宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - 補給線の果て——「属州総督は一人ではない」
指揮所のテントに、風が入り込む隙間はなかった。
革張りの天幕が夜気を閉じ込め、ランプの熱だけが空気を揺らしている。美咲は折りたたみの机に向かい、ガイス文書の第七巻を広げたまま、細かい文字でぎっしりと埋まった羊皮紙の端にペンを走らせていた。
帝国の補給部隊が峠道——パスヴェーク——に入るタイミング。馬の足で山道を往復する時間。補給車列が出発地点から目標地点に到達するまでに消費する水と食料。その計算を、四時間刻みで積み上げ続けていた。伝令が戻るたびに帝国軍の現在位置が更新され、その数字を地図と照合し、また修正し、また積み上げる。
ペンの先が止まった。
計算が合った。
美咲はもう一度、数字を確認した。確かに合っている。帝国軍の補給線は、レオン率いる精鋭部隊が今夜仕掛けた迂回路に誘い込まれ、グレンツァハ砦への物資輸送を完全に断たれている。撤退か、飢えるか。どちらを選んでも、帝国軍は砦に留まれない。
「……封鎖、成功です」
息を切らした伝令兵が天幕をくぐり込んできた声が、耳に届いた瞬間。
全身から、力が抜けた。
ドサリ、と美咲は傍らの石の上に座り込んだ。立ったままでいられなかった。膝が笑っている。腕が重い。肩に何かが乗っかっていたような感覚が、ようやく消えていくのが分かった。
手を見ると、小刻みに震えていた。
(そうか。ずっと怖かったんだ)
計算を続けている間は気づかなかった。数字と地図の照合という作業が、恐怖を表に出ないよう塗り固めていた。でも体は正直で、全部ひっそりと溜め込んでいた。三十六時間、眠っていない。飲み物はもらったが、食事はほとんど口に入っていない。前世でデスマーチと呼ばれていた状態と似ている。
(それにしても、三十六時間分の兵站予測より自分の緊張の方が誤差が大きかったとは)
内心で突っ込んで、思わず小さく笑ってしまった。
おかしくもないのに笑えた。緊張の糸が切れた時の、静かで力の抜けた笑いだった。
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同じ頃、フェルトハインの城では別の戦いが続いていた。
ルミナス王国の首都——石畳と古い城壁が街を囲む、山麓の要塞都市——の宮廷棟に、夜が深く沈んでいた。回廊のランプが等間隔に灯り、影が長く伸びている。
アイラは密約書の入った革袋を右手に提げたまま、大臣の執務室の扉の前に立っていた。
輝く銀色の長髪を後ろで軽くまとめ、水色の瞳には眠れない夜の疲れの色が滲んでいる。だが手は震えていなかった。腰の短剣の柄に触れる習慣的な動作も、今夜はなかった。
「国務大臣アーノルト様、カルヴェン様。お二方に密約書の原本を確認していただく必要があります」
十六歳の娘が、扉一枚隔てた向こうに向かって、はっきりした声で言った。
扉が開いた。六十代と五十代の大臣二名が顔を覗かせ、銀の封蝋が押された書類の束を持った少女を見下ろした。
「ゼーヴァルト帝国との密約書原本です」
アイラは革袋を差し出した。
「カシウス国務大臣閣下が砦の兵数を帝国側に流し、グレンツァハ砦陥落を内側から補助した証拠です。ガイス文書の二重暗号に記録されていた会合の日時および密使の行動記録と、この原本が一致します。断罪手続きを即刻開始してください」
大臣二名が顔を見合わせた。アイラの声に揺れはなかった。腰を折った敬礼をして、顔を上げる。その瞳に、迷いはない。
手続きが始まった。
カシウスが書斎で証拠書類を炉に放り込もうとしたのは、それから四十分後のことだった。
書斎の窓際で、紙束が炎に近づく。燃え始めた端のあたりで、廊下に続く搬入口の扉が叩かれた。カシウスは紙束を炉に入れず、懐に収めた。扉からではなく、廊下側の出口から外に出ようとする。
廊下の角を曲がった先に、短剣があった。
刃は抜いていない。鞘ごと突き出した短剣の先端が、カシウスの胸の前で静止している。アイラが、その柄を握っていた。
「お急ぎのようですね、大臣閣下」
声はいつもより低かった。明るく親しみやすい口調が消えて、護衛として積み上げてきた年月だけが残っていた。
カシウスは眉一本動かさなかった。薄い銀髪、灰色の瞳、銀縁眼鏡の奥の表情が静かなまま、アイラを見た。
「子どもの護衛が私に何ができる」
穏やかな声だった。怒りも動揺もない。五十六年間を計算の中で生きてきた男の、底に感情が届かない声だった。
アイラは短剣を下ろさなかった。
(第五話であの人に剣を向けた。命令に従って、間違えた分)
