サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - フルーツと涙とソース瓶——希望の頂点で、空が割れる
伯爵のバリアが、ぎっ、と小さく鳴いた。
その音に、裕樹は思わず振り向く。城壁の前でトースト伯爵が両腕を広げたまま立っている。焦げ茶の甲冑に白い光が滲んで、その光が腐食の緑色のオーラを押しとどめている。昨夜から一晩。伯爵はずっとそうして立ち続けていた。
バリアのひびはまだ小さかった。でも確かに、そこにあった。
「とりあえず、今は持ちこたえてる」
精霊レシピが裕樹の肩のそばでぷかぷかと浮きながらそう言った。半透明の小さな体が、朝の光を受けてかすかに光っている。声のトーンが、どこか慎重だった。
「……今は、ね」
裕樹は小さく繰り返した。「今は」という二文字が、静かに頭の中に引っかかる。
そのとき、グラティネの城門の方向から、けたたましい音が響いてきた。
ドンガラガッシャン!!!!
「何!?!?」
「来たんじゃないですか、アレ」
「アレってなに!?」
城門をくぐってきたのは、巨大な荷台を引いた赤い馬車だった。馬ではなく、燃えるように赤い毛並みの動物——スパイシー国から連れてきた、炎唐辛子の実から生まれた走り獣——が四頭で荷台を引いている。御者台の男が胸を張って叫んだ。
「スパイシー国料理王レッドキング陛下より! 増援食材をお届けに参りました!!」
「レッドキング!!」
そうだ。スパイシー国の料理王レッドキング——炎と辛みを操る、荒々しいが義理堅いあの男——が増援を送ると言っていた。グラティネから北へ八十キロのペッパーンから、昨夜のうちに出発したのだろう。
荷台の幌が外された。
箱が、山のように積まれていた。
「なにこれ。何が入ってるの」
いつの間にか隣にモモが来ていた。ピンクのショートボブをぴょんと揺らしながら、目をまん丸にしている。菓子作り用のエプロンが風になびく。
「開けてみましょう」
ヒロシが箱の一つに飛びついた。ずんぐりとした体型に似合わない素早さで蓋を開ける。
瞬間、鼻の奥を、ものすごい刺激が突き刺した。
ツン!!!!!
「ぶわっ——!!!!」
ヒロシの目から涙と鼻水が一気に溢れ出した。そのまま後ろによろけて、タケルにぶつかる。
「うわっ!! なにしてんの!!」
「目が!!! 目がぁぁぁ!!!」
「ちょっと、離れて!! くさい!! ていうかなに、激辛唐辛子!? 山盛り!?!?」
箱の中身は、炎唐辛子だった。スパイシー国の特産品——普通の唐辛子の十倍以上の辛みを持つ、真っ赤な唐辛子——が、びっしりと詰め込まれている。他の箱も開けてみると、痺山椒、激辛香辛料、さらに別の種類の唐辛子。全部スパイシー国産の辛み食材だった。
裕樹が使者を振り返った。
「……辛みで敵を焼き払え、ということですか」
「はい! 陛下からのお言葉は、辛みで敵を焼き払え、と!」
「これを何に使えというんだーーーっ!!!!」
タケルが天を仰いで叫んだ。使者はにこにこしたまま胸を張っている。ヒロシはまだ目を押さえながらぐるぐる回っている。
「あのね……実はですね」
レシピがおずおずと口を開いた。
「腐食系の相手には、辛み成分が有効な場合があるらしいんですよね。根拠は薄いんですが」
全員の視線が、レシピに集中した。
「今言うな!!!!」
五人のツッコミが、グラティネの広場に轟いた。レシピがびくっと震えて、光が点滅した。
「言いにくかったんです!!!」
「それはわかった!! でも今言うのか!!! ヒロシが顔面崩壊してる最中に!!!!」
「ごめんなさーーーい!!!」
笑い声が、広場に響いた。住民たちの間からも、くすくすという声が漏れる。緊張した空気が、少しだけやわらかくなった。
それでも全員で、文句を言いながら荷台から食材を下ろした。タケルが指示を出して、ヒロシが運んで、モモが整理して。裕樹も箱を抱えて走った。炎唐辛子の箱を持つたびに目がじんじんしたが、それでも誰も止まらなかった。
