反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~
魔族というだけで人間に狩られ、奴隷に堕とされた少女・グレイ。角を持つその身に刻まれたのは、焼き印と鎖、そして屈辱の記憶だけだった。
グランヴェルド――大陸最大の奴隷貿易都市。そこでは魔族は「動く財産」でしかなく、抵抗すれば踏みにじられ、黙れば喰い物にされる。オークションで売れ残ったグレイに目をつけたのは、闘技場の興行主ヴァルド。与えられたのは錆びついた短剣一本と、猛獣の待つ死の檻だった。
絶望の底で、彼女の暗い紫の瞳に宿るのは諦めではなく、燃えるような殺意。
――奪われたものは、全部奪い返す。
――私を踏みつけた奴らは、いつか必ずこの手で殺す。
生き延びるためではない。喰らい尽くすために、少女は牙を剥く。
鎖に繋がれた「角の奴隷」が、血と砂の闘技場で、人間たちの作った地獄そのものを喰い破っていく――。
これは、奪われた少女が、奪う側へと成り上がる、復讐と解放の物語。
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反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~ - 死神の呼び声
闘技場の地下に、朝の光は差し込まない。
石壁に染みついた汗と血と黴の匂い。その奥に、微かな鉄の匂いが混じる。自分の拳から滲んだ血だ。昨夜、房の壁を殴り続けた拳は、皮膚が裂け、肉が覗いている。指を曲げるたび、じくじくと痛む。だが、この痛みだけが、自分がまだここにいると教えてくれる。
(残り十日)
木札の文字を、グレイは瞼の裏に浮かべた。
『特別興行 凶刃の女王、死神を産む』
『十日後 ゴルドバッハ闘技場 師弟殺し合い』
『勝者には、自由獲得の推薦状を与える』
自由。あの女を殺せば、手に入る。
(でも、あの女を殺したくない)
胸の中で、二つの感情が噛み合わずに回り続ける。昨夜は一晩中、その渦に飲まれかけて、眠れなかった。
ガチャリ、と鉄格子が鳴った。
「おはよう、グレイ。朝飯だよ」
セラフィナが、房の入り口に立っていた。長い黒髪。褐色の肌。尖った耳。金の月桂冠。黒地に金糸のコルセットが、胸と腰の線を浮き上がらせている。背には、いつもの処刑用の大剣。
凶刃の女王。私の師匠。そして、十日後に殺し合う相手。
グレイは、まっすぐに見上げた。ハイライトのない暗い紫の瞳が、師匠の輪郭を捉える。
「……いらない」
差し出された木の皿を、見もしないで言った。
「つれないねぇ。食べなきゃ体が持たないよ。十日後、あたしと戦うんだろ?」
セラフィナは軽やかに笑った。その笑みが、今は刃のように胸へ刺さる。
(どうして、そんな顔でいられる)
(私を殺すと決めたのに。私に殺されるかもしれないのに)
グレイはゆっくりと立ち上がった。拳の痛みが、じわりと広がる。
「……行くぞ」
セラフィナの横を通り抜け、房を出る。
「どこへ?」
「稽古場だ。お前が、私を追い込むんだろ」
振り返らずに言う。
「やるなら、今やれ。それとも、殺し合いの前に、私に情けでもかけるつもりか」
一瞬、セラフィナの気配が止まった。
「……そうだね。情けは、あんたに失礼だ」
声から、笑みが消えた。
「行こうか、グレイ。今日から十日間、あたしはあんたを、本気で追い込む」
訓練場は、夜明け前の冷気に満ちていた。踏み固めた土。壁の燭台の炎が、二人の影を揺らす。天井の鎖が、誰もいないのに、かすかに軋んだ。
グレイとセラフィナは、木剣を握って向かい合った。刃のない稽古用の剣。だが、セラフィナが握ると、それは本物より重く見える。
