反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~
魔族というだけで人間に狩られ、奴隷に堕とされた少女・グレイ。角を持つその身に刻まれたのは、焼き印と鎖、そして屈辱の記憶だけだった。
グランヴェルド――大陸最大の奴隷貿易都市。そこでは魔族は「動く財産」でしかなく、抵抗すれば踏みにじられ、黙れば喰い物にされる。オークションで売れ残ったグレイに目をつけたのは、闘技場の興行主ヴァルド。与えられたのは錆びついた短剣一本と、猛獣の待つ死の檻だった。
絶望の底で、彼女の暗い紫の瞳に宿るのは諦めではなく、燃えるような殺意。
――奪われたものは、全部奪い返す。
――私を踏みつけた奴らは、いつか必ずこの手で殺す。
生き延びるためではない。喰らい尽くすために、少女は牙を剥く。
鎖に繋がれた「角の奴隷」が、血と砂の闘技場で、人間たちの作った地獄そのものを喰い破っていく――。
これは、奪われた少女が、奪う側へと成り上がる、復讐と解放の物語。
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反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~ - 重りの背
闘技場の地下通路は、昼でも薄暗い。
石壁に染みついた汗と血と黴の匂いが、三年経った今も変わらずに鼻の奥を刺す。グレイは壁に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。指先が石の冷たさを伝えてくる。その冷たさだけが、自分がまだここにいる証拠のように思えた。
(勝った)
今日の相手は、東の鉱山から送られてきた元殺人犯の大男だった。鎖付きの鉄球を振り回す、力任せの戦い方。観客は血を期待していた。グレイはそれを、一分もかからずに終わらせた。
大男の鎖を潜り、膝の裏を斬り、倒れたところで喉元に剣を突きつけた。それだけだ。観客の熱狂が、遠くの潮騒のように耳の奥で鳴っている。
「おい、エサ」
声がした。振り返るより先に、後頭部に重い衝撃。ブーツの底が、グレイの頭を地面に押しつけた。
「また勝ちやがったな。調子に乗ってんじゃねえぞ、魔物の分際で」
冷たい水が、上から降ってくる。首筋を伝い、背中を濡らし、石の床に染みていく。三年前なら、この水を浴びせた手首をへし折っていた。歯を食いしばり、殺意を込めて睨みつけていた。
今は、違う。
グレイは床に頬をつけたまま、ぼんやりと目の前の水たまりを見つめた。水面に映る自分の顔。伸びた灰色の髪。牡牛のような二本の角。そして、ハイライトのない暗い紫の瞳。
(ああ、そうだ)
(こいつは、いつも私の頭を踏む)
憲兵の顔は覚えている。短く刈り込んだ黒髪。無精髭。見下すような黒い瞳。腰の鞭。あの鞭で、何度も打たれた。背中に残る古い傷が、水の冷たさで疼く。
だが、怒りは湧かない。
殺意も、憎しみも、三年の間にすり減ってしまった。心の底に沈殿した泥のようなものが、感情の火を覆い隠している。ただ、この男の顔を忘れないことだけは、自分の中の決まりとして残っていた。
「反骨のグレイ様も、ずいぶん大人しくなったもんだな。昔は噛みついてきたのによぉ」
憲兵は、グレイの頭を踏みつけたまま、靴底をぐりぐりと押しつけた。石の床に頬が擦れる。血の味が口の中に広がる。
「……気に入らない」
声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「あ? なんか言ったか、エサ」
「……別に」
憲兵は鼻を鳴らし、ようやく足をどけた。
「とっとと消えろ。次の試合の支度でもしてろや」
グレイはゆっくりと起き上がった。濡れた髪が頬に張りつく。体は、この三年でずいぶんと変わった。十三歳の頃は骨ばっていた肩幅が広がり、腰のくびれができ、胸は明確に膨らみを帯び、手足はしなやかに伸びた。十六歳になった今、背丈は大人の男に近い。だが、心の中の獣は、檻の中で眠ったままだった。
闘技場の地下通路を歩く。観客席から漏れる歓声が、天井を通して振動のように伝わってくる。今日の興行はまだ続いている。次の試合の奴隷たちが、通路の脇で震えながら出番を待っていた。
グレイは彼らを見ない。見る必要もない。
通路を抜け、闘技場の裏手にある住戸区画へ向かう。三年前、奴隷剣闘士として名を上げ始めた頃、ヴァルドが与えた部屋だ。檻ではない。鍵のない扉。窓には鉄格子。だが、自分の意志で出入りできる空間。表向きは解放奴隷としての扱いだった。
