宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - 頭を下げた王子——ダムと泥と、顔が近すぎる問題
廃棄ダムへ続く山道を歩き終えた頃、東の空がまだ暗かった。
美咲は革袋の肩紐を直した。前話でレオンが掛け直してくれた紐だ。それでも一時間歩けばまたずれる。革の穴が少し広がっているのかもしれない。どうでもいいことが、疲れているときほど頭に残る。
三人が山道から平地に下りると、ポルトス港の旧市街が見えた。フェルム河の支流が港の北で光っている。月はそろそろ沈みかけていた。
「コルネリウスの館前の広場です」
アイラが前を歩きながら言った。銀色の編み込みが月明かりに白く浮く。いつもの護衛の足運び——枝を避け、地面を読み、音を殺す——が夜明け前の空気の中で静かに続いている。
広場に出た瞬間、美咲は少し驚いた。
灯りがある。松明が十本ほど、広場の縁に立てられている。そしてその光に照らされて、人が——住民が、すでに集まっていた。
老人、女、職人らしき腕の太い男、子供の手を引いた母親。帝国軍の包囲下で、噂が広まっていたのだ。夜明け前から、ここに来ていた。
美咲は革袋から羊皮紙を取り出した。補給線データ、水道地図、ダムの構造推定図。三枚を広げて、住民たちの前に立った。
「ポルトス港北部の旧水道を使います」
落ち着いた声で話し始めた。三十年前に作られた廃棄ダム——洪水防止用として築かれ、使われなくなった構造物——を修復し、港北部の低地に水を流す。帝国軍の倉庫群がその低地に集中している。水が来れば、包囲網の再編に半日は必要になる。
論理は正確だった。数字も根拠も揃っている。
でも住民の顔には、不安と疑いが混在していた。当然だ。知らない女が夜明け前に羊皮紙を広げて、「成功率五分五分の作戦です」と言っている。信じろという方が無理だ。
沈黙が広場を包んだ。松明が風に揺れる。
そのとき、レオンが一歩前に出た。
美咲は横目で見た。レオンは何も言わなかった。ただ、ゆっくりと膝を折った。
深く、頭を下げた。
王族が、民の前で膝をつく。
広場が凍りついた。松明の炎だけが揺れ続けた。
コルネリウス——ポルトスの領主、五十代の恰幅のいい男——が困惑した声を出した。「お、お待ちを……殿下、そのような……」
レオンは顔を上げなかった。
美咲も迷わず隣で同じように頭を下げた。泥がまだ乾ききっていない前身頃が、石畳に向いた。
「失敗すれば、低地の民家を巻き込みます」
頭を下げたまま言った。嘘をつく気はなかった。「成功する」とは言えない。言ってはいけない。
沈黙が続いた。
そのとき。
美咲の頭から、枯れ葉が一枚、ひらりと落ちた。
山道で引っかかっていたものが、頭を下げたはずみで落ちたのだ。枯れ葉はくるくると回りながら、まっすぐコルネリウスの鼻先に着地した。
コルネリウスが、深刻な顔のまま、完全に固まった。
三秒。
近くの住民が小さく噴き出した。
それが広がるように、小さな笑いが波紋のように広場に広がった。コルネリウスがぼそりと「……なんで今」と呟くのが聞こえた。
「王都からわざわざ来られたんですか」
一人の老婦人が、恐る恐る美咲に声をかけた。
美咲は顔を上げた。泥まみれの顔のまま、事もなげに答えた。
「途中で馬から三回落ちました」
老婦人が目を丸くした。隣の男が「三回」と繰り返した。誰かが笑いを噛み殺した音がした。
嘘は一つも言っていない。ただ事実を言っただけだ。でも、その率直さが——計算ではなく、ただそういう人間だという空気が——広場の何かを変えた。
「三十年前にそのダム作った仲間が、まだ生きてるわい」
太い声が広場の奥から飛んできた。