「今日は、まず木剣での打ち合いから。あんたの攻撃、全部見せてみな」
だらりと木剣を下げたまま、セラフィナが言う。
グレイは、歯を食いしばった。
(全部見せてみな、だと)
(私の全てを見切って、その上で、追い込むつもりだ)
地面を蹴った。一歩、二歩、三歩。間合いを詰める。
「はあっ!」
胴を狙った横薙ぎ。セラフィナは半歩引いただけで、それをかわした。
「遅い。踏み込みが浅いよ」
パシッ、と木剣がグレイの手首を打つ。木剣が弾き飛ばされた。
「……っ」
手首に走る痛みに顔を歪め、すぐ拾い上げて構え直す。
(まだだ)
今度は喉元への突き。セラフィナは首をわずかに傾けただけで避けた。
「悪くない。でも、まだ甘い。あんたの殺意は、まだ本物じゃない」
ドスッ、と木剣が脇腹を打つ。体が横に吹き飛び、土埃の中に叩きつけられた。
「がっ……!」
息ができない。脇腹が焼ける。
(この女は、本気だ)
(私を殺すつもりで、打ち込んでくる)
痛みに耐えて、立ち上がる。
「……まだ、やれる」
木剣を構え直すと、セラフィナがうっすらと笑った。
「いいねぇ、その目。あんたのその反骨が、あたしは大好きだよ」
「続けるよ。立ってる限り、容赦しない」
それから、どれだけ経ったか。
グレイは、何度倒されても、そのたびに立ち上がった。木剣の打ち合い。組手の関節技。投げ。絞め。セラフィナは、グレイが立つたびに、容赦なく倒した。
体は痣と擦り傷だらけになった。口の中は血の味。左肩は、投げられた時に打ったのか、動かすたびに激痛が走る。
それでも、グレイは立った。
(私は、あの女を殺さない)
(殺さずに、無力化する)
関節の逆取り。急所を外した打撃。足を狙った払い。その一つ一つを、セラフィナは見切って返した。
「今の、関節の逆取りのつもりかい? 発想はいい。でも、力の入れどころが逆だ。それじゃ、あんたの腕が折れるだけだよ」
腕を捻り上げながら、冷静に指摘する。
「急所を外すのは、生半可な覚悟じゃできない。相手を殺す気で打ち込まないと、逆に自分の手首を痛める」
足を払われ、地面に転がされた。
「あんたは、あたしを殺したくない。その甘さが、あんたの動きを鈍らせてる。十日後の試合で、あたしを無力化するつもりなら、そんな甘さは捨てな」
見下ろすセラフィナを、グレイは土まみれの顔で睨み返した。
「……うるさい」
歯を食いしばり、唸るように。
「私は、お前を殺さない。絶対に、殺さない」
「……あんたは、優しいね」
少しだけ悲しそうな目で、セラフィナは見下ろした。
「でも、その優しさが、あんたの命を奪うかもしれない。それだけは、覚えておきな」
そう言って、稽古場の隅の水差しを手に取った。
「少し、休もうか。あんたも、喉が渇いただろ」
セラフィナは水差しを傾け、喉を潤した。細い喉が、水を飲むたびに上下する。
(あの喉を、十日後に、斬るのか)
(それとも、私が斬られるのか)
自分の手を見る。木剣を握り続けた手は、皮が剥けて血が滲んでいた。
「……あんたも、飲みな」
無言で受け取り、口をつける。冷たい水が乾いた喉を流れ、血の味が少し薄まった。
「あたしはね、砂漠の民の出なんだ」
ぽつりと、セラフィナが呟いた。グレイは水を飲む手を止める。
「砂漠の民……山脈の向こう側の」
「そう。大山脈の向こうの、砂漠の国。あたしはそこで、下級騎士をやってたんだよ」
遠くを見る目で、セラフィナは語り始めた。
「この豊かな地を、奪おうと思った。砂漠には、何もないからね。水も、緑も、食い物も。あたしは、国のために、この地に侵攻した。……でも、負けたんだ」
自分の手を見つめる。
「敗残兵は、捕虜になった。あたしは、奴隷オークションで競り落とされた。この闘技場に来た時は、あたしも、ただの奴隷だったんだよ」