◆
増援食材を運び終えたとき、広場には少しだけ落ち着いた時間が戻っていた。
住民たちは壁際に集まり、子供たちは大人に寄り添っている。誰かがパンを焼いている匂いが漂ってきた。甘い匂いだった。昨日まであの匂いはなかった。統一調理令——伯爵が定めた四十七種の献立以外の料理を禁じた法令——が撤廃されて初めて、みんなが好きなものを作り始めているのだ。
裕樹は手元のバスケットを見た。モモがフルーツ国の補給物資から仕分けした桃、ライチ、マンゴー。それから、手に持ったもう一つのバスケット。こちらには、さっき住民の子供と一緒に採ってきた野菜と、何切れかのパン。
伯爵がバリアを張り続けたまま、城壁の前に立っている。
裕樹は深呼吸して、そちらへ歩いた。
近づくにつれて、伯爵の状態が見えてくる。甲冑の隙間から滲む汗。乱れた焦げ茶の長髪が、風もないのに少しだけ揺れている。両腕の筋が、かすかに張っていた。一晩中、ずっと、だ。
「伯爵」
低く、静かに呼びかける。伯爵は振り向かなかった。灰色の瞳がネクロを見据えたまま動かない。ネクロは広場の端に立って、こちらを静かに観察している。近づいてこない。でも、消えてもいない。
「少し食べてください。力が抜けます」
裕樹はバスケットを横に差し出した。パンの温かみが手のひらから伝わってくる。
伯爵が、初めてわずかに視線を動かした。バスケットの中を見て、また前を向く。それから、ゆっくりと片手だけをバスケットに伸ばした。パンを一切れ取り、そのままかじった。
静かだった。
咀嚼する音だけが、二人の間にあった。
「……お前に負けて、良かった」
伯爵の声は低くて、感情が少ない。でも、その言葉の重さは確かだった。12年間。統一調理令。大祭典の嘲笑。全部を抱えたまま、この男はずっと一人で歩いてきた。それがどれほどのことか、裕樹には全部はわからない。でもその言葉には、12年分の何かが滲んでいた。
「一緒に守りましょう」
裕樹はそう返した。たった一言だったが、それ以外に言葉が浮かばなかった。
伯爵は何も言わなかった。でも、肩の線が、ほんのわずかだけ、緩んだ気がした。
広場に、静かで温かい空気が広がる。遠くで、モモがヒロシとタケルと並んでこちらを見ていた。三人とも、声を出さずに見ている。モモの星形の瞳が、少し潤んでいた。
(あ、泣きそうになってる)
裕樹がそう思った瞬間だった。
ガシャン!!!!!
石畳の上に、キャラメルソースの瓶が落ちた。割れた音が、広場に激しく響き渡った。
感動の空気が、音速で霧散した。
配給のバスケットを持っていたキャラメル姫が、石畳の前でぼんやりと立っていた。金色のロングヘアが揺れている。琥珀色の瞳が、微妙な顔で自分の足元を見ていた。
「これは……感動を表現するための合図です」
誰も何も言えなかった。全員が苦しそうな顔をしながら目をそらしている。
「合図にしては派手だな」
伯爵だけが、ぼそっとそう言った。その声に、どこか笑みが混じっていた。
モモが噴き出した。ヒロシが笑いを堪えてのけ反った。タケルが顔を手で押さえた。そしてそれが伝わって、住民の子供が「きゃははは」と笑い声を上げた。
広場に、笑いが広がった。
キャラメル姫は背筋を伸ばして、しゃんと立っていたが、耳の先だけがじわじわと赤くなっていった。
◆
「サンドイッチ、全員で作ろうぜ。住民への配給分」
作業台が広場の中央に並べられ、食材が運ばれてきた。レッドキングの辛み食材は今回は温存して、代わりに昨日の残りの野菜とパン、それからモモが持ってきたフルーツを使う。住民全員分——グラティネには約四万人が住んでいるが、今広場にいる二百人ほどに行き渡る分だけ——のサンドイッチを手分けして仕上げる。
モモが真っ先に作業台に飛びついた。エプロンの前で手をパンと叩いて、食材の前に立つ。
「こっちに桃スライスと……あとこのハーブ、使っていい?」
