宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - 剣と算盤——王子と転生者の最初の取引
月明かりが中庭の石畳に白く広がる中、レオンの金色の瞳がガイス文書の封蝋に向いたまま動かなかった。
美咲は腕の中の第一巻を抱え直した。逃げるという選択肢は、この時点で消えている。足を止めたのは自分だし、文書を持ち出したのも自分だ。言い訳の余地がない以上、先に口を開くのが最善の手だ。
「転生者登録令の助言者条項を根拠に、書庫の閲覧許可を申請しました。担当官に正式に通しています」
落ち着いた声を出せた自分を、美咲は内心でわずかに褒めた。
レオンは腕を組んだ。剣を収めた後も、その体は少しも緩んでいない。
「それだけか」
二文字。短いが、圧力のある言葉だった。
それだけではない、と美咲は思った。この文書が何であるか、自分がなぜここに来たのか、これをどうするつもりなのか——全部話すべき話はある。だが今夜、中庭で月明かりの下、初めて顔を合わせた相手に全てを開示する必要はない。
(商談には、タイミングというものがある)
前世でも、最初の打ち合わせで全部の要件を出し切るPMはいなかった。まず相手が何を見ているかを確認してから、交渉の駒を出す。
美咲は第一巻を少し前に差し出した。
「これの暗号が読めます」
レオンの眉が、ほんのわずかに上がった。
聞いてやってもいい、と言っている顔だ。それで十分だった。
ちなみに美咲は内心でこっそり気づいていた。真夜中の中庭で財政再建の商談を始めることになるとは、転生直後にこの場所を選んだ時点では考えていなかった。もう少し、段取りを踏むつもりだったのだが。
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翌朝、ホーエンルミナス城の西翼、宰相府の執務室。
ツァールハウスの回廊は朝の光が斜めに差し込み、石の床に細長い影を作っていた。廊下を歩く美咲の耳に、遠くから衛兵の交代の声が聞こえる。前宰相ガイスがかつて使っていた執務室は城の内側に面していて、窓からはフェルトハインの旧市街の屋根が見渡せた。
レオンはドアを開ける前に振り返った。
「三日間だ。三日で何も出なければ、それで終わりにする」
告げて、先に部屋に入っていった。
美咲は一拍置いてから、同じ扉をくぐった。
(リリース前日のデスマーチよりはマシだ)
三日間でゼロから成果を出す。前世ではそういう案件が何度もあった。炎上プロジェクトの立て直し、途中参画でのスコープ整理、スプリントのゴール再設定——慣れてはいないが、できないではない。むしろ問題の構造さえ見えれば、三日は短くない。
「わかりました」
そう言って、右手を差し出した。握手のつもりだった。
レオンが一瞬、その手を見た。
どういう意図の動作なのか、正確には読めていない顔だ。それでも相手に合わせようとしたのか、少し間を置いてから、ぎこちなく右手を伸ばして美咲の手を握り返した。
温かい手だった。剣を握り続けてきた手は、思ったより硬かった。
……二人の間に、なんとも言えない空気が流れた。
(この世界、握手の文化はないのかもしれない)
美咲は素早く手を引いた。レオンは何も言わなかったが、わずかに視線をそらしていた。こういう時に笑うと相手の自尊心を傷つける気がしたので、美咲は羊皮紙を広げることで誤魔化した。
作業を始める。
ガイス文書の第一巻から読み取れる情報を、まず整理する。財政の章には歳入と歳出の対比が記されていて、年間金貨十八万ゾルの収入に対し、七万二千ゾルがエストラーデ商業連邦への借款返済に消えている。歳入の四割が消える前に、どこかで構造を変えなければ、この国は時間をかけて静かに潰れる。
美咲は羊皮紙に線を引き、三つの段階に分けて書き出した。
歳入増強。借款返済の再交渉。農業投資による中長期の税基盤強化。
三段に分けた構造を見て、レオンが立ち上がって覗き込んだ。
