宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - 笑顔の毒——穏やかな来訪者と、深夜の密使
宮廷会議での承認から、三日が経っていた。
あの日、廊下でレオンと拳を合わせた時の感触が、まだ右手の甲に残っている気がする。感触というより、記憶が手に染み込んだ感じ、とでも言えばいいのか。美咲にはうまく表現できなかった。
ツァールハウスの執務室に朝の光が差し込んでいた。城の西翼に面したこの部屋は、フェルトハインの旧市街を見渡せる窓があって、この三日間、美咲はその窓の前で羊皮紙と向き合い続けている。承認された商業区画再編の計画を、実行フェーズに落とし込む作業だ。中間集積拠点の設置場所の選定、農村側との輸送契約の雛形、財源の割り付け——やることは山積みで、むしろ承認が出てからの方が仕事量は増えた。
(前世のリリース後と同じだな)
美咲は羽根ペンを走らせながら、内心でそう思った。プロジェクトは本番稼働してからが本番だ。承認までが戦いだと思っていると、必ず後で足元をすくわれる。
コン、と扉が叩かれたのは、そんな作業の合間だった。
「失礼いたします」
声だけで、美咲は顔を上げる前に誰かを判断しようとした。穏やかで、よく通る声。感情がきれいに抜けた、宮廷で磨かれた声音。
扉を開けて入ってきた男は、五十代後半の、痩せた体型をしていた。薄い銀髪を首の後ろで束ねて、細い銀縁の眼鏡をかけている。官服は黒地に細い金糸の刺繍が入った、国務省の色だ。その顔には、穏やかな微笑みが貼り付いていた。目の奥はほとんど笑っていない、静かな灰色の瞳。
カシウス。国務大臣。宰相ガイスが亡くなった後、宮廷の政務を実質的に仕切ってきた男。
「水野美咲殿。ご多忙の中、突然お邪魔して申し訳ありません」
美咲は羽根ペンを置いた。立ち上がりながら、「いえ」と返す。
「カシウス大臣、本日はどのようなご用件でしょうか」
「いえ、大したことではないのです」
カシウスは部屋に入りながら言った。歩き方が静かだった。靴音が石の床にほとんど響かない。
「先日の宮廷会議の件、大変見事な計画書でした。ガイス殿が遺された文書を、ここまで実務に落とし込まれるとは。転生者登録令の助言者条項がこれほど活用されたのは、おそらく初めてではないでしょうか」
褒め言葉だった。なめらかな、一片の引っかかりもない褒め言葉。
(感謝していい言葉なのかどうか、判断が難しい)
前世でも、プロジェクトの初期に「素晴らしい提案ですね」と言ってくる関係者が一番厄介なことが多かった。賞賛と牽制は、時として同じ形をしている。
「ありがとうございます。ガイス宰相の計画書の構造が優れていたおかげです」
美咲は丁寧に返した。賞賛は受け取って、自分の手柄にはしない。実際そうだし、ここで謙遜しておく方が情報が少なくて済む。
カシウスは窓の近くまで歩いて、フェルトハインの旧市街に目をやった。
「ところで」
声のトーンが変わらないまま、話題が変わった。
「行政連携の確認として、少々お聞きしたいことがあるのですが。グレンツァハ砦——王国東部の国境に近い軍事要衝で、帝国との緩衝を担う拠点です——の現在の駐留兵数と、東部防衛のシフトの詳細を教えていただけますか。商業拠点の設置場所の選定に、防衛上の考慮が必要かと思いまして」
美咲の手が、わずかに止まった。
(この質問は——範囲を超えている)
商業区画の再編と、軍事配置の具体的な数値は、直接つながらない。つながらないはずなのに、そのつながりを「行政連携」という言葉で橋渡しした。前世のPMとしての経験が、この質問の構造を一瞬で読んだ。必要な情報のふりをして、必要でない情報を引き出す技術。スコープ外の要件を滑り込ませる、あの感じ。
カシウスの灰色の瞳が、美咲をまっすぐ見ていた。穏やかな微笑みは崩れていない。