「好きにして」
裕樹も隣に並んだ。パンを切り始めながら、食材の並びを見る。ハーブの香りが鼻をくすぐる。さわやかで、少し甘い。こういう香りは嫌いじゃない。
「ねえ、伯爵ってさ」
モモが急に、少し小さい声で言った。
「……やっぱりかっこいいよね」
裕樹はパンを切る手を止めた。
モモは前を向いたまま、桃をスライスしている。ピンクの髪が頬にかかって、表情がよく見えない。さっきまでの元気いっぱいなテンションとは、少し違う声だった。
「うん、ほんとに」
裕樹も素直に返した。嘘じゃなかった。昨夜から一人でバリアを張り続けて、お前に負けて良かったなんて言える男が、かっこよくないわけがない。
二人で、静かに作業を続けた。パンを切る音と、桃をスライスする音だけが規則正しく重なる。モモの肩と自分の肩が、ほんの少し近い。ハーブの香りと、モモの髪から漂う甘い匂いが混ざっている。なんとなく、落ち着く。
(こういう時間、悪くないな)
裕樹がそう思いかけた、そのとき。
「お手伝いに参りました!!」
キャラメル姫が具材の山を抱えて、二人の間にすっと入ってきた。金色の髪が勢いよく揺れる。両手に野菜と何かの瓶を抱えている——そのうちの一つが、逆さまだった。
ぼちゃ。
「あら」
野菜が床に散らばった。レタスが転がり、トマトが二個ほどごろごろと遠くへ転がっていった。
裕樹とモモが、揃って固まった。
姫は素早くしゃがんで一つ一つ丁寧に拾い始めた。その背中がかすかに赤い。でも声は落ち着いていた。完璧に落ち着いていた。
「大丈夫ですよ、問題ありません」
「今のは問題あります」
「……拾えば解決します」
「そういう問題じゃなくて!!」
姫が野菜を全部拾い終えて、作業台に戻ってきた。今度は慎重に、両手で野菜を抱えている。裕樹とモモの間に、また入ろうとして——足をわずかに台の縁に引っかけた。ガクッとよろける。
「わっ」
裕樹が反射的に腕を伸ばした。姫の腕をつかんで、支えた。
姫の体が、手のひらから安定した。身長百六十センチの姫の体温が、掌越しにじんわり伝わってくる。柔らかな印象の服の袖越しに、細い腕の感触。
姫の呼吸が、一瞬だけ止まった。
それから、じわじわ、じわじわと——姫の耳が赤くなっていく。琥珀色の瞳が、どこか違う方向を向いて、視線が泳いでいる。
「こ、これは体勢を確認するための……」
「そーれも作戦ですか!!!!」
モモが先読みでツッコんだ。姫は黙った。裕樹は手を離した。全員の笑い声が、広場に響き渡った。
子供たちの笑い声も混じった。住民のおじさんが「姫さまかわいい」とつぶやいた。それがまた笑いを呼んで、広場がじわじわ明るくなっていく。
キャラメル姫は背筋を伸ばして、何事もなかったように作業を続けた。耳は赤いままだったが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
◆
「伯爵、これ」
作業の合間を縫って、モモが桃・ライチ・マンゴーをまとめてかごに入れて、伯爵のそばに歩いていった。かごをそのまま地面に置いて、ぐっと前に出す。
「魔力回復のために、全部食べてください」
伯爵はかごを見た。それから、桃を一つだけ手に取り、残りをかごごとモモの方へ返した。
「これだけあれば十分だ」
「全部食べてください」
モモの声が、少し強くなった。テンションが高いいつもの声じゃなくて、もっと真っすぐな声だった。
「力つけてもらわないと困るんで」
伯爵が初めて、まっすぐにモモを見た。乱れた焦げ茶の長髪の奥から、灰色の瞳がモモを見つめる。
「……お前は強いな」
静かな声だった。
モモが、一瞬だけ固まった。
「当然でしょ!!」
笑顔で返した。元気よく。でも伯爵の言葉の重さに全部追いつけなかったのか、声が少しだけ上擦った。
モモは踵を返して、作業台の方に戻ってきた。裕樹はその横顔を、ちらっと見た。
モモの口が、ぎゅっと結ばれていた。