振り返ると、七十近い老人が腕を組んで立っていた。日焼けした顔に深い皺。大工の手——節くれだった、どこか武器のような手——が胸の前で組まれている。
「やってみせろ。場所を案内する」
広場の空気が、変わった。
---
夜明けとともに作業が始まった。
老大工——ガルトと名乗った——は手際よく人を振り分けた。石組み班、水門の錆落とし班、迂回水路の泥掻き出し班。住民が十七人、兵士が二十三人。それぞれ道具を持って動き出す。
美咲は即座に羊皮紙を広げて作業分担表を書き始めた。前世の習慣だ。WBS——作業を細かく分解して管理する表——を書けば全体が見える。
「字が読めないものも多い。口で言え」
ガルトが肩越しに言った。近くにいた若い兵士たちが、気の毒そうな顔で美咲を見た。
美咲は静かに紙をしまった。
「わかりました」
立ち直りが早い。それが前世から続く美咲の特技だった。
泥掻き出し班に参加した。迂回水路は三十年分の堆積物で埋まっていた。膝まで入らないと届かない場所がある。長靴はない。美咲は靴のまま入った。冷たい。泥が重い。三歩進んで、左足が抜けなくなった。
完全に動けなくなった。
「……」
引き抜こうとしたが、泥の吸着力が予想より強い。右足を動かすと今度は右足が沈み始めた。両足が固定される前に何か言うべきか、と計算していると。
腕を掴まれた。
引き上げられた。ズボッという音とともに、泥から両足が抜けた。
レオンだった。呆れた顔をしていた。金色の目が「また」と言っていた。
「想定範囲内です」
美咲は泥まみれの顔で言い張った。
レオンは無言で美咲の頬についた泥を指先で一掃した。
その動作があまりにも自然すぎて、美咲の思考が一瞬だけ止まった。
(……なんで)
何を考えるより先に顔が少し熱くなった。泥がついていたから気づかれていないはずだ、たぶん。美咲は視線をダムの方へ戻した。レオンはもう石積みの方へ歩いていた。その耳が——わずかに、赤い気がした。
アイラが少し離れたところで水と乾燥果実を住民に配っていた。その目が一瞬だけ美咲とレオンを見て、それから空を仰いだ。何も言わなかった。
作業は続いた。
石積みが崩れかけた瞬間、レオンが反射的に動いた。美咲の腕を掴んで引き寄せた。崩れた石が、さっきまで美咲が立っていた場所に落ちた。
二人が正面からぶつかる形になった。
距離が、数センチ。
レオンの息が、かかる。
金色の目と目が合った。一秒、時間が止まったような気がした。胸の奥で何かが脈打つ。顔に熱が上がるのを美咲は自覚した。言葉が出なかった。
周囲の住民が、申し合わせたように全員視線を手元に落とした。ガルトが大きく、これ見よがしに咳払いをした。
レオンが一歩引いた。石積みの方へ戻った。その背中だけが見える。
美咲も視線を水路に戻した。
(仕事だ。今は仕事だ)
自分に言い聞かせた。効果は五分五分だったが、手は動いた。
昼前には八割方の修復が完成に近づいていた。
---
日が傾き始めた頃、見張りの兵士が叫んだ。
「白旗!」
全員が動きを止めた。
白旗を掲げた騎馬が一頭、ダムへの道を上がってくる。単独だ。帝国の外套。使者だ。
馬を止めた使者は、感情のない声で告げた。
「明朝、夜明けとともに総攻撃を開始します。降伏するならば今夜中に城門を開けられたい」
それだけ言った。
用件は終わった。使者が馬を返しかけた。去り際に振り返り、泥と枯れ葉まみれの美咲に目を向けた。
「大変お疲れの様子ですが」
余計な一言を添えて、使者は下っていった。
美咲は自分の全身を見下ろした。泥、枯れ葉、水路の土、石積みの砂。ひどいものだ。
「今に見てろ」
低く、静かに言った。
近くにいた兵士たちが、声を出さずに拳を握った。
広場が静まり返った。住民の顔から血の気が引いた。子供が母親の袖を掴む。老婦人が目をつぶった。
夜明けまで、六時間。