胸の中に、その記憶がある。廊下の端で大広間に向かう美咲の前に立って、道を塞いだあの夜。命令に従う自分と、スープを届けた自分の間で揺れていたあの夜。
「あのとき間違えた分は今日取り返します」
短く、はっきりと言った。
カシウスは物理的な抵抗をしなかった。背後に大臣付きの衛兵が二名現れ、両腕を押さえた。懐から書類が取り出された。密約の写しだった。炉に入れそこねたもの。
連行されていくその背中は、最後まで姿勢が崩れなかった。そして最後まで、微かな笑みが消えなかった。
衛兵の足音が遠ざかった。人目がなくなった廊下で、アイラは壁に背をもたせかけた。そのままズルズルと膝が折れて、石の床に座り込む。両膝を抱えて、一度だけ大きく深呼吸した。
良かった、とも思わなかった。終わった、という感覚もまだない。ただ体が重かった。重くて、温かかった。
廊下のランプの炎が、静かに揺れていた。
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グレンツァハ砦の奪還は、翌朝の霧が晴れる頃に完了した。
撤退を始めた帝国軍が峠の南へ消え、石造りの砦の門に再びルミナスの旗が掲げられた。美咲は砦の外壁の近くで、帰還する兵士たちの顔を眺めていた。汚れた甲冑、包帯を巻いた腕、それでも歩いて戻ってくる足。
ひとりひとりに顔があった。
前世では、プロジェクトの進捗を数字で管理していた。タスク完了率、稼働時間、バグの件数。画面の中の数字だった。その数字の向こうに生きた人間がいることは頭では分かっていた。でも分かっていることと、実感することは違う。今ここで目の前を通り過ぎていく顔の数と、昨晩自分が必死で計算した数字が、初めて一本の線で繋がった気がした。
砦長ブルーノ・ハーゼ大尉——レオンが信頼を置く、実直な軍人——が担架で運ばれてきた。右腕に深い傷、横腹にも包帯が巻かれている。それでも目を開いていた。
レオンが担架の横に膝をついた。
「殿下が来ると、信じていました」
かすれた声だった。大尉はそれだけ言った。それ以上の言葉は持っていないか、それ以上は必要ないと思っているか、どちらかだった。
レオンは何も言わなかった。無言で頷いた。
一秒か二秒か、その間だけ。深い栗色の髪が風に揺れ、金色の瞳が大尉の顔を静かに見ていた。王子らしい威厳と、その奥にある何か——言葉にする必要のないものが、そのやり取りの中にあった。人が人を慕うのは、いつもこういう一瞬の積み重ねからなのだと、美咲は少し離れた場所で思った。
担架が運ばれていく。レオンが立ち上がり、振り返った。
美咲は石壁に背をもたせかけていた。疲労で足が少し重い。ランプを持つ必要もない明るい朝だが、まだ体が夜の計算作業から切り替わっていない感覚がある。
レオンが近づいてきた。
戦闘で土埃にまみれている。頬に浅い擦り傷があって、甲冑の肩当てに傷跡がついていた。それでも歩き方は揺れていない。足音が止まった。美咲の右隣、肩と肩の距離が近い場所に、レオンが立った。
何も言わなかった。
右手が、美咲の肩に乗った。
そっと、でも確かな重みで。
謝罪なのか、感謝なのか、信頼の確認なのか。どれか一つではなく、全部が混ざったような触れ方だった。拘束令を下したあの夜、絞り出した声で「拘束しろ」と言った時のレオンの顔を、美咲は覚えていた。あれは信じていない顔ではなかった。全部を飲み込んで、それでも判断しなければならない王子の顔だった。
今の手も、たぶん同じ意味を持っている。
美咲の胸の中で、何かがひとつ、静かに跳ねた。
前世で七年間、仕事の文脈でしか誰かと並んでこなかった。この異世界に来てからも、数字と論理の中で動いてきた。それなのに今、石壁を背にしてレオンと並んでいるこの距離が、これまでのどの瞬間よりも近く感じられた。意識してしまっている。気づいた瞬間に少し恥ずかしくなったが、否定する気にもなれなかった。
美咲は先に笑った。
「プロジェクト完了です、殿下」
小さく、でも確かな声で言った。プロジェクトマネージャーとしての言葉で。前世から引き継いだ、自分だけの完了宣言で。
レオンが息を吐いた。
苦笑い、というのが一番近い表情だった。普段の威厳が少し崩れて、どこか十八歳の素顔が覗く。肩の手が離れる。
「……次は、もう少し楽な仕事を頼みたいところだが」
「今後のプロジェクト規模次第です」
短いやり取りだった。でも二人とも、少し笑っていた。
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首都に戻ったのは夕方だった。
