サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - 全員集合!グラティネ突入——料理の鬼vs冷笑の暴君
薄明かりが避難所の窓に滲み込んできた頃、外で足音が増え始めた。
規則正しい足音。複数。近づいてくる。
高橋裕樹は壁に背中をもたせかけたまま、その音に気づいた。昨夜、女の子のためにサンドイッチを作った後、眠れないまま夜を過ごしていた。涙の跡はとっくに乾いている。でも、胸の奥でかすかに灯り続けているオレンジの光——女の子が「おいしい!」と言った瞬間に戻ってきた、あの光——が、まだそこにあった。
(味覚監査官か)
足音は明らかに包囲の形だった。一か所じゃない。北から、東から、南からも。外から壁が縮んでくるような感覚。じわじわと締め付けられる。
「囲まれてる」
肩のそばで、精霊レシピが声を落として言った。昨夜よりも光が戻っている。小さな半透明の体が、緊張でぷるぷる震えていた。
「わかってる」
レシピがぷかっと宙を泳いだ。助けを求めるように窓の方へ浮いて、また戻ってくる。その動きが落ち着きなさすぎて、少しだけ可笑しかった。
そのとき。
ドォン。
外で爆発音がした。一発じゃない。続けて二発、三発。
オレンジ色の炎が窓の外に上がった。辛い匂い——鼻の奥をツンと刺す、スパイシー国で嗅いだあの匂い——が、すき間から流れ込んでくる。炎唐辛子の熱波だ。
「なんだ!?」
「外が! 外がすごいことになってる!」
「それは見りゃわかる!!」
避難所の中が一気に騒がしくなった。フルーツ国の住民たちが飛び起きる。子供が泣く。老人が壁に手をついて立ち上がる。
そして、ドッ、ドッ、ドッ、と地響きが来た。複数の足音。でも今度は違う——こっちに向かって来ている。
扉が勢いよく開いた。
「おーい! 全員無事か!?」
ピンク色のショートボブが扉の向こうに現れた。モモだ。昨夜と同じエプロン姿だが、土汚れが増えていて、頬に煤が一筋ついている。星形のオレンジの瞳がぱちぱちと素早く室内を確認する。
「ちょっと待って」と裕樹は言おうとした。でも言葉より先に、モモの後ろから別の影が入ってきた。
でかかった。
扉の高さより頭一つ分以上大きい。赤銅色の甲冑に身を包んだ男が、避難所の低い入り口を歩いて——
ゴン。
きれいな音がした。
男の額が、扉の上枠に激突した。
室内が一瞬、完全に静まり返った。
「……」
スパイシー国の料理王レッドキング——灼熱闘技場でレッドキングの激辛料理術を間近で見た裕樹には、すぐわかった——が、その場で直立したまま微動だにしない。額を上枠にくっつけたまま。
後ろから精鋭部隊らしき二十名ほどが続いて入ってこようとして、全員が固まった。一人が「あっ」と声を出しかけて、慌てて口をふさいだ。
「……なんでもない」
レッドキングが静かに言った。威厳を保とうとしている顔がわかりやすかった。
「作戦の一部だ」
誰も突っ込まなかった。突っ込めなかった。でもモモだけが横を向いて、肩を小刻みに揺らしていた。
裕樹は笑いをこらえながら立ち上がった。さっきまで夜明けの包囲に緊張していた避難所の空気が、その一瞬でふわっと緩んだ。
「レッドキング! 助かった!」
「当然だ。三国同盟の義務を果たしたまでだ」
額のことはなかったことにするらしい。裕樹もなかったことにした。
キャラメル姫が部屋の奥から歩いてきた。金色の髪が薄明かりに揺れている。右腕に巻かれた包帯——昨夜から灰色がじわじわ染みていたあの包帯——をぎゅっと左手で押さえながら、静かに立っている。その顔に迷いはなかった。
モモが裕樹の前に来た。仁王立ち。両手を腰に当てて、まっすぐ裕樹の目を見る。
少し間があった。
「昨夜、見てた」
声が、いつもより低かった。テンション高めのいつもの口調じゃない。
「あんたが泣きながら、あの子のためにサンドイッチ作ってるの。ずっと見てた」
裕樹は何も言えなかった。見られていたことを、今知った。
「アタシ、あんたのこと見誤ってた」
モモが右手を差し出した。
握手を求める手だった。エプロンの袖から出た手は、木の実の汁で少し染まっている。菓子作りを続けてきた、ざらっとした手のひら。
裕樹は、その手を握った。
「アタシの工房、カビ将軍にやられた。桃花房——シトラリア郊外にあったアタシのお菓子工房、もうない」
声が、一瞬だけ揺れた。一瞬だけ。すぐに戻った。
「だからこれ以上、誰かの大切なものを失いたくない。手伝ってあげる。感謝しなさいよ! もう絶対に見捨てたりしないから!」
最後の方は早口になって、言い終わると同時にくるりと背中を向けた。耳が赤かった。