「軍事配置の具体的な数値については、レオン殿下を通じてご確認いただくのが適切かと思います」
美咲は、声のトーンを変えずに答えた。
「私の職掌は財政と行政計画の助言に限られておりまして。軍事情報については、私から申し上げる立場にございません」
「ああ、そうですね。おっしゃる通りです」
カシウスはあっさりと引いた。表情も変わらない。まるで最初からそんな質問などしていなかったかのように、話題を次に移した。
「失礼しました。ところで、このような改革を進められる中で、ガイス文書の解読はどこまで進んでいますか」
何でもない一言だった。声量も、言い方も、変わらない。ただ話題が移っただけ、そういう自然さで。
でも美咲の胸の中で、何かが鋭く反応した。
ガイス文書の解読の進捗。それを国務大臣が聞く理由は、何か。
「まだ途中でございます」
短く答えた。それ以上は言わなかった。
カシウスは満足したように頷いて、「それは大変なご苦労ですね」と言い、部屋を出ていった。来た時と同じように、靴音をほとんど立てずに。
扉が閉まった後、美咲はしばらくその扉を見ていた。
(思い込みでステークホルダーを敵認定するのは、PMの悪手だ)
自分を戒める。確証がない。あの質問の意図が悪意なのか、本当に業務上の確認なのか、この段階では判断できない。証拠のない段階で人を疑うのは、組織運営の上で最も危険な判断ミスの一つだ。
それでも。
羽根ペンを持ち直しながら、美咲は残った違和感を追い払えなかった。
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午後になっても、作業は続いていた。
窓の外の光が斜めになり始めた頃、美咲は昼食を食べていないことに気づいた。気づいたが、後回しにした。農村側の輸送コスト試算の端数が合わない。どこかで計算を誤っている。見つけるまでは手を止めたくない。
バン、と扉が開いた。
ノックなしだった。
美咲が顔を上げると、銀色の長い髪を編み込みにした少女が立っていた。明るい水色の瞳。腰に護衛用の短剣。
アイラ。レオンの護衛を務める十六歳。
「失礼します」
言いながら既に部屋の中に入ってきていた。礼儀の形は保っているが、実質的にはもう入ってきている。
「構いません。何か」
「殿下に近づく者は全員、一度確認しておく必要があります。あなたのことも」
まっすぐな言い方だった。裏がない。本当にそう思っているから、そのまま言っている。
「構いません。何でも聞いてください」
美咲が答えると、アイラは少し拍子抜けした顔をした。もっと警戒されるか、反論されると思っていたのかもしれない。
「……そんなに簡単に言っていいんですか」
「隠すことはありませんし、確認したいなら確認してもらった方が双方楽です」
アイラはしばらく美咲を見ていた。羊皮紙が山積みになった机、インクで汚れた指、食事の形跡がない執務室。
「昼ご飯、まだですよね」
「後でいいかと思っていて」
「護衛対象が倒れたら、護衛の意味がありません」
ぶっきらぼうに言い置いて、アイラは一度部屋を出ていった。
五分ほどで戻ってきた。両手に、黒パンとスープの入った椀を持って。
美咲は思わず笑った。
「なんで笑うんですか」
アイラが少しむくれた顔で言う。
「ありがとうございます、と言いたくて」
「……どうぞ」
アイラは机の端にパンと椀を置いた。若干乱暴に。でもスープはこぼれなかった。
美咲はパンをちぎりながら、向かいに立ったままのアイラを見た。座る気はないらしい。護衛として立ったままでいる方が自然なのだろう。
「一つ聞いていいですか」
「何ですか」
「殿下のそばにいて、怖いと思ったことはありますか」
アイラが少し考えた。
「殿下は怖くないです。守れるかどうか、の方が怖いです」
迷いのない答えだった。美咲はスープを一口飲んだ。薄味だったが温かい。前世でも、仕事に疲れた夜に飲んだ生協のカップスープと同じ種類の温かさがあった。
