宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~
水野美咲は日本の大手IT企業で優秀なプロジェクトマネージャーだった。新しいアプリのリリース前夜、過労で倒れ命を落とす。目を覚ますと、そこは魔法と剣が交錯する異世界、貧しいルミナス王国だった。
転生から数日後、美咲は先ごろ亡くなった宰相カシウスが残した大規模な改革計画を発見する。複雑な国家運営戦略、財政再建案、軍事・外交の戦術――それはまさに彼女の前世のプロジェクトマネジメントそのものだった。王国の若き王子レオン・ルミナスは軍事の天才だが、政治や経済には全く興味がなく、カシウスの遺産を活かせずにいた。
美咲はレオンに接近し、故宰相の計画実現を手伝うことを申し出る。最初は転生者である彼女を疑うレオンだったが、カシウスの文書を解読し複雑な改革を実行可能な戦略に変えていく姿を見て次第に信頼を寄せるようになる。共に歩むうちに、二人の間にはほのかな恋心が芽生え始める。
しかし、王国の繁栄を歓迎しない者もいた。帝国と秘密の盟約を結ぶ国務大臣カシウスが機密情報を漏洩し、帝国の侵攻を招く。美咲は論理的なプロジェクトマネジメント力とレオンの軍事的天才を融合させ、この絶望的な危機を乗り越えようとする。
宰相の遺産~異世界で国を救う女PM~ - またか——泥の偵察者とロイドの影
夜明けまであと少し、というのが体でわかる時間帯がある。
暗いのに暗くない。静かなのに静かでない。空気だけが変わって、鳥がまだ鳴かない。ポルトス港の外れを流れる風が、その微妙な境目を運んできた。
美咲とアイラは街道の脇の茂みに馬を繋ぎ、林道へと踏み込んでいた。
足元は湿った落ち葉だ。昨夜の帝国斥候との遭遇から記録を終えて立ち上がった美咲は、まだペンを革袋に戻したばかりだった。革袋の重さは相変わらず。内容の九割が記録用具であることは、この旅を通じてすでに証明済みだ。
枝が頬をかすめた。美咲は手で払いながら、前を行くアイラの銀色の編み込みを目で追う。月明かりが薄い中でもアイラの髪だけは白く浮いて見えた。護衛として場数を踏んだ動きで、枝を避け、地面を読み、足音を殺す。
「ここで手分けしましょう」
美咲は低い声で言った。
アイラがすぐに振り返る。水色の瞳が月明かりの中でこちらを見た。警戒心と、まだ残っている眠気と、護衛としての本能が全部その目の中に混在している。
「補給拠点を近くから見たいんです。あなたは馬を隠して、外周の見張りの数を数えてほしい」
アイラの口が開く前に、美咲は続けた。
「二人で行けば発見リスクが倍になります。合理的判断です」
「…………」
アイラは口を閉じた。反論を探している顔をしていたが、出てこなかった。美咲は前世でも似たことをした——反論される前に、数字と理由を並べてしまう。ステークホルダーを納得させるPMの悪癖だと自覚している。自覚しているが、今回は有効だった。
アイラが渋々うなずいた。
「……分かりました。でも」
「十五分経っても戻らなかったら動いてください」
「そういうことを先に言わないでください、お願いします」
声に安堵と不満が半々だった。美咲は小さくうなずいて、茂みの中へ踏み込んだ。
その瞬間。
ガサガサガサガサ。
革袋の中の羊皮紙が、全力で自己主張した。
美咲は止まった。アイラも止まった。二人して固まって、数秒、お互いの顔を見た。
「…………荷物の九割が紙では」
「必要なものが必要な量入っています」
「いや、でも」
「入っています」
美咲は革袋を両手で抱え直して、枯れ葉をなるべく避けるように足の置き場を選びながら、そろそろと進んでいった。一歩ごとに微妙な音がする。完璧な静寂とは程遠い。しかし前世でも、デスマーチ前夜は文具だけ三本鞄に詰め込んでいたのだ。体に染み付いた習慣はそう簡単に変わらない。
背中にアイラの呆れた視線を感じながら、美咲は林の奥へ消えた。
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ポルトス外縁部に廃屋と廃倉庫が並ぶ一角がある。
かつては荷物の仮置き場として使われていたらしく、木造の建物が五、六棟、間隔を置いて立っている。今はほとんど使われていないはずの場所に、帝国軍の荷馬車が三台、篝火を囲んで停まっていた。
美咲は茂みに腹ばいになった。
地面は湿っていた。泥の匂いが鼻に来る。前夜の露が雑草に残っていて、腹の下がじんわり冷たい。しかし美咲は動かなかった。
荷馬車の一台から兵士が荷物を下ろしている。木箱が四つ、布に包まれた長物が二つ。もう一台の馬車の車輪は前の馬車より沈み込んでいる——つまり積荷が重い。食料か金属か。交代している兵士の間隔を数える。十二分で一人が場所を変えた。
頭の中で前世の数字が動き始める。