裕樹は笑った。こみ上げてくるものを感じながら、思い切り声に出した。
「ありがとう、モモ!!」
「うるさい! 聞こえてる!」
◆
出発前の時間を、精霊レシピが使った。
全員が集まった。レッドキングの精鋭二十名は外で待機している。避難所の中、裕樹、キャラメル姫、モモ、レッドキングが輪を作った。
レシピが宙に浮き、ページが開いた。今まで見たことのない、古い書き込みが浮かび上がる。淡い金色の文字で、ぼんやりと光っている。
「トースト伯爵のことを、話す」
レシピの声が、いつもより静かだった。
「本名、ブリオン・クラスト。12年前、彼は食彩異界で最も尊敬された料理人だった」
室内が静かになった。
「万味祭——食彩異界で毎年開かれていた最大の料理祭典——の本番で、ブリオンは新しい料理を披露しようとした。何ヶ月も、何年も準備してきた料理だった。観客は数千人。全員が彼を見ていた」
裕樹は息を止めた。
「調理中に事故が起きた。味が完全に崩れた。数千人の前で」
一拍。
「笑われた」
誰も何も言わなかった。
モモがエプロンの裾を指先でつまんだ。キャラメル姫が包帯を押さえた手に、少し力が入った。レッドキングが腕を組んで、目を細めた。
「その日からブリオンは、自由な料理こそが苦痛の元凶と信じた。統一調理令を作った。料理を支配した。自分では料理を口にしないまま、12年が経った」
レシピのページが閉じた。光が消えた。
裕樹は床を見た。少しの間、ただ床を見ていた。
(笑われたから。それだけで)
いや、それだけじゃない。数千人の前で。最高の場で。全力を尽くした料理が崩れて、笑い声を浴びた。その瞬間に何かが完全に折れた。
「勝ちたいんじゃない」
声が出た。自分でも意外なほど、はっきりと出た。
「この人の心を動かさないといけない。料理で」
三人が裕樹を見た。
キャラメル姫が静かに口を開いた。
「私も、ずっとそう思っていました」
落ち着いた声だった。おっとりした話し方の奥に、細いけれど折れない何かがある。裕樹はその声を聞いて、胸の奥で何かがほんの少し温かくなった。目が合った。一瞬だけ。でも、言葉よりもたくさんのものが通じ合った気がした。
「泣き言は後回しだ」
レッドキングが腕を組んだまま言った。有無を言わせない口調だった。
「まず城を落とす」
◆
グラティネ——サンドイッチ王国の首都——の城壁が見えてきた頃、空はまだ灰色だった。トースト色のトースト煉瓦で作られた円形の城壁が、朝靄の中にぼんやりと浮かんでいる。その奥に、クルトン城の高い塔がそびえていた。
城門の前で、全員が足を止めた。
カラシ兵だった。
全身が黄色い辛子色の鎧に包まれた兵士たちが、城門を埋めるように並んでいた。一人、十人、百人——数えるのをやめた。二百名、ざっとそのくらい。その両翼に、酸味を帯びた緑色の剣を腰に差したピクルス騎士が三十名。
壁だった。人の壁。
「やばいっしょ、これ」
「やばい」
二人が同時に呟いた。
レッドキングが前に出た。甲冑の肩が陽光を反射した。懐から炎唐辛子——スパイシー国特産の、熱波を生み出す赤い唐辛子——を調合しながら、低く言った。
「道を開ける」
それだけだった。
次の瞬間、レッドキングの両手から熱波が炸裂した。
ドォォォン!!
前列のカラシ兵が横一列、まとめて吹き飛んだ。黄色い鎧が空中に舞う。着地した兵士がヒリヒリと痛みに悶える——カラシ兵の弱点は足元の滑りやすさで、突然の熱波に体勢を崩したところに鎧の重さが重なった。突入口が開いた。
「今!!」
キャラメル姫が走り出しながら、腰の小瓶を開けた。特製キャラメルソース——蜜花糖を原料とした黄金色の甘味ソース——が弧を描いて地面に撒かれていく。甘い香りが一気に広がった。
カラシ兵が足を踏み込んだ。
べたっ、と音がした。
足が止まった。
カラシ兵は足元が滑りやすいのが弱点だ。それを逆手に取って、べたつく甘味で動きを封じる。転ぼうとした体勢でひっかかって、兵士たちが将棋倒しのように崩れていく。
「上! 行くよ!!」
モモが建物の出っ張りに飛び乗り、さらに高い足場へ駆け上がった。エプロンのポケットから次々と木の実を取り出し、ピクルス騎士めがけて連射し始める。フルーツ弾幕だ。甘い果汁が緑色の剣に当たるたびに、ジュッと音がして酸っぱい輝きが消えていく。騎士たちが剣を振り上げたまま、勢いを失って動きが鈍る。
「すごい! 効いてる!」
「当然! ピクルス騎士は甘味に弱いんだから!」
モモが得意満面で叫んだ。次々と木の実を投げる。投げる。投げる。右手が空になった。左手も空になった。