部屋に入る。
狭い。壁際に木の寝台。小さな机。水差し。それだけの部屋。だが、檻よりは遥かにましだった。
グレイは濡れた服を脱ぎ、寝台に腰を下ろした。首輪が、首の皮膚に食い込む。黒鉄の重さ。三年間、一度も外れたことのない、自分の一部のようなもの。
(自由になれ)
カインの声が、記憶の底から浮かび上がる。
(自由になって、何をする)
セラフィナの問いが、その後に続く。
グレイは、枕元に立てかけてあった大剣に目をやった。処刑用の大剣。凶刃の女王が使っていた、刃渡り百五十センチの両刃。あの女が死んだ日から、グレイはそれを背負い続けている。
重い。
背負うたびに、重い。
だが、下ろすことはできない。下ろしてしまったら、自分が何者なのか、何のために立っているのか、全部が崩れてしまいそうだった。
——コンコン。
扉が叩かれた。
「……誰だ」
「私だよ。ゲー・レッツだ」
グレイは顔を上げた。
扉が開き、男が入ってくる。細身の体に、闘技場の関係者を示す深紅の上着。手には巻物。冷たい目。値踏みするような視線。ゲー・レッツ。ヴァルドの片腕として、闘技場の運営を取り仕切る男だ。
「今日の試合、良かったよ。観客の入りも上々だ。あの鉱山帰りの大男、いい金を稼いでくれた」
ゲー・レッツは、部屋の中を見回した。乱雑に置かれた水差し。床に落ちたままの包帯。壁に立てかけられた大剣。
「相変わらず質素だな。もっといい部屋を用意してやってもいいんだぞ」
「……用件は」
「お前、明日、聖騎士団の御前試合に出ろ」
グレイは、ゆっくりとゲー・レッツを見た。
「御前試合だ。貴族連中の前で行われる、格式高い催し。その中で、聖騎士団の騎士たちが腕前を披露する。そこで、前座として、奴隷剣闘士が聖騎士に挑む。それが慣例になっていてな」
「……当て馬か」
「察しが良くて助かるよ」
ゲー・レッツは薄く笑った。
「報酬は金貨十枚。それと、首輪を外す口約束だ」
グレイは黙った。
金貨十枚。奴隷一人分の値段より安い。首輪を外す口約束。口約束が守られた例など、この闘技場で一度も見たことがない。
(どうでもいい)
(金も、名誉も、自由も)
(今さら、どうでもいい)
だが——
「……聖騎士団は、強いのか」
ゲー・レッツの目が、わずかに細くなった。
「ああ。王国の威信を背負う騎士団だ。一人一人が、歴戦の戦士。並の剣闘士では、十秒と持たない」
グレイの胸の奥で、何かが小さく動いた。
(強い相手)
(斬り合える相手)
試合の間だけ、頭の澱みが消える。相手の動きを読み、技を奪い、自分の剣を叩き込む。その瞬間だけ、自分が生きていると感じられる。
「……受ける」
「決まりだな。明日の朝、外門の前まで来い。私が先導する」
ゲー・レッツは、グレイの顔をじっと見た。品定めするような視線。商品の価値を見極める、商売人の目。
「お前は、金の卵を産む鶏だ。せいぜい、明日までに死なないでくれよ」
そう言い残し、部屋を出ていった。
グレイは、しばらく動かなかった。
(使い捨てのつもりか)
ゲー・レッツの目は、そう語っていた。当て馬として聖騎士に打たれ、観客を喜ばせ、最後は殺される。それが奴隷剣闘士の役割。
(それでもいい)
(斬り合えるなら、それで)
グレイは、濡れた髪をかき上げた。
——その夜。
三年ぶりに、ヴァルドの執務室に呼ばれた。
闘技場の最上階。重い木の扉を開けると、獣脂のランプの匂いと、金貨の擦れる音がした。ヴァルドが、机の向こうに座っている。恰幅の良い体。赤ら顔。指には宝石の指輪。灰緑の瞳が、グレイを値踏みするように見つめた。
「やあ、グレイ。久しぶりだねぇ」
ヴァルドの声は、表面だけ丁寧だった。底意地の悪さが、その下に透けて見える。
「……用件は」
「そう急くなよ。まあ、座りな」
グレイは座らなかった。立ったまま、ヴァルドを見下ろす。
ヴァルドは、机の上に置かれた物を指で押した。
「これ、見覚えがあるかい?」
それは、首輪だった。
黒鉄の首輪。錆びつき、血の跡がこびりついている。鍵穴が歪んでいるのは、無理やり外そうとしたからか。それとも、首ごと斬り落とされたからか。
「お前の前に、御前試合の当て馬をやった男の首輪だよ。名前は……まあ、覚えちゃいないな。エサ上がりの奴隷でね。お前と同じように、そこそこ勝てる剣闘士だった」
グレイは、首輪を見た。
「御前試合で、聖騎士様に挑んだ。観客は沸いたよ。あの騎士様の剣が、奴隷の首を飛ばす瞬間を、固唾を呑んで見守った。賭けの倍率は、まあ、お前にも分かるだろう?」
