宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - 異世界のリリース前夜——宰相の遺した暗号
目を開けた瞬間、見知らぬ天井があった。
石造りの、くすんだ灰色の天井。木の梁が横に走っている。薪が燃える匂いがする。頬に触れているのは、ざらついた布——前世のオフィスで使っていたデスクチェアのクッションとは、まるで違う感触だった。
水野美咲は、しばらくその天井を眺めたまま動かなかった。
(……死んだ、んだよね。私)
記憶は、鮮明に残っている。リリース前夜のこと。深夜二時のオフィス。デスクの上に広がった仕様書の山。チームメンバーはとっくに帰宅していて、美咲だけが画面の光の中に残っていた。気づいたら床に倒れていて、その後は何も覚えていない。
三十二年間の人生が、アプリのリリース前夜に終わった。
笑えない話だ、と美咲は思った。ただ、笑えないと思えるだけの余裕が自分にあることに、少し安堵した。パニックは、今ここでは何の役にも立たない。
ゆっくりと起き上がる。体が軽い。前世の、慢性的な肩こりが嘘みたいに消えている。艶のある黒いショートボブが頬にかかり、柔らかな栗色の目が、薄暗い部屋の中を静かに見渡した。細身だが健康的な体つき。控えめに光る小さなピアスは、なぜかそのまま耳についていた。
石造りの壁。木製の窓枠。床に敷かれた古い絨毯。窓の向こうは夜明け前の薄青い空。
(まず、状況を整理する)
PMの癖、というやつだ。何が起きても、最初にやることは現状の把握と課題の整理。感情は後回し。叫んでいい局面かどうかは、情報が揃ってから判断する。
扉が開いた。初老の女性が入ってきた。地味な灰色の服を着た、屋敷の使用人らしき人物だった。
「お目覚めになりましたか」
言語が、わかる。不思議と、わかる。
「はい。……ここは、どこですか」
女性は少し驚いた顔をしてから、丁寧に教えてくれた。ルミナス王国、北部の地方領主の屋敷。美咲は三日前から眠ったまま、この部屋で過ごしていたこと。発見されたのは、領地の境界付近だったこと。
「あなたは、転生者かもしれません」
その言葉を、美咲は静かに受け止めた。否定する理由が、何一つなかったから。
翌朝、美咲は届け出を済ませた。
ルミナス王国には「転生者登録令」というものがある——異世界から魂ごと転じてきた者、いわゆる転生者を保護するための法令だ。年に一、二名程度しか現れないにもかかわらず、王国はずいぶん昔からこの制度を整えていた。届け出た者には三年間の滞在許可と最低限の生活保障が与えられる。ただし政治への参加は原則として禁止。身分は「客民」——平民でも士族でもない、その中間に位置する特殊な区分——と呼ばれ、王国の庇護のもとに置かれるが、政務には一切関与できないとされている。転生者が王国の権力構造に入り込むことへの警戒なのか、あるいは転生者自身を守るための措置なのか、その意図まではわからなかった。
プロジェクトキックオフ初日は、まず規則を確認する。それが美咲の流儀だった。
(助言者という抜け穴がある)
書類を読み込みながら、美咲はその一行に目を止めた。政治参加は禁止されているが、「助言者」——貴族や官僚に対して非公式に意見を述べる立場——としての活動には、明確な制限がなかった。あくまで「意見を述べるだけ」であり、「決定に関与するわけではない」という解釈の余地が、条文のどこにも潰されていない。法の網の目を縫うような条文で、恐らく想定外の運用なのだろう。だが、あるものは使う。それもまた、美咲の流儀だった。
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フェルトハインへ向かう馬車の中で、美咲はずっと窓の外を見ていた。
ルミナス王国の首都フェルトハイン——「光の野」を意味するという古い地名を持つ城塞都市——は、フェルム河の上流域に位置している。フェルム河とは大陸を東へと貫く大河で、古来から交易路の中心として機能してきたと聞いた。その上流を押さえることが、王国の国力の根幹だったはずだ。かつては、そうだったはずだ。