グレイは黙って聞いていた。
「でも、戦った。生きるために、必死で戦った。そうしているうちに、気づいたんだ。あたしは、戦うことが、好きなんだって」
口元が、うっすらと笑みの形を作る。
「あたしは、戦う悦びに目覚めた。人を殺すことに、何の罪悪感も感じなくなった。むしろ、強い相手と斬り合えることが、何よりも嬉しかった」
グレイは水差しを地面に置いた。
(この女の狂気は、ここから来ているのか)
(戦うことへの、純粋な渇き)
(悦びではなく、渇きだ)
胸の奥で、何かがざわつく。
「でもね、グレイ。あたしは、もう、弱い者いじめに飽きたんだ」
声が、急に低くなった。
「この闘技場には、あたしと本気で斬り合える相手が、誰もいなかった。みんな、あたしを見ると、怯えて、逃げて、命乞いをする。そんな相手を、何年も、何年も、殺し続けてきた。……あたしは、強い者が現れるのを、ずっと待っていた」
グレイの方を向く。その瞳には、狂気と妖艶が混ざり合っていた。
「あたしは、最後まで戦いに生きたい。戦いの中で、死にたい。……そして、あんたを見つけた。あんたは、あたしに怯えない。あたしを睨み返す。あたしに噛みつこうとする。……あんたのその反骨精神に、あたしは、淡い期待を寄せてるんだ」
近づいてくる。
「あんたなら、あたしを殺せるかもしれない。あたしの命に、刃を届かせることができるかもしれない。……あんたは、あたしを殺せる死神になってほしい。あたしが、ずっと待ち望んでいた、死神に」
妖艶に笑う。美しく、恐ろしい笑みだった。
グレイの体が、震えた。
(この女は、本気だ)
(私に、殺されたいと、心の底から願っている)
(そして、私も、この女を殺さなければ、自由になれない)
セラフィナの瞳から、目を逸らさなかった。
「……私は、お前を殺さない」
震える声で言う。
「お前を殺さずに、自由になる。その方法を、必ず見つける」
セラフィナは目を細めた。
「……あんたは、本当に、面白い子だね」
そっと、グレイの頬に手を触れる。
「その言葉が、十日後、どう変わるか。あたしは、楽しみにしてるよ」
その日から、地獄のような十日間が始まった。
朝から晩まで、セラフィナはグレイを追い込んだ。木剣、組手、投げ、絞め。倒れるたびに、容赦なく追い打ちが来る。立ち上がるたびに、殺さずに無力化する術を探した。だが、そのすべてが打ち砕かれた。
「甘い」
「遅い」
「その程度で、あたしを止められると思うな」
木剣が体を打つ。痣と傷が、日に日に増えていく。
それでも、グレイは折れなかった。
(私は、絶対に、あの女を殺さない)
(殺さずに、自由になる)
(その方法を、必ず見つける)
歯を食いしばり、何度も何度も立ち上がった。
興行主ヴァルドは、事務所で興行の準備を進めていた。短く整えた黒髪に白髪が混じる。後退気味の生え際。利益を測るような冷たい灰緑の瞳。宝石の指輪が、燭台の光を弾く。
机の書類に目を通しながら、指輪の嵌った指で、机をコツコツと叩いた。
「ふむ……セラフィナの勝ちに、賭けが集中しているねぇ。まあ、当然か。相手は、あの小娘だ。勝ち目は、微塵もない」
灰緑の瞳を細めて、笑う。
「だが、それでは、儲けが少ない。もう少し、小娘の勝ちに賭ける者を増やさねばならんな。……『反骨』の名は、まだ観客の記憶に新しい。その名に、夢を見る馬鹿も、少なからずいるはずだ」
書類をめくる。
「セラフィナの勝利は、揺るぎない。問題は、どうやって、小娘の勝ちに賭ける馬鹿を増やすか。……そうだな、『勝者には自由獲得の推薦状を与える』と、大々的に宣伝するか。自由という餌に、どれだけの馬鹿が飛びつくか、見ものだねぇ」
ほくそ笑む。