その現実が、等しく全員に刺さった。
レオンが作業班の方を向いた。疲弊と覚悟が同じ顔に乗っていた。それでも声のトーンだけが、揺れていなかった。
「作業を続ける」
短い指示だった。それだけで十分だった。
人が動き始めた。
美咲はそのトーンを聞き逃さなかった。レオンが声で「崩れていない」と示した。それが今この場で必要だったものだ。
作業が再開されて一時間後、致命的な欠陥が見つかった。
「止まれ」
ガルトの声が低く響いた。全員の動きが止まった。
水門の前にガルトが膝をついていた。金具を指で触っている。その顔が、良くない色をしていた。
「錆が固着してる」
水門を動かすための金具——三十年間、雨と湿気に晒され続けた鉄の金具——が完全に固まっていた。このままでは水門が開かない。どれだけダムを修復しても、水門が動かなければ何も流れない。
「熱で錆を膨張させてから叩けば外れるかもしれん」
ガルトがゆっくりと続けた。
「だが失敗したら、金具が割れる。そうなれば水門は永遠に開かない」
誰も言葉を出せなかった。
「成功率は……五分以下だ」
五分以下。
美咲はその数字を頭の中で転がした。加熱、膨張、打撃。鉄の特性、金具のサイズ、固着の程度。計算できる部分は計算した。でも計算の外にある部分が多すぎる。ガルトの「五分以下」はおそらく正確だ。
源素術師の兵士が二名いた。火の系統——源素術の四系統のうち熱を扱える術者——だ。源素を使って金具を加熱し、大工たちが交代でハンマーを打つ。それしかない。
金属音が始まった。
夜のポルトスに響く。一打。また一打。術師が金具に手をかざして熱を送り込む。汗が落ちる。ハンマーが交代する。また一打。
動かない。
---
深夜になった。
ハンマーの音が続いている。
美咲はダムの石壁に背中を預けた。目を閉じた。足が重い。靴の中に泥が入っている。肩のあたりが凝っている——前世からの古傷だ。
隣に、足音がした。
レオンが立った。壁に背中を預けた。同じ方向を向いた。
しばらく、ハンマーの音だけがあった。
「無理だったら引き返せばよかった」
ぽつりと言った。声が低かった。
美咲は目を開けなかった。
「最初から引き返す選択肢はなかったです」
静かに答えた。
沈黙が落ちた。
レオンが何か言いかけた。止めた。美咲もそれ以上は言わなかった。でも、その沈黙は不快ではなかった。喧嘩の後の沈黙でも、疲れた者同士が黙っている沈黙でもなかった。
同じ方向を向いている、という確認のような時間だった。
美咲の胸の奥に、静かなものが根を張り始めた。
この人の隣が、どこか落ち着く。
その感覚をどう名付ければいいか、美咲にはまだわからなかった。ただ、そこにある、という事実だけが、確かにあった。
少し離れたところでアイラが動いていた。水の入った革袋と乾燥果実を持って、兵士から住民から術師から、一人一人に配って回っている。「これ飲んで」「もう一個食べてください」——明るい声が深夜の作業場に続いている。誰も追い返さない。皆が受け取る。アイラの笑顔は、この暗い時間に必要なものだった。
ハンマーの音が続く。
一打。また一打。
夜明けが近づいてくる。空の端が、どこか重い黒から少しだけ薄い色に変わり始めた気配がある。
そのとき。
金属音が変わった。
硬い「カン」という響きではなく、低く、わずかに鈍い「クン」という音が混じった。
術師が「今だ」と叫んだ。
ハンマーが重なった。三人が同時に打った。
小さな金属音が響いた。
動いた——金具が、わずかに動いた。
作業場にいた全員が水門を見た。固唾を飲んだ。ガルトが膝をついて金具に手をかけた。震える手ではなかった。七十年近く使い続けた、大工の手だった。
全員が、その手を見ていた。
夜明けが来る。六時間が過ぎようとしていた。