宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - 大水と朝焼け——ポルトス港、解放の日
金具が、動いた。
わずかだった。ほんの数ミリ。だが、全員がそれを見た。
ガルトの皺だらけの手が、金具の端を押さえたまま止まっている。七十年近く使い込まれた大工の手が、震えていた。興奮なのか、疲弊なのか、あるいは両方なのか、美咲にはわからなかった。
「今が好機だ」
低く、静かな声だった。広場の喧騒でも遠くの虫の声でもなく、ただ夜明け前の冷気だけが漂う中で、その声だけが真っすぐ届いた。
「失敗すれば次はない。全員、わかってるな」
誰も返事をしなかった。それで十分だった。
レオンが最後のハンマーを受け取った。兵士から無言で手渡された、重い一本。金色の目が金具に向いた。呼吸を整える。一秒、二秒。
その瞬間、美咲が革袋をひっくり返した。
「……あれ」
小声だった。本人も気づいていなかった声量だった。狼煙の発火薬を革袋の中から探し出しているのだが、羊皮紙が三枚ほど一緒に出てきて、どれが発火薬の袋でどれが地図なのか、暗がりでは判別がつかない。指先が何かを掴む。違う。また掴む。また違う。
アイラが横から視線を向けた。その目が、ゆっくりと見開かれた。
「…………」
口は開いていない。でも顔全体で「今ですか」と言っていた。
美咲はもう一度ひっくり返した。羊皮紙が二枚、地面に落ちた。拾う。また探す。
周囲の兵士が数名、こちらを見た。レオンが一度だけ振り向いた。金色の目が美咲の手元を見て、それから正面に戻った。戻った、が——その耳が赤くなっていた気がしたのは、夜明け前の光のせいだと美咲は自分に言い聞かせた。
「……ありました」
小さな革袋が出てきた。確かにこれだ。美咲は静かに深呼吸した。誰も何も言わなかった。場の空気が、ゆっくりと元の重さに戻った。
全員の視線がレオンに向いた。
レオンがハンマーを構えた。
渾身の一撃。
カァンッ——!
金属音が夜明けの空気を裂いた。
一秒の沈黙。
それから、鈍い、重い音がした。ギャ、ギィ、ギィィ——と、三十年分の錆と時間の重みを引きずりながら、水門の金具がゆっくりと動き始めた。
ガルトが立ち上がった。両手を水門の縁にかけて、全体重で押した。
「押せ!」
三人が加わった。水門がきしむ。抵抗する。それでも動く。一センチ、また一センチ。
広場全体に、安堵と興奮が同時に広がった。兵士の誰かが低く「よし」と言った。住民の老婦人が両手を口に当てた。アイラが美咲の袖をそっと掴んだ。
「美咲さん」
「わかってます」
発火薬の袋を開いた。狼煙の台に近づく。点火した。
橙色の炎が上がった。そして白煙が、夜明け前の暗い空へ、まっすぐ立ち昇っていった。
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レオンが号令を下したのは、煙が十分に空に広がった直後だった。
「出撃!」
短い一言。精鋭部隊が動き出した。馬の蹄が石畳を打つ音が広場に響いて、すぐに遠ざかる。
出撃の直前、レオンが馬上で一度だけ振り向いた。
美咲の方を見た。
言葉はなかった。一秒の間だった。金色の目と目が合った。それだけだった。それだけで、互いに確認が終わった——美咲にはそう感じられた。作戦の手順を確認したわけでも、励ましがあったわけでもない。ただ、同じ方向を向いているという事実の確認。
レオンが馬を返した。背中が遠ざかる。
美咲は胸の奥に何かが締まる感覚を覚えた。うまく名前がつけられないものが、確かにそこにあった。仕事上の信頼、とだけ言えば済む話なのかもしれない。でも夜明け前のこの瞬間、泥まみれで狼煙を上げた直後のこの瞬間に、美咲がレオンの背中を追っている視線は、それだけではなかった。
(……今は作戦の最終フェーズだ)
歯を食いしばって、陣地の方角に目を戻した。
轟音が来たのは、それから三分も経たないうちだった。
ズォォォォン——!