「まあ、どちらに転んでも、儲かる。セラフィナが勝てば、賭けは胴元の勝ち。もし、万が一、小娘が勝てば、『反骨』の名は、さらに高まる。次の興行で、もっと稼げる。……どちらでも、金になる。実に、いい商品だ」
立ち上がり、窓の外を見た。闘技場の方向には、すでに垂れ幕が下がっている。
『凶刃の女王、死神を産む』
「……さあ、見せてもらおうか。あの小娘が、どこまで足掻くのかを」
試合前夜。
稽古を終えたグレイは、訓練場の床に大の字に倒れていた。全身が悲鳴を上げ、指一本動かすのも億劫だった。
「お疲れ様。今日も、よく頑張ったね」
セラフィナが隣にしゃがみ込む。
「……ああ」
天井を見上げたまま、短く答えた。
「明日は、いよいよ、本番だ。あんたの、全力を、見せておくれ」
グレイの髪を、そっと撫でる。
「……やめろ」
手を振り払おうとした。だが、体が動かない。セラフィナは抵抗を無視して、髪を撫で続けた。
「あんたは、本当に、強い子だよ。あたしの教えを、ここまで吸収するとは思わなかった」
グレイの顔を覗き込む。
「あんたの、その反骨精神。その渇望。その全てが、あたしを、震えさせる。……あんたなら、きっと、あたしの命に、刃を届かせることができる」
覆いかぶさるように、組み伏せた。
「……なにを、する」
身じろぎするが、セラフィナの体はびくともしない。指先が、グレイの首輪に触れた。冷たい鉄の感触。その指は、首輪を愛おしむように、ゆっくりと撫でた。
「……この首輪も、明日で、外れるかもしれないね。あんたが勝てば、自由。あたしが勝てば、あんたは、あたしの胸の中で、死ぬ」
吐息が、耳に触れる。
「期待しているわ。私の可愛い死神さん」
そう囁くと、指を離し、体からゆっくりと離れた。
グレイは動けなかった。セラフィナの体温と鼓動が、まだ体に残っている。
(私は、あの女を殺したくない)
(でも、明日、殺し合わなければならない)
(殺したくないのに、殺し合わなければならない)
セラフィナの豊満な胸に、顔を埋めたまま、動けなかった。師匠の体温と鼓動が伝わってくる。その温もりが、ひどく、切なかった。
翌朝。
闘技場には、凶刃の女王の垂れ幕が大きく下がっていた。
『凶刃の女王、死神を産む』
観客が、続々と詰めかける。熱狂の渦が、闘技場を包み込んでいた。
「セラフィナ様の勝ちに決まってる!」
「当然だろ! あの小娘が、凶刃の女王に勝てるわけがない!」
「でも、『反骨』の名は、伊達じゃない。もしかしたら、面白いものが見られるかもしれないぞ」
その声が、空に響き渡る。
グレイは、房の格子越しに、じっとそれを見つめていた。
(誰も、私の勝利を信じていない)
(あの観客も、ヴァルドも、そして、あの女も)
(私が勝つ未来を、誰も信じていない)
震える手を、ぎゅっと握りしめた。拳の傷が、じくじくと痛む。
(それでいい)
(誰も信じていなくていい)
(私は、私の力で、自由を掴む)
目を閉じる。カインとの約束が、瞼の裏に浮かぶ。
『自由になれ』
あの日の約束。私を、この闘技場から、自由にしてくれる、たった一つの約束。
(自由になれ)
(私は、自由になる)
(あの女を殺さずに、自由になる)
目を開けた。ハイライトのない暗い紫の瞳が、闘技場の熱狂を、まっすぐに見据える。
答えは、まだ出ない。
だが、試合の刻限は、もう、すぐそこまで迫っていた。
グレイは、震える手を握りしめたまま、房の隅で、じっと待っていた。闘技場の歓声が、地下の房まで、地響きのように伝わってくる。その音は、まるで、死神の足音のように、心臓を、冷たく締め付けた。Noveliaとは?
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