サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - 地下牢のキャラメル姫——マヨネーズの奇跡と甘い反撃
カラシ兵の足音が、石畳の上を遠ざかっていく。
ドタドタドタ——。
重い鎧の音が角を曲がって消えるまで、裕樹は壁に背をつけたまま動けなかった。息を止めて、壁の冷たさを背中で感じながら、指先でマヨネーズのチューブをぎゅっと握りしめる。
さっき、あの味覚監査官に顔を見られた。「味覚の導き手と思われる不審者を全土に手配」という怒鳴り声が、まだ耳の奥に残っている。
全土手配。全土。
(異世界に来てまだ数時間なのに、何やってんだ俺……)
裕樹は天を仰いだ。灰色の空。どこまでも続く、重たい灰色。
「……行くよ」
肩の上でレシピが小さく言った。ふわふわ揺れる金色の光の玉——料理の知恵を司る精霊で、今は裕樹のガイドを担当している存在だ。その中心にある丸い目が、真剣な色をしていた。
「どこに?」
「隠れる場所。灰色市場通りから路地を二本入ったところ。地下に降りる階段がある」
「……信じていいんだよね、それ」
「信じて」
シンプルな答えだった。
裕樹は壁から体を離し、路地の暗がりに沿って走り始めた。
◆
灰色市場通り——かつては「虹色市場通り」と呼ばれていたという、グラティネの目抜き通りだ。今は許可された47品目の食材と料理だけが並ぶ、どこか窮屈な商店街になっている。通りの石畳には飾り気のかけらもなく、どの店先の人間も笑っていない。看板の文字だけが、かつての賑やかさを辛うじて伝えていた。
その通りから路地を一本、また一本と入る。どんどん暗くなる。どんどん狭くなる。裕樹の白いシャツの袖がレンガの壁に擦れて、薄汚れていく。
やがてレシピが「ここ」と言って下を指した。
石畳の一部に、朽ちかけた木の扉がある。地下への入り口だ。引っ張ると、錆びた蝶番がギイイと鳴いた。中から空気が上がってくる。埃と、それから——何か懐かしいような匂い。小麦粉? バターか? 古くて薄いけれど、確かに料理の匂いだった。
「ここが?」
「忘れられた厨房。12年間、誰も使っていない調理場」
石段を降りる。一段、また一段。足元が暗くて見えにくい。
底に着いた。
裕樹は目を凝らした。面積は30畳くらいか。天井は低く、荒削りの石が組まれている。中央には大きな調理台——今は埃をかぶった灰色の塊だ。壁際には錆びた調理道具が引っかかったまま、誰かが戻ってくるのを12年間待ち続けていた。
薄暗い中で、壁の一部がかすかに目を引いた。
ナイフか何かで刻まれた文字が、壁一面に残っている。レシピが光を少し強くして照らしてくれる。読める——辛うじて。
「母の焼きたてパン、生地を300グラム……小麦粉は少し粗挽きの方が……蜂蜜をほんの一滴だけ……」
「それ……」
「トースト伯爵が、若い頃にここで修行してた時に刻んだもの。本名はブリオン・クラストって言うんだ」
レシピが、どこか静かな声で言った。
裕樹は文字を見つめた。12年前に暗黒の統一調理令を敷いた男が、かつてここで料理を学んでいた。母親のパンのレシピを、壁に刻むくらい大切にしていた。
(そんな人が、なんで……)
「今は関係ないか」
「うん。今は姫を助けることを考えて」
「わかってる」
裕樹は調理台の縁に腰を下ろした。埃が舞ったが、そんなことを言っている場合じゃない。
「カラシ兵の巡回、教えて」
「王宮地下牢には常時6名が廊下を巡回してる。交代制で、深夜の午前2時にだけ交代のタイミングがある。その4分間だけ廊下が無人になる」
