宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - 帰り道の馬上——言えなかった言葉と、次の嵐の影
朝の光がコルネリウスの館の食堂に差し込んでいた。
窓の外では住民たちが広場を行き来している。昨日まで帝国軍の包囲下にあったとは思えないほど、人々の動きは生き生きとしていた。子供が走る。老人が笑う。誰かが誰かの背中を叩いている。
その食堂の片隅で、水野美咲は羊皮紙を膝に広げたままパンをかじっていた。
ガイス文書の最終巻——前宰相ガイスが三十年の政務の末に書き残した国家改革計画書の、第十二巻だ。昨夜の宿で改ざん箇所を発見してから、美咲の頭はずっとその続きを考えていた。ロイドがどの章に手を入れたか。第八章以外に、どこまで書き換えられているか。朝食の席でも手が止まらない。
「美咲さん、食べながら読むのは——」
「一石二鳥です。問題ありません」
アイラが何か言いかけて、止めた。銀色の編み込みが揺れる。反論を諦めたのか、あるいは諦めに慣れたのか、判断がつかなかった。
そこへ住民が一人、また一人、食堂に入ってきた。コルネリウスの館を借りた朝食の場に、礼を言いに来る住民の波が続いている。老婦人が美咲の手を両手で握った。職人らしい男が深々と頭を下げた。子供が二人、レオンの袖を引っ張った。
レオンは子供たちを見て、一瞬だけ何かに戸惑うような表情を見せた。そしてすぐに王子の顔に戻って、短く頷いた。子供たちは満足そうに走っていった。
コルネリウスが美咲の隣の席に来た。五十代の恰幅のいい男で、昨日まで帝国軍の圧力に挟まれながらも港を守り続けた人物だ。その目が美咲の膝の上の羊皮紙に落ちて、丸くなった。
「……食べながら読んでいるのですか」
「読みながら食べています。微妙に違います」
コルネリウスが口を開きかけた。何か言おうとしたが、言葉が見つからなかったらしく、代わりに苦笑した。
改ざん箇所の照合作業は第三章まで進んでいた。第三章の兵站補給記録——軍の食料や物資の供給を記録した部分——に、不自然な数字の書き換えがある。ロイドの手だ、と美咲は確信している。原本との照合が必要だが、原本の所在がまだわかっていない。
美咲は羊皮紙にペンを走らせようとして、革袋の中を探った。インク瓶がどこかにある。どこだ。羊皮紙の束の間に挟まれているのか、それとも一番下に沈んでいるのか。手を突っ込んで底まで探る。革袋の中が思ったより深い。
見つからない。
(どこに入った)
手近に何かないか、と目を走らせる。テーブルの上に砂糖壺があった。陶器の、白くて丸い壺だ。
美咲はその壺に手を伸ばした。壺ではなくインク瓶のつもりで伸ばした。
羊皮紙の端が、砂糖の中に突っ込まれた。
ザリ、という音がした。
美咲は動きを止めた。砂糖が羊皮紙の端にくっついている。白い粒が、ガイス文書の余白に散らばっている。
「…………」
三秒、固まった。
アイラが、ゆっくりと天を仰いだ。
「今度こそ本当に何やってるんですか」
声が平坦だった。怒っているのか呆れているのか、あるいは両方なのか判別できない平坦さだ。
コルネリウスが目を丸くしたまま固まっている。
美咲は砂糖まみれになったガイス文書の余白を静かに見た。砂糖を払う。端が少し湿っている。インクのページまで届いていないのが不幸中の幸いだった。
「……清書が必要になりました」
「そこじゃなくて」
そのとき、隣に人の気配がした。
昨日の老大工、ガルトだった。七十近い、節くれだった大工の手を持つ男。昨夜のダム作業の後、广場の賑わいの中でいつの間にか姿を消していたが、今朝また現れていた。
ガルトは砂糖まみれの羊皮紙をじっと見た。字が読めないなりに、それが大事なものだとわかるのだろう。しわだらけの顔で、静かに聞いた。
「それは大事なもんか」
美咲はガイス文書の表紙を見た。三十年の政務の重さを持つ、一冊の本。ロイドに書き換えられた余白を持つ、傷ついた設計図。
「たぶんこの国の未来に関係します」
食堂の空気が、少しだけ変わった。コメディの余熱が引いて、重みが戻ってくる感覚だった。アイラが口を閉じた。コルネリウスが目を伏せた。
ガルトはしばらく黙って、それからゆっくり頷いた。
革袋を探ったら、インク瓶はパンの下に埋もれていた。
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見送りの準備が始まる頃、美咲は城壁の外れで馬の荷物を確認していた。
革袋の紐、羊皮紙の束、インク瓶——今度はしっかり確認した——、必要な書類の順番。移動中も記録ができるように荷物を整える。これは前世からの習慣で、出発前に一度全部確認しないと落ち着かない。