この補給頻度は三日に一回ではない。一日おきだ。荷車の種類から見て、前線への輸送は分散している。一箇所に固めず、複数ルートで流している。帝国の兵站担当は慎重だ。あるいは情報が漏れることを前提に設計している。
(前提に設計している——)
その考えが頭をよぎった瞬間、美咲のペンが少しだけ止まった。
革袋から羊皮紙を引き出して、泥のついた手でひたすら書いていた。前世の物流システム遅延分析の感覚がそのまま手に出てくる。数字を書く。図を書く。矢印を引く。荷車の積み方から拠点の位置を推定するのは、在庫管理システムのボトルネック分析とほぼ同じ構造だ。
頭上の枝に、気づかなかった。
集中しすぎていた。体を少し動かした拍子に、低い枝が顔面にかぶさってきた。額に葉っぱが当たって、続けてそれより細い枝がぺちっと鼻先を叩いた。
(……バグ報告: 障害物検知機能の欠如により偵察者が自爆)
前世でシステム障害のとき口癖のように書いていた言葉が、頭の中に浮かんだ。美咲は微動だにせず、ゆっくり枝をどかした。泥と汗で滲む手が羊皮紙の上に戻る。
異世界でも前世の口癖は健在だった。
廃屋の裏口が開いた。
美咲の手が止まる。
月明かりの中に、灰色のマントを纏った人影が出てきた。フードは外している。その横に、帝国軍の外套を着た将校が立っている。将校が何か言う。聞こえない。人影が包みを渡した。将校が受け取って、中身を確認する。紙だ。折りたたまれた羊皮紙が二枚、三枚。将校が目を通して、小さくうなずいた。
その横顔が月明かりに浮かんだ。
人影の横顔が、見えた。
美咲の体が完全に止まった。
ロイド・ヴァルナー——かつて老宰相ガイスの右腕として国政を支え、この国の次世代を担うと目されていた人物だ。ガイスが三十年の宰相生活の末に書き残した最後のメモに、「ヴァルナーに任せた」という一行があった。美咲はその言葉を、信頼の補助線として密かに引いていた。次にこの国を支えうる人物として、いつか頼りにできるかもしれない存在として。まだ直接会ったことはなかった。しかしガイスがその名を刻むほどの人物が、今、帝国将校に書類を渡していた。将校が受け取った紙には図が見える。兵力配置か、補給路か——この距離では判別できないが、軍事情報であることは明らかだった。
またか。
その二文字だけが、静かに体の奥に落ちてきた。
カシウスのときは怒りだった。あの男の計算高い笑顔を思い出すと今でも胸の奥が焼けるような感覚がある。でも今は違う。怒りではなく、何かもっと重たいものが体の中に満ちていく。ガイスが信頼した人物が、こんなところで——。ガイスが「ヴァルナーに任せた」と書いたその意味を、美咲は密かに信頼の補助線として引いていた。次にこの国を支えうる人物として。
泣きそうになる感覚があった。
美咲は歯を食いしばった。それから、自分の頬を一度だけ、手の甲でぴしゃりと叩いた。
(記録する。今は記録だ)
震える手が羊皮紙の上を動いた。ロイド・ヴァルナー、推定年齢、マントの色、体格。将校の特徴、外套の意匠、帝国の何番部隊か——紋章が見えた。書く。包みの大きさ、折り方、渡すときの動作の自然さ。慣れていた。初めてではない動きだった。やり取りの時間を計る。三十秒ほどで二人は別れた。将校が廃屋の奥に戻る。ロイドが林の方向へ歩いていく。
感情より記録を優先する。
それは前世でどれだけ追い詰められても、システム障害の報告書を書き続けた癖だった。どんなに体が震えていても、まずファクトを記録する。感情は後でいい。今は全部書く。
美咲は書いた。泥と汗で手が汚れていても、字が多少読みにくくなっても、書いた。
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「美咲さん」
合流した瞬間、アイラはそう言った。
暗がりの中でもアイラの目は鋭い。美咲の顔を一瞬見て、すぐに距離を詰めてくる。その動きに迷いがない。護衛として何かを察知したときのアイラは、いつもより背が高く見える。
「後で話します。まず記録を整理させてください」
美咲は羊皮紙を暗がりの中でまとめ直した。順番に並べる。日付、時刻、場所、内容。プロジェクト管理の習慣が、情報の整理を機械的に進めていく。手が震えているのが、自分でわかった。
アイラは何も言わなかった。
黙って、美咲の横に立っていた。それから、何も言わずに美咲の肩に手を置いた。
美咲は動きを止めた。
温かかった。アイラの手は小さくて、でも確かにそこにあった。美咲は顔を上げた。アイラが真っ直ぐこちらを見ていた。水色の瞳に心配の色がある。聞かない。急かさない。ただそこにいる——そういう意思が伝わってきた。
「……ありがとう」
それだけ言った。