「4分か」
「急いで動けば足りる、たぶん」
「たぶん……」
「うん、たぶん」
たぶん、か。まあいい。「絶対」なんてものは、異世界に来てからひとつも存在していない。
裕樹は立ち上がった。「よし、完璧な作戦だ!」と言いながら足を踏み出した次の瞬間——。
バキン。
床板が抜けた。
「あ」
裕樹は膝まで床に埋まった。左足がぶらぶらしている。右膝は木の破片で軽く擦れた。痛い。
レシピが上から覗いてくる。
「……大丈夫?」
「全然大丈夫じゃない」
床板を押しながら、情けない姿勢で抜け出す。白いシャツが完全に灰色になった。スラックスの膝に今日何度目かわからない汚れが増えた。レシピがふわふわ浮きながら、特に何も言わなかった。その沈黙がなんとなく優しかった。
◆
夜が深まる。
裕樹は薄暗い厨房の隅で、マヨネーズのチューブを手に転がしながら待った。外で時々カラシ兵が通り過ぎる音がする。鎧の音、足音、遠くで誰かが怒鳴る声。捜索はまだ続いているらしい。
レシピが「そろそろ」と言ったのは、空気が一番冷たくなった頃だった。
石段を上り、路地に出る。夜のグラティネは灰色の上にさらに暗い青を重ねたような色をしていた。クルトン城——トースト色の城壁に囲まれた5層の塔——が遠くに見える。あそこの地下3層にキャラメル姫がいる。
「行こう」
裕樹は走り出した。レシピが後ろからついてくる。路地から路地へ、影から影へ。途中でカラシ兵の一団と鉢合わせしそうになって、ゴミ箱代わりのパン籠の陰に滑り込んだ。呼吸を殺して、足音が遠ざかるのを待つ。
(これ、やばいっしょ……)
城壁の裏側に回り込む。レシピが事前に教えてくれた、搬入口の隠し通路——厨房へ食材を運ぶための、目立たない扉だ。鍵はかかっていなかった。こういう小さい出入り口は、見張りの目が届きにくい。
中へ。
石廊下が続く。松明の明かりが数メートルおきに壁から伸びていて、オレンジ色の揺れる光の中を進む。カビ臭い。空気が重い。廊下の石は湿っていて、足音が少し響く。裕樹は爪先で歩いた。
レシピが「右」「左」「止まって」と小声で案内してくれる。
1層、2層と降りていく。階段を下るたびに空気が冷たくなる。松明の数が減って、視界が暗くなる。
——3層。
「特別房エリアはこの先」
レシピの声が緊張している。
廊下の奥に、他とは少し違う扉が並んでいる。鉄製で、厚い。そして鍵穴の形が奇妙だ——普通の錠前じゃない。何か、独特の形をしている。
「味覚錠……」
「そう。トースト伯爵の特注品。普通の鍵じゃ開かない。味の魔法でのみ解錠できる設計になってる」
「味の魔法……俺、まだちゃんと使えないんだけど」
「さっきマヨネーズで魔力を込めたじゃん。あれと同じ原理で」
「あれは事故みたいなもんだったから……」
遠くから足音が聞こえた。
まだ距離はある。でも近づいてくる。
(時間がない)
裕樹は鍵穴を見た。細長い楕円形の穴。マヨネーズのチューブを取り出す。
(これを詰めれば……さっきみたいに光るかもしれない)
チューブの先を穴に差し込む。
押した。
少し硬かったので、もう少し力を込めた。
さらに力を込めた。
込めすぎた。
ブシャアアアアアア!!
「え」
鍵穴の許容量を完全に超えたマヨネーズが、どぼどぼと廊下の石畳に広がった。白くて油っこくて、量がとんでもない。石畳の目地に沿ってどこまでも広がっていく。
「……音が!」
レシピが青ざめた——正確には光が白っぽく変わった。
遠くから声がした。
「おい、何か聞こえたぞ」
(終わったーーーー!!!!)