馬車が街道を進むにつれ、景色が変わっていった。畑は広い。だが、実りが薄い。水路の石積みが崩れかけていて、誰も直した形跡がない。すれ違う農民たちは目を伏せたまま歩いていて、美咲が視線を向けても顔を上げなかった。
城壁が見えてきた頃には、もう頭の中に課題リストができあがっていた。
(農業インフラの劣化、財政赤字による修繕停止、民の疲弊——)
城壁には、モルタルで継ぎ接ぎした跡が何箇所もある。旧市街の商店は、棚に並ぶ品が少ない。通貨はゾルと呼ばれる金貨が基準で、銀貨はハルプ、銅貨はクプファと続く。物価を見る限り、経済規模はそれほど大きくない。そして南には、ゼーヴァルト帝国という大国が控えている——大陸を南北に分断するヴォルグ山脈の向こうに、人口八百万を超える軍事大国。ルミナスの人口は三十四万。数字だけ見ても、吹けば飛ぶような差だった。
(財政赤字・農業衰退・軍備の疲弊……前世で立て直し案件を受けた会社に、そっくりだ)
思わず、苦笑いが漏れた。
あの時も最初に見せられた資料が、真っ赤な収支表だった。部長に「よろしく頼む」とだけ言われて会議室に放り込まれた、あの感覚。違うのは、今回の規模が会社一社どころではないことだけだ。
(国家規模のやばい案件を、何で転生先でも引き寄せてるんだろう)
もはや笑うしかない。馬車の中で一人、小さく笑って、美咲は視線を前に戻した。
ここが、これからの戦場だ。
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宰相府の見学許可を取るのは、思ったよりも簡単だった。
転生者登録令の「助言者」条項を示しながら担当官に話を持ちかけると、向こうも対応に困った様子で、あっさりと通してくれた。恐らく、転生者が積極的に動いてくることを想定していなかったのだろう。
宰相府——ツァールハウスと呼ばれるその建物は、王国の行政を統括する中枢機関であり、ホーエンルミナス城——フェルトハインの丘上に築かれた、王家の居城であり統治の象徴でもある城郭——の西翼に位置していた。王宮の一部でありながら官僚組織の心臓部でもあるその建物は、外見こそ白石造りの端正な廊下と年代物の木製の扉が続くだけだが、内部には国家の意思決定に関わる無数の記録が眠っているという。案内された書庫は地下一階にあり、分厚い鉄扉の向こうに古い紙の匂いが満ちていた。
「三十分だけです」
そう言い残して、担当官は廊下に出ていった。
美咲は棚を見渡した。整理された書類、整理されていない書類、そして——棚の奥に、無造作に束ねられたままの文書の山。
手を伸ばした。一番上の一冊を引き出して、ページを開いた。
数字と記号が、びっしりと並んでいた。
(……暗号だ)
直感した。前世でシステム設計書の解析をしていた頃の、あの感覚。記号の出現頻度、数字の周期、余白の配置——規則性がある。完全なランダムではない。誰かが、意図を持って構造を組んでいる。
美咲はページを繰り始めた。一ページ目、二ページ目、三ページ目。記号の登場パターンを追いかけて、数字との対応を探していく。前世でログ解析やコード読解に費やした無数の夜が、今ここで動いている。
二十分が経った頃、構造が見えた。
(財務省の勘定科目……これが基底符号で、数字の周期が年度を示している。ということは、この「▽」記号は——)
ページをめくる手が速くなった。
最後のページで、美咲は呼吸を整えた。
棚に残っている巻数を確認する。一、二、三……十二。全十二巻。背表紙に記号が並んでいる。暗号体系から読み解くと、それぞれ「財政」「農業」「軍制」「外交」「貿易」——
「財政・農業・軍制・外交……これ、国家規模のPJじゃないか」
声に出ていた。
書庫に、声が響いた。誰もいない。美咲は少し赤くなった。一人で喋っていた。
(ガイス、という名前が各巻の末尾に記されている。前宰相。数日前に亡くなったと聞いた)