レオンに全部話すと、その瞬間に決めた。ロイドの裏切りを伝えなければという義務感は最初からあった。でも同時に、それを伝えたときレオンがどれほど傷つくかという想像が来た。ガイスを長年慕っていたレオンが、ガイスの「ヴァルナーに任せた」という言葉の意味を知ったとき——。
自分がそこまでレオンの痛みを先読みするようになっていることに、美咲は少し驚いた。
義務感だけでこれほど先が見えるだろうか。答えは出ていた。出ていたが、認めることがまだ怖かった。
「整理、終わりました」
羊皮紙を革袋に戻す。立ち上がった瞬間、頭から枯れ葉が四枚まとめて落ちた。
アイラが一枚、また一枚と拾い始めた。
「また増えてます」
声に呆れが混じっていたが、安堵の色もあった。美咲は黙って頭を差し出した。アイラが残りの葉を丁寧に取り除く。しばらく、そういう時間が続いた。
おかしなことをしているという自覚はあった。夜の林の中で、帝国軍の包囲網の中で、護衛に頭の葉っぱを取ってもらっている。それでもアイラが笑わないでいてくれることが、今夜の美咲にはありがたかった。
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迂回ルートに入ったところで、アイラが手を上げた。
「前方、見張りが増えています」
美咲も確認した。三人から五人に増えていた。木の間から松明の光が五つ見える。間隔が詰まっている。正面突破は無理だ。
美咲は革袋から地図を引き出した。月明かりに翳す。指でポルトス港の北側を辿る。川がある。細い線が港の北を流れている。フェルム河の支流の一本だ。小さく「ハーゲル小川」と書かれている。
「ここを通れます」
地図を指さした。アイラが覗き込む。
「小川沿いに北へ迂回して、林の端から街道に戻ります。見張りの配置から見て、川沿いは手薄のはずです」
「……ただし」
アイラが静かに言った。先を読んでいる顔をしていた。
「水の中を歩く可能性がありますよね」
「あります」
「どのくらい」
「膝下くらいまで、おそらく」
アイラが天を仰いだ。声を出さずに、ゆっくりと、空を見上げた。銀色の髪が後ろに流れる。その顔には絶望という名の感情がひっそりと宿っていた。
美咲は自分の服を見下ろした。泥がついている。かなりの範囲に。腹ばいになっていたせいで前身頃はほぼ一色だ。
「もうあまり変わりません」
真顔で言った。
アイラが天を仰いだまま、ゆっくりと視線を戻した。美咲の服を見た。確かにもう変わらない、という判断をしているのが顔でわかった。
「……行きましょう」
声に諦めと笑いが半分ずつ混じっていた。
二人は川沿いに進み始めた。
冷たかった。草が靴に絡む。川面が月明かりを細く反射して、足元が見えそうで見えない。美咲は一歩ずつ確かめながら進んだ。
歩きながら、頭にロイドの横顔が戻ってきた。
将校に書類を渡すときの、慣れた動作。あれは今夜が初めてではない。何度もやっていた。ということは、ガイス文書の情報も——ガイスが「ヴァルナーに任せた」と書いた、あの改革案の一部が——ロイドの手を通じて帝国側に渡っている可能性がある。どれだけ渡ったのか。どこまで知られているのか。
体の奥が重くなる感覚があった。
前世でプロジェクトが終盤に差し掛かったとき、いちばん辛かったのはシステム障害でも締め切りでもなかった。信頼していたチームメンバーが、クライアントに情報を流していたと知ったときだ。あのときの重さに似ていた。
(でも今は歩く)
美咲は次の一歩を踏み出した。
川の水が靴の中に入ってきた。冷たい。予告通り膝下まで来る場所があって、アイラが「やっぱり」と短く言った。美咲は黙って革袋を高く持ち上げながら進んだ。紙を濡らすわけにはいかない。他のものは全部濡れてもいい。
アイラが隣を歩いていた。美咲の歩調に合わせて、速くもなく遅くもなく。見張りの方向を定期的に確認しながら、でも美咲のそばを離れなかった。さっきの手の温かさが、まだ肩のあたりに残っている気がした。
川の縁が広くなった。街道の端が見えてきた。
見張りの松明から離れている。ここなら上がれる。美咲は川岸を踏んで立った。靴が音を立てた。水が落ちる。アイラが続いて上がってくる。二人とも、足元はびしょ濡れだった。
「……生還です」
「生還です」
アイラが小さく笑った。声は出なかったが、月明かりの中で頬が動いたのは見えた。美咲も笑えたかどうかはわからなかったが、少し体が軽くなった気はした。
革袋の中の羊皮紙は無事だ。記録は全部ある。ロイドの顔、将校の特徴、渡した書類の枚数と形状、やり取りの時間。全部書いた。全部手の中にある。
泥だらけで、靴の中まで濡れていて、枯れ葉がまだどこかに挟まっているかもしれないけれど、今夜の美咲が持ち帰るべきものは全部持っている。
これをレオンに届けなければならない。
——どれほど傷つけることになっても。
街道が前に伸びている。夜明けが近い。空の端が、ほんのわずか、白く滲み始めていた。