宮廷の廊下では、貴族たちが美咲を見つけるたびに足を止めた。冤罪について何か言おうとしているのは分かるのだが、言葉がまとまらないのか、「その……」と始めては止まり、また始めては止まるという状態が繰り返された。謝罪なのか弁明なのか、何を言えばいいのか、本人たちも決めていないらしい。
「もう終わったことです」
美咲は三人目が口ごもったところで切り上げた。それ以上でも以下でもない一言で、すっぱり締めた。
「……あの、美咲さんって」
廊下を歩きながら、隣にいたアイラが小声でこぼした。
「本当に変な人ですね」
ひそひそ声なのに笑いが滲んでいた。褒めているのか呆れているのか、おそらく両方だった。
「褒め言葉として受け取っておきます」
美咲も同じくらいの声で返した。
二人は廊下で小さく笑い合った。声に出さない、肩が微かに揺れるだけの笑い。それだけで十分だった。以前、アイラが美咲の前に短剣を構えて道を塞いだ夜と、今この廊下の距離の違いが、笑い声の大きさより多くのことを語っていた。
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夜が深くなった。
ツァールハウスの執務室——城の西翼に位置する、かつて宰相ガイスが三十年間使い続けた石造りの棟——に、美咲は一人でいた。
ガイス文書の残巻を机に広げている。第七巻の後半部分。前世のプロジェクト管理で言えば、最終フェーズの成果物確認に相当する作業だ。全てが終わった後でも、ペンは動く。それが自分のやり方だと、前世でも今世でも変わっていない。
ランプが一つ。石造りの窓の外は暗い。フェルトハインの旧市街に灯る明かりが、遠くに小さく見える。
扉が開いた。
レオンだった。
甲冑は脱いでいる。普段着に近い、落ち着いた色の上着。土埃は落としてあるが、頬の擦り傷はまだそのままだ。戦闘が終わってから何時間も経つのに、疲れた様子を見せないのはこの王子の習慣なのかもしれない。
執務室に入ってきて、机の前に立つ美咲を見た。
「まだやるのか」
驚いているわけでも呆れているわけでもない。ただ事実を確認する、静かな問いだった。
美咲は第七巻の最終ページを手に取った。答える代わりに、黙ってレオンに差し出した。
羊皮紙の最後の行。ガイスの細かい字で、一文だけが書かれていた。
——属州総督は一人ではない。
レオンが受け取った。ランプの光の下で読む。その顔が少しずつ険しくなっていくのが、美咲には分かった。
「……隣で読んでもいいか」
「どうぞ」
レオンが美咲の隣に立った。机の縁に手を置いて、羊皮紙を二人でランプに近づける。光の揺れる中で、あの一文がはっきりと見える。
肩が触れるか触れないかの距離だった。
美咲は気づいていた。この距離に。第二話の夜、宰相府で並んで計画書を読んだ時よりも近い。あの夜は同じ机の向かい側に座っていた。今夜は並んで立っていて、ランプの光が二人の間を照らしている。
胸の奥で、何かがもう一度大きく跳ねた。今度は「意識してしまっている」どころではなかった。
(これはちゃんと意識している)
でも今夜は、跳ねたことを誤魔化す必要を感じていない自分がいた。感情に名前をつけることを避けてきた前世の自分と、少しだけ違う気がした。
「属州総督候補のリストがある、ということだろうか」
レオンが低い声で言った。感情ではなく思考が動いている声だった。
「おそらく。ガイス文書の未解読の巻に暗号化して残してある可能性があります」
美咲は落ち着いた声で答えた。声のトーンを保つのに少し努力がいったが、出来た。
「カシウスだけが帝国と繋がっていたわけではない、ということか」
「あの方が最後まで笑みを消さなかった理由は、そこにあると思います」
確保された後のカシウスの顔を、美咲は思い出した。敗北した顔ではなかった。計算が変わっただけで、ゲームが終わったとは思っていない顔だった。属州総督を約束されていた者がカシウス一人であるはずがない。王国の内部に、まだ駒が残っている。
レオンが羊皮紙を机に置いた。
「次も頼む」
短く、迷いなく言った。命令ではなく、頼みだった。言葉の選び方が、少しだけ変わっていた。
美咲は一拍置いて、答えた。
「はい。プロジェクトはまだ続きます」
ランプの炎が揺れた。
石造りの窓の外、フェルトハインの夜が静かに広がっている。砦は取り戻した。密約は暴いた。カシウスは確保した。でもガイスが最後に残したその一文が、これが終わりではないことを告げていた。
未解読の三巻から五巻。その中に眠っているかもしれない候補者のリスト。王国の内側に、まだ見えていない顔がある。
美咲はランプの光を見ながら、次の計算をすでに始めていた。