)
イルルが知っているトールは、戦士の顔か、メイドの顔。でも、写真の中のトールは、そのどちらでもなかった。無防備で、柔らかくて、心から幸せそうな笑顔。
(こんな顔、したことなかった)
焦土の谷で、トールがこんな顔をしたことなんて、一度もなかった。いつも、強くて、凛としていて、でも、どこか悲しそうだった。
(なのに、人間の前では、こんな顔をするんだ)
胸が、痛い。
嫉妬なのか、憧れなのか、自分でも分からない感情が、胸の中で渦を巻く。
(私には、一度も見せたことないのに)
写真を持つ手が、震える。
「それ、この前の商店街で撮ったやつ」
突然、後ろから声がした。
イルルは、心臓が飛び出しそうになった。
「なっ……!」
振り返ると、小林さんが、部屋の入り口に立っていた。いつもの、眠たげな三白眼。でも、その目は、まっすぐにイルルを見ていた。
「トールの部屋、勝手に入っちゃダメだろ。まあ、私も人のこと言えないけど」
「……違う! 別に、勝手に入ったわけじゃ……」
イルルは、慌てて写真を机の上に戻した。手が、震える。
「別に、怒ってないよ。ただ、トールに内緒にしといてあげる。あいつ、怒ると怖いから」
小林さんは、そう言って、軽く笑った。
イルルは、何も言えなかった。
──
翌日。
「イルル、ちょっと買い物行ってきてくんない? フレッシュマート東店。このリストのやつ」
小林さんが、メモ用紙を差し出した。
「買い物?」
「そう。私、今日は仕事で遅くなるから。トールも、今日は用事があるって言うし。あんた、暇でしょ?」
「……暇じゃない」
イルルは、むっとして答えた。でも、実際、暇だった。やることなんて、何もない。
「じゃあ、行ってきて。お金はこれ。おつりは、好きなもの買っていいから」
小林さんは、財布から紙幣を数枚取り出して、イルルに渡した。
「……分かったわよ。行けばいいんでしょ」
イルルは、しぶしぶ紙幣を受け取った。
──
フレッシュマート東店は、小林さんのアパートから徒歩10分のスーパーだった。24時間営業で、品揃えが豊富。イルルは、初めて入る人間の店に、緊張しながら足を踏み入れた。
(すごい)
店内は、明るくて、広くて、食べ物が、山のように並んでいた。混沌界では、食料は、自分で獲るか、奪うかしかなかった。こんな風に、お金を出せば、何でも手に入るなんて。
(人間は、ずるい)
イルルは、心の中で呟いた。
メモ用紙を見る。書かれているのは、人間の文字。読める。トールに教わった。
「牛乳、卵、パン、野菜……」
イルルは、カゴを持って、店内を歩き始めた。
そして、肉売り場に差し掛かった時、足が止まった。
(これは)
高級和牛のパック。美しい霜降り。値段を見る。
(……よく分からない)
イルルには、値段の概念がなかった。数字は読める。でも、その数字が、高いのか安いのか、さっぱり分からない。
(でも、これは、美味しそう)
イルルは、高級和牛のパックを、カゴに入れた。
そして、もう一つ。
(これだけあれば、しばらく食べられる)
イルルは、満足げに頷いた。
──
「お前、金の感覚ないだろ」
夜。帰宅した小林さんが、買い物袋を開けて、呆れた顔をした。
「なんでよ。ちゃんと買ってきたでしょ」
「高級和牛を三つも買ってくるやつがいるか。これ、一枚いくらすると思ってんだ」
「……知らない。でも、美味しそうだったから」
イルルは、むっとして答えた。
「イルル、人間界の買い物は、計画的にですわ。予算というものがあって、その範囲内で買わないと、お金がいくらあっても足りませんの」
トールが、苦笑しながら言った。
「まあ、今日は歓迎ってことで。これ、一つだけ残して、あとは返品してくるわ。……いや、返品は面倒だな。冷凍しとくか」
小林さんは、高級和牛のパックを二つ、冷凍庫に入れた。
イルルは、複雑な気持ちで、その様子を見ていた。
──
翌日。
小林さんとトールとイルルの三人で、フレッシュマート東店へ買い物に行った。
「小林さん、今日は何を作りましょうか? カレー? それとも、お鍋?」
「んー、寒いし、鍋でいいんじゃない?」
「では、お豆腐と、白菜と、豚肉を買いましょう! あ、でも、イルルのために、鶏肉も買った方がいいかしら? あの子、豚肉苦手なんですの」
トールが、迷わず小林さんの好物を選んでいく。その姿が、妙に自然で。
(トールは、この人間のことを、何でも知ってるんだ)
イルルは、その後ろ姿を、じっと見ていた。
「イルル、何ぼーっとしてんの? カゴ持って」
「……別に、ぼーっとしてない」
イルルは、慌ててカゴを持った。
小林さんが、トールに笑いかける。
「トール、これ、美味そうじゃない? 今週の特売品」