裕樹は心の中で叫んだ。足音が速くなる。近づいてくる。廊下の角から松明の光が伸び始める——。
その瞬間。
石畳に広がったマヨネーズが、ふわりと金色に光り始めた。
ゆっくりと、しかし確実に。白い液体が黄金色に変わって、光が廊下いっぱいに広がる。その光が鍵穴に向かって流れ込むように凝縮していって——。
カチリ。
「開いた」
思わず声に出た。扉に手をかけると、本当に動く。マヨネーズまみれの手で扉を引いて、裕樹は中に転がり込んだ。
「あとで説明する!」
レシピが後ろ手に扉を閉める。松明の光が消える。
◆
牢の中は薄暗かった。
天井の高い位置に小さな窓があって、夜の空気だけが細く差し込んでいる。石の床に藁が敷かれていて、石の壁には何かをかき混ぜた跡がある。壺の欠片と、使い込んだ木のへら。
そして、その奥に——。
女の子がいた。
静かに座っていた。背筋はまっすぐで、膝の上に手を置いて。金色の髪が薄暗がりの中でもわかるくらい綺麗で、でも3ヶ月の牢暮らしで少し埃をかぶっている。琥珀色の目が、裕樹を静かに見ていた。警戒でも怯えでもない。ただ、静かで、落ち着いていて——その奥にだけ、強いものが宿っていた。
手の中に、小さな瓶を握っていた。黄金色の液体が、微かに光っている。
「あなたが……味覚の導き手、ですか」
おっとりした、丁寧な声だった。
「た、たぶん……そう……だと思います」
我ながら自信がなさすぎる答えだ、と思った。でも本当にそう思っているから仕方ない。
姫が少しだけ、表情を緩めた。
「……ありがとうございます。ずっと、待っていました」
声が、ほんの少し震えていた。それだけが、3ヶ月という時間の重さを伝えていた。
「キャラメル姫、ですよね。あの……」
なんて聞けばいいかわからなくて、裕樹は少し言葉に詰まった。それより姫は話し始めた。
「3ヶ月前、民衆の前でトースト伯爵に抵抗して演説しました。自由な料理を守りたかった。でも——その場で捕まって、ここに」
姫は牢の壁を、一度だけ見た。
「何もできない毎日でも……料理だけは、諦めたくなかったから」
手の中の瓶を、少し持ち上げる。黄金色のソースが、光を受けて輝いた。
「蜂蜜の壺と差し入れの残りで、ここで作り続けていました。特製のキャラメルソースです」
裕樹はその瓶を見た。
牢の中で、一人で、それでも料理を続けた。
(すごい人だ)
素直にそう思った。自分も料理が好きで、料理で人を笑顔にしたくてここまで来た——同じものを大切にしている人が、目の前にいる。
「すごい……」
「あの……」
「え」
「あのー、カラシ兵来てますけど」
レシピが小声で割り込んだ。扉の向こうで、足音が聞こえる。
「逃げましょう!」
「行こう!」
二人は同時に扉へ走った。
◆
廊下に出た瞬間、カラシ兵と目が合った。
4名。全員が黄色い辛子色の鎧で、触れると痛みを与えるやつだ。
「い、たぞ!!」
(どうする!)
とっさに、裕樹は制服のポケットに手を突っ込んだ。さっきのサンドイッチの食べかけ——パンのかけらが残っていた。
廊下にばらまく。
バラバラバラ——。
「何だこれはァ!!」
鎧の重い足がパンくずを踏んだ。次の瞬間、足が滑った。カラシ兵が4名、ドタバタドタと盛大に転倒する。鎧がぶつかり合う音が廊下に響く。
「走れ!」
二人は反対方向へ駆け出した。
レシピが先を飛ぶ。「右!」「そこ上がれ!」という声を追って、石段を駆け上がる。姫は裕樹と並んで、重い裙を少しからげながら全力で走っていた。おっとりした見た目に反して、足が速い。
2層まで上がったところで、廊下の曲がり角から声がした。
「そこで止まれ」
低い、冷たい声だった。
角から出てきたのは3名。伯爵直属の精鋭——ピクルス騎士だ。全身が深い緑色の鎧を纏い、手には同じく緑色に輝く剣を構えている。あの剣は、触れると強烈な酸味が体に走って動けなくなる代物だ。
「……やばいっしょ、これ」
つい口癖が出た。
剣が、じりじりとこちらに向けられる。緑色の刀身がぼんやりと光っている。3メートル、2メートル——。
「少し下がっていてください」
姫の声は、あくまでおっとりしていた。でもその目は、さっき牢の中で見た、あの強い光をしていた。
姫は静かに、手の中の瓶を持ち直した。
「裕樹さん。これを使います」
「え、でもそれ大切な——」
「料理は使うためにあるものです」
にこり、と姫が笑った。
そして、瓶を騎士の剣めがけて投げた。
パシャ——!!