「……作戦計画と同じ形だ」
初めて、前向きな声音だった。
「敵は財政赤字、武器は政策、兵站は予算です。殿下の言う戦の構造と、変わりません」
レオンの金色の目に、何か変わるものがあった。
ただの転生者として見ていた視線が、少し違う種類に切り替わる。その変化は小さかったが、美咲には見えた。PMとして数年間、クライアントや上司の顔を読み続けた経験が、今ここで静かに働いている。
「続けろ」とは言わなかった。だが座り直して、羊皮紙に向き直った。それで十分だった。
作業は続いた。
午前中に第一巻の財政項目の骨格を組み、昼過ぎには農業改革の章に入った。ミルヒフェルト——フェルトハインから北東へ約四十キロに広がる穀倉地帯——の灌漑設備の老朽化は、ガイスの文書では最優先の補修課題として記されていた。収穫量が二十年前の六割に落ちている原因がここにある。
窓の外で鳥が鳴いた。
美咲はそこで初めて、昼を過ぎていることに気づいた。
一緒に羊皮紙を覗き込んでいたレオンも、腹が鳴った。
二人同時に、それを聞いた。
レオンが押し黙った。美咲は視線を窓の外に向けた。
「……続きにしましょうか」
精一杯、普通の声を出した。レオンは何も言わずに立ち上がって扉を開け、廊下の衛兵に何かを短く告げた。
しばらくして、固いパンと煮込み料理が運ばれてきた。山蜜酒の小瓶がついていた。宰相府の執務室で、二人で飯を食うことになるとは、朝の時点でも予想していなかった。美咲は内心で「段取りが計画通りにいった試しがない」と思いながら、パンをちぎった。
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夜半。
ランプの油が半分ほど減った頃、執務室の中は書類と羊皮紙で埋まっていた。
美咲は軍制改革の章の暗号を解きながら、レオンの言葉を聞いていた。最初から話したわけではない。ガイスの文書の軍備編に差しかかった時、レオンが「これは実態と少し違う」と言いかけて、そのまま黙った。美咲が続きを促すでもなく、ただ手を止めて待っていたら、ぽつりと言葉が続いた。
「十五の時に国境で戦った。ランベルク紛争——北東の国境で小領主同士の武力衝突が起きた時のことだ」
感情を抜いた口調だった。記録を読み上げるような、平らな声。
「怖くなかったとは言わない。だが剣を振れば、答えが出る。斬ったか斬られたか、進んだか止まったか、勝ったか負けたか。必ず答えが出る」
ランプの炎が、小さく揺れた。
「政治にはそれがない。どれだけ正しいことをしても、誰かが遅らせる。誰かが横から変える。答えが出ない。だから嫌いだ」
最後の一言は、静かだった。怒りではなく、本音に近い何かだった。
美咲は、答えなかった。
前世で、似たことをした夜があった。プロジェクトの工程を押し込んで、チームが消耗していくのを見えていながら見ていない振りをして、それでも「リリースできた」という結果だけを握って帰った夜。後から聞いた言葉——「水野さんのペースについていけない」——が、今も胸の端に残っている。
あの時の自分は、話を最後まで聞かなかった。
だから今、黙って聞いた。
レオンは続けなかった。言い終えた後、少し視線を落として、羊皮紙の端を指でなぞった。そういう仕草をする人間だとは思っていなかった。威圧的な金色の目を持ちながら、話し終えた後に少しだけ落ち着かなさそうにする、そういう側面があることを、美咲はこの夜初めて知った。
机を挟んで向かい合っている。ランプの光が二人の間に落ちていて、距離は思ったより近い。羊皮紙を共有しているから仕方がないとはいえ、美咲の視界にレオンの横顔がある。
光の当たり方で、深い栗色の髪がわずかに赤みを帯びて見えた。
美咲は視線を外せなくなった。
(この人は、結果でしか自分を証明できない場所に、ずっと立ってきたのだ)