「まあ! 小林さん、それ、私も気になってたんですの! 買いましょう! 私、美味しく調理しますわ!」
二人が、楽しそうに笑い合う。
その光景が、イルルの胸に、ちくりと刺さった。
──
帰り道。
夕日が、街をオレンジ色に染めていた。三人は、買い物袋を提げて、住宅街を歩いていた。
「ねえ、イルル」
トールが、静かに口を開いた。
「……何よ」
「あなたは、人間を嫌っているの?」
その質問に、イルルは、足を止めた。
(人間を、嫌っているか)
答えは、決まっている。教えられてきた。人間は、支配すべき下等種族。嫌いも好きもない。ただ、そういうものだと。
「……嫌いよ。教えられたもの。人間は、支配すべき下等種族って」
イルルは、そう答えた。でも、その声は、自分でも驚くほど、弱々しかった。
トールは、しばらく黙って、イルルを見ていた。
「私も、最初はそうだったわ」
「……え?」
「私も、人間を嫌っていた。見下していた。でも、小林さんに出会って、変わったの。私が、死にかけた時、助けてくれたのが、小林さんだったから」
トールの声は、穏やかで、でも、どこか遠くを見ているようだった。
「……あんた、掟を破ったの?」
イルルは、恐る恐る聞いた。
「破ったわ。でも、後悔してない」
トールは、即答した。
その強さに、イルルは、何も言えなくなった。
(後悔してない)
掟を破って、人間と暮らして、それでも、後悔していない。
(そんなこと、言えるんだ)
イルルは、トールの横顔を見た。金色の瞳が、夕日に照らされて、きらきらと輝いている。
「ま、敵でも飯はうまいだろ」
前を歩いていた小林さんが、振り返らずに言った。
「……は?」
「だから、敵でも、飯はうまいって話。あんた、昨日、高級和牛、美味そうに食ってたじゃん」
「……食べてない。まだ、冷凍庫の中」
「あ、そうだった。じゃあ、今日、食おうぜ。せっかくだから」
小林さんは、笑った。
その笑顔を見た瞬間、イルルの中で、何かが、激しく軋んだ。
(敵でも、飯はうまい)
そんな、単純な。そんな、当たり前の。
(なのに、なんで)
イルルは、胸に手を当てた。心臓が、ドキドキと脈打っている。
(なんで、こんなに、苦しいんだ)
──
その夜。
イルルは、一人で、駅裏の路地に立っていた。
(呼び出された)
正確には、呼び出されたわけではない。でも、分かった。ここに来れば、ガルドの使いが現れる。そういう気配が、あった。
夜の路地は、暗く、静かだった。遠くから、電車の音が聞こえる。
「イルル」
低い声。
闇の中から、一人の男が現れた。純血の焔の使い。黒い外套を身にまとい、顔は、フードで隠れている。
「ガルド様からの伝言だ。期限は三日。それまでに、トールを始末しなければ、お前も焰の制裁を受ける」
イルルは、黙って、その言葉を聞いていた。
(三日)
心臓が、冷たくなる。
「……分かってる」
イルルは、短く答えた。
使いは、それだけ言うと、闇の中に消えた。
イルルは、一人、路地に残された。
(三日)
頭の中で、繰り返される。
(三日で、トールを、始末する)
できるわけがない。
(できない)
イルルは、壁に背を預けて、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
(どうすればいい)
答えは、出ない。
小林さんの言葉が、頭の中で繰り返される。「敵でも飯はうまいだろ」。
トールの言葉も。「後悔してない」。
(私は、どっちを選ぶんだ)
イルルは、空を見上げた。
夜空に、星が、またたいている。
──アパートに戻ると、リビングの明かりが、まだついていた。
「お、おかえり。遅かったな」
小林さんが、ソファに寝転がって、ビールを飲んでいた。
「……ただいま」
イルルは、小さく答えた。
「腹減った? トールが、鍋、用意してくれてるよ。あんたの分も」
「……あとで食べる」
イルルは、台所に向かった。
ガスコンロの前に立つ。
(火)
イルルは、コンロのつまみをひねった。
ボッ、と青い炎が上がる。
イルルは、その炎を、ゆっくりと吸い込んだ。
炎が、体の中に入っていく。温かい。でも、味はない。人間の火は、味のない軽食みたいなものだ。
(でも、今は、これでいい)
イルルは、目を閉じた。
(明日、どうなるのか)
(私が、どちらを選ぶのか)
(まだ、決められない)
炎が、消える。
台所に、静かな闇が戻った。
イルルは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。Noveliaとは?
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