宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - なぜ来た——泥だらけの答えと、崩れた信頼の地図
靴の中まで水が入っていた。
一歩踏み出すたびに、ぐちゅ、と音がする。泥と枯れ葉と——どこで引っかかったのかわからない——小枝が三本、美咲の服にくっついていた。前身頃はほぼ均一の茶色だ。ポルトス港外縁の小川を渡ったあの十五分で、ここまで変わるのかと、他人事みたいに思う。
アイラが廃倉庫の壁沿いを歩きながら、板の一枚一枚を押していった。
「……ここです」
低い声だった。護衛の声。一枚の板が内側に倒れ、人一人がかがめば通れるほどの隙間が現れた。美咲は革袋を胸に抱え直して——紙を守る本能が今さら発動した——隙間をくぐった。
暗がりに目が慣れるのに、数秒かかった。
ランプが三つ。石積みの床。隅に積まれた木箱。そして——
兵士たちの顔が、一斉にこちらを向いた。
十数人。疲弊した顔。傷と泥で汚れた鎧。じっと見つめてくる。美咲はその視線の意味を、一秒で理解した。「誰だこれは」という顔だった。「何がどうなってここに来た」という顔でもあった。
奥の方で、立ち上がる音がした。
レオンだった。
深い栗色の短髪が、ランプの橙色に赤みを帯びて見える。鎧の一部が外されて、腕と肩だけが露出している。金色の瞳が美咲の方を向いた。その目が、一瞬だけ止まった。
三秒、完全に止まった。
美咲は、そのカウントがはっきりわかった。一秒。二秒。三秒。レオンの口が、開きかけてまた閉じた。金色の目が美咲の頭から足元まで動いて、また頭に戻る。泥。枯れ葉。小枝三本。靴から染み出す水。革袋にしがみつく姿勢。
想定外すぎて言葉が出ない顔だった。
「……なぜ来た」
低く、絞り出したような声だった。
美咲は革袋を抱えたまま、顔を上げた。レオンの金色の目を、まっすぐ見た。廃倉庫の空気が、奇妙に凪いでいた。兵士たちが息を詰めているのがわかる。
「あなたを失うわけにはいきませんでした」
静かに言った。
三秒、沈黙が落ちた。
兵士の何人かが、視線をそらした。アイラだけが後ろに半歩下がって、壁の方を向いた。
レオンは何も言わなかった。金色の目が、普段より長く美咲の顔に留まっていた。美咲にはそれがわからなかった。ただ、レオンが何も言えないでいることだけがわかった。
そのとき、美咲が革袋から羊皮紙を取り出した。
ぽとり、と。
頭から枯れ葉が二枚、落ちた。レオンの足元に、静かに着地した。
レオンが一瞬だけ、その枯れ葉を見下ろした。それから、何も言わずに屈んで、二枚を拾い上げ、脇の木箱の上に置いた。その動作が、やけに丁寧だった。
入口付近で背中を向けていたアイラが、小さく口元を押さえた。
「聞いてください」
美咲は羊皮紙を広げた。
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ロイドの話を始めると、廃倉庫の空気が変わった。
美咲は順を追って話した。廃屋の裏口。月明かりの中の横顔。帝国将校への書類の手渡し。紙の折り方、渡すときの動作の自然さ、やり取りの時間。全て羊皮紙に記してある。見張りの数、帝国の紋章、将校の外套の意匠も。
「兵力配置図だと判断した根拠は」
「将校が受け取った後、地図を確認するような目の動きをしていました。縦横に視線が動く。文章を読む目の動きとは違います」
「将校の部隊は」
「外套の紋章から、帝国補給部隊の第三連絡組と思われます」
レオンが黙った。
美咲は続けた。ロイド・ヴァルナー——ガイス宰相の古参参謀で、ガイス文書の最後のメモに「ヴァルナーに任せた」と名が刻まれていた人物——の裏切りが意味することを、できる限り数字と事実で並べた。帝国軍の斥候がポルトス周辺の地形をあれほど正確に把握している理由。帝国の自信に満ちた補給ルートの設計。
レオンの右拳が、ゆっくりと握り締められていくのが見えた。
関節が白くなるまで。
それが壁を打った。鈍い音。石の壁は傷一つつかず、レオンの拳だけが赤くなった。
「いつからだ」
「わかりません」
正直に答えた。推測なら言える。だが推測を事実として言うことはしない。レオンにはわかるはずだった——美咲が「わからない」と言うときは、本当にわからないときだ。
レオンが拳を壁から離した。
美咲の方を向いた。
そのとき初めて、美咲はレオンの顔の中に怒りより先に何かが来ているのを見た。疲れと、痛み。ガイスが信頼した人間が、また——という、繰り返しの重さ。カシウスのときに一度ついた傷の上に、もう一枚、同じ場所を切られたときの顔をしていた。
美咲は、この知らせを持ってきたことの重さを改めて感じた。同時に、この表情を見たくなかった自分と、それでも来なければならなかった自分が、同じ場所に立っているのがわかった。
廃倉庫に沈黙が落ちた。
カシウスの密約が暴かれたときの、あの静けさと同じ種類の静かさが、今度はレオンの内側でも鳴っていた。
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沈黙を破ったのは美咲だった。
「状況を整理します」
羊皮紙を床に広げた。偵察で記録した帝国軍の補給線データ。兵站拠点の位置。兵士の交代間隔。それらの隣に、もう一枚を並べた。
「これは」
「ポルトス港の旧水道地図です。三十年前のものですが、構造自体は変わっていないはずです」
美咲は指で線をなぞりながら話した。港北部の古い水道。そして——港から北へ二キロほどの山間に、かつて洪水防止用として築かれた廃棄ダムがある。三十年前の大雨の後に使われなくなり、放置されている。
