宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - 嵐の予兆——帝国の牙が動き始める
秋の朝の光は、薄く柔らかい。
宰相府の執務室——ツァールハウス西翼の二階、ガイスが三十年間使い続けた部屋——に、その光が斜めに差し込んでいた。石造りの窓枠が影を作り、床に長い四角形を描いている。埃が、光の中でゆっくりと舞っていた。
水野美咲は羊皮紙の上にペンを走らせながら、その光を視界の端に捉えていた。
ガイス文書第十巻。暗号の換字規則を一行ずつ検証しながら、同時にポルトス港の年次補給計画を別の紙に展開する。ポルトス港はルミナス王国の北東端、フェルム河が大陸北東の海に注ぐ手前の小さな港町だ。国家の補給路として細々と機能してきた場所で、年に一度、食料と武器の在庫を更新する季節だった。美咲の机の上には三枚の地図と、数字を埋めた表が重なっている。
カシウスが断罪されて一週間が経っていた。
確保、尋問、貴族会議での糾弾。密約書の原本が証拠として提出され、カシウスは弁明の言葉を一つも持てなかった。国務大臣の地位は剥奪され、現在は王城の一室に軟禁状態だ。ガイス文書の二重暗号に刻まれていた証拠が、最後まで笑みを崩さなかった男の足元を静かに崩した。
それでも美咲の頭の中では、ガイスが最後に残した一文がずっと静かに鳴り続けていた。
——属州総督は一人ではない。
(まだ終わっていない)
分かっている。分かっているが、今週は少し、息を抜けている気がした。久しぶりに飯が美味かった。夜も少しだけ眠れた。過労で倒れた前世の記憶が、「ちゃんと休め」と定期的に警告を出してくる。その警告には、わりと素直に従うことにしていた。
扉を叩く音がした。軽く、遠慮がちな二回。
「失礼します」
輝く銀色の長髪をゆるやかに編み込んだアイラが、扉の隙間から顔を覗かせた。水色の瞳が執務室の中を素早く確認する——明るく真っ直ぐな目だが、入室する前にまず室内の状況を把握しようとする癖は、護衛としての習慣だ。美咲がひとりだと分かると、ほんの少し表情が和らいだ。
手には木の盆を持っている。丸いパンが二つと、小さな陶器のカップ。山蜜酒——ルミナスの特産品で、山の花から採れる蜜を発酵させた淡い甘みの飲み物——の甘い香りが、開いた扉から漂ってきた。
「また夜通しだったんですか」
声のトーンは丁寧だったが、問いの中に小さな非難が混じっていた。
「二時間は寝ました」
美咲は正直に答えた。
アイラがため息をついた。盆を机の端に置きながら、美咲の顔をまじまじと見る。
「目の下、隈が」
「二時間寝ればこうなります。前世では四十八時間起きてたこともあったので、比較すると上出来です」
「ぜんぜん上出来じゃないと思うんですが……あの、フラグって何ですか」
アイラが首を傾げた。銀色の髪が肩から流れる。
「過労死フラグ、というのは前世の言葉で——」
美咲は少し考えてから、言い換えた。
「倒れる前兆、みたいなものです。二時間は寝たので今のところ大丈夫」
「大丈夫じゃないと思います」
きっぱりと言われた。アイラは基本的に正直だ。思ったことを、遠回しにせず言う。その率直さは最初こそ少し面食らったが、美咲は今では気に入っていた。
パンを一口かじった。外はかりっと、中はやわらかい。城の厨房のパンは質が良い。山蜜酒を一口飲む。朝の空気に合った甘さだった。
秋晴れの空が、窓の向こうに広がっている。
フェルトハイン——ルミナス王国の首都、フェルム河上流の丘陵地に築かれた城塞都市——の朝は静かだった。旧市街のマルクト通りから遠く商人の声が聞こえてくる。鍛冶の音。馬の蹄の音。日常の音が、石造りの城壁の中でゆっくりと目を覚ましていく。
カタカタ、と扉が揺れた。
違う。廊下だ。走っている足音が近づいてくる。
アイラの表情が変わった。笑顔が消え、腰の短剣に右手が触れる。護衛としての反射だ。美咲もペンを置いた。
扉が勢いよく開いた。
泥まみれの兵士が立っていた。甲冑の隙間に土が詰まり、頬に擦り傷がある。息を切らして、膝に手をついている。
「ポルトス港に——帝国軍です。早朝、約八千の兵が港湾を包囲しました」
山蜜酒の甘い香りが、まだ空気に残っていた。
美咲は立ち上がり、机の上の地図を引き寄せた。
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北営舎——ノルトカゼルネ、フェルトハイン新市街北部に駐屯する常備軍の主力施設——の作戦室には、すでに将校たちが集まっていた。