(この子は、まっすぐだ)
計算がない。前世の職場では、こういうまっすぐさを持った人間は大抵、うまく使われて消耗していった。でもアイラのまっすぐさは、消耗する前に自分で守り抜いているように見えた。護衛用の短剣と同じように。
夕方近く、扉が静かにノックされた。
入ってきたのはレオンだった。いつもの訓練着ではなく、少し正式な外套をまとっている。金色の瞳が部屋を見回し、アイラを確認して、美咲の手元の書類に止まった。
「何か気になることでもあるか」
命令でも確認でもない、どちらとも取れる聞き方だった。でも美咲には、その言い方の奥に「話してほしい」という空気が滲んでいるのが分かった。
(この人は、直接は言わない)
前世で、部下に「大丈夫?」と聞いて「大丈夫です」と返させ続けた上司を何人も見てきた。レオンのこの聞き方は、それとは違う。答えを求めているというより、話せる余白を作っている。
「今朝、カシウス大臣がいらっしゃいました」
美咲は事実だけを告げた。詳細を続ける前に、レオンの顔を見た。表情は変わらなかったが、目の奥の何かが引き締まった。
「何を聞きに来た」
「商業計画へのお祝いと、グレンツァハ砦の駐留兵数、東部防衛シフトの詳細。行政連携の確認という名目で」
レオンは無言だった。
「お断りしました。軍事情報は殿下を通じてと」
「正しい判断だ」
短く言った。それだけだった。でもその短さが、疑問符ではなく承認として届いた。美咲はもう一つ続けた。
「去り際に、ガイス文書の解読の進捗を聞かれました」
「……そうか」
レオンは窓の方に視線を向けた。少し間があった。
「ガイスの警告を覚えているか。第三巻の欄外の注記」
美咲は頷いた。まだ解読しきっていない部分だった。
「警告を残すほどの相手なら、軽くはない。明日もう一度確認しろ、一人でやるな」
命令だった。でも今日のカシウスのなめらかな命令とは、まるで種類が違う命令だった。
美咲の胸の中で、何かが静かに動いた。
一人でやるな。
前世では、誰もそれを言ってくれなかった。いつでも一人で抱えて、一人で仕上げて、倒れる寸前まで誰にも言わなかった。言える場所がなかったのか、言い方を知らなかったのか、今となってはわからない。
「……はい」
短く答えた。それ以上の言葉は出なかった。出す必要もなかった。
レオンは頷いて、アイラを一瞥して部屋を出ていった。アイラも後に続いた。扉が閉まった後、執務室は静かになった。
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夜になった。
ランプの油が少なくなってきた頃、美咲はガイス文書の第三巻を広げていた。農業改革の章、その欄外の注記。前にここを見た時は、暗号の解読が他の部分より難しくて飛ばしていた箇所だ。
ガイス独自の暗号体系は、単純な文字の置き換えではなく、文脈によって解読のルールが変わる構造になっていた。前世のプログラミングで言えば、変数ではなく関数に近い。入力が変わると出力が変わる。美咲が最初にこれを見た時、「このじいさん、本当に性格が悪い」と思った。今も思う。でも同時に、だからこそ三十年間誰にも読まれなかったのだとも思う。
欄外の注記を、じっくりと読み解く。
文字が解けていく。
一行目。
二行目。
三行目——
「信じてはならぬ者が、宮廷の中枢にいる」
美咲の手が止まった。
続きを読む。
「財政の壁ではなく、人の裏切りこそ最大のリスクだ。私の目の届かぬ場所で、この国は既に蝕まれているかもしれない」
ランプの炎が揺れた。風もないのに。
美咲は羽根ペンを置いて、その一文を見つめた。
ガイスが、わざわざ暗号で、欄外に、書いた。財政改革の章の、農業の話の欄外に。なぜここに書いたのか。誰かに見られても農業の話の周辺にある走り書きとしか思われないように、ということか。そこまで計算した上で書いた、ということか。