三十年の眠りから覚めた水が、古い水道を全力で走った。水煙が夜明けの空に立ち上がる。地面がかすかに振動した。足の裏でそれを感じて、美咲はランプの光の下で羊皮紙を広げた。
「報告!」
見張りの兵士が駆け込んできた。
「帝国軍が動きました! 低地に水が入っています!」
美咲は羊皮紙の補給線図を素早く広げた。北側出口の位置を指で押さえた。
「北側出口——今ここを塞げば退路が断たれます。帝国軍の主力倉庫群はこの一帯に集中しています。撤退ルートはここしかない」
短く、正確に。レオンはもういない。伝令が必要だった。美咲は近くにいた副指揮の兵士を向いた。
「レオン殿下に届けてください。北の退路、今すぐです」
兵士が走った。
夜明けの空が、少しずつ白くなっていた。
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ポルトス港の広場に歓声が上がったのは、夜明けから三十分後だった。
「撤退した! 帝国軍が撤退していく!」
広場に飛び出してきた住民が、次々に空へ拳を上げた。老婦人が泣いていた。子供が走り回った。数日ぶりに外に出られた喜びが、人から人へ伝染していく。
「三十年前の仕事が役に立ったな」
ガルトが照れくさそうに言った。その声は広場の喧騒に半分埋もれたが、近くにいた住民がしっかり聞いて、笑いながらガルトの背中を叩いた。老大工は「痛い痛い」と言いながら、どこか満足そうに目を細めた。
美咲は広場の端に立って、その光景を見ていた。
泥と水路の土と、石積みの砂が服全体についている。靴の中はまだ湿っている。肩のあたりが鈍く痛む。でも、歓声の中に立っているのは悪くなかった。計算が合っていた。五分五分の賭けは、当たり側に転がった。
そこへ、馬の足音がした。
レオンが戻ってきた。
泥まみれだった。顔の左半分に泥が跳ねていて、鎧の右肩がびしょ濡れだった。馬から降りた足が地面を踏んだ瞬間、ぐちゅ、という音がした。靴の中の水だ。
美咲も靴の中が湿っている。同じ音がした。
二人が広場の端で並んで立った。
住民が、こちらを見始めた。
ひそひそ声が聞こえてきた。
「どっちがひどいと思う?」
「……王子様の方が水が多い気がするけど」
「でも顔の泥は向こうの方が均一だよ」
アイラが二人の傍に来た。真剣な顔で両者を見比べた。一秒、また一秒。そして小声で、しかし確固たる口調で言った。
「……引き分けだと思います」
笑いが広場に広がった。レオンが「……なぜ採点している」と言った。
「気になったので」
アイラは全く悪びれていなかった。
レオンが美咲の方を向いた。
「作戦通りだった」
短い言葉だった。評価でも感謝でも称賛でもなく、ただ確認のような一言だった。でも美咲には、それがレオンの言葉の中で最大限のものであることがわかった。
「補給線の計算が合っていてよかったです」
美咲も短く返した。
泥まみれで並んで立ったまま、少しの間、誰も何も言わなかった。広場の歓声が遠く聞こえた。二人の間に流れる空気は、廃倉庫で初めて向き合ったときとは少し違った重みを帯びていた。でもその重みに言葉をつける前に、どちらからともなく視線が外れた。
美咲は歓声の中の住民の顔を見た。レオンは空を見た。
それでも、美咲はわかっていた。さっき一瞬だけ、互いを見ていたことを。そしてレオンも、気づいていたことを。
泥まみれで並んで立つ二人を、アイラだけがちらりと見て、また空を仰いだ。
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宴が落ち着いたのは、深夜に入ってからだった。
広場には残り火のような語らいが続いていたが、美咲は港の宿に借りた部屋の隅で、ランプを一つだけ点して座っていた。革袋から取り出したのは、ガイス文書の最終巻だった。
