サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - 激辛サンドイッチ勝負! ——スパイシー国の料理王と母の味
ムニエル婆が地下の扉を叩いたのは、夜が明けてすぐのことだった。
コンコン、と乾いた音が石段の上から届いてきた。
忘れられた厨房——グラティネの路地裏に潜む廃墟の調理場——の中で、裕樹はびくっと身を起こした。埃だらけの調理台に背中を預けてうとうとしていたらしい。隣では金色の巻き毛のキャラメル姫がしゃんと背筋を伸ばしたまま目を覚ましていた。さすがに王族は居眠りの姿勢まで品がある。
「……友達?」
「レシピさんが昨晩のうちに連絡を取ってくれた方だと思います」
石段を降りてきたのは、小柄な老婆だった。七十は超えているだろう。白い髪を団子にまとめ、エプロンの前掛けが大きなパン籠でほとんど隠れている。灰色市場通りにある食材店「ムニエルの棚」の主人——と、レシピが昨夜ぼそぼそ教えてくれた相手だ。
「ちゃんと来たよ。食い物と、出口の案内と」
籠を下ろすと、中から焼きたてのパンと、よくわからない野菜が数種類出てきた。こっそり床下に隠してあった禁止食材だという。パンを手に取ると、まだほんのり温かかった。
「感謝します、ムニエルさん」
「いいんだよ。あの野郎の統一調理令——自由に料理を作っちゃいけないっていうバカ法令——が敷かれてからずっと、密かに抵抗してきたんだ。あんたたちに手を貸すのは当然さ」
婆の言葉には、十二年分の何かがこもっていた。裕樹はパンをかじりながら、その顔を見た。皺の一本一本が、長い時間を語っている気がした。
「で、出口は?」
「地下配管だよ。この街の下に張り巡らされた古い管のことさ。昔は食材を城まで運ぶのに使ってたんだが、今は誰も使ってない。これを通れば、城壁の外まで出られる」
「どのくらい狭いんですか?」
「まあ……体を小さく畳めば大丈夫だよ」
「……体を小さく畳む、か」
レシピが肩の上でくすっとした。裕樹は聞こえないふりをした。
◆
「体を小さく畳む」が「三つ折りで四つん這い」を意味するとは、入ってから知った。
管の直径は一メートルに届かない。裕樹は頭を下げ、膝と手のひらで石の床を這い、なんとか前に進んでいた。後ろにはキャラメル姫、先頭案内はムニエル婆。七十過ぎの老婆が平然と進んでいるのが、むしろ恐ろしい。
「こんなの絶対慣れない……」
「足元に水たまりがありますよ、裕樹さん」
「え——」
バシャッ。膝がまともに水を踏んだ。スラックスがぐしょぐしょになった。
薄暗い管の中、ほんの少しだけ傾斜があるのはわかっていた。ただし、どのくらいの傾斜かは、わかっていなかった。
数分ほど進んだところで、急に床が消えた。
「あっ」
「裕樹さん?」
ズルッ、と滑った。重力が全部下に向いた。暗い管の中を滑り台のように転がり、手をついても止まらない。止まらないまま出口に——。
ドボン。
頭から、ドブ溝に突っ込んだ。
「……」
しばらくそのままでいた。頭が地面に刺さり、足が空中に浮いている。泥の匂いがすごい。
やがてムニエル婆がひょいと管から出てきて、次にキャラメル姫が——すり傷一つなく、金色の髪も乱れないまま——優雅に降り立った。
「お怪我はありませんでしたか」
「あります。プライドが」
頭を引き抜きながら、裕樹は言った。泥まみれの顔で。
レシピが肩の上でふよふよ光っている。笑っているのは明らかだった。声に出さないだけ。
ムニエル婆が「達者でな」と手を振り、来た方角へ消えていった。
見れば、目の前にシロップ大河——大陸中央を東西に流れる、上流がリンゴジュース、下流がオレンジジュースへと変わる巨大な河川——がゆったりと流れていた。グラティネの城壁がはるか後方に見える。外に出た。脱出した。
「やばいっしょ、これ。本当に出られた」