「このダムを修復して、水を流します」
「どこへ」
「港北部の低地一帯です。帝国軍の陣地中心部——補給線の観察から、主力倉庫群が低地に集中していることを確認しています。大量の水が流れれば、あの一帯の包囲網を再編することは不可能になります」
「……ダムの修復に使える人間がいるか」
「石積み作業ができる者が五、六人いれば。地元の漁師か建築に詳しい住民の協力が必要です」
「証拠はあるか。陣地が本当に低地にあるという」
美咲は羊皮紙をもう一枚取り出した。補給拠点の位置推定、地形との重ね合わせ、兵士の移動方向から逆算した陣地の位置。全て記録してある。
「これが根拠です」
レオンが羊皮紙を手に取った。ランプが遠い。
「暗くて読みにくい。ランプを」
ランプを近づけるよう、美咲は兵士に頼もうとした。しかしレオン自身が膝をついて、ランプを羊皮紙の脇に持ってきた。
地図を挟んで、二人の顔が近くなった。
非常に、近くなった。
美咲は羊皮紙の説明を続けた。帝国軍の主力倉庫がこの位置にある根拠。兵士の交代パターンから計算した陣地の広さ。水が流れれば包囲網の再編に最低でも半日かかるという推定。
話しながら、視線だけがレオンと合った。
「……近いですね」
思わず言ってしまった。小声だった。
レオンが無言でランプを十センチ横にずらした。
ただ、顔はそのままの距離にあった。
美咲の思考が、一瞬だけ計算から外れた。ランプの橙色がレオンの金色の目に映っている。その目が羊皮紙を見ているのか自分を見ているのか、判別がつかなかった。顔に熱がわずかに上がった。泥が顔についているのが、急にありがたかった。
入口付近のアイラが、さりげなく外の方を向き始めた。見張り以外の何かを意識している動きだった。
美咲は羊皮紙に視線を戻した。
「問題点も正直に言います」
「言え」
「ダム修復に専門の人手が必要です。失敗すれば港低地の民家を巻き込む可能性があります。そしてロイドが漏らした情報量次第では、帝国軍が既に陣地を移動している可能性もある」
「成功率は」
「私の計算で、五分五分です」
正確に言った。六割でも四割でも七割でもない。五分五分だ。
レオンがすぐに言った。
「やる」
迷いが一切なかった。美咲は、レオンの決断の速さをいつも少し恐ろしいと思う。計算が好きな自分とは真逆の種類の強さだった。
「わかりました。では次は住民の協力を得る段階です」
レオンが美咲の顔を一瞬見て、小さくうなずいた。言葉はなかった。ただ、その目には最初に廃倉庫へ入ってきたときの「なぜ来た」という硬さとは、少し違うものがあった。美咲には何と名付けるかわからなかったが。
二人の意思が、静かに噛み合った。
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レオンが兵士たちへの伝達に動いた後、美咲は床に座って羊皮紙を広げ直した。
ランプの光の下で、計算を見直す。ダム修復にかかる時間の推定。水量の計算。低地一帯に水が広がるまでの速度。住民への説明で必要な言葉の整理。
その隙間に、ロイドの横顔が繰り返し浮かんだ。
(ガイス文書も——)
「ヴァルナーに任せた」という一文。ガイスが三十年の仕事の末に書き残したその名前が、今となっては別の色を持って見える。ロイドがどこまで文書の内容を把握していたのか。未解読のままになっている巻が、まだある。あの暗号の奥に何が書かれているのかを、ロイドは知っていたのか、知らなかったのか。
次の計算が、また重くなった。
「美咲さん」
アイラが入口から戻ってきて、美咲の隣に腰を下ろした。
「顔が怖いですよ、さっきから」
「考えるのが仕事なので」
「仕事の話じゃなくて、顔が心配なんですけど」
アイラがぼやいた。美咲は羊皮紙から目を上げた。アイラの水色の目が、ちゃんとこちらを見ていた。さっき、ランプのそばで美咲が熱くなった顔を、見ていなかっただろうかという余計な考えが一瞬来たが、アイラの表情にそういう気配はなかった。純粋に心配している顔だった。
美咲は羊皮紙をまとめようとして、革袋を引き寄せた。
ぽとり、ぽとり、ぽとり。
枯れ葉が三枚、落ちた。
美咲は無言で一枚拾った。また一枚。もう一枚。
「もはや美咲さんの一部みたいになってますね」
「一部になってもらっては困ります」
アイラが小さく笑った。声は出なかったが、口元が動いたのは見えた。美咲も、笑えたかどうかはわからなかったが、少し体が軽くなった気はした。
そこへ、レオンが戻ってきた。
「ダムに向かう。案内しろ」
短い指示。美咲は立ち上がって、革袋を担いだ。
その瞬間。
レオンが無言で手を伸ばした。革袋の肩紐が片側外れていた。美咲は気づいていなかった。レオンが紐を掛け直して、それから何事もなかったように歩き出した。
その動作がひどく自然だった。
美咲は一秒だけ止まった。ランプの光が遠ざかっていく。レオンの背中を、一秒見ていた。それから後を追った。
廃倉庫の出口に向かいながら、美咲は頭の中で次の課題を整理し始めた。ダムまでの移動ルート。帝国軍の夜間斥候の動き。EP10で目撃した斥候が三人だったとすれば、廃倉庫からダムまでの林道にも見張りが配置されている可能性がある。夜明けまでの時間が、少ない。
革袋の中で羊皮紙が静かに揺れた。ガイス文書の未解読の巻が、どこかで待っている。ロイドが何を渡し、何を渡していないか——その答えが、これからの全ての計算の精度を決める。
五分五分の賭けは、まだ始まったばかりだった。