(今朝のカシウスの笑顔が、重なる)
グレンツァハ砦の駐留兵数。東部防衛シフトの詳細。行政連携の確認、という言葉の形をした質問。あの質問が本当に業務上の確認だったなら、なぜ軍務省ではなく美咲のところに来たのか。国務大臣が直接、転生者の助言者に。
そしてガイス文書の解読の進捗を聞いた、あの一言。
「警告を残すほどの相手なら、軽くはない」
レオンの声が、頭の中で響いた。
確証はない。ただの思い込みかもしれない。PMとして最も避けるべき判断、証拠のない仮説を真実として扱うこと。でも同時に——ガイスが命がけで残した警告を、「思い込みかもしれない」と一蹴していいのか。
美咲は手元のメモに「信じてはならぬ者」と書いた。そのまま、そのメモを見つめた。
怖れがあった。
もし本当に宮廷の中枢に裏切り者がいるなら、自分がここで何をしても、どこかで情報が漏れる可能性がある。計画を立てても、誰かがそれを外に流しているなら。
でも同時に、奇妙な落ち着きもあった。
一人でやるな、とレオンは言った。
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美咲が答えを探し続けた時間、城の別の一角では、別の動きがあった。
石造りの廊下に灯りはほとんどない。カシウスの私室への裏通路、搬入口の近くにある小部屋。銀縁の眼鏡の男が、封蝋を施した竹筒を黒ずくめの人物に手渡した。言葉は最小限だった。
「グレンツァハ砦の配置図と、商業改革の写しだ。東部が手薄なのは変わっていない」
黒ずくめの人物は受け取り、返事もせずに搬入口から外に消えた。
カシウスは小部屋の中で一人残り、ランプの炎を見た。灰色の瞳に炎が映っている。穏やかな微笑みは、今はない。代わりにあるのは、ただ計算だけだ。
竹筒はグレンツァハ砦を迂回する隠し峠道を通り、ヴォルグ山脈——王国の東に連なる険しい山岳地帯で、王国とゼーヴァルト帝国を隔てる自然の国境線——の南へ向かっていく。峠道は馬一頭がやっと通れる細い道で、砦の哨戒からは見えない。その先、山脈の南側——ゼーヴァルト帝国、かつてこの大陸の半分を支配した大国であり、今も王国の東に軍を進め続ける宿敵——の将軍が野営を張っている場所まで、一晩もかからない。
配置図を広げた将軍の手が、東部の一点を押さえた。
「ここから入れる」
低い声だった。満足した声だった。
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執務室に戻って、美咲は「信じてはならぬ者」と書いたメモを手に持ったまま、しばらく動かなかった。
誰なのか。どうやって確かめるのか。確かめる前に手遅れになる可能性は、どれくらいあるのか。
答えは出ない。出ないまま、夜が更けていく。
窓の外、フェルトハインの旧市街の灯りが一つ一つ消えていく。城壁の外まで続く家並みが、闇の中に沈んでいく。この城の中に、この国の中に、どれだけの秘密が眠っているのか。
「一人でやるな」
レオンの声がもう一度、頭の中で響いた。
美咲はメモを机の上に置いた。今夜中に答えを出すことはできない。できないが、少なくとも一つだけは分かった。ガイスの警告は本物だ。あの欄外の一文を書いた人間は、本当に危険を感じていた。三十年間この国を支えてきた宰相が、命の最後に残した言葉だ。
ランプの炎が揺れた。油がもうすぐ尽きる。
美咲は立ち上がり、窓の外の暗い城を見た。廊下のどこかで、夜警の足音がする。規則正しい足音。でも今夜、美咲にはその足音が少しだけ違って聞こえた。
何かが、動いている。この城の中で、自分の知らないところで。
ガイス文書の第三巻が、机の上で開いたまま置かれている。「信じてはならぬ者」という文字が、ランプの最後の光の中で静かに浮かんでいた。