(泣きそう、だ)
裕樹はそう思ったが、何も言わなかった。モモが泣きたくないと思っているなら、余計なことを言う必要はない。ただ、そばにいればいいだけだ。
その後、モモはやたらと元気になった。荷物をわざと多く持とうとして崩したり、鼻歌を歌いながら食材を運んで周囲をびっくりさせたりした。ヒロシが「元気すぎひん!?」と言い、タケルが「落ち着けって!」とツッコんだ。笑い声が続いた。
裕樹はその様子を見ながら、モモの目が少しだけ赤くなっていたことを、一人で知っていた。
◆
住民へのサンドイッチが全部できあがったのは、日が少し傾き始めた頃だった。
全員で手分けして配り歩く。子供が駆け寄ってきて、モモがサンドイッチを渡すと「ありがとう!」と叫んでまた走り去った。老人がキャラメル姫にお礼を言うと、姫が丁寧に頭を下げた。ヒロシがサンドイッチを配りながら泣いていて、タケルがまた「泣くな!!」とツッコんだ。
広場に、笑顔が戻っていた。灰色だったグラティネの空が、うっすらと水色を取り戻している。
配り終えて、全員が広場の中央に集まったとき、レシピが珍しいことを言った。
「これなら……いけるかもしれません。たぶん」
「たぶん言うな!!」
「でも、前向きなこと言ってるじゃないですか!!」
「たぶんって言ってる限り前向きじゃないんだよ!!!」
笑い声が上がった。裕樹も思わず笑った。こんな状況でも笑えるのが、ちょっとおかしかった。でも、嫌じゃなかった。
そのとき、空の色が変わった。
じわり、と。
さっきまで水色だったグラティネの上空に、黒いもやが滲み出してきた。端の方から、端の方から、静かに広がっていく。雲ではない。煙でもない。もっと重くて、冷たいもの。昨日よりも、濃い。
レシピの光が、ピタリと止まった。
「……あ」
その一言が、全員の笑いを止めた。
「蓄積が、完了してます」
レシピの声が青ざめていた。
「これ、本気の波動です!!!」
広場の端。ネクロが動いた。
感情のない、機械のような動きで、両腕をゆっくりと広げる。その周囲に、灰緑色のオーラが渦を巻き始める。腐食の瘴気——触れた食材を即座に腐敗させるあの気配——が、一点に収束していく。昨日とは違う。蓄積の密度が、全然違った。
ズゥゥゥゥン————!!!!
ネクロが腕を振った。
腐食波動が、バリアに直撃した。
光の膜が激しく揺れる。城壁の前に立っていたトースト伯爵の足が、一歩、後ろにずれた。砂埃が舞い上がり、石畳にひびが一本走った。バリアの亀裂が——昨日の小さなひびが——一気に大きく広がった。亀裂の端から、腐食の気配がじわりと漏れ出す。石畳の一部が灰色に変色していく。
「伯爵!!」
裕樹は走った。でも、すでに伯爵は体勢を立て直していた。両腕にさらに力を込めて、亀裂を押さえようとする。甲冑の隙間から、汗ではなくもっと赤いものが滲んでいた。額の血管が浮き、両腕が震えている。
バリアは、それでも崩れなかった。
でも、亀裂は広がり続けていた。
裕樹はネクロを見た。
腐食王ネクロは腕を下ろして、また静かに立っている。感情のない顔で、バリアを観察している。まるで計算しているみたいな——実際に計算しているのだろう——目で。次の波動のために、また蓄積を始めている。
(どうすれば……)
昨日と同じ問いが、また頭の中をぐるぐると回り始めた。料理で届かない。言葉で届かない。伯爵のバリアは限界に近づいている。時間は、もうほとんどない。
裕樹は拳を握りしめた。
諦める気持ちはなかった。でも、答えがどこにあるのか、まだわからなかった。広場の住民たちが、壁際にぎゅっと集まって息を潜めている。さっき笑っていた子供が、大人の腕を握って固まっている。その子の手のひらには、さっきモモが渡したサンドイッチがまだ残っていた。
食べかけの、サンドイッチ。
亀裂から漏れた腐食の気配が、広場の石畳を少しずつ変色させていく。灰色の染みが、じわりと広がっていた。