ポケットを叩いた。何も出てこない。
「あっ」
全部使い果たした。モモが自分の両手を交互に見た。信じられないという顔だった。
そして。
ポケットの奥から何かを取り出した。昨夜、裕樹が避難所で作ったサンドイッチを食べた後、フルーツ国の子供に配ろうとして手元に残っていたものだ——違う。自作のフルーツキャンディだった。小さな飴玉のような丸い粒が、袋いっぱいに入っている。
「……まあ、甘味は甘味だし」
モモがぶつぶつ言いながら、袋ごとピクルス騎士の足元に向けて投げた。
じゃら、と音を立てて、キャンディが地面に散らばった。
騎士が一人、踏んだ。
「いっ……!!」
小さいのに硬かった。足の裏に当たった感触が、鎧越しにも痛かったらしい。続けて二人目、三人目が踏んで、足踏みしながらその場でじたばたし始めた。
モモ本人が一番驚いていた。
「なんで効いてるの!?」
レッドキングが横目で見た。大真面目な顔だった。
「甘味なら何でも効くということだ」
「なんで将軍がそれを分析してるんですか!!」
混乱の中、裕樹は走った。キャンディを踏んだ騎士が騒ぐ中を縫うように、城門をくぐる。城内に入った。廊下が続く。石造りの壁。トースト色の焼きパンで作られた内壁が、薄暗い明かりに照らされている。
謁見の間の扉は、廊下の奥にあった。
重い。両手で押した。ゆっくり、開いていく。
◆
高い天井。薄暗い広間。正面の奥に玉座。
玉座の男が、裕樹を見た。
真っ黒なマント。焦げ茶色の甲冑。焦げ茶色で乱れた長髪が肩に落ちている。顔にかすかな焦げ跡の痕。そして冷たい灰色の瞳——その瞳が、裕樹をじっと見据えていた。
「来たか」
声が低かった。静かで、底が見えない。部屋の空気が一度に重くなった気がした。
トースト伯爵が口の端を少し上げた。冷笑だった。
「たかが異世界の料理好きが。大した笑い種だ」
嘲るような言い方だった。でも、それを聞いても裕樹の足は止まらなかった。一歩、前に出た。
「あなたと勝負がしたい」
伯爵が少し眉を上げた。
「僕の作ったサンドイッチを、一口だけ食べてほしい」
裕樹の声は震えていなかった。
(12年前、笑われた。数千人に。あの人の料理への情熱は、そこで完全に折れた)
でも、裕樹には見える気がした。玉座に座っているこの男の奥に、12年前に食材と向き合っていた誰かが、まだいるような気がした。
伯爵の冷笑が、一瞬だけ揺れた。
ほんのわずか。冷たい灰色の瞳に、何かが通った。それが何なのか、裕樹には言葉にできなかった。でも確かに通った。
(料理に情熱を持っていた頃の自分と、同じ目をしている——)
伯爵がゆっくりと立ち上がった。
「カビ将軍」
低く、静かな声だった。
床から灰緑色の霧が立ち上った。部屋の温度が下がった。腐臭が漂い始める。霧が人の形を取っていく。身長三メートル。灰緑色の巨体。カビ将軍が、謁見の間に姿を現した。
裕樹の背後で、廊下から足音が響いた。レッドキング、キャラメル姫、モモが来ている。走ってくる音だ。
伯爵が冷たく言った。
「まずお前の仲間を片付けさせてから、存分に相手をしてやる」
カビ将軍が裕樹の横をすり抜けて、謁見の間の入り口に向かった。廊下から、モモの「来た!!」という叫び声が聞こえた。レッドキングが「散れ!」と指示する声が続く。
裕樹は振り返らなかった。
仲間の足音が遠ざかる。カビ将軍を引き受けて、廊下で戦い始める音がした。扉が閉まった。謁見の間に二人だけ残った。
伯爵が、静かに裕樹を見た。
「なぜ逃げない」
「仲間を信じてるから」
一言だった。それだけだった。
伯爵が眉をわずかに動かした。
裕樹は広間を見回した。壁際に、調理台があった。古びているが、使える。食材の棚が横にある。埃をかぶっているが、素材はあった。
裕樹は伯爵に向き直って、もう一度だけ言った。
「約束通り、勝負を受けてくれますか」
沈黙が続いた。
長い沈黙だった。
伯爵の冷たい灰色の瞳が、裕樹を見ていた。その奥に何があるのか、裕樹には読めない。でも、逸らさないでいた。
「……面白い」
伯爵が静かに言った。冷笑は消えていなかった。でも、さっきとは少しだけ違う色に見えた。
「やってみろ」
裕樹は調理台に向かった。
材料を確認する。パン生地。野菜。古びているが、質は悪くない。食材はある。問題は——何を作れば、12年間料理を口にしなかったこの男の心に届くか、だ。
廊下から、戦いの音が続いている。仲間が戦っている。
裕樹は手を動かし始めた。震えていない。もう迷わない。
(この人の心を動かす一品を、作る)
謁見の間に、食材を触る音だけが静かに響き始めた。