レオンは地図の前に立っていた。
深い栗色の短髪が、朝の光の下で少しだけ赤みを帯びている。金色の瞳が地図を見据え、左耳の王家の紋章のイヤリングが光を弾く。甲冑はまだ着けていないが、立ち姿には軍人の重心があった。美咲が部屋に入ると、視線だけこちらに向けた。
「分析は」
挨拶はない。それがこの王子の習慣だった。
美咲は地図を広げ、受け取った情報を順番に並べた。帝国軍八千の出現位置。港湾封鎖と陸上包囲の同時展開。報告が届いた時刻と、帝国軍がヴォルグ山脈——大陸を南北に分断する巨大な山脈——を越えた場合の最短進軍速度。
「陽動ではありません」
美咲は静かに言った。
「八千という数は、陽動に使うには多すぎる。補給線を組む手間を考えると、この規模の動員は最低でも三週間前から準備されている。ポルトスが目標ではなく、ポルトスが入り口です」
将校たちがざわめいた。
レオンは地図から目を離さない。指でパスヴェーク——ヴォルグ山脈を越えるルミナス領内の峠道——の位置を押さえた。その動きに迷いがない。美咲の分析を聞きながら、すでに戦術の計算を始めている顔だった。
「精鋭三百で動く」
「殿下——」
「大部隊で動けば補給線が伸びる。この地形では小回りが利く方が勝つ」
論理は正しかった。美咲には分かっていた。ヴォルグ山脈の峠道は幅が狭い。馬車二台分、五メートルほどの最狭部を持つ地形では、数の優位が逆に足かせになりうる。
「王都の後方支援は任せる」
その言葉が、柔らかく、しかし確実に美咲の動きを止めた。
(分かっている。論理的には正しい)
補給計画の策定、情報の集約と分析、物資の再配分。それが今の美咲にできる最善の仕事だ。自分が戦場に出て何かできるわけではない。
分かっている。分かっているのに、胸の奥に何かが引っかかった。
鈍い、落ち着かない感覚だった。
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城門の前は、朝の光の中でざわついていた。
精鋭三百が集結し、馬が地面を掘り、鎧の触れ合う音が響いていた。レオンが馬に跨っていた。朝の陽光の中、金色の瞳が遠くを見ている。出撃前の顔だ。戦場に向かう人間の目をしていた。
アイラが隣に並んだ。美咲も城門の前まで来ていた。
レオンが馬首をこちらに向けた。一瞬だけ、金色の視線が美咲の上に止まった。
「三日で戻る」
短く、断定的に言った。
美咲は答えた。事務的な口調で。
「補給路の第二ルートを確保しておきます。グレンツァハ砦経由のルートが封鎖された場合の迂回路も計算します」
レオンが頷いた。馬を進めようとした。
その背中に、美咲は言っていた。
「気をつけてください」
自分でも少し驚いた。
普段の報告や分析とは違う、何かが滲んだ声だったと、言ってから分かった。レオンの背中が一瞬だけ止まった。振り返った。金色の瞳が美咲を見た。
何も言わなかった。
そのまま馬を走らせた。蹄の音が遠ざかっていく。精鋭三百がそれに続いた。砂埃が舞い上がり、風に流れていく。
美咲はその背中を見送った。
「美咲さん」
隣でアイラが言った。声が少し、弾んでいるように聞こえた。
「なんか、顔赤くないですか」
「砂埃です」
即答した。
「そんなに砂埃、舞ってないと思いますけど」
「舞っています」
(自分でも分かっている)
砂埃のせいではない。分かっている。でも今それを認めることは、なんとなく違う気がした。
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報告は、午後から始まった。
最初の一報は「進軍順調」だった。
美咲は執務室で地図を広げ、報告が届くたびに帝国軍の位置を書き込んでいく。アイラが横で伝令の整理を手伝っていた。銀色の長髪が机の上に落ちないよう後ろで束ね直しながら、届く羊皮紙を美咲の順番に並べる。
二本目の蝋燭が半分になった頃、二番目の報告が届いた。
「峠道手前の谷間で、前衛が帝国の別働隊と交戦」
美咲はペンを止めた。地図を見る。峠道——パスヴェーク——の手前の谷間。この地形に帝国の別働隊が潜んでいたということは。
(迂回できるか)
すぐに計算を始めた。迂回路の所要時間、馬の体力、日没まであと何時間か。アイラが地図を引き寄せ、別の迂回ルートを指さした。
「こちらの道は——」
三番目の報告が来た。
伝令兵の顔が、今度は少し蒼白だった。
「迂回路も封鎖済みです。帝国軍は進軍ルートを事前に把握していたと見られます」