足音がした。
振り向くと、レオンが一人で近づいてきた。護衛の兵士もアイラもいない。城壁の影で、静かな足音だった。
美咲は作業を続けながら、軽く頷いた。レオンは黙って馬の鞍を確認し始めた。手綱を引いて張りを確かめ、鐙の位置を直す。その動作が驚くほど自然で、美咲が整えたはずの部分を当たり前のように修正していく。
「昨日も三回振り落とされましたか」
「最終的には言うことを聞きました」
レオンは無言で手綱を確認し直した。美咲が気づいていなかった緩みがあったらしく、指先が素早く動く。その手の動きを、美咲は横目で追った。
しばらく、二人の間には作業の音だけがあった。
レオンが手綱から手を離さないまま、少し間を置いた。それから低く言った。
「ポルトスに来たこと——危なかった」
「結果的には間に合いました」
「そういう話をしているんじゃない」
レオンが美咲の方を向いた。
金色の目が、まっすぐこちらを見ていた。感情を測るような視線ではなく、ただ、そこにある、という視線だった。
美咲は言葉を探した。「でも無事でした」でも、「次回から気をつけます」でも、「報告すべきだったことは認めます」でも——何か言えるはずだった。言葉は頭にある。ただ、どれを選んでも、その視線の意味に対する答えにならない気がした。
沈黙が続いた。
レオンが先に目をそらした。馬の首の方へ視線を戻して、鞍に手をかけて、颯爽と乗った。一つの動作で終わった。
美咲は自分の馬の鞍を見た。高い。よじ登るには腹をつくしかない高さだ。
足をかけた。引き上げた。腹が鞍に乗っかった状態で、止まった。
どうにもならなかった。
「手伝います」
いつの間に来たのか、アイラが冷静な声で言った。銀色の髪が朝風に揺れている。その表情は完全に「また」だった。
ひょいと引き上げてもらって、美咲はどうにか馬の上に収まった。
「そういう話をしているんじゃない」という言葉の重さだけが、胸の中に残り続けた。
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王都へ向かう街道は、朝の光の中で静かだった。
アイラが後方で兵士たちの先頭につき、レオンと美咲が並んで馬を進めている。街道の両脇には低い木々が続いていて、葉が風に揺れるたびに光が踊る。帝国軍の痕跡が残る脇道を過ぎると、景色が少しずつ穏やかになっていった。
しばらく、二人は黙って馬を歩かせた。
話すことがないわけではなかった。改ざん箇所の件も、ロイドの行方も、帝国の次の動きも、全部話すことがある。でも今この瞬間は、なぜか言葉を出す気になれなかった。街道の光と葉音と、馬の蹄の音だけがある。それが不思議と、不快ではなかった。
「礼を言う」
ぽつりと、レオンが言った。前を向いたまま、短い一言だった。
美咲は少し驚いた顔をした。この人が礼を言うのは珍しい。言うとしても、もっと整った状況でだと思っていた。
「プロジェクトは途中で投げ出さない主義なので」
笑って返すと、レオンが一瞬だけ美咲を見た。
「プロジェクト」
「前世での仕事の呼び方です。締め切りがあって、担当者がいて、全部終わるまで帰れない感じのもの、全部そう呼んでいました」
レオンが静かに聞いていた。口をはさまない。ただ、聞いている。
美咲は続けた。話すつもりはなかったのに、なぜか言葉が出てきた。
「毎回必ず誰かが徹夜して、必ず何かが間に合わなくて、それでも全部終わったときだけ、ああ終わった、って思える。そういう感覚です」
「それがここでも同じか」
美咲は少し考えた。
「似てますね、思ったより」
レオンが小さく笑った。声にならない、わずかな変化だった。でも美咲には見えた。普段の王子の顔ではなく、もう少し素の何かがそこにある、という気がした。
道が少し狭くなった場所があった。両脇の木々が張り出していて、通れないわけではないが、二頭の馬が自然に寄り添う形になる。
美咲の膝とレオンの膝が、わずかに触れた。
気づいた瞬間、美咲は引こうとした。反射的に。でも馬が動かなかった。道が狭いから、という理由だけで引けない。そしてレオンは、特に避けなかった。前を向いたまま、馬を進めながら、そのままだった。
美咲は前を向いた。
胸の奥で、何かが脈打っている。静かに、でも確かに。
(これは)
「仕事上の信頼」という言葉が、頭の中に浮かんだ。いつも使う言い訳だ。王都を出る前も、ポルトスへの夜道でも、泥の中で手を借りた瞬間も——そう言えばずっと、なんとかその枠に収めてきた。