ヴァルドは、くつくつと笑った。
「返り討ちに遭って死んだのさ。当たり前だ。奴隷剣闘士が、聖騎士に勝てるわけがない。お前も、分かっているねぇ?」
グレイは、首輪から目を離さなかった。
(私が負けたら)
(この首輪のように)
(首ごと、斬られる)
想像は、すぐにできた。聖騎士の剣が、自分の首を捉える。骨が断たれる音。血が噴き出す。観客の歓声。自分の首輪が、錆びた鉄の塊になって、誰かの机の上に置かれる。
(それで、終わりか)
「明日は、使い捨てのつもりで準備しろ。分かったねぇ?」
ヴァルドの灰緑の瞳が、冷たく光る。
「……あんたは、私が死ぬと思っているのか」
「さあねぇ。私が思うかどうかは、関係ないんだよ。大事なのは、お前がどうするかだ」
ヴァルドは、机の上の首輪を、指で弾いた。カラン、と乾いた音が部屋に響く。
「金になる。値打ちがある。お前は、そういう商品だよ。だから、こうして呼んでやった。前の当て馬には、こんな真似はしなかった。お前は特別だ。せいぜい、その価値に見合う戦いをしてくれ」
グレイは、背中の大剣に手をやった。
重い。
冷たい。
(この重さを、明日、振るう)
(斬り合える)
(それだけで、いい)
「……もういいか」
「ああ、下がっていいよ。明日、外門で待っていな」
グレイは、背を向けて歩き出した。
「そうだ、グレイ」
足を止める。振り返らない。
「お前の首輪は、まだ外せない。自由になんて、簡単にやれるもんじゃないんだよ。分かっているねぇ?」
グレイは、何も言わずに扉を開けた。
——地下通路。
夜の闘技場は、静かだった。
昼間の熱狂が嘘のように、石壁だけが冷たくそびえている。ランプの灯りが、グレイの影を長く伸ばしていた。
グレイは、大剣を背から下ろした。
鞘を握る。柄を握る。
(一度だけ)
(一度だけ、振ってみる)
鞘を払う。刃が、ランプの光を反射した。
大剣は、グレイの背丈ほどある。十三歳の頃は、両手でやっと持ち上げるのが精一杯だった。今は、片手でも振れる。体が大きくなった。力もついた。技術も、セラフィナから奪った。
だが——
グレイは、大剣を振り抜いた。
ブン。
空気を裂く音。手応えは、ない。
(空しい)
(何も、斬っていない)
(この剣は、何のために振るうのか)
セラフィナを殺した日の感触が、手のひらに甦る。喉笛を裂いた時の、肉の感触。骨の硬さ。血の温かさ。そして、力尽きて安らかに笑った師の顔。
(あの女は、なぜ笑った)
(私に殺されて、なぜ)
カインを刺した手の感触も、一緒に甦る。あの日、カインの血が手にべったりと付いた。
『自由になれ』
(自由になって、何をする)
(答えは、まだ出ない)
グレイは、大剣を鞘に戻し、背負い直した。
重い。
首輪に触れる。冷たい鉄。セラフィナが最期に、この首輪に指を触れた。あの指先の感触。あの女は、何を思って、この首輪に触れたのか。
(分からない)
(分からないまま、三年が過ぎた)
グレイは、壁に背を預けて、目を閉じた。
(明日、斬り合える)
(強い相手と、斬り合える)
その一点だけが、自分を動かす理由だった。
——翌朝。
外門。
グレイは、三年ぶりに、闘技場の外の空気を吸った。
朝の光が、目に刺さる。
風が、頬を撫でる。
闘技場の外は、広い。空が、高い。壁に囲まれていない世界。石と砂と血の匂いのしない、朝の匂い。
グレイは、一瞬、足を止めた。
(外は、こんなに明るいのか)
三年間、地下と闘技場の砂の上だけが自分の世界だった。空の色を、こんなに近くで見たのは、いつ以来だろう。
「行くぞ」
ゲー・レッツが、先に立って歩き出した。深紅の上着が、朝の風にはためく。
グレイは、背中の大剣の重みを確かめた。
(これが、斬り合える場であることだけを)
(胸に)
一歩、踏み出す。
門の向こうの光の中へ。
その後ろ姿を、ヴァルドが、執務室の窓から見下ろしていた。
「せいぜい、いい見世物になってくれよ。反骨のグレイ」
ヴァルドの灰緑の瞳が、朝日の中で、金貨のように光った。
観客席からは、早朝にもかかわらず、グレイの名を呼ぶ声が聞こえていた。
「反骨のグレイ! 今日も勝ってくれ!」
「あの角の小娘、強いんだよな! この前の試合、一瞬で終わらせたぜ!」
「でも今日は御前試合だろ? 聖騎士が相手じゃ、さすがに……」
声は、グレイの耳には、遠い潮騒のようにしか聞こえなかった。
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