「はい。ムニエルさんに感謝です」
裕樹は泥だらけの服を見下ろした。白いシャツが今日も見事な灰色になっている。スラックスの膝は言わずもがなだ。川の水で少し洗い、そのまま北を向いた。スパイシー国の首都、ペッパーンへ。ここからミッシュ山脈の麓を伝って、約八十キロの道のりだ。
歩き始めた二人の背中に、灰色の空が重たくのしかかっていた。
◆
山脈の麓に沿った細い道は、静かだった。
左手にミッシュ山脈——西部を南北に走るパン生地の山脈——がそびえている。近くで見ると確かに、岩肌の質感がパンのクラムに似ている。雨が降ると表面が少し膨らむ、という話をレシピから聞いていたが、今日は曇り空で乾いている。遠くで風が山を鳴らし、小麦の焼ける匂いがかすかに流れてきた。
しばらく無言で歩いた後、キャラメル姫が口を開いた。
「裕樹さん、どうして料理がそんなに好きなのですか?」
裕樹は少し黙った。
好きな理由、か。聞かれたことはあった。でも、ちゃんと答えたことはあまりない。
「……母ちゃんのカレーパン、かな」
「カレーパン?」
「小さい頃、母ちゃんがよく作ってくれたんだ。台所で一人でこねてて、俺が横で見てると小麦粉が飛んできて——手が粉まみれで、窓から夕日が差し込んで」
裕樹は歩きながら、遠い台所を思い出した。エプロンをつけた母の後ろ姿。笑い声。台所の空気を満たしていた、甘辛い香り。
「焼き上がった時の匂いって、今でも覚えてる。家中に広がるんだよな、あの香り。で、一口食べた時に——あ、この人が作ってくれたから美味しいんだって、はっきり思った。料理って、作る人の気持ちが入るんだって、子供なりにわかった気がして」
照れくさくて、少しだけ笑った。
キャラメル姫は静かに聞いていた。琥珀色の目がまっすぐ前を向いたまま、でも耳はしっかり裕樹の言葉を受け取っていた。
「……食べる人の顔を思い浮かべながら作る、ということですね」
「そう。それが全部だと思う」
姫がふっと柔らかくなった。表情というより、空気が。
「わたくしも……牢の中でキャラメルソースを作り続けていた時、ずっとそれを考えていました。いつかこれを誰かに食べさせたい、仲間に渡したい、と。それだけを思って作っていたんです」
裕樹は姫の横顔を見た。
三ヶ月、一人で牢にいた。誰にも食べてもらえないまま、それでもキャラメルソースを作り続けた。同じだ、根っこが。
感動的な空気が二人の間に漂った。山の風が静かに通り抜けた。この瞬間だけ、灰色の空も少し薄くなった気がした——
「いい話だね〜〜〜」
裕樹の肩から、盛大に鼻水をすする音がした。
裕樹は振り返った。レシピが目元をごしごしこすりながら、丸い顔をぐしゃぐしゃにして泣きまねをしている。
「お前が入ってくるな!!」
「だって感動したんだもん! 母の味! 原点! ボクも泣いていいでしょ!!」
「よくない! 空気読め!」
「ごめんごめん」
全然ごめんな顔をしていない。キャラメル姫がくすっと笑った。さっきより少し、距離が近くなった気がした。
◆
ペッパーンが見えてきたのは、昼を過ぎた頃だった。
赤煉瓦風の建物が立ち並ぶ街並みは、遠くから見ても異質な熱を放っていた。唐辛子の素材で焼かれた外壁が、曇り空の下でも赤々と主張している。街の中心には円形の大きな建物——灼熱闘技場、収容人数三千人の料理勝負の舞台——がどっしりとそびえている。
ただし。
街に足を踏み入れた途端、裕樹は静けさに気づいた。
活気がない。かつては辛味料理の屋台が並び、香辛料の匂いで目が痛くなりそうなほどだったはずの通りが、今は閉まったシャッターだらけだ。統一調理令——トースト伯爵が十二年前に敷いた、許可された四十七品目以外の料理を禁じる法令——はスパイシー国にも当然及んでいる。激辛料理が魂のはずの街が、今は無味乾燥に沈んでいた。住民の目が死んでいる。石畳を踏む足音だけが、やたらと大きく響いた。