でも今、膝が触れている。前を向いているレオンの横顔が視界の端にある。それを「仕事上の信頼」という枠に入れようとして、入らなかった。
枠が、もう使えない。
静かに、そのことを認めた。誰かに言うわけでも、どこかに書くわけでも、今すぐ何かが変わるわけでもない。ただ、認めた。この沈黙の中で、ひっそりと。
そのとき、美咲の馬が道端の草に首を突っ込んだ。
完全に止まった。
「……」
手綱を引いた。びくともしない。
もう一度引いた。馬は草を食べ続けた。前の蹄が地面に根を張ったかのように動かない。声をかけた。顔を上げない。
「行きますよ」
返事はなかった。草の咀嚼音だけがあった。
美咲は馬の名前を思い出そうとして、名前を聞いていなかったことに気づいた。
足音がして、レオンが引き返してきた。馬の頭の横に来て、軽く一度叩いた。
馬は何事もなかったように歩き出した。
「……なんで私の言うことは聞かないんですか」
思わず馬に言ってしまった。
「威厳の問題だ」
レオンが真顔で言った。
美咲は唇をへの字にした。返す言葉がなかった。馬はすたすたと歩いていた。何も悪くなさそうな顔をして。
アイラが後方から笑いを噛み殺している気配がした。声にはなっていないが、肩が小さく揺れていた。
あの沈黙の重さと、この滑稽な一幕が、同じ場所に並んでいる。胸の奥にあるものは消えなかった。むしろ、こういう間抜けな一幕があるほど、妙に鮮明になった。
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帰路の中盤に差し掛かったところで、美咲は馬上で羊皮紙を取り出した。
揺れる馬の背でも書ける——という自己評価はある。実際に書けているかどうかは別問題かもしれないが、手は動く。ペンを走らせた。「ロイドの行方確認」「ガイス文書改ざん原本の所在調査」「帝国の次の動き」。三点を縦に並べた。
「移動中に書けるのは本当にすごいですけど」
後方からアイラの声がした。
「読めますか」
「読めます」
答えてから、羊皮紙を見た。馬の揺れで文字が斜めになっている。「確認」の「認」が半分つぶれていた。
(……読める。たぶん)
「慣れの問題です」
「傾いてますよ、かなり」
見ていたのか。美咲は羊皮紙を正面に向け直した。修正しようとしたが、修正の文字も揺れた。
「……清書します」
「今日二回目ですよ、それ」
レオンが羊皮紙をちらりと見た。
「全部一人でやるつもりか」
「分担できるところは分担します」
レオンが前を向いたまま、短く言った。
「ロイドの件は俺も動く」
それだけだった。長くも短くもない、ただの一文。でも美咲には、その一言が何を意味しているかわかった。ロイドの件は美咲が関わった問題だ。ガイス文書の改ざん発見も、廃屋での目撃も、美咲が動いてきたことだ。そこに、踏み込んでくるという意志がある。「一緒にやる」という意志が。
「……はい」
それだけ返した。
声が少し小さくなっていたかもしれない。胸の奥に、安堵のような、あるいは照れのような、うまく名前のつけられないものがある。今朝の砂糖壺事件も、馬上の膝の距離も、「そういう話をしているんじゃない」という言葉も——全部まとめて、どこか温かい場所に収まっていく感じがした。
街道が林を抜けた。
視界が急に開けた。木々が途切れて、広い道が前に伸びている。空が広くなった。秋の雲が薄く広がっていて、遠くまで見渡せた。
前方に、人がいた。
単身で馬を止めて、こちらを向いている。道の真ん中に、動かずに立っている。灰色のマントが風に揺れる。白髪の混じった髪。年は五十を過ぎているだろうか。その目が、まっすぐにこちらを見ていた。
美咲の手が、羊皮紙を握ったまま止まった。
アイラが即座に短剣の柄に手をかけた。レオンが無言で右手を上げた。後方の兵士たちの足音が止まる。部隊全体が静止した。
男は武器を持っていなかった。両手を開いて、ゆっくりと前に出している。攻撃する意志はない、と示すような動作だった。
ロイド・ヴァルナー——廃屋の裏口で、帝国将校に封書を渡していた男。ガイスが後継として名指しした人物。ガイス文書の余白に別の手で書き込みを入れた男。
その人物が、街道の真ん中で待っていた。
しばらく、誰も動かなかった。秋風が街道を渡った。ロイドのマントが揺れた。馬が一頭、地面をかく音がした。
ロイドが静かに口を開いた。
「話があります、水野美咲殿」
その声は落ち着いていた。追い詰められた者の声でも、挑発する者の声でもなかった。ただ、用件がある、という声だった。
美咲はその声を聞きながら、羊皮紙を革袋にしまった。
次の嵐が、始まろうとしていた。