黄金色のキャラメルソースが、3本の剣にまとめて絡みついた。騎士たちが「なんだ!?」と声を上げる。剣から緑色の光が消えていく。酸味の力が、甘味に完全に包まれて——中和されていった。
「な……なんだこれは……甘い……」
3名が同時によろめいた。剣から力が抜けて、柄を握る手が緩む。
「今です!」
裕樹は走った。3名のよろめく騎士の脇を、姫と二人で駆け抜ける。どんどん走る。どんどん上がる。1層、搬入口——。
夜風が顔に当たった。
外に出た。
二人は城壁の陰で、しばらく走り続けてから立ち止まった。息が上がっている。足がじんじんする。でも、外の空気は確かに、地下牢のそれとは違った。
「……すごい!!」
姫に向かって、本気で言った。
姫は少し、頬を赤くした。灰色の夜の中でもわかるくらい。
「あなたのマヨネーズ作戦のおかげです」
「あれ作戦って言えるのかな……」
「結果的に扉を開けたのですから、立派な作戦だと思います」
「……そういう考え方もあるか」
姫が、ふふっと笑った。おっとりした、やわらかい笑い方だった。それが、なんだかとても自然で——裕樹は一瞬、変な感じがした。胸の真ん中が、じわりとする。さっきまで必死に走っていたのに、急に少し体温が上がったような。
(……なんだ、これ)
慌てて前を向いた。
◆
忘れられた厨房に戻ったのは、しばらく後だった。
石段を降りて、埃だらけの調理台に二人で並んで腰を下ろす。レシピがふわふわと頭上を漂っている。
呼吸が整ってくると、静かになった。
その静かさの中で裕樹は、ふと聞いてみたくなった。
「なんで……一人で伯爵に立ち向かったんですか。捕まるってわかってたんじゃ」
姫は少しの間、壁のレシピの文字を見ていた。若き日のブリオンが刻んだ「母の焼きたてパン」の文字。
「この国の人たちは昔、自由に料理を作って、笑い合っていました」
姫の声は穏やかで、でも少しだけ、遠い場所を見ているような響きがあった。
「統一調理令が敷かれる前のこと、私はまだ小さくてよく覚えていないけれど……街の人が笑っていたのは、覚えています。料理を作る人が笑っていた。食べる人が笑っていた。その笑顔を取り戻したい。ただ、それだけです」
でも——と姫は続けた。
「私だけでは……何もできませんでした」
その言葉は、静かだったけれど、重かった。3ヶ月の牢暮らしの分、ぜんぶ詰まっているような言葉だった。
裕樹は少しの間、調理台の上の埃を見た。
(みんなを笑顔にしたい)
それが、自分がここに来た理由だった。食彩異界に召喚されて、何もわからないまま、でもずっとそれだけは変わらなかった。老人があの顔で泣き笑いをしていた光景が、まだ目の裏に残っている。
同じだ。
目指しているものが、同じだ。
「じゃあ一緒に行こう」
裕樹は姫を見た。
「俺一人よりふたりのほうが、絶対いい。マヨネーズとキャラメルソース、けっこう相性よかったし」
最後のひと言は余計だったかもしれない。でも本気だった。
姫の目が、少し丸くなった。それから、さっきとは少し違う笑顔になった。牢の中でずっと一人でいた人間が、初めて「一緒に」という言葉を受け取った時の顔に見えた。
「……よろしくお願いします」
「おう。よろしく」
「裕樹さん、これってどう思うんですか——って聞きたいことはたくさんあるんですけど」
「後で全部答えます」
温かい沈黙が流れかけた。レシピが申し訳なさそうに発光した。
「感動のシーンに水を差すようで悪いんだけど」
「えっ」
「今クルトン城の全カラシ兵が起こされて、グラティネ全域に捜索網が張られてるよ」
「え?」
「……え」
二人は同時に「え」と言って、顔を見合わせた。
厨房の扉の隙間から、外を覗く。夜の街のあちこちに、松明の光が揺れていた。オレンジ色の点が、何十も。動いている。整然と、隙間なく。
首都グラティネの外へ続く道は、全部、塞がれていた。
トースト色の城壁に守られた円形都市が、今は二人を閉じ込める檻に変わっていた。
レシピが小さく言った。
「脱出ルートを見つけないと、ここから出られない」
裕樹は厨房の天井を見上げた。石造りの低い天井と、ブリオンの若き日のレシピの文字。
(どうする)
でも、隣に姫がいる。脱出したばかりで、マヨネーズとキャラメルソースで乗り切った二人が。
(なんとか、なる)
根拠は薄い。でも、そう思えた。