「……ひどいな」
「ここも、ずっとこうなのでしょう」
街の奥に五階建ての建物が見えた。壁全体から熱気が漂う、レッドキングの居城「焔楼閣」だ。正面に立ち、裕樹は大きく深呼吸をした。唐辛子の辛い空気が肺に入ってきた。
「謁見させてほしいと伝えてください」
門番の兵士が一瞥して、奥に走った。しばらくして「通れ」と言われた。
大広間に案内されると——そこにいた。
レッドキングは、想像より大きかった。
壮年の男で、体格は熊のように横に広い。燃えるような赤い短髪が、名前そのままだった。目つきが鋭い。まるで熾火の前に立っているような、じわりとした圧力がある。腕を組んで玉座に深く座り、裕樹たちを眺めていた——値踏みするような、でも決して馬鹿にはしていない眼差しで。
裕樹はかいつまんで話した。トースト伯爵への抵抗。三国同盟。自分が「味覚の導き手」であること。
レッドキングは黙って聞いていた。一言も遮らなかった。聞き終えてから、ゆっくりと口を開いた。
「口で言うなら誰でもできる」
低い声だった。広間に響いた。
「お前が本当に味覚の導き手なら、料理で証明してみろ。灼熱闘技場での料理勝負だ。どちらのサンドイッチが旨いか——それだけだ。逃げるなら今すぐ追い返す」
「受けて立ちます!」
間髪入れず言った。
「あのさ」
肩の上でレシピが囁いた。
「今、手元にある食材って……ムニエル婆からもらったパン一切れと蜂蜜と……あとは君のポケットの中身だよ」
裕樹は笑顔のまま固まった。
(え)
ポケットを漁った。出てきたのは飴玉三粒とくしゃくしゃのレシートだった。高校の購買のやつだ。異世界に持ってきてどうする。
「……わたくしの分も合わせれば」
姫がそっと、小瓶を差し出した。蜂蜜と、少量の香辛料が入っている。いつも携帯している特製キャラメルソースの材料の一部だという。琥珀色の目が「これで行きましょう」と静かに言っていた。
裕樹は飴玉を握りしめた。
「やばいっしょ、これ」
「やばいですね」
二人は顔を見合わせた。
◆
灼熱闘技場の調理台は、思ったより本格的だった。
円形の客席に、見物のスパイシー国民がぽつぽつ座っている。表情は暗い。でも、来た。料理勝負があると聞いて、わずかでも気になって来た。それだけで十分だと裕樹は思った。
レッドキングが先攻だった。
動きが速い。大きな体に似合わず、指が鮮やかに動く。赤い素材が次々と積み重なっていく。灼熱唐辛子——スパイシー国特産の、食べると目の前が真っ赤になるほどの辛味を持つ——と痺山椒を、これでもかと重ねた真っ赤なサンドイッチが完成した。
「焔王サンドだ。一口で気絶した奴もいる」
にやりともしない顔でそう言った。
裕樹は皿を受け取った。真っ赤だ。匂いだけで目が潤んできた。
(行くか)
覚悟を決めて、一口。
その瞬間、脳みそが燃えた。
「ッッッ!!!」
全身から汗が吹き出した。本物の涙が目から流れ出した。鼻水も出てきた。手が震える。床が揺れている気がする。揺れていない。揺れているのは裕樹の認識だ。口の中が火事になっている。
客席からどっと笑い声が上がった。死にかけている異世界人を見て、久しぶりに笑った顔をしていた。レッドキングが腕を組んで冷ややかに見下ろしている。
(辛い……辛い……けど)
裕樹は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その辛さの奥を感じ取っていた。
旨みがある。ちゃんと、旨みがある。この辛さは暴力じゃない。ベースに、深いコクがある。だから隠し味が活きる。甘さをほんの少し足せば——辛みが引き立って、その奥の旨みが前に出てくる。
(わかった)
次は裕樹の番だった。
ムニエル婆のパンを台に置く。震える手で、灼熱唐辛子を薄く、本当に薄く一枚だけ乗せる。そこに、蜂蜜をほんの一滴だけ垂らす。最後に、姫が差し出した香辛料を少量ふりかけて仕上げた。