三十年間、王国の政務を支えた老宰相。その人物が、最後に遺したものがこれだった。財政再建、農業改革、軍制改編、外交戦略——全十二巻の、国家改革計画書。王国の現状を誰よりも深く知っていたはずの老人が、暗号という形を借りてでも残さなければならなかった文書。誰かに、いつか、読まれることを信じて。
胸の中で、何かが熱くなった。
同時に、前世の記憶が蘇ってきた。
過労で倒れた夜のこと——ではなく、その前のこと。チームメンバーに無理なスケジュールを押しつけて、三人が連続で体調を崩した時のこと。「水野さんのペースについていけない」という言葉を、間接的に聞いた時のこと。プロジェクトは成功した。そして、美咲のチームは二度と以前の雰囲気に戻らなかった。
(また同じことをするのか、という問いが、まだそこにある)
今度こそやり遂げたい、という欲求も、同じ場所に並んでいる。
二つが、胸の中でぶつかり合っていた。答えは出ない。出せない。ただ——第一巻の表紙に手をかけて、美咲はゆっくりと抱え込んだ。
(考えるのは、歩きながらでいい)
三十分が経っていた。鉄扉に向かいながら、美咲は第一巻を胸に抱いたまま廊下へ出た。担当官は「それは持ち出せません」と言いかけ、美咲が示した「助言者としての参照権限」の解釈を前に、何とも言えない顔で黙り込んだ。
(抜け穴は、あるものだ)
美咲は廊下を歩いた。白石の壁が続く。窓の向こうに、夜の城が広がっている。
ふと、足が止まった。
中庭に続く扉が、少し開いていた。そこから、風が流れ込んでいる。
気がつくと、扉の前に立っていた。理由は、わからない。ただ、夜気に当たりたかったのかもしれない。それとも、あの問いから少し距離を取りたかったのか。
扉を少し押し開けて、外を見た。
中庭に、人影があった。
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月明かりの中で、青年が剣を振っていた。
音がない。足音も、呼吸も、聞こえない。ただ、剣だけが空気を断ち切るように動いている。弧を描いて、止まって、また流れるように次の型へ移る。光と影が交互に切り裂かれていく様は、美しい、と思った。
同時に、背中の皮膚が微かに冷えた。
(あれは、人を殺すための動きだ)
剣の流麗さとは別のところで、本能がそう告げていた。前世で一度も感じたことのない感覚だった。剣というものを、初めて「本物」として認識した瞬間だったかもしれない。
美咲はその場に立ち尽くしていた。第一巻を胸に抱いたまま、動けなかった。
青年がぴたりと止まった。
視線がこちらに向いた。
鋭く光る金色の瞳。深い栗色の短髪が、夜風にわずかに揺れていた。光の当たり方によって赤みがかって見える。身長は百七十八センチほど。筋肉のついた体が、動きを止めた今も剣士の緊張感を帯びていた。年は自分より少し下——二十歳前後だろうか。
値踏みするような目だった。
歓迎でもなく、警戒でもなく、ただ「何者か」を測るような、冷たい静けさを持った視線。
沈黙が、中庭に落ちた。
美咲は、自分の心臓が一拍、大きく跳んだことに気づいた。
剣の気配に圧されたのか。それとも——夜の月明かりの中で、その顔が想定外に端整だったからか。自分でも判断がつかない。ただ、前世でも今世でも、こんな感覚は初めてかもしれない、とどこかで思った。
青年は剣を下ろした。口を開いた。
「転生者か」
低い声だった。問いかけというより、確認だった。
美咲は、視線を外さなかった。胸の中の第一巻を、少し強く抱き直した。
「……はい」
それだけ答えた。青年の目が、美咲の腕の中にある文書の束に向いた。宰相府の封蝋が、月明かりに照らされていた。
青年の表情が、わずかに変わった。
何も言わなかった。ただ、視線だけが「その話は終わっていない」と語っていた。
中庭に夜風が吹き抜けた。
水野美咲とルミナス王国第一王子レオン・ルミナスの、最初の接触は、そのようにして幕を閉じた。