ガイス文書——それは、前宰相ガイスが三十年の政務の末に書き残した全十二巻の国家改革計画書だ。王国の水利・税制・軍の補給網に至るまで、緻密に記録された国家の設計図とも言えるものだった。ガイスはその中で「後継にはヴァルナーに任せた」と書き残していた——ヴァルナー、すなわちロイド・ヴァルナー、ガイスが後継として指名した人物の名だ。だが美咲はすでに知っている。廃屋の裏口で、月明かりの中で、帝国将校に封書を渡すロイドの姿を目撃していた。ガイスが信頼を置いた後継者は、帝国側に情報を売っていた。そしてレオンの宮廷に深く食い込んでいた貴族カシウス——王国と帝国の間で秘密裏に密約を結んでいたと判明した人物——もまた、ロイドと繋がっていた疑いがある。それらがすべて繋がっているとすれば、ガイスの遺した文書そのものにも手が入っていないとは言い切れない。
今まで最終巻には手が回らなかった。作戦の準備に、ロイドの裏切りへの対処に、ダムの修復に。でも今夜、やっと時間がある。
ランプの炎がかすかに揺れた。
ページをめくる。本文を読む。ガイスの暗号体系は独特だが、美咲はもう構造を把握している。読める。理解できる。最終巻の内容を追いながら、ページの端まで目を走らせた。
止まった。
余白に、薄く書き加えられた文字があった。
ガイスの筆跡ではない。別の手によるものだ。インクの色も微妙に違う。後から書き足された文字だった。
「第八章の水源記録は既に移送済み、原本の場所は変更した」
その字を、美咲は見たことがあった。
廃屋の裏口で、月明かりの中で、帝国将校に封書を渡していた男の字だった。ロイドの字だった。
ランプを持ったまま、手が止まった。
ガイス文書の一部は、ロイドによって書き換えられている。
カシウスが帝国と密約を結んでいた。ロイドが帝国側に情報を渡していた。そしてガイスの遺産そのものにまで、手が入っていた。裏切りは、思っていたより深い場所まで根を張っていた。
(どこまで書き換えられているのか)
美咲は羊皮紙を取り出して、小さな文字で書き込み始めた。「修正箇所の特定」「改ざんされた章の洗い出し」「原本の所在確認」。三つの課題が縦に並んだ。これを全部やらなければ、ガイス文書の情報をそのまま使うことはできない。
どの巻に手が入っているか、まだわからない。第八章だけとは限らない。
「ガイス文書か」
声がして、美咲は顔を上げた。
レオンが隣に来ていた。音に気づかなかった。疲れているのか、それとも集中していたのか。鎧は外れていて、簡素な上着だけだった。顔の左の泥は拭き取られていたが、少し跡が残っている。
美咲はランプを持ち直した。
「改ざんが見つかりました」
端的に言った。余白に書き加えられた文字を指さした。ロイドの筆跡であること、内容が原本の所在を別の場所に誘導するものであること、第八章以外にも手が入っている可能性があること。順を追って説明した。
レオンは聞いていた。口をはさまずに、最後まで聞いた。
沈黙が落ちた。宴の余韻が遠くから聞こえる。ランプの炎が揺れた。
レオンはしばらく何も言わなかった。ガイス文書の余白の文字を見ていた。カシウスのときにも、ロイドのときにも、この人は同じ沈黙をしていた。繰り返しの重さに耐える沈黙だ。信頼していたものが、また崩れるときの顔だ。
美咲はその顔を見ながら、この知らせを持ってきたことの重さを改めて感じた。
「ポルトスを出たら、一緒に確認する」
静かな一言だった。命令でも提案でもなく、当たり前のことを言うような口調だった。「一緒に」という言葉が、美咲の中で少し長く残った。
ランプの光の下に、二人が並んで座っている。宿の薄い壁越しに、まだ祝宴の声が聞こえる。港の夜風が窓の隙間から入ってくる。
美咲はその「一緒に」という言葉の重さを測ろうとして、やめた。測ることと、感じることは、別のことだ。今は感じたことだけを、正直に置いておく。
「はい」
短く答えた。その一言の中に、美咲自身もよくわからないものが込められていた。信頼か。安心か。それとも別の何かか。名前をつけるには、まだ時間が要る。
ランプが揺れた。
改ざんされた余白の文字が、炎の光の中で静かに光っている。ロイドが何をどこまで書き換えたか、まだわからない。原本がどこに移されているか、まだわからない。次の課題は、すでにそこに待っている。
美咲は羊皮紙の課題リストを折りたたんで革袋に入れた。ランプの光が少し弱くなった。燃料が減っている。
夜明けのポルトスは、自由を取り戻した。でも美咲の手の中の革袋の中には、まだ解かれていない問いが眠っていた。