頭の中に浮かべたのは、あの台所だった。
夕日。粉まみれの母の手。甘辛い香りが家中に広がっていくあの感覚。一口食べた時に感じた、あの温かさ。
じわりと、手の先が熱くなった。熱いというより、温かい。サンドイッチからかすかな光が漏れ始めた——オレンジ色の、柔らかい光。料理への思いが力に変わる、味の魔法の発動だ。
レッドキングに皿を差し出した。
レッドキングは無言でそれを受け取り、一口食べた。
大広間のような静寂が、闘技場を包んだ。
レッドキングの表情が、固まった。目の端から、ひと筋の涙が流れた。
「……この味……」
低い声が、震えていた。
「子供の頃……母が作ってくれた……辛くて甘くて……温かかった……」
強面の料理王が、調理台の縁をつかんで、俯いた。肩が揺れている。客席が静まり返った。誰も笑わなかった。誰も声を出さなかった。
やがて——どよめきが起きた。
拍手ではない。ざわめきでもない。ただ、みんなが何かを思い出したような顔をしていた。昔食べた料理の味を、誰かが作ってくれた温かさを、記憶の中から引っ張り出しているような顔を。
「……これが、味の魔法か」
レッドキングが顔を上げた。涙を拭って、裕樹をまっすぐ見た。
◆
焔楼閣の一室で、レッドキングは正式に宣言した。
「お前を、味覚の導き手として認める。スパイシー国として、トースト伯爵への反抗を誓い、三国同盟に参加する。兵力の支援と食材の提供——約束しよう」
裕樹は手応えを感じた。
ただの手応えじゃない。これは本物だ。この世界で何かができるかもしれない、という確信みたいなものが、胸の真ん中に静かに積み重なっていく感覚。
横を見ると、キャラメル姫も裕樹を見ていた。琥珀色の目が、かすかに潤んでいる。泣いてはいない。でも、笑っている。小さく頷いた。裕樹も頷いた。言葉はなかった。でも十分だった。
レシピがうるうるしながら「やったね」とだけ言い、裕樹が「お前は黙ってろ」とだけ言った。
祝勝の空気が部屋に漂い始めた。テーブルの上には料理が並び始め、スパイシー国の兵士たちが談笑し、さっきまでの重い空気が少しずつ薄れていった。
姫がふと、テーブルの上の蜂蜜の小瓶を見ながら言った。
「裕樹さん、さっきの料理……あの一滴の蜂蜜だけで、あれほど変わるものなのですか?」
「隠し味ってそういうもんだと思う。主役じゃないけど、ないと全然違う」
「……それって、仲間と一緒ですね」
裕樹は少し驚いた。そして、なんとなく顔が熱くなった気がした。別に深い意味はない。ない、はず。
「……そういう言い方する?」
「ふふ、違いましたか?」
姫が少しだけ笑った。牢を出てから初めて見る、力の抜けた笑顔だった。蜂蜜みたいな色の目が、そっと細くなっている。裕樹は視線を窓の外に逃がした。なんとなく、正面から見続けていられなかった。
ちょうどその時、外から叫び声が聞こえた。
「開けてくれ!!」
扉が勢いよく開いた。
転がり込んできたのは、兵士だった。顔面が蒼白で、肩で息をしている。走ってきた、というより、命からがら逃げてきたような顔だ。
「フルーツ国の……ヴェルデの森が今まさに攻撃されています!」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
「見たこともない……灰緑色の……巨大な何かが……食材に触れるだけで、腐っていく……!」
裕樹の笑顔が消えた。
レッドキングの目が鋭くなった。
キャラメル姫が、小さく息を呑んだ。
腐っていく。触れるだけで。灰緑色の——
(あれか)
レシピが肩の上で震えた。その小さな体から、珍しく恐怖の色が滲んでいた。
裕樹は椅子を蹴って立ち上がった。
「行く!」
数秒前まで温かかった部屋に、緊張の糸が一本、ぴんと張り渡った。