十五歳で剣を持って国境に立つ。その後も軍事の天才として、戦えば勝てる場所に置かれ続ける。政治は嫌いだと言える。でも剣があれば答えが出ると信じている。それは逃げではなく、その人間が積み上げてきた経験の結論だ。
胸の中に、静かで確かな何かが動いた。
(この人の話を、ちゃんと聞ける自分でいたい)
思った瞬間、自分が何を思ったのかが分かった。分かってしまった。前世でも今世でも感じたことのなかった種類の感情が、胸の真ん中あたりにじわりと重さを持って座っている。
美咲は羊皮紙に視線を戻した。インクで汚れた右手の指先が、ランプの光に照らされているのが見えた。
レオンが何かに気づいた様子で、視線をそちらに向けた。無言で、自分の腰に下げていた布切れを外した。特に何も言わずに、美咲の右手の横にそれを置いた。
ただ、それだけだった。
美咲は少し間を置いてから、それを取って指を拭いた。
「……ありがとうございます」
「別に」
ランプの炎が揺れた。二人は、また羊皮紙に向き直った。
執務室の中は静かだった。城の外から、夜警の足音が遠くに聞こえた。
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朝になった。
フェルトハインの空が白み始めた頃、美咲は二日目の作業を始めるために廊下を歩いていた。昨夜の作業で第三巻まで進んだ。今日は農業改革の詳細と、エストラーデへの借款再交渉の筋道を組む予定だ。頭の中にはすでに段取りができあがっていた。
執務室の扉に手をかけようとして、止まった。
扉の前に、すでに人がいた。
五十代とおぼしき男だった。黒地に金縁の官服を着ている。財務省の色だ。痩せた体に、丁寧に撫でつけた白髪交じりの頭。眼鏡の奥の目が、美咲を見た瞬間に品定めするように細くなった。
「水野美咲殿、ですね」
名乗りもなく、最初から名前を呼んだ。
「財務省の者です。単刀直入に申し上げます。転生者身分の方が機密指定の宰相府文書を閲覧されているとの報告を受け、正式に異議を申し立てに参りました。助言者条項には書庫への立ち入りは含まれますが、機密文書の継続的な保有と解析作業の権限は付与されておりません。本日以降の作業はお控えいただくよう、通告します」
流れるような口調だった。一切の感情を抜いた、行政の言葉。だが美咲の耳には、その隙間に別のものが聞こえた。
「転生者身分の方が」という語の置き方。「お控えいただくよう」という婉曲の角度。含まれている意味は、単なる法的異議ではない。
(誰かに言わされている)
それを確信したのは、男がレオンの名前を一度も出さなかったからだ。王子の許可のもとで動いていることを知りながら、あえてそこに触れない。権限の話をしながら、権限を持つ人間の名前を避けている。
(カシウス、という名前が浮かぶ)
国務大臣。宰相府の実質的な筆頭。男の官服の胸元に小さく縫い取られた紋章が、その省の紋に重なって見えた。
美咲はその場でレオンに報告した。レオンは廊下に出てきて、男の顔を見た。舌打ちの音がした。小さかったが聞こえた。
「面倒だ。実力で黙らせる方が早い」
本気の声だった。美咲は一瞬だけ、この人は本当にそれができると判断したのだと理解した。できないと言っているのではない。したいと言っている。
「それでは次の障壁が増えるだけです」
静かに、しかしはっきりと言った。
レオンが美咲を見た。
「力で押せば、今度は法的な異議が来る。その次は記録の問題になる。一つ潰すたびに別の火が出る。この種の問題は、力で動かすと逆に複雑になります」
「では、どうする」
引かない目だった。美咲も引かなかった。
廊下に朝の光が差し込んでいる。財務省の男は少し離れた位置で、二人の会話を黙って聞いていた。聞かせるつもりで話している、と美咲は分かっていた。
答えはある。三日間の期限が、まだ一日残っている。
その一日で、正面から突破する方法を作る。実力ではなく、制度の内側から。
二人の視線が、廊下の冷えた空気の中で交わったまま、どちらも動かなかった。