美咲の手が、ペンを持ったまま止まった。
進軍ルートの事前把握。
(どこから漏れた)
カシウスはすでに確保されている。軟禁下に置かれて一週間、外部との接触は遮断されているはずだ。では誰が。ガイスの一文が、また頭の中で鳴った。
——属州総督は一人ではない。
アイラの顔が蒼くなっていくのが、横目に見えた。水色の瞳が地図を見つめ、唇を固く結んでいる。何かを言いかけて、止めている。
日が沈んだ。
四番目の報告は、深夜近くに届いた。
伝令兵が扉を開けた瞬間、その顔を見ただけで美咲には分かった。
「レオン王子率いる三百、峠道南側の谷間で包囲されました。補給路断絶、脱出不可能」
部屋の空気が変わった。
アイラが「あ」と短く声を出した。それから黙った。水色の瞳が揺れている。椅子の上で、両手を膝の上に置いたまま、固まっている。
美咲は地図を見た。羊皮紙の上のインクの線が、峠道南側の谷間の位置を示している。三百という数字が、その狭い地形の中に閉じ込められている。補給路断絶。脱出不可能。
手が、ペンを持ったまま、少しだけ震えていた。
(落ち着け)
自分に言い聞かせた。感情で動いても何も変わらない。今できることをやる。それが自分のやり方だ。
「どうすればいいんですか」
アイラの声は小さかった。いつもの明るさが消えていた。
美咲はすぐには答えられなかった。
地図を見ながら、手の震えを意識した。これは計算ミスでも論理の失敗でもない。王都で地図を見ているだけでいいのか、という問いが、静かに、しかし確実に浮かんでいた。
(分かっている。今の私に戦場でできることはない)
分かっている。でも。
胸の奥の何かが鋭く痛んだ。レオンが谷間に閉じ込められているという事実が、思ったより深い場所を刺していた。
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真夜中の執務室に、ランプが一本。
アイラは「先に休みます」と言って去った。行く前に一度、「美咲さんも少しは休んでください」と言い残した。その声はいつもより低く、疲れた色があった。
美咲は一人で残った。
地図とガイス文書の第十巻を並べる。帝国軍の動向報告を横に置き、今日一日で届いた情報を順番に並べ直した。
考える。
ポルトス港を狙った理由。包囲のタイミング。進軍ルートの漏洩。
この三点を繋ぐと、一つの像が浮かんでくる。カシウスが動けない状況の中で、帝国は事前に進軍ルートを把握していた。準備期間を逆算すると、情報が流れたのはカシウス確保の前後、あるいはもっと前だ。ガイスの一文が正しければ、まだ動いている人間がいる。
(誰だ)
名前を思い浮かべることを、まだ自分に許さなかった。証拠がない。推測だけで名前を出すことは、カシウスが美咲に対してやったことと同じだ。
ペンを走らせる。数字を並べる。補給路の再計算。包囲された谷間からの脱出可能なシナリオ——地形、時間、残存物資。
(何かある)
ガイス文書のページを繰った。第十巻は農業改革と灌漑計画が主題だが、余剰記号の中に、まだ読み切れていない部分がある。
ページを一枚めくった時。
何かが落ちた。
羊皮紙の間に挟まれていた、小さな一枚のメモだった。厚みのない紙が、ランプの光の下に落ちる。
美咲は拾い上げた。
ガイスの筆跡だった。何十時間も読み続けたあの細かい字。震えはなく、落ち着いていて、しかしひどく急いで書いたような短さ。
一行だけ、書かれていた。
——ヴァルナーに任せた。
ヴァルナー。
美咲はその名前を知らなかった。ガイス文書のどこにも出てきていない。確保したカシウスの関係者リストにも、将校たちの名前の中にも、その名前はなかった。ガイスがルミナス王国に仕えた三十年の記録を美咲はほぼ読み尽くしていたが——その膨大な文書のどこにも、この名前は一度も現れていなかった。意図的に消されたのか、それとも文書の外にいた人間なのか。
(誰だ)
「ヴァルナーに任せた」とはどういう意味か。何を任せた。なぜガイス文書の中に、突然この一文だけが挟まれている。
静かだった。ランプが揺れる。石造りの窓の向こう、フェルトハインの夜が深く沈んでいる。
美咲はそのメモをしばらく見た。
谷間に閉じ込められたレオンのことを思った。三日で戻ると言った声。振り返った時の金色の瞳。
胸の奥の痛みは、まだそこにあった。
(計算し続けること。今の私にできることはそれだけだ)
そう分かっていながら、美咲の中の何かが静かに動き始めていた。
ヴァルナーという名前が、ランプの光